東京スコラ・カントールム第29回定期・慈善演奏会
R. シューマンの合唱音楽
Choral Music of R. Schumann


(1995/10/25、指揮:黒岩英臣、東京カテドラル聖マリア大聖堂)


《曲目》
1. 無伴奏合唱曲集より 古き佳き時代 Die gute, alte zeit (op.55-4)
トゥーレの王 Der Koenig in Thule (op.67-1)
荒野の小薔薇 Heidenroeslein (op.67-3)
歌い手 Der Saenger (op.145-3)
花嫁の歌 Brautgesang (op.146-1)
夢 Der Traum (op.146-3)
夏の歌 Sommerlied (op.146-4)
小舟 Das Schifflein (op.146-5)
2. ミサ曲 ハ短調 “ミサ・サクラ” Missa sacra (op.147)


《プログラムノートより》
『ロベルト・シューマンの合唱音楽』 ... 大武和夫 (東京スコラ・カントールム)

シューマンの合唱音楽は、大方の音楽愛好家にとって未知の分野と言っていいのではないか。「流浪の民」が知られている以外は、シューマンの少なからぬ合唱曲は滅多に演奏されず、CDも極めて少ない。無伴奏の混声合唱曲集だけ取り上げても八つを数え、管弦楽伴奏付きの作品も、本日演奏される「ミサ・サクラ」の他に「楽園とペリ」「ゲーテのファウストからの情景」、「レクイエム」など大作が目白押し、というのにである。

シューマンは決して人気の無い作曲家ではないし、それどころか「歌物」だけについてみても、「歌曲の年」(1840年)の成果(二つの「リーダークライス」、「詩人の恋」、「女の愛と生涯」等)をはじめとする独唱曲の数々が、ドイツ・リート史上シューベルトに並び他に比肩するものとてない業績として確固たる地位を占めていることは、今更指摘するまでもない。独唱歌曲が得ているこのような名声と比べたとき、今日の音楽会にあってシューマンの合唱曲が置かれている地位の低さは、一体どのような事情に由来するのであろうか。勿論、数ある音楽のジャンルの中でも、合唱曲は一般に地味なものであって、オーケストラ曲や独奏・独唱曲ほどの人気を呼ばないということもあるだろうが、果たしてそれだけであろうか。

ひとつには、シューマンが多感なピアノの詩人としてあまりにも知られ過ぎているということがあろう。実際、前述の「歌曲の年」以前のシューマンの創作活動は、ほぼピアノ曲の作曲に集中していたが、作品番号でいうと op.26(「ウィーンの謝肉祭の道化」)くらいまでのピアノ曲のおしなべての質の高さ、次から次へとピアノ史上に残る大傑作(「クライスレリアーナ」、ハ長調の大「幻想曲」、「フモレスケ」など)をものにしてゆくその創造的エネルギーのほとばしりには、驚嘆させられる。これらの曲にあっては、青春期ならでは書き得ない情熱のたぎりと、触れただけでも崩れ落ちてしまいそうなシューマンの感受性が危ういバランスを保っているのだが、それにしても若干20才代の青年が人生の諸相を描き尽くすような作品(例えば「フモレスケ」!)をどうして産み出し得たのか、まことに天才のわざというほかない。してみれば、これらのピアノ曲がほぼ書き終えられたあとのシューマンの創作活動が相対的に等閑視されるのも、無理はないと言えるかもしれない。

シューマンの名高い独唱歌曲集の魅力も、その多くをピアノ伴奏部の素晴らしさに負っている、と言ったら言い過ぎであろうか。もちろん、シューマン独特の旋律の形、微に入り細を穿ったリズムと和声の妙、そして何よりも言葉に対する精妙な感受性に裏付けられた歌詞と音楽の見事な対応(シューベルトが、湧き出る楽想を必ずしも質の高くない詩にまで託して、言わば音楽によって詩の価値を高めることさえ珍しくなかったのと対照的に、シューマンは優れた詩だけを選んで、詩と音楽の共同作業、ロマンティカーたちが夢見た本当の「詩」の制作に成功したと言えよう)を否定する積りはないが、ではあの素晴らしいピアノ伴奏部、いや「伴奏」などと呼ぶことがためらわれるような密度と独創的な書法で書かれているピアノ・パートなしに、これらの歌曲集の成功があったかどうか。もちろん独唱とピアノが分かち難く結びついている歌曲にあって、ピアノ・パートなしの状態を想定するなどということはそもそもあり得ないことなのだが、それにしてもシューマンの歌曲におけるピアノの役割は、どんなに強調しても強調し過ぎることはないであろう。

室内楽にあっても状況は似たりよったりである。1842年の「室内楽の年」に書かれた三曲の弦楽四重奏曲は、それ自体まったくシューマネスクな素晴らしい作品であるのに、同じ年に書かれたピアノを含むピアノ四重奏曲とピアノ五重奏曲が不朽の名作と讃えられ(実際そうなのだが)ているのに比べると、はるかに低い評価に甘んじているように見える。CDをみても、例えばピアノ入りのものとしては比較的人気の薄い後年の三曲のピアノ三重奏曲と比べてさえ、弦楽四重奏曲の録音は少ないのである。

オーケストラ曲においてすら事情はさして変わらないように見える。勿論副題のある交響曲「春」と「ライン」は名高く、交響曲第4番もかのフルトヴェングラーの不朽の名盤の故か人気が高いが、交響曲中最もシューマネスクな魅力に富んだと言ってよい第2番は演奏機会が遥かに少ない。そして、これらの交響曲のすべてをあわせても、ピアノ協奏曲一曲の人気に敵うかどうか。また、後期の素晴らしいチェロ協奏曲やヴァイオリン協奏曲が、ピアノ協奏曲に比べていかに人気の点で劣るかは驚くばかりである。もともとコンチェルトのレパートリーの少ないチェロにあってはシューマンの協奏曲は一応スタンダード・レパートリーに入っているが、ヴァイオリン協奏曲については、その存在すら知らない音楽愛好家も最近までは珍しくなかったのである。

合唱曲の相対的な人気の低さの原因として、シューマンがピアノ作家としてあまりに知られ過ぎているという事情の他に、おそらくもう一つ指摘できるのは、多くの合唱曲が、シューマンの音楽が次第に晦渋の度を加えてゆく中期から後期に作曲されており、この時期のシューマンの作品は一部の作品(交響曲とピアノ協奏曲)を除いては一般の音楽愛好家からは敬遠されがちである、という事情があろう。

シューマンの場合、どのように時代を区分するかは微妙な問題があるとされているようだが、少なくともライプツィヒ時代(1828〜1844)をもって輝かしい初期の時代は終わり、ドレスデン時代(〜1850)、デュッセルドルフ時代(〜1854)とシューマンの芸術は大きな変貌を遂げてゆくのである。 シューマンは、早くから小さな編成から大きな編成へ、ピアノ独奏曲から交響曲、更にはそれを上回る大規模な音楽作品への歩みを、音楽家に必然的なものとらえていたようである。実際に彼の作品群を眺めてみると、ごく大雑把に言って、必ずしもそのとおりの時間的前後関係ではないものの、ピアノ独奏→歌曲(歌手とピアニストと、そして詩人も加えての共同作業)→室内楽→重唱曲、合唱曲→交響曲→協奏曲→オーケストラ付きの合唱曲→オペラ(「ゲノフェーファ」)といった流れが見られるように思う。音楽評論家としても名高かったシューマンの初期の批評を読むと、ベートーヴェンの死後真に偉大な交響曲が生まれ出ないことに苛立ち、ベートーヴェンに続く世代としての自分たちに課せられた課題に鼓舞されながらもその課題の大きさに身震いするシューマン像が見出せるであろう。フランツ・シューベルトのあのハ長調の大交響曲を発見し、世に知らしめ、メンデルスゾーンの協力を得て初演に導いたのも彼なら、ベートーヴェンの前ではロッシーニなど取るに足りないと説いたのも彼であった。ベルリオーズの「幻想」交響曲をドイツに紹介しその独創性を高く評価した(欠点の指摘も忘れなかったが)のも彼であったし、後年「新しい道」を書いてヨハネス・ブラームスを世に送り出したのも、また彼であった。(ブラームスは、その期待に応えて立派な作品を世に問わなければならないと苦しみ、その結果交響曲1番の推敲にあれほどの長い年月を要したのであって、シューマンの批評の重荷が無ければ交響曲1番はずっと早く完成していたであろう、とする評論家すらいるほどである。)

いつの日にか交響曲を書くことが音楽家としての究極の目標でなければならないと信ずるシューマンは、機知に富み、あこがれとメランコリー、激情と沈潜の支配するピアノ曲の世界から離れ、己の芸術を鍛え直す。その成果は、早くも1841年に独創的な交響曲第1番「春」となって結実するのであるが、その後もシューマンは、より総合的、普遍的な芸術への歩みを止めることがない。晩年の大作、「ゲーテのファウストからの情景」や「ミサ・サクラ」などは、シューマンの生涯を貫くそのような研鑚・努力の終着点と言えよう。しかし、初期のピアノ曲によってシューマンを知った者には、このようなシューマンの芸術の成熟・変貌を理解することは易しいことではない。「あのように絢爛たる作品群を書き得た天才が、これがまた一体どうしたことか!? ピアノ協奏曲はまだ判るが…。」(実際はピアノ協奏曲のあの簡素で透明な中間楽章も、ピアノ独奏曲の激情と沈潜に満ちた緩徐楽章に親しんだ聴き手には、一聴しただけでは理解し難いものがあるのであるが。)こうして、多くのシューマン「愛好者」は中期以降の作品に躓き、頭を振って立ち去るのである。

さて、以上の状況に更に輪をかけるのが、シューマンにおける精神障害である。彼の場合は、上述したような総合的、普遍的な高みをめざす芸術家としての研鑚・成長が、精神障害の進行と時期を同じくし、この両者が並行して進んでいったところに悲劇があると言えるであろう。シューマンの精神障害の原因については、分裂病、梅毒、結核性髄膜炎、脳腫瘍など諸説があり、断定を許さない(もっともアラン・ウォーカーは第三期梅毒であったことが明らかになったと断定している)が、既に1833年、兄と義姉の相次ぐ死に大きな打撃を受けたシューマンは、「二度と考えることができなくなるかもしれないと考えると、息も出来なくなる。」という深刻な精神的危機に見舞われている。1844年にはクラーラは、「ロベルトは一晩も眠っていません。彼の想像力は恐ろしい妄想を描いているのです。毎朝早く、私は涙にくれている彼を見なければなりません。彼はもうすっかり諦めているのです。」と書いている。勿論気力の充実する時期を何度も挟みながらではあるが、その後も病状は次第に悪化し、遂にはラインへの投身自殺未遂(1854年)からボン郊外のエンデニッヒの精神病院での隔離生活という破局へと至るのである。

通俗的には、このような生涯から、初期の輝かしいピアノ作品群と中期以降のややくすんだパレットで描かれた編成のより大きな作品群を対比し、後者のその淡く、くすんで晦渋な作風は、精神障害の進行の結果であり、音楽として初期のものより価値が低いと漠然と信じられているかのようである。

では、そのような俗説は本当に正しいのか? とんでもない!! 精神障害がどのように作品の創作過程に影を落としているかは、神ならぬ身には見極めようがないが、しかし、シューマンがピアノへの集中を止めてから晩年に至る作品群のその価値は、偏見を捨てて虚心に作品に向かい合う聴き手には明らかであろう。例えば、交響曲を例にとれば、「春」の真正な若々しい息吹は二度と繰り返されることはなかったかもしれないが、例えば「ライン」に見られる成熟した書法は、名曲というに恥じないものがある。第2番の交響曲がシューマンの交響曲ジャンルにおけるひとつのピークとも言い得ることは既に述べた。最晩年の作品の中には、例えばヴァイオリン・ソナタの3番のように、狂気が生み出したとしか思えないような戦慄すべき音楽も無いではない。この曲にあっては、音が出口を捜して果てしない旋回を繰り返し、遂には力尽きて終わる、といった恐ろしい趣きがある。しかし、完成作品としては絶筆となったピアノ独奏曲、「暁の歌」を例にとれば、書法こそ簡素、地味であって初期のきらめくような趣きこそ無いものの、そこにはまた一種の不思議な、この世ならぬ美しさ、荘厳さがあって、到底狂気のさ中で書かれた作品とは信じられない出来栄えを示している。一聴忘れることのできない佳品と言うべきであって、この曲がほとんど演奏されないことが信じられないほどである。

しかしながら、総じて中期以降の作品が初期のピアノ作品群ほど取り付きやすくないこともまた事実である。いや、本当は初期のピアノ曲も、決して取り付きやすいといったものではないのかもしれない。余りによく演奏され、聴かれてきたために、我々は理解容易なものと誤解してしまっているのかもしれない。あるいは初期作品における標題の魔力といったこともあるかもしれない。それでも、初期のピアノ曲を聴いて、少なくともそこにどのような感情、情趣が盛り込まれているのかを理解することに困難を覚えるということは余り無いのに対し、中期以降の作品は必ずしもそうではない。むしろ中期以降の作品には、一聴しただけで理解しようという安易な聴き手を拒むようなところ、言い方を変えれば、聴き手もじっくりと腰を落ち着けて取り組まなければ良さがわからないといったところがある。ある意味では、直感とか感情の大きな起伏といったものを構成要素としていた(それだけでないのは無論だが)のが初期のピアノ作品だとすれば、そのような要素は中間以降の作品にあっては大きく後退し、全体が渋く、くすんだ晦渋なものになっていったと模式的に言うことも許されるであろう。とすれば、精神の病の故に中期以降の作品の質は段々と低下し遂には晩年の理解不能な作品群に至ったという通俗的な理解と相俟って、中期以降の作品がおのずと敬遠され、交響曲を除いては演奏される曲も少ないという状況が続いてきたのも無理からぬところであろう。中期から後期にかけて生み出された合唱曲もその例に洩れないとすれば、もともと地味なジャンルであることもあって、合唱曲がほとんど演奏されずにいることは不思議ではないのかもしれない。

さて、シューマンの合唱曲の素晴らしさを、どう言ったらよいのだろう。シューマンは、詩(歌詞)と音楽の響き合い、詩と音楽の精妙な相互作用を独唱歌曲において実現し、リートの世界に全く新しい地平を切り開いたのであるが、彼は全く同じことを合唱曲においても試み、見事に成功したと言えば、当たらずと雖も遠からずといったところであろうか。とにかく、人間存在の内面を深く把える歌の数々を、合唱曲という形式でこれほど見事に実らせた実例は、恐らく音楽史上他に例が無いのではないか。シューマンの天才に、ただ賛嘆あるのみである。尚、ドレスデンとデュッセルドルフにおいてシューマンは合唱指揮者としても活動し、多くの自作を演奏したが、指揮者としての評価はおしなべて低く、合唱団との関係も理想的なものとは程遠かった。最後にはデュッセルドルフのオーケストラ理事会から事実上辞任を勧告され、今後一切(オーケストラも合唱も)指揮はアシスタントに任せるようにと強く要求されたりしたようである。しかし、それらのエピソードは、シューマンの合唱作品自体の価値とは無関係であることは言うまでもない。

『ロベルト・シューマンの教会音楽 〜ミサ・サクラ op.147とその周辺〜』
... 服部浩巳(東京スコラ・カントールム)

★教会音楽の創作とバッハの影響
「音楽家の最高の目的はその能力を宗教音楽にむけることです。しかし若い頃には地上の喜びや悲しみと共に我々の心は大地に根ざしているのです。年をとってくると、小枝は天井に向けて伸びようとしています。この天上への志向があまり弱くならないよう願う次第です」。

シューマンは晩年、ある友人に宛てた手紙の中でこのように述べている。
ロマン派時代の巨匠の一人であるロベルト・シューマン(1810-1856)と教会音楽との結びつきには何となく違和感を覚える。けれども、それは歌曲、室内楽曲、ピアノ曲、あるいは交響曲など幅広い分野での活躍があまりに知られているにすぎず、むしろ作曲家の抱く信仰心の表れである教会音楽の中に音楽の本質をうかがい知ることができる。
教会音楽としての作品は決して多くはない。すべて挙げたとしても『詩篇第 150篇』(1822,op番号なし)『待降節の歌』(1848,op.71)『レクィエム』(1852,op.148)、リュッケルトの詩による男声合唱のためのモテット『苦しみの谷にあっても絶望するなかれ』(1849,op.93)と、本日演奏する『ミサ・サクラ』(1852,op.147)だけである。いずれも合唱と管弦楽を用いたものだが、このうち12才のときに作った「詩篇」を除いていずれも晩年になって書かれているのが興味深いところである。 また、教会音楽とは直接位置づけられないが、オルガン曲として『BACHの名による6つのフーガ』(1845,op.60)がある。さらに、いずれも作品番号はつけられていないが、『バッハの6つのヴァイオリンソナタのピアノ伴奏』(1853-55)と『チェロソナタのピアノ伴奏』(1853)という最晩年の作品もある。それほど、シューマンはJ.S.バッハ(1685-1750)に対する畏敬の念を生涯消すことがなかったようである。こうしたバッハの音楽が常に響いていたゆえ、シューマンに教会音楽と関わった創作を手掛けさせ、ひいては『ミサ・サクラ』を生むに至ったと私は考えている。

★作曲者として、指揮者として得たものは
ドイツ東部のザクセン地方の東南部の小さな町ツヴィッカウに生まれたシューマンは、祖父がプロテスタント(ルター派福音教会)の牧師をしていた家系に育っている。
そして大学時代、音楽でなく無理やり法学を学ぶことを余儀無くされたライプツィヒの街では、大バッハがカントールとして活躍したルター派の聖トーマス教会の礼拝にも足しげく通い、カンタータやミサ曲の演奏を聴いていたという。
この頃から、バッハの『平均律クラヴィーア曲集』『フーガの技法』『カンタータ』の分析を熱心に行っている。とくに、知り合った若きクララ・ヴィークとともに『平均律クラヴィーア曲集』を手本にフーガを細かく分析し始めている。これはさらにクララとの結婚後も続けることになる。
一方、オラトリオ『エリア』『サウロ』などの作曲家として、またライプツィヒ・ゲヴァントハウスの指揮者としてバッハの『マタイ受難曲』の復活に力を注いだ一歳年上の友人メンデルスゾーン(1809-47)が身近にいたことも音楽家としての道に進むために多大な影響を与えたに違いない。そのメンデルスゾーンとは、43年から短期間だがライプツィヒ音楽院でとともに教師をしたこともあった。
ライプツィヒでの生活は、規模の大きな交響曲の創作に手掛け一方、ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮する機会にも恵まれたが、ピアニストとして評判を上げていく妻クララとは逆に、シューマンには不遇が続いた。
1848年には男声合唱団リーダーターフェルの指揮者としてドレスデンに移住、さらに合唱協会を設立したこともあり、この期間に多くの合唱曲を作曲している。その後1850年、デュッセルドルフ音楽協会の指揮者として就任したことで、さらにその音楽への創造力は広がりを持っていくことになった。
ただ、指揮者としての能力はあまり評価されなかった。性格的な弱さもあって指揮をしていても自らの創作意欲を駆き立てるだけで、他人の作った音楽を協働しながら一つの音楽創り上げていく才能に恵まれなかったという。とはいえ、年間数回行っていた教会での演奏会のために、パレストリーナ、ラッソ、ハイドン、ヘンデル、モーツァルト、さらにはバッハの『ヨハネ受難曲』『ロ短調ミサ』の演奏する機会に恵まれた。こうしたさまざまな教会音楽に傾倒できたことも、シューマン自身が『ミサ・サクラ』のを作曲するきっかけとなったのだろう。

★ミサ曲とロマン主義
では、『ミサ・サクラ』や『レクイエム』を書くことがシューマンにとってはどのようなできごとだったのだろうか。
伝道者の道を歩まず書店主となった父親譲りの文学に対する才能文学的な素養や、子供の頃から旋律で様々な感情や特徴をなぞる才能を持っていたというように、恐らく母親の手解きを受けたであろうピアノでの腕前が花開き、作曲家としての評価を得ることができた。ピアニストとしての夢を断たれたものの、ピアノ曲から始まった創作の規模は広がるばかりとなった。同世代でライプツィヒ出身のヴァーグナー(1813-83)に対抗して、器楽や声楽のあらゆる素材を必要とするオペラの作曲も目指した。
その一方では、作品の中に欠けている宗教音楽を作曲しようという計画に至った。それがバッハやメンデルスゾーンが取り組んだオラトリオである。自らの信仰にも大きな影響を与えたであろう宗教改革者マルティン・ルターを題材にした『ルター』に着想を得たが、断念せざるを得なかった。
結果として『ミサ』と『レクイエム』を取り上げたのも、こうした宗教音楽に対する創作意欲が高まってきた中で、「カトリシズムにロマン的な親しみを抱いていたから」に他ならないであろう。決してプロテスタントのシューマンがカトリックに宗旨変えしたからではなかった。当時、ロマン派芸術を築いた多くの画家や詩人たちが描いていた自然への回帰、宗教改革以前の牧歌的な中世ドイツへの憧れのように、ちょうど100年ほど前、尊敬して止まない大バッハが『ロ短調ミサ』を作曲したことに大きな影響を受けていたのであろう。この音楽の中に、バッハの生きているあいだには理解されなかった「ロマン主義への愛」を感じとっていたに違いない。
シューマンは交響曲を「森羅万象のすべてを包含する憧憬として最も完璧な表現形式である」と語っている。文頭に引用したシューマン自身のことばのように、人間は天地創造において灰と塵から作られ、風、水、土といった自然と共に培われ、そして天に上っていくという循環をイメージしている。それゆえ、オーケストラを伴奏を取り入れ、人間の持っている声の響きを最大限に用いることによって、自然の中に存在するオーケストラと声の織りなす響きの可能性を見出したかったからであろう。人生とだぶらせながら、音楽は歓喜のときもあれば、絶望の淵に落ちたりと実に表情が豊かである。リズムやテンポの変化をくりかえし、あるいは低声部から高声部までダイナミックさを表現している。
『ミサ・サクラ』は、本来の宗教的な典礼として教会で演奏されることを目的に作曲されたのではなく、演奏会場でのスタイルをイメージしていたようである。あらゆる現実の礼拝形式を超越した天で奏でられる音楽を理想郷ととらえ、それに相応しい若々しい音楽の描写を目指したと私は考えている。

★Missa Sacra C-moll op.147 の作曲
『ミサ・サクラ』は、シューマンにとって最初のラテン語をテキストにした作品。1852年の2月から3月にかけてほぼ一週間のうちに書き上げられた。しかし、初演は翌年まで持ち越されたが、デュッセルドルフでの慈善コンサートで、全曲ではなくキリエとグローリアのみがシューマン自身の指揮により3月3日に行われた。その後オッフェルトリウムが書き加えられている。また、ミサ曲の完成した直後も、キリスト教会音楽のいわば核心部分ともいえる『レクイエム』にとりかかり、相次いで完成させている。
けれどもこの頃のシューマンは、さまざまな精神障害と健康状態の悪化に苦しめられていた。それだけに作風はドラマチックだが、決して派手ではなく、どちらかといえば内向的な色彩を持っている。死と生との戦いのなかで自ら抱いているイメージを実現させようと最後まで若々しいエネルギーを燃やしつづけた結果がこの作品ということができよう。
シューマンの死後、クララはブラームスらに楽譜の出版をめぐって相談を持ち掛けている。クララ自身も、シューマンの晩年病的な状態で作られた作品が質的に低下したと思われることを懸念していたため出版を躊躇していた。ミサ曲に対する評価は一般的に低かった。全曲演奏はシューマンが世を去ってから5年後の1861年、クララはアーヘンまで出向き、演奏を聴きその美しさに感動し、「この曲がどんなに素晴らしく鳴り響いたか想像できっこありません。キリエはとても感動的で、ひとつの型の中で鋳造されたかのようです。サンクトゥスでは背筋がゾクッとするように美しい部分がいくつかあります……」とクララは語ったという。楽譜は晴れて1863年に出版された。

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