奉仕における私たちの意図の持ち方を考える

Exploring Our Intention in Service

By Frank Ostaseski, translated by Kaoru Saski & Caitlin Stronell

フランク・オスタセスキ

 

【注意!】以下は、フランク・オスタセスキ氏の講演を、ケアリングクラウンのShobi Dobi氏がオスタセスキ氏の許可を得てHospital Clown Newsletterに掲載し、それを翻訳したものです。「オスタセスキ氏への敬意と感謝を大切にしたい」「全文から読み取れるメッセージを伝えたい」また、「何度読んでも、新たな発見と学びがある」という理由による、Shobi Dobi氏の強い意向により、このウェブページのご紹介のみでお願いいたします。転送・引用・要約は固くお断りいたします。


 私は日々、死に向かう人々と仕事をしていますが、中には関わるのが容易でない人々もいます。そうした人々は、路上生活をある期間余儀なくされてきたかもしれませんし、人生をコントロールする力を失って怒りを抱いているかもしれません。人間への信頼を失い、心を固く閉ざして、引きこもっている人も少なくありません。彼らのほとんどは、仏教にはこれっぽっちも興味を抱いていません。こうした人々は人を簡単には信頼しないため、もしも彼らのために何らかの形で役立ちたいとしたら、自分の意図について非常に明確かつ正直になる必用があります。もしも私がそういう態度で臨まなければ、彼らは私が言動一致しておらず、感傷主義にひたっていることを、あっという間に嗅ぎ付けてしまうからです。


 一方、死を迎える際に素晴らしい変化を経る人々もいます。彼らの死にゆく姿は、私たちにじつに様々なことを教えてくれます。長い間絆を持たなかった家族と和解し、生涯ずっと探し求めていたいたわりの気持ちや受容の心を見つけ出す人もいます。そうした人々のそばにいるのは、とても素晴らしい体験となることもあります。しかし、私がこの仕事をしているのは、いつもそのようにうまくいくからではないのです。そうした見返りを求めるならば、疲労困憊していまい、最終的には患者を巧みに繰り、利用してしまうことになりかねません。私たち自身に見返りをもたらす状態を創り出すことに、気をとられてしまうからです。それにより、私たちはその時の状況を見極めることができなくなってしまいます。私がこの仕事を行なっているのは、この仕事が好きであり、得るものが大きいからです。私は、自分が関わっている人の中に自分自身を見、自分の中に彼らを見ようとしています。私が接する人たちはそれを知り、信頼の気持ちを抱いているばかりか、それに寄りかかって生きます。彼らも私たちも、ともにその関係性の中にいることを理解しているのです。


 奉仕のまさに中心で私たちは、誰かのケアをすることはつねに、互いに恩恵をもたらすことを理解しています。他者を大切にすることは、自分自身を大切にすることだと知っているのです。こうした理解は、ケアを提供する方法をがらりと変えてしまいます。私は、救援にかけつける正義の味方ではありません。白馬の王子様ではないのです。そのかわりに、私たちが呼ぶところの「慈悲に満ちた友」という存在になるのです。「慈悲」は直訳すると「他者と共に苦しみを受ける」となります。また、「共に」の部分がとても重要ですが、それは、「共に」の中に「親密な関係」という意味が含まれているからです。「友」は「他者と共に旅をする者」という意味です。ですから、この関係性の中には、「導き手」や、「癒す者」「癒される者」は存在しません。私たちはただ、互いと一緒にいるだけなのです。友人のレブ・アンダーソンが「私たちはたんに、生まれてから死ぬまでの道を、手をつないで歩いているだけだ」と言ったとおりです。


 死に近づいている人のいる部屋に入る際、よく注意を払っていれば、人生や生命というものがいかにはかない(precarious)ものかを、直感的かつ瞬時に理解することができます。それがわかると同時に、それがどんなに尊く大切なもの(precious)であることもわかります。死に近い場所にいつづけると、私たちは自分の欲求に対して衝動的でなくなり、自分の存在や考えを大げさにとらえることが減り、ものごとをより容易に手放せるようになります。寛大な心や愛に対して、よりオープンになるのです。逆説的ですが、死に向かう人々に接していると、互いに対してやさしい気持ちを持てるようになるのです。死に直面すると、自分はこういう人間だと思い込んでいるアイデンティティーが、病気によりひきはがされてしまうか、潔く手放さざるをえなくなります。でもそれも、やがてなくなってしまいます。「私は父親である」「私は母親である」「私はホスピス職員である」など、私たちが「これが自分だ」と思っているものが何であれ、もはや関係がなくなるのです。


 私が関わっている人々の人生や生活は、表面上は私のそれとは大きく異なっているように見えます。彼らは黒人であり、私は白人です。彼らはヘロイン注射を打ちAIDSにかかっていますが、私はそうではありません。彼らはホームレスで孤独な人生を送っていますが、私はばかばかしいほど高い家賃を払い、4人のティーンエイジャーの子供を持っています。ですから、結局私たちはまったく違うのだ、と思うことは簡単です。ほんの数ヶ月前に道ですれちがったとしても、互いに気にもとめない存在だったのです。しかし今や素晴らしいことに、ホスピスという環境の中で、私たちはとても親密な環境に一緒に放り込まれています。そして、様々な活動やこまごまとしたケアをする中で、「互いの共通項のある地点」をみつけます。私たちは、同じものの一部分であることを発見するのです。


 体を実際に動かし行動すること、考えること、話すことが起こる前に、意図を持つ瞬間がありますが、それを見逃さず認識していることが必用不可欠です。自分自身の意図を明確に知っておくことが、その後にどうやって前に進むかについての選択肢を与えてくれるからです。その瞬間をつかまえ、自分の意図をしっかりと認識しておくことにより、自分の習慣的なパターンから解放され、いつも通りのルーチン化した「自動運転」に陥ることを防いでくれます。


 禅の教えには、「独参」という修行があります。独参は、老師との問答です。参禅者は老師のいる部屋の扉の前に待つよう指示され、完全にいまに集中することを求められます。扉の向こうで何が待ち受けているかも、老師に何を尋ねられるかも、皆目検討もつかない状態ですので、参禅者は心の準備をし、柔軟でオープンな気持ちで向かわねばなりません。死が間近に迫っている患者さんの部屋に足を踏み入れるのは、ちょうど独参のようなものです。私たちの体とマインドが、ばらばらのタイミングではなく、同時にその部屋に入るのが理想的です。しかし、いつもそうなるとは限りませんね。私たちは、マインドをはるか彼方に置いてきてしまいます。そして、体もどこかに置いてきてしまうこともあります! または、その部屋に実際に到着する何日も前に、すでに入ってしまうこともあります。


 そういうことをしてしまったボランティアがいました。彼がベッドのかたわらに行くと、患者さんは嬉しそうにこう言いました。「ああ、あなたが来てくれて、よかった。私の死について話のできる相手が、ようやく現れたよ」 ボランティアもまた喜んで、こう言います。「そうですね、本当に。エリザベス・キューブラー=ロス(*1) とスティーヴン・レバイン(*2)の本を持ってきますから、来週来た時に、そのお話をしましょう」 彼はもちろん次の週になると、山のように本を抱えてやってきました。そしてその患者さんは、こう言いました。「わかったよ。いまみんなでテレビのフットボール中継を観ているところなんだ。部屋に入って、一緒にフットボールを観ないかね」


 ケアの提供という場面では、何が役に立つかよりも、私たちが自分自身の中に持っている考えを裏打ちするためのことを優先する、ということがとても頻繁に起こってしまいます。私たちは、自分が価値ある人間だと示したいのです。「私は死に向かう人々と仕事をしています」というときに、「私は」というところを強調して言い、機能ではなく役割をでっちあげます。私はこれを「助ける人の病」と呼んでいますが、これはAIDSやガンよりも横行しがちな流行病といえます。私たちは、他者の苦しみから離れたところに身を置こうとします。そして、自分が持つ哀れみ、怖れ、プロフェッショナルとしての温かみ、慈善的な行動を口実に使って、自分と世界を分離してしまいます。しかし、私たちが関わっている仕事は、慈善活動とは何の関係もないのです。


 数年前、私たちのホスピスで、あとわずか数日の命という女性がいて、彼女は大きな悲しみを感じ、落ち込んでいました。私には、それは自然なことに見えました。彼女は死にかけていたのですから。そこで、看護師がエラヴィルの投与を提案しました。エラヴィルは、患者さんの気分を向上させる薬で、効果が出はじめるまでに通常3週間かかります。私が看護師に「どうしてこの薬を処方したいの?」と尋ねると、答えは「だって、あの患者さんは苦しんでいるでしょう? 彼女が苦しんでいるのを見るのが、つらいんですもの」というものでした。ですから私は看護師にこう言いました。「だったら君が、エラヴィルを服用したらいいんじゃないか?」


 助ける人の役割への執着は、私たちの多くにとって馴染み深いものです。他者を助けるという行為は、自分に力がある、または社会的にちゃんとしているという感覚をもたらしてくれますし、賃金と同じように、私たちは一週間の終わりにそれを回収するのです。しかし、注意深くしていなければ、こうしたアイデンティティーによって、私たちは自分自身ばかりでなく、奉仕している相手をも牢獄に閉じ込めてしまいます。つまり、もし私が助ける人(helper)になりたい場合、力を失った人 (helpless)を必用としてしまうのです。


 カリフォルニアで福祉ガンセンターを経営している友人、レイチェル・レーメンは、これをとても美しい表現方法で表しました。彼女によると、奉仕する(serve)と助ける(help)は、違うものであるということです。助けることの基盤には不平等があり、平等な関係性とは異なる、というのです。私たちが助けるとき、私たちは自らの強さを使って、強さを持たない人たちを助けます。これは、一方が上でもう一方が下、という関係性であり、そこに関わる人々は不平等を感じます。助ける行為において私たちはうかつにも、与えるよりも奪うことをより多くしてしまい、相手の自尊心や自己評価を損なってしまうかもしれません。私は助ける際に、自分自身の強さをとても自覚しています。しかし奉仕するとき私たちは強さを利用して行なうのではなく、自分自身のすべてを差し出して行なうべきなのです。そのとき私たちは、自分の経験すべてを結集させて奉仕します ― 私たち自身の傷、限界、そして闇すらも、奉仕に役に立つのです。私たちの中にある全体性は、他者や人生そのものの全体性に役立ちます。


 助けるという行為は、借りを生み出します。あなたが誰かを助けると、その人たちはあなたに借りを作るのです。しかし、奉仕は、相互的なものです。私は人を助けると満足感を感じますが、奉仕したときには感謝の気持ちでいっぱいになります。奉仕はまた、直す(fix)こととも異なります。壊れたパイプは直しますが、人間を直すということはないのです。私が誰かを直しはじめるとき、それは、その人が壊れているとみなしているからです。直すという行為は評価判断のひとつの形であり、それにより私たちは互いから分断されてしまいます。距離が創り出されるのです。


 根本的に、「助ける」「直す」「奉仕する」は、人生や生命をどう捉えるか、ということでもあります。助けるときに人生や生命は弱いもの直すときには壊れているもの、そして奉仕するときには全体としてみなされます。こうした考えに基づいて奉仕した場合、目の前にいる人の苦しみは自分自身の苦しみ、その人の喜びは自分の喜びであるということが理解できるようになります。そして、奉仕したいという衝動が自然と湧き上がり、私たちの自然な叡智や慈悲の心が自ずから現れてきます。奉仕者は自分が利用されていることを自覚しており、より大きなものに奉仕するためにすすんで利用されたいと感じます。私たちは人生の中でたくさんのことを助けたり直したりしますが、奉仕するとき、私たちはつねに全体性に奉仕しているのです。


 それが死に向かう人々であれそれ以外の場合であれ、苦しんでいる人をお世話する行為は、私たちの「目を覚まして」くれます。私たちのハートやマインドを開いてくれるのです。私がよく話している全体性を感じるという体験の世界が、それによって目の前に広がってきます。しかし私たちは習慣的な役割や考えに囚われてしまい、それにより互いに分断されてしまっています。ある種の反射的なマインドの状態によって自分を見失い、自己イメージを防護するのに一生懸命になるあまり、私たちは、やるべき仕事に本当に役に立ち情報を与えてくれるものから自分自身を切り離し、孤立させてしまいます。癒しを提供する人になるためには、自分自身の傷、怖れ、そして自分のすべての存在といったものを含め、自分の衝動や感情をベッドサイドに持ち込む意志を持たなければなりません。そう、私たちが自分の苦しみを探求することが、奉仕する人たちとの架け橋を作ってくれるのです。


 次のような例がありました。 数年前、私がとても愛した大切な友人が、AIDSで重篤な状態に陥っていました。彼は長年の友人でした。たった半日のうちに話すことも、フォークを持つことも、立つことも、意味のある文章を作ることもできなくなり、私がその日の担当者となっていました。私は大きな恐怖に襲われました。この、ミスター・ホスピスの私が!


 私は彼のためにできる限りのことを行ないました。彼の体には巨大な潰瘍と肛門部の腫瘍があり、つねに下痢をしていました。私たちはひっきりなしに、彼をトイレへ、そして浴槽へ、そしてまたトイレへ、と運んでいました。それは一晩中つづきました。疲れ果てた私は、自分が眠れるよう、彼をベッドに戻すことを望んでいました。そのために、なだめたりすかしたり、操作したりと、ありとあらゆる方法を試しました。そして歌手のマドンナよりも頻繁に服を着替えました。


 そうした中、彼を浴槽からトイレへ運んでいると、朦朧とした意識状態にもかかわらず、彼がこう言ったのです。「君はがんばりすぎてるよ」 たしかにそうでした。私はそこではたと動くのをやめ、トイレの横に座って、泣きはじめました。この瞬間は、私たち二人の長年のつきあいの中で、もっとも強烈でかけがえのないものとなりました。私たちはどちらも、完全になすすべのない状態にあったのです。それを一緒に体験していました。分断はまったくなく、プロの温かみというものも、そこにはありませんでした。


 もしも私たちが自分自身の苦しみを探求する気がないのなら、患者さんのことを理解する際にも「たんに推測している」ということになります。他者に奉仕することができるようにしてくれるのは、私たち自身の苦しみを探求することです。それにより、怖れや哀れみではなく慈悲を持って他者の痛みに触れることができます。そして、私たちは患者さんのみならず、自分自身にも耳を傾ける意志を持たなければなりません。


 また、自分のまさに目の前にあることに、注意深く目を向ける必用があります。一年前、とても頑固な80歳のロシア系ユダヤ教徒の女性が死に向かっていました。私が部屋に入ろうとすると、彼女は空気を求めてあえいでいました。付添っていた人は彼女に向かって「怖がらなくていいんですよ。ここに一緒にいますからね」と言っています。すると女性は「何言ってるのよ。もしもこれがあなたに起こっているとしたら、怖いに決まってるでしょう」と答えました。私は黙ってそれを見ていました。付添いが「寒そうですね。毛布をあげましょうか?」と聞くと、「寒くて当たり前でしょう! 私は死にかけてるんだから」と答えます。私は、本当に助けたいならば、彼女が言うことを、誠心誠意聞くことが必用だと思いました。彼女が伝えようとしていることに、すべての注意を払うべきです。


 彼女は呼吸もままならない状態でしたが、誠意を持って接してほしかったのです。私はこう言いました。「苦しみを少し軽くしたいですか? 息をしようともがくのを、少し軽くしたいですか?」「ええ」私はつづけました。「そこです。息を吸って吐く間、その短い合間で、あなたは少し休んでいるように見えます。そこにちょっとだけの間、注意をむけてみましょうか?」


 ここで覚えておいていただきたいのは、この頑固な女性は、仏教にも瞑想にも、まったく興味を持っていなかったということです。しかし彼女は、少しだけ、もがかないですむようになりたいと思っていました。それで彼女は少しの間、私が言ったことを試しました。すると、彼女の怖れの表情が消えていったのです。彼女はその後、数回呼吸をした後、穏やかに息をひきとりました。


 奉仕のためには、目の前にあることに注意を払わなければいけません。そして、最小限の介入を行ない、瞑想中と同じくらいの注意と落ち着きを、その体験に向けなければなりません。刻々と眼前に現れる状況に応じて生きる意志と能力が、私たちが真の意味での奉仕をできるかどうかの指針となります。オープンなハートとぶれないマインドを持っていれば、また、その瞬間瞬間に完全に注意を向けることができれば、この世の中には分断というものがなくなり、やるべきことが明らかになります。私たちには、それができます。そのために20年も仏教の修行をする必用はないのです。私たちひとりひとりに、他者の苦しみを自分のものとして慈しむ能力が備わっています。人類は何百年もそうしてきたのですが、私たちはたんにその方法を忘れているだけであり、それを思い出す作業を互いに助け合って行なわなければならないのです。


 私のホスピスがオープンしたとき、トムというボランティアが、AIDS患者をベッドから移動式洗面台へと移動させる手伝いをしていました。作業開始と同時に患者が転んでしまい、パニックとなりました。患者はトムの足首の上に倒れこみ、洗面台も倒れてしまいます。大惨事です。実際のケアの提供の場において、典型的な状況です。


 ともあれトムは慣れないながらも対応し、患者をベッドに戻しました。そして私に電話をしたのです。「フランクさん、トレーニングで患者をベッドに寝かせるテクニックを習いましたが、それについてあなたのご意見を伺いたいんです」 私はこう答えました。「なるほど。じゃあ、こうしてみないかい? こんどJ.D.さんを動かすときには、まず、自分のおなかを調べてごらん。おなかが柔らかいかどうかをみるんだ。おなかが堅かったら、何もしてはいけないよ」


 「わけのわからない仏教の話なんか、どうでもいいんです。患者さんの膝の扱い方をしりたいんですよ」


 「とにかく、おなかをチェックして、またあとで電話してくれないか」 この私の返答は、「アスピリンを2錠飲んで、あしたの朝また電話してくれないか」と言っているようなものですが、その後しばらくして、トムから電話がありました。


 「フランクさん、あれにはびっくりしました。J.D.さんを動かしに行ったら、僕のおなかが石のように堅かったので、動かすのをやめました。何度か深呼吸をしておなかが柔らかくなると、J.D.さんはいつのまにか、まるで恋人か小さなこどもみたいに僕の腕の中に身をまかせてたんです。それからは、うまくいきました」


 私たちは皆、こういう能力を持っています。


 仏教の実践には、私たちは誰もが過去に何度も生まれてきていて、母親・父親・こどもとしての体験を持っている、ということが含まれています。ですから私たちは出会う他者を、自分が愛する人や家族として扱わなければなりません。奉仕の中心にあるものを探求するにつれて、パターンが見えてきます。私たちの仕事を妨げる「習慣化されたもの」に共通しているのは、「分離の感覚」です。また、真の奉仕と思われる瞬間や行動に共通しているのは、「一体であるという体験」です。アインシュタインがそれに言及しており、ソギャル・リンポチェは『チベットの生と死の書』(*3)にそれを引用しています。


 「人間は‘宇宙’という全体の一部なのです。時間と空間のなかに限定された一部なのです。人間は自己を、自己の思考や感覚を、他から分離した者として体験します。---それは意識の視覚的錯覚とでもいうべきものです。この錯覚は、わたしたちを個人的な欲望と、ごく身近な幾人かの人間への愛情に縛り付けている、一種の牢獄なのです。わたしたちの課題は、すべての生きとし生けるものを、自然のすべてを、その美しさのままに包み込むまでに慈しみの輪を広げ、わたしたち自身をこの牢獄から解放することにあります」(*4)

---アルバート・アインシュタイン


 ハートが分断されていないとき、私たちが出会うすべてのものは、私たちの修行の場となります。奉仕は、息を吸ったり吐いたりするのと同じく「神聖な交流の場」となるのです。私たちは、吸気のように、世界から物理的・精神的滋養を取り入れます。そして、私たちは誰もが何かしら提供できるものを持っています。この世界に住む私たちの喜びの一部は、なんらかの形でお返しをるすことです。これが呼気のようなものです。ある友人は、これを「シンプルな、人間としてのやさしさ」と読んでいます。私たちの仕事は、死に向かう人や生きている人に奉仕するために、自らが生来持っている知恵や慈しみ、つまり「シンプルな、人間としてのやさしさ」の邪魔をすることを避け、私たちの本質が他者の必用としているものをきちんと見つけられるようにすることだと思います。


* 色字および「」は訳者がアレンジしたもので、原文にはないものもあります。また、色字により、やや読みづらいことがあるかもしれませんが、どのブラウザでも快適に読めるように、このような処理を行ないました。ご了承ください。

【訳注】


*1 エリザベス・キューブラー=ロス精神科医で、死と死ぬことについての画期的な本(『死ぬ瞬間』)の著者 。その本の中で彼女は初めて今日死の受容のプロセスと呼ばれている「キューブラー・ロス モデル」を提唱した。死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。

*2 スティーブン・レバイン:キュブラー=ロスらと共に活動し、米国の臨死ケアの第一人者として知られる 詩人。長年アメリカで末期患者のケアを実践し、誘導瞑想とヒーリング法を様々な分野で過去二十年以上にわたって教える 

*3 『チベットの生と死の書』ソギャル・リンポチェ著、大迫正弘・三浦順子訳、講談社 1995

*4 上記『チベットの生と死の書』日本語版の訳を掲載しました。



フランク・オスタセスキ:サンフランシスコのZen Hospice Project (ZHP) 創立者、2001年には死に向かう人々とその家族に対する長年の慈悲に満ちた奉仕活動により、ダライ・ラマに栄誉を与えられる。現在は仏教にもとづくターミナル・ケアのトレーニングを行なうMetta Institute (http://www.mettainstitute.org/) 所長をつとめる。


* この記事は1996年11月のMunich Conference on Death, Dying and Livingでオスタセスキ氏が行なった講演をのちにView誌が掲載し、Hospital Clown Newsletter(出版・編集:ショビ・ドビ http://www.hospitalclown.com/)Vol 7にオスタセスキ氏の許可を得て転載されたものです。日本語訳は、オスタセスキ氏、ショビ・ドビ氏の許可を得て翻訳しました。


<翻訳:佐々木薫 & Caitlin Stronell 2011/4/20>

 

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