平安時代の政治


平安京の成立

 桓武天皇は794(延暦13)年に平安京に都を移した。 蝦夷の反乱をおさめるため、征夷大将軍坂上田村麻呂を派遣し、鎮守府を多賀城から北の胆沢城に進めた。  桓武天皇は国司の監督に力を入れ、班田の励行をはかる一方で、農民の負担をへらすことにつとめ、兵制の改革もおこなった。 嵯峨天皇は、治安の維持をはかるために検非違使という役職をもうけた。

摂関政治

 9世紀後半から藤原氏が力を持つようになった。 藤原氏の北家は、藤原冬嗣以来、皇室との婚姻関係を深めながら権力を強めた。 冬嗣の子良房は摂政に任じられ、良房の養子基経は関白となった。  10世紀の前半、醍醐・村上天皇は親政をおこなったが、藤原氏も力をのばし、10世紀後半からつねに摂政・関白をおくようになり、11世紀の初めの藤原道長・頼通父子の時代に摂関政治は全盛期を迎えた。

武士の台頭

 中央で藤原氏が力を強めているころ、地方では国司の支配を嫌った開発領主は、開発した土地を中央の有力な貴族に寄進するようになった。寄進された荘園の領主はやがて、免税特権を手に入れ、荘園を私領化していった。  こうして地方の治安が乱れていく中、武士があらわれて、次第に武士団として団結していった。 有力な武士団が桓武平氏と清和源氏である。  939(天慶2)年、関東で平将門、瀬戸内地方で藤原純友が朝廷に反旗をひるがえした(承平・天慶の乱)。この乱を武士が鎮圧したことにより、武士は中央政治への影響力を高めていった。

院政と平氏

 道長の死後、都では藤原氏の権力が弱まり始めた。 白河天皇は1086(応徳3)年、子の堀河天皇をたて、自らは上皇(院)となって政治の実権をにぎる院政を開始した。院政は恣意的に行われたため、秩序は乱れがちであった。  12世紀の後半、都で保元・平治の乱が起こり、この乱を鎮圧した平清盛は太政大臣となり、権力を強め財を築いた。  しかし、平氏の急速な台頭は院の近臣や源氏の反発をまねいた。 1180(治承4)年からはじまった源平争乱のなかで清盛は病死し、1185(文治元)年、ついに源義経によって長門の壇の浦で滅ぼされた。

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