KiLL MACers! 1999
07/22 /1999      
マッカー
   臨終 の鐘
 
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  不出世のサラリーマン  
「胸に手をあてて、よく考えてみろよ」
「……うーん」
「おまえの胸は背中にあるのか?」

 なんでまた、こんなに「笑い」が好きなのか、つらつらと考えたことがあります。幼年期に「笑い」の神さまに出会ったのか、あるいは、少年期に「笑い」の司祭に烙印を押されたのか……、そんな記憶はありません(あたりめーじゃ)。しかしながら、ただ単に、「笑い」が好き、というのと、ちょっと違うようなのです。なにかというと「笑い」を、なによりも優先しようとするきらいがあります。これは、あまり、よくないことと自分でも思います。でも、そうなんです。
 * * * 
 大昔にサラリマンだった時代がありまして、とーぜん、シゴトなんか、しちゃいなかったのですが、それでも自分用の机が、社屋の6階にありました。んでもって、「ひとといっしょにツクエについてシゴトする」ってのができない人種がいると、そうお思いなせえ。なんの因果か、わたしがソレでありました。だもんだから、日がな一日、社内をぶーらぶらしているのが常でありました。んで、5階で、わたしの上司と出会ったわけです。もちろん、いつものことですから、その上司とて、驚きゃあしません。むしろ、机に座っていると「具合悪いの??」と問われるほどです。極端な例では、会社を休んでいるのに、「いや、きのう、確かに、あいつを見た」と言われてしまうくらいでした。そのくらい、むちゃくちゃなサラリマンだったということです。
 さてさて、わたしは階下の5Fで、そこそこに、仕事をしているフリをして、おります。かの上司は、「そんじゃ」と言って、デスクのある6Fに帰ります。その直後に、5階にいたわたしは、ダッシュして、非常階段を駆け上がり、高速エスパーで、自分の机に戻って、何知らぬ顔をします。ゼイゼイいう呼吸を整えます。5階から上がってきた、その上司が、わたしの後ろを通りすぎようとします。「あれ?」と、立ち止まります。その上司は、最初ちょっとだけ怪訝な顔をしたのち、この意味もない行為の意図を察したのか、「ねえ、ねえ──」と言いました。そういうことです。
 このように、なにものにも、またほとんど誰にも貢献しない「笑い」を、意味もなくやるのが大好きでした。もちろん、いまもそうです。
 * * * 
 えーと。
 すでにして、ご存知の方はいらっしゃらないでしょうが、「不出世のサラリーマン」こと荒熊雪之丞の話が、今は、もう、ジャンル雑誌として生存する出版物に、かつて掲載されたことがありました。作者は、横田順彌さんといいます。とんでもなく、笑いと破壊に満ちたお話でした。もしも、若いころのわたしが、このシリーズを読まなかったら、確実に、今のわたしはなかったと思います。いまの若いひとは知らないと思いますし、もちろん、知らなくてもいいと思います。
 その横田順彌さんの作品で、「オタマジャクシの叛乱」というものがありました。卵子1個に対して、数億の精子が死んでいく理不尽に、巨大化して立ち上がった精子の話です。あまりにも、くだらない話なのですが、これが、尋常じゃなく、おもしろかったのですよ。もはや読まれることもないであろうと思うので、書いてしまいますが、そのラストには、巨大化した卵子が現われ、叛乱を起こした精子たちに立ち向かうと宣言します。それが、「卵子一生の仕事です」、というオチなのでした。
 ばか笑いしました。
 シチュエイションで、すでに笑いに関する要件は満載なのですが、最後の最後で、落語のようなオチにもっていく、なんてえのは、もう、反則とかそんなのを飛び越えて、はっきりいって、ショックでした。「笑い」に妥協は要らないのだな、と考えたのは、そんな少年期のことでした。

 前回の「番外篇」なんて、「章題」のことが分かれば、「それだけの」文章であって、内容なんてどーでもいいのだということは明白です。ある程度以上の年齢の人には、ちょっとした「回顧」や「笑い」を生んでくれるだろうて、と思ったのでございます。だからわざわざ「番外篇」なんて、もってまわった表現をしているんだわさ。
 マッカーどもを軽蔑するのには星の数ほど理由があるけども、形態を構成する表現形式に関して、あまりにもその依存体質を認識し得ないことが、第一でしょう。アカの連中とおんなじことです。さらに、内容を叙述する表現形式に関しては、ただ単に「学がない」に尽きますね。しかも、それに輪をかけて「運動神経がない」とくるから、絶望的なバカッタレどもです。
  黄金餅のこと  
「胸に手ぇあてて、よう考えてみいや」
「……うーん」
「そりゃ、わしの胸や!」

 こないだ亡くなった桂枝雀のことが、とっても好きでした。いや、いまも好きです。
 学生時代に、ラジオで流れた『雨乞い源兵衛』をたまたま録音していたのですが、いまも繰り返し聴きます(これは小佐田定雄さんの書いた新作落語で、録音の存在等は、別にマニアではないので調べたことはないが、ちくま文庫から出ている『らくごDE枝雀』という本には、その噺が収録されている)
 枝枝雀師匠は、「笑い」に関して、「緊張と緩和」理論と呼ぶものを展開していましたが、そういった理論を援用する必要もなく、その描写力の的確さが、わたしにはなによりも魅力でした。「これ以外にはない」と思ってしまうような「絵」が、強くインプットされてしまうのでした。
 落語家のうまさ(というよりも、凄みと表現した方がいいのかもしれませんが)は、やはり、映像喚起力の的確さと、それを印象づける技術力だと、思います。
 こないだでしたか、テレビで志ん朝さんが『黄金餅』という噺をやっていました。餅とともに銭を呑み込んだ隣人を弔って、火葬した後にその腹から銭を取り出す、というかなりに特殊な噺です。わたしは、この噺がとても好きでして、最初に聴いたのは、談志さんによるものだったと思うのですが、「映像喚起力」に関して思いをはせたのは、この噺からだったかもしれません。
 おっと、落語が好き、なんてえ話をするつもりはなかったのでした。
 Macintoshというものを最初に触ったときの気色悪さというのは、感覚にベタベタと触られている鬱陶しさでした。「これをもって体感的とか言うのだろうな」と、蒙昧どもに嫌悪感をおぼえたものです。生まれて初めて、ディレクトリ構造を認識しえたときの気持ちよさは、けっして、体感的なんてくだらねえもんで表現できるものではありませんでした。「映像喚起力」に直面したときの気持ちよさに、ちょっと似てるかもしれねえな、と、そんなことを思い出したのでありました。
 だから、ほんとは、Windowsってのも、あんまり好きじゃありません。でも、WindowsというOSは、いろんな部分を、いろんな方策で、むき出しにできるので、そこらへんは、ちょっとだけいいかな、とか。「だったらUNIXに、せーや」と心の奥で言っているのが聞こえるのですが、これを徹底させると、ノータリンのアカどもと、同レヴェルに堕してしまうので、以下省略。
 落語家と呼ばれる人たちは、すべて、その理知性に磨きをかけることを仕事としていると考えます。もしも、桂枝雀師匠が存命で、もしも、かのバカ林檎会社の製品に触ったなら、「これは、ぜんぜん、つまりませんねえぇ」と言ったような気がします。
  末期のこと  
「おーい、203高地〜」
「なんじゃー、204高地」

 すでにして、いろんな対立的構造は消滅したと、そう思う。
 多くの人が、かの腐れマシンとOSを「マック」と表現し、決して、「コンピュータ」とは呼ばないのが現状である。
 林檎依存体質で存続してきたAdobeという会社も、Microsoftと提携してからは、すでに、「余興でアップルものも作ってやってる会社」になった。ようやく。そんなこた、Acrobatを見りゃ、すぐにわかる。
 クサレマッカーどもが、しがみついている、数多くのソフトたちは、ごく小さなベースで出荷される「業務用」のものとして、ぜいぜいはあはあと息をしながら、存続させられていくのであろう。速度や、効率や、メモリ管理を無視したまま。
 いろんなところで、いろんな腐れ林檎のニュースを見るのだが、どれもこれも、まるで、昭和20年における大本営発表のようである。
 比較対象となる企業やユーザがいないということは、まさに、そこに安住して「状況を無視する」ことが可能になるための唯一の方策なのであろう。
 もはや、マッカーどもは、ここを読んでいないだろうが、わたしは、かの腐れ連中が「賎民」であることを宣言する。
  「笑い」に必要とされるもの  
「胸に手をあてて、よく考えてみろよ」
「……うーん」
「おまえ、何本、手があるんだよ」

 てめえで、選んだんだから、どのように差別されようとも、一切のモンクも何もその意味を成さないなんてえことは、当然じゃないですか。そんじゃ、「笑い」の題材にさせてもらおう、ってのが、わたしの文章だってことは、みーーーんな、知ってるんでしょうな。「笑い」には、差別的要素が必要とされることがあるのは、自明のことです。あるいは、バックボーンに、それがないと、「笑い」が効果的に発揮されないというのは、哀しいかな、論理的な帰結です。
 「そうではない例もある!」とする、アカモドキどもの発想もわかりますが、ならば、わたしは、「例外や制限を前提とするものを、けっして、笑いと呼ぶべきはない」と、そう発言するでしょう。
 残念ながら、笑いを構成する段階として、その経験値は重要になります。さらに、認識し得ないにも関わらず発言する連中は、排除する必要がアリマス。したがって
 マッカーは、読むな。
 ドーテーは、読むな。
 ガクセーは、読むな。
 という、ことです。

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