こころの考察
EVAって最初は単なるロボットアニメだと思ったけど、庵野監督が言うように、見る人のそれまでの人生が投影されるような仕組みになっている、というのが非常にユニークです。
この作品で私たちも「補完」されるのかなあ、というのがこのコーナーです。
思いついたことを勝手に文章化したものですが、ご意見等あればメール歓迎します。
・ユニゾンと反比例−シンジとアスカ(97/11/23)
・A10神経(97/08/30)
・死刑執行(97/08/07)
・14才という年齢(97/07/21&27)
・戦闘と狂気(97/07/16)
・4つの自分(97/07/05)
・何番目の自分?(97/06/22)
・存在について(97/06/21)
・ユニゾンと反比例−シンジとアスカ(97/11/23)
「エヴァンゲリオン映画編探求」(史輝出版)の考察はなかなか感心しました。
シンジとアスカはエヴァのストーリーで説話的に双子として設定したストーリー展開になっているというものです。
大ざっぱに記述すると、
1.第8話「アスカ来日」では初顔合わせにもかかわらずエントリープラグに2人が乗り、使徒を殲滅しているが、
エントリープラグを母胎と考えるならば、シンジとアスカは双子の関係にあることを象徴している。
2.シンジとアスカがお互いに、相手の中に自分の嫌いなもう一人の自分を見ている、と考えればアスカがシンジ
に攻撃的なのは理解できる。
3.双子(というよりはもう一人の自分)としてお互いを見た場合、アイデンティティの危機に陥った場合の行動パターン
がもう一人の自分との融合、あるいはもう一人の自分を消してしまうこと、とも考えられる。(これが首絞めの理由)
といったようなことが書いてありました(あまり正確ではありませんが)。
第8話に関しては、なるほどそう言えばあれは不自然な展開ですよね。
同乗者はノイズになるから普通は乗せないだろうし、しかも後にも先にもあの2人が同乗したのはあの時だけですね。
ここですでにユニゾンは始まっていたのが面白いです(開け、開けってね)。
この時のシンクロデータはミサトのみぞ知る結果となりましたが、絶対すごい値が出たはずです。
(こうなるとアスカの父親もゲンドウでは?などとつい考えたり...ゲゲ)
しかし逆にシンジとアスカの機体交換実験が行われなかったのはなぜだろう?という疑問が残ります。
エヴァとのシンクロ率は最初はアスカの方が優れており、アスカのシンクロ率低下とともにシンジのシンクロ率が
上昇していく、という反比例関係にあるそうです。
(ちなみに、アスカとシンジが逆転するきっかけになったのはあのキスシーンからとか)
TV版でアスカが虚脱状態の時シンジが活躍し、映画ではシンジが虚脱状態の時にアスカが活躍しています。
この対比も、もし本当に計算されたものであればまるでパズルのように緻密な作品だと言えますね。
また、シンジのユニゾンの相手は本当にアスカでなければならなかったのか?
どう考えてもレイの方がうまくいくはずですよね。
これもシナリオどおりだったのでしょうか?
・A10神経(97/08/30)
「別冊宝島191 薬のウラがわかる本」の40ページに「精神病は脳の機能障害が引き起こす」とあります。
ここで、小児神経科医によるA10神経の説明があったので、少し引用してみます。
「脳の中でドーパミン系の機能障害が起こっている場所によって、出てくる障害も違うと考えられます。
ドーパミンの場合は、A9、A10神経との関係が特に重要なんです.....
A10神経というのは、中脳から出発して、視床下部、側坐核、嗅結節、海馬、内窩皮質などに枝を送って、最後は
前頭連合野に至る神経ですけど、部位それぞれに担っている役割が違うわけです。
視床下部は食欲や性欲の創出。海馬は記憶とか学習能力。側坐核は人間の行動力を生む。内窩皮質は快感の発生。
そして前頭連合野は人間の思考そのもの、創造活動全般を担っています。
ですから、A10神経がどの部位でドーパミンの変調をきたすかによって、出てくる精神障害も違うということなんですよ。」
確かに人間の脳自体が恐るべき集積度の高さを持つ生体コンピュータだと考えると、外部要因はもちろん、食生活や体調
の変化によっていとも簡単に精神に変調をきたすと考えられる。
むしろ、いわゆる正常な精神状態とは、外部衝撃も筐体内部のほこりもなく、適温環境の範囲内で正常に作動している
CPUと同じ(つまり今の日本の中での日本人ってことか?)かもしれない。
しかしそれでも長時間連続稼働させている日本では、実は内部からじわじわと熱を持ち始めている極めて危険な状況なの
ではないだろうか。
・死刑執行(97/08/07)
8月1日、連続射殺犯として投獄されていた永山則夫を含む4名の死刑が執行されました。
永山則夫は犯行時19才、犯行の事実に関しては当初は認めたものの、最後まで無実を主張し、獄中より「無知の涙」
を発行して話題になりました。
新聞にも書いてありましたが、なぜ今この時期に死刑が執行されたのか、どうも神戸の連続殺人事件とのシンクロ率が
高いように思えます。殺人・犯罪に対する予防的効果としての「見せしめ」と評していた方もいたようです。
私が小学生の頃、「目には目を」が行動規範の基本にあり、単純に「人を殺したら死刑になる」という考えが犯罪のブレー
キになっていたのですが、現在では小学生でさえ、犯罪に対する感覚が麻痺している気がします。
ちなみに刑法では次のように規定されています。
刑法第199条 人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ三年以上ノ懲役ニ処ス
日本では絞首刑が採用されてますが、非公開です。
また、こういうのは問題かもしれませんが、昭和40年代、50年代には現在よりも死刑執行が多かったように思います。
罪に対して受ける罰をもっとアピールしないと人間は犯罪予防できないかと思うと複雑な気分になります。
国によっては公開銃殺もあるようですが、実際に処刑シーンを見たら「絶対にあんなふうに処刑されたくない」と思うのも
事実です。
さて、首絞めシーンの多いエヴァンゲリオンは我々の感覚を麻痺させてしまうのか、それとも予防効果をもたらすのか、
あなたはどうように感じたでしょうか?
・14才という年齢(97/07/21) 7/27一部追加
7月20日の夕方、偶然報道特集を見ていたら、14才の様々な中学生にインタビューしてその本心を探る試みがなされて
いました。
冒頭部でエヴァンゲリオンの映像と劇場に見に来ていた少年にエヴァンゲリオンの魅力を尋ねていたので、ついそのまま
見てしまいました。恐らく神戸の小学生殺人事件のことや、エヴァンゲリオンのブームから「14才」にスポットライトが当て
られたのではないかと思います。
映画館でインタビューされた中学生は、「主人公が内向的で悩みを抱える姿が現実の自分に似ていて共感できる」
というようなことを言ってたと思います(正確には覚えていませんが)。
これはアニメだとわかっていながら、自分を主人公に投影している人はかなり多いのではないでしょうか。
14才という年齢について、よくいわれる思春期だとか、子供と大人のはざまで自分の存在を模索しているとか、つい我々は
簡単な表現で片づけてしまい、誰もが体験する通過儀式としてわかったような気になってしまうのですが、今の中学生に
とっては、状況が10年前、20年前、30年前とはかなり異なると思うのです。
番組の中で興味を持ったのは、最近高校受験で内申書の比重が高くなり、学校では「良い子」を演じなければならないこと。
そして、仲間の間では「悪ぶってみせること」がカッコイイことであるという認識から「ワル」を演じているということ。
そしてこのどちらも実は「本当の自分の姿ではない」ということです。
膨大な情報の中で、現代社会では暴力や性表現が氾濫しており、一方、中学校の管理体制や社会の管理機構は従来より厳しくなってしまっている。親は仕事に忙しい。そんな状況で「健全な精神」を保つことが可能だろうか?
ゲームやアニメなどのバーチャル(仮想)な世界は最初は「現実にはできないことを実現できる世界」として映画と同じように娯楽の1つの形だったのに、今では「仮想世界でできたこと(殺人など)を現実社会でやってみたくなる」危険をはらんでいる。
今の若年層は大人の商業主義の犠牲として、その「危険な予備軍」になっていないことをただ願うばかりです。
エヴァンゲリオンのブームや神戸の事件は、もしかすると日本の教育制度、そして社会システムがそろそろ限界に近づい
ているという警鐘とも考えられます。
7/27追加文
「エヴァンゲリオン限界心理分析」を読んでいたら、14歳という年齢についての分析がありましたので、参考までに簡潔に
抜粋します。
「肉体的に大人だが、精神的には真っ白な状態にある14歳は、権力側がもっとも扱いやすい最後の年齢である」
「この年齢は思春期危機と呼ばれる時期にあたる。これは子供が生殖能力を持つ成人へ成熟する過程でおこるもので、
うつ病をはじめとする異例な言動が見られることが多い」
「精神面では第2次反抗期にあり、内面の不安を家庭、学校、社会体制にぶつけて安定を図ろうとする傾向が強まる。
心のぎくしゃくしたエネルギーは他人や自分自身への攻撃に向かうことが多い。極端な場合は自殺や友人殺傷、
教師への暴力、家庭内暴力、性的犯罪などの悲劇を生むこともある。また、このエネルギーが直接外の人間に向かわ
ない場合、思春期やせ症(女子に多い)や登校拒否、同性愛傾向(男子に多い)を生ずることもある」
なお、「死への憧れ」が最も強いのは14歳の少年である(トゥスク)、らしい。
以上、「エヴァンゲリオン限界心理分析」より引用。
見事にシナリオ設定に一致している。
・戦闘と狂気(97/07/16)
夏が近づくとどうしても「終戦」の2文字が頭から離れず、つい太平洋戦争の記録ビデオなどを借りて見てしまいます。
彼らが命をかけて守ったこの国を、一体誰がこんなにしてしまったのだろう。
そう思うと申し訳ない気もするのですが、現状の閉塞感を打開できない苛立ちを特に最近感じます。
さて、EVAに乗りたくないのに乗せられているシンジは、ある意味では特攻隊に近い気がします。
第拾九話で自ら志願してEVAに乗り、使徒と戦っている時のシンジの表情(右のイラスト)はもうドーパミン全開といった感じで、恐怖と狂気と狂喜の入り交じったかなり病的なものを感じました。
(私個人としてはかなり強烈に印象に残った表情でしたが、みなさんどうでした?)
闘争本能に目覚めたようにも見えたのですが、むしろ自分で自分を意図的に狂気に追い込むことで恐怖を
克服しようとしている、という感じでした。
自分が実際に命がけの戦いを行う機会が今の社会ではほとんどない。
それはいいことなのだが、いざ自分が生死をかけて戦う番が来たら....あなたはどうしますか?
・4つの自分(97/07/05)
随分前に読んだ本の中に「4つの自分」ということが書かれていたのをEVAを見て思い出した。
すなわち、
@自分も他人も知っている自分
A自分は知っているけど他人の知らない自分(意外な一面)
B自分が知らずに他人の知っている自分(他人の眼)
C自分も他人も知らない自分(つまり可能性?)
実はCの部分が80%以上を占めている、というようなことが書いてあったと思います。
自分の事は自分が一番知っている筈だと思っていたのが、あっさりとひっくり返ったわけです。
でも逆に希望がありますよね。
自分次第で、まだ未知の可能性が拓けるわけですから。
そして、今の自分を変えるチャンスもあるわけですから。
さて、もし今の自分に前世、前々世、....があるとしたら、今の自分は何番目なんでしょうね?
あの綾波レイの2番目、3番目、そして水槽の中にウジャウジャ...を見たら思わず自分についても考えちゃいますね。
ちょうどクローン人間製造の倫理問題がホットだし、EVAは一歩進んでいたのかな?
実はクローン人間については、手塚治虫の「火の鳥」にもクローン人間ハンティングのテレビ番組の登場場面(映画「ブレードランナー」はこれのパクリではないかと思った)があり、今更ながら手塚氏の作品のすごさを感じます。
実は今までに、自分と顔つきや背格好までよく似た人を電車の中で見たことが1度あります。
向こうも同じことを思ったのか、こちらを時々見てました。
はっきり言って、気持ち悪かったです。
それ以来、オリジナルとしての自分を強く意識するようになりました。
また、EVAの作中のように、突然幼年時代のもう一人の自分に責められたら怖いですよね。
「アニメや映画の中の出来事」だと思って観客として安全な所で見ていても、ある日それが現実のものとして自分の身に起こらないと誰が断言できましょうか?
少なくとも夢の中で起こる可能性は充分ありそうです。
・存在について(97/06/21)
いつの頃からか、自分の存在に疑問を抱いた事はありませんか?
麻酔が効いていて感覚がない時や、寝違えて手がしびれた時、自分の体なのに自分じゃないような感じがしますよね。
肉体はなんのために存在するのか?
魂と肉体にはどんな関係があるのか?
なぜヒトはこんな形をしているのか?
なぜヒトは生きているのか?
何のために生きているのか?(ただの生存本能か?)
なぜ生きているとつらい事、悲しい事があるのか?
なぜ死ぬのか?
死ぬとどうなるのか?
科学の時代と言われて久しいが、自分の事なのに未だに誰も明快な解答を出せない問題ですよね。
哲学とか宗教とかで一応の答えを持っている人はいるようですが、みんなが同じ解答にならないところから察すると、
恐らく生きている間にはわからない(あるいは生きている間にはわかってはいけない)ことかもしれませんね。
ちなみに、サミュエル・スマイルズの「自助論」にはこんなことが書いてあります。
「人生の最高の目的は、人格を強く鍛え上げ、可能な限り心身を発展向上させていくことである。
これこそ唯一の目標であり、それ以外のものはこのための手段にすぎない。
最高の快楽や富、権力、地位、栄誉や名声を得たとしても、それは人生における最大の成功ではない。
むしろ、最高の人間性を獲得し、他人の役に立つ仕事に打ち込み、人間としての義務を果たしていくことこそ、
一番立派な生き方なのだ。」
ちょっと厳しいですよね。
肉体を持って生まれた以上、様々な欲望から逃げるのは至難のわざでしょう。
でも、よく「願かけ」とかあるように、高い目標を実現するにはその代償として自分の欲望をどれか一つ断つ必要があるようですね。
そして、残念ながら現在の人類は、そのような方法をとらない限り、より高次元にはステップアップできない存在みたいですね。
考え方によっては、全知全能の存在(これをどう呼ぶかは人によるが)になれる可能性は誰もが持っており、仮にこれを「あがり」
とするならば、あがれるまで輪廻転生を繰り返しながら「人生すごろく」を続けているのかもしれませんね。
しかも、自分の魂は単体では進化できず、肉体を伴って3次元の世界に存在し、他の生命体と接触しなければ成長しないのかも
しれませんね。
できれば現世限りで何とか「あがり」にたどり着きたいものです。道は険しいけど。