『物価の経済分析』(東京大学出版会、1998年6月、4800円)


本書は、私が1994年春から1997年夏にかけて日本銀行金融研究所で行った研究活動の中で、物価と金融政策に関連する研究成果を加筆・修正し、まとめ直したものである。

私が金融研究所において、物価と金融政策を巡る一連の研究を行ってきた過程では、所属する日本銀行を取り巻く環境が大きく変化した。具体的には、1998年4月より施行される新しい日本銀行法の制定である。その制定に至る過程では、首相の私的研究会である「中央銀行研究会」や、そこでの議論を受けた「金融制度調査会」で、わが国の中央銀行のあり方に関する広範な問題の検討が行われた。こうした検討を通じ、中央銀行制度を巡る議論が大きく深まると同時に、物価と金融政策を巡る問題意識が高まりをみたことは、私自身の研究活動に対する大きなフォローの風となったと思われる。

中央銀行の基本的な使命は安定的な金融・経済の安定的な環境を維持することを通じ、経済の持続的な成長に貢献することにあるとされている。しかしながら、議会・政府の経済運営は様々な理由からインフレ志向となりがちであり、これに対する歯止めとして、金融政策当局の独立性が期待されている。このため、物価安定を実現するためには、中央銀行の政策運営における独立性が重要との点について、ほぼ世界的にコンセンサスができつつあると言える。新しい日本銀行法の制定も、こうした世界的な潮流に沿ったものである。

このように金融政策をどのような枠組みで運営するか、との点にはコンセンサスが醸成されている一方で、金融政策運営上、物価の安定をどう定義するか、またそれをどう計測するか、との点については、必ずしもコンセンサスが得られていないように思われる。例えば、現実に観察される消費者物価指数や卸売物価指数、GDPデフレータといった各種の物価指標の変動には、様々な一時的なショックと計測誤差が影響している。従って、観察される物価指標の変動には、物価が一見かなり変動していてもその影響は一過性とみられる場合や、物価のトレンドに変化が起きているにもかかわらず、これが一時的ショックに打ち消され、みかけ上物価安定の基盤が維持されている場合など、様々な事態が生じ得ることになる。この結果、物価安定の基盤が維持されているか否かを判断することは実は極めて難しく、また、物価上昇率の望ましいレベルを計数的に示すのは容易ではない、と言える。

また、1980年代後半以降のわが国経済の動向をみると、一般物価水準が比較的安定的に推移する中で、資産価格が大幅に上昇・下落するとともに、景気の振幅も大規模なものとなった。このため、金融政策の運営にあたっては、資産価格も目標に含めるべきであるとの主張がみられており、資産価格の変動と物価安定、あるいは金融政策運営との関係をどう考えるか、という難問が投げ掛けられている。

本書では、こうした物価と金融政策を巡る問題意識に基づいて、次のような三部構成をとっている。まず、第I部では、「物価と金融政策: 総論」と題し、物価と金融政策を巡る基本的な問題意識を整理する。「金融政策の最終目標とされる物価安定をどう定義し、それをどう計測するのか」との問題をどのような切り口で考えていくかを議論した上で、物価安定を目標として金融政策を運営していくことの重要性に関し、マクロ経済理論及びインフレーション・ターゲティングの実践国での実例を踏まえて検討する。続く第II部では、「消費者物価指数の計測誤差」の問題を採り上げ、消費者物価指数の計測誤差の発生原因とその定量的な評価を行い、その結果を基に、わが国消費者物価指数の計測誤差の大きさについて、総合的な評価を加える。最後の第III部は、再び物価指数と金融政策を巡る問題に目を転じ、「金融政策の目標指標」というタイトルで金融政策運営上の目標指標として、より有効な物価指標を構築する可能性について検討する。具体的には、金融政策運営上の目標となる物価指標において、資産価格の変動をどう位置付けるか、基調的な物価変動を捕捉するために現行物価指標にどのような修正を加えるべきか、という二つの問題を採り上げる。

本書における分析は、物価安定と金融政策という大きな問題意識の中で、展開されているが、分析の手法や内容はかなり多岐にわたっている。そのため、読者の問題意識に応じて各章を適宜選択して読んで頂けるよう、本文は、部や章毎にある程度完結するようなスタイルで執筆している。例えば、第II部の「消費者物価指数の計測誤差」は、これだけで完結したトピックスになり得ると考えられるが、大規模なクロスセクション・データを使った計量分析手法の適用例として、実証分析を主体に読むこともできよう。また、マクロ経済学あるいは金融政策に興味をお持ちの読者であれば、第II部については3章「消費者物価指数の計測誤差:総論」と9章「わが国の物価指標に対する評価とその改善策」の主要部分を読む程度にとどめ、主として第I部と第III部を読んで頂くとことも可能であると考えている。

本書で採り上げたトピックスの中で、私自身、議論が最も大きく分かれ得ると考えているのは、消費者物価指数の計測誤差の定量的な評価についてである。私の知る限り、わが国の消費者物価指数について、上方バイアスの大きさを定量的に評価するとの試みは、本書がはじめてである。私は、本書で示した試算が、現状、利用可能な情報を全て盛り込んだ最善の推計値であると考えている。しかしながら、同時に、この推計値は大胆な仮定に立脚したものであるのも事実であり、批判されるべき点も多いと考えている。ただ、これは別の見方をすれば、物価指数の問題を巡るわが国経済学界、民間エコノミスト、そして関係する諸官庁の実務家・エコノミストの間で、物価指数の計測誤差を巡る問題について十分な研究蓄積が存在しないことの現われである、と言うことができると思われる。米国では1996年末にいわゆるボスキン・レポートが公表され、経済学者、民間エコノミスト、物価指数作成当局であるBLSのエコミストなどを巻き込み、現時点でもなお活発な議論が続いている。そこでは、膨大な研究蓄積の上でより精緻な議論が行われているが、それでも議論は収束する方向にあるとは言えない。本書で示した試算結果が、今後、わが国において、物価指数の計測誤差を巡る問題を研究する一つの足掛かりになれば、というのが私自身の希望である。


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