【 Uchidak's Personal History 】
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- やあ、Katsuya! しばらくだなぁ!
- Woody! 本当だねぇ。もう何年逢っていないだろう? 4、5年になるかなぁ。
- そうだなぁ。そんなになるかな。お前が今の所に入った頃だったからなぁ。
- じゃあ、もう7年近くになるなぁ。90年4月に今の所に移ったからな。
- もう、そんなになるのか? 速いなぁ。所でお前が今までどんな事をやって来たのか一度聞きたいと思っていたんだけど。じっくり聞かせてくれないかい?
- ああ、今日は時間があるから少し詳しく聞かせるよ。
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- 中学までは、近所の学校に通っていたが、高校は証券取引所がある日本橋兜町にあった「紅葉川高校」と言う綺麗な名前の学校だったよ。この学校は敷地は狭いけど、一番地価が高い高校だと国語の教師だかがよく言っていたな。数年前に廃校になってしまったが、1学年200名足らずの学校で、男女比は若干女性が上回る程度だった。毎年クラス替えをしていたので、同じ学年であれば大体誰が誰だかは覚えていたんじゃないかな?
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- 大学は、調布にある(電気通信大学 通信経営学科=経営工学科)と言う所で、最近ではかなり名前が有名になったが、我々の時代にはよく、「電通大? 広告会社が大学をやっているの?」とか、「ああ、神田錦町にあるやつね!」(こちらは、電機大学)とか言われて、その度に、説明をした事もあったな。また、「通信経営」なんて名前の学科は日本で唯一のものだったので、何をやっているんだって結構聞かれたな。実際には「経営工学」とか、「工業経営」なんて学科と同じであり、通信を主体にしている経営工学あるいは、工業経営ですなんて説明をしたり、就職活動らしき事を少しやった時には、他校の経営工学のカリキュラムを持っていって、ここと同じ様な学科を勉強して来ました、なんて説明をした事もあったな。
大学時代にはちょうど「オペレーションズ・リサーチ」関係の書籍が当時の国鉄の技術研究所の人達が訳した本がでて直ぐだった事もあり、経営科学が注目された時代で、数年上の先輩達が作った「OR研究会」なるものがあり、一橋大・商学部、津田塾・数学科の人達が一緒だった。この研究会に属していた中に、今筑波大学の大学院にいる教授とか、一橋大で教授をしている人なども一緒だったね。3年の時に始めてコンピュータが学内に導入されたが、学生は原則卒論での利用しか認めないと言う時代だったが、OR研究会で東大・医学部のME(メディカル・エレクトロニクス)研究会の人々と「東大病院における初診者の行動調査」をやって、その整理をコンピュータを利用して「待行列」を利用して解析しようと言うことになり、FORTRANの本では当時有名だった森口繁一先生の「FORTRAN入門」で勉強し、当時東大にあった大型コンピュータを(こっそり?)利用させて貰って簡単な解析をした事もあったなぁ。今考えるとなつかしく思い出すね。
- 大学でも変な事をしていたんだなぁ!
- 4年生の時、電子計算機概論の授業を持った教授が、4、50人位いた学生を前に「このクラスの学生は10年経ったら全て忘れてしまうけど、内田だけは多分忘れないだろうな。」って言われたよ。その教授は、今、学長やっているから、そのうち会いにでもいくのもいいかも知れないな。多分もうそんな事を言ったのは覚えていないだろうけど。
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- 就職はどうしたんだい?
- 最初に入社した企業は超小型コンピュータの販売/システム支援/システム開発等と事務器の販売を行っている会社だった。まあ、まだ学生時代にコンピュータをやってくる学生が、入社してくるケースは珍しかった時代だし、同期で入社したのが、女性も含めて20人もいなかったんじゃなかったかな? 最初から目立った存在だったかも知れないな。その当時からかなり勝手な事をやったかも。ただ、システム支援、システム開発、営業支援、ユーザ・社員教育などシステムをやる人間がやることは全てと言っていい位やったね。
- 姿が見える様だな。
- システム開発ではCOBOLコンパイラーの開発等に参加してね。COBOLと言ったって非常に小さなものだったが、この開発がシステムをやって行く上で非常に役に立ったな。
それから「ビジネスショー」の主催者の行事の1つとして「ビジネスゲーム」のプログラムを作成したな。これは親会社のSEがFORTRANで作ったプログラムをCOBOLを作ったコンピュータと同じコンピュータへ変換する作業だったんだ。社内でFORTRANがわかっているのが少なかったのと、内田にこの際苦労をさせようと考えたのかも知れないな。2月頃に話があって、5月の終わり頃には完成させないといけない訳だし。実質3ヶ月で1万5千ステップ位あったかな? 異なるコンピュータであり、こちらは小さいシステムだったから通常の計算でやると計算精度が悪くて正しい結果がでてこないなんて事もあり、倍精度のサブルーチン等を作る羽目にもなったが、後から考えるとこれも非常に勉強になったな。
- 退職の1年程前に、親会社の次期システムの機能設計に参加したんだけどなかなか我々ディーラーの発想が理解できなかったみたいだね。また、メーカーの開発部門ではバーチャル・メモリー・マシンを考えたら、販売部門ではコンペティターの機種の後追いなんかダメだと言って壊れたと言う噂もあったな。でも、数年後にIBMがS/360でその概念をだしてきたんだけどね。
- へえ、そんな事もあったのか?
- どちらが良かったかはわからないけどね。でも、その後にソフト開発部門にプロジェクトができ、当社から5、6名が参加して、パッケージソフトを作る事になったんだが、メーカーのリーダーが言う事には、このシステムを作ればSEがいらなくなると言う事だったんだ。お客さんの業務で利用するデータ項目の長さをパラメータで入れて、COBOLのソースプログラムを作るなんて言うものだったんだ。そんな事ができるシステムパッケージなんて不可能で、もし作るのであれば、今のパソコン等にあるリレーショナル・データベースみたいなものを作り、システム設計に必要なフェーズのフローを用意すればどの様な業務にも対応できる。大体パッケージソフトでSEがいらなくなるものなんて不可能じゃないかってやりあったんだ。メモリーが16〜32Kバイト程度で、30MB程度のディスクとカセットテープのシステムだったんだ。初期の9801程度の能力しかなかったんだ。
あまりにもひどすぎるので、「こんなプロジェクトから降ろしてくれ」って、自分の会社の上司に掛け合って出向を途中でやめてしまったんだ。まあ、今から考えるとよく会社も許してくれたと思うよ。
- まあ、お前らしいよ。
- それで、北海道にシステム支援が足らないからと言うんで、道東の2社を受け持ったんだ。それと札幌支店のシステム部門へ本社情報を提供したり、システム的な教育をする様な事も半年少し掛けてやる事になったんだ。その頃にシステム設計時点での業務をどの様な処理を組み合わせるとできるかを考えられれば、フローチャートの組合せで顧客指導が相当楽になるんじゃないかと言った仕組みを彼らに教えたりしたんだ。それを聞いたSEの一人はその後独立してから10年位それを社内で利用していたそうだ。バッチ処理であれば、それで殆どできたし、また顧客への指導もあったので、顧客の作成パターンが自分と似たものになるから、後からの指導も電話だけで済むなんてメリットもあったんだ。
- ユーザ支援は顧客のレベルが低くなればなる程、支援時間が増えるのが当然だけど、それを利用して効率的にはなったんだ。
- ああ、でももう少し効率的な事を考えていた外資系のメーカーがあって、そこではフローチャートではなく、ソースプログラムをフローチャートの代わりに使っていたんだ。ディスクや磁気テープ等と言ったものが備わっていたシステムだからできたんだろうけど、うまいことを考えるのはどこにでもいるんだなぁ。なんて思ったよ。
去年、始めてシステム部門へ入社した先輩が定年退職になったので、20名近くがお祝いに集まったんだが、ここに集まった人間がまだその会社にいたら、凄い会社になったろうなぁなんて話があったけど、確かにそれは言えるな。
情報処理試験を受けたのもこの会社の時代だったな。情報処理試験の初回には10数名の人間が「第一種」の受験をしたが、合格したのは大学時代にコンピュータ学校に通学して入社してきた2年目位のが1人だけだったんだ。2回目には「アセンブラー」を選択して、僕も何とか合格したんだ。3年目は「特種」ができた年で、最初に一種に合格したのは年齢で受験できなかったんだが、10名前後が特種を受験して、合格したのは僕が1人だったんだ。別に特別に勉強をした記憶はなかったけど、社内でのコンピュータ広報誌見たいなものに記事を書いたりしていたのが良かったんだと思うよ。でも、とたんに見る目が変わるのが結構いたんだ。別に受験前後で能力が変わった訳ではないのにね。いい経験だったけど。
また、「内田はまぐれだ」なんて随分言われたよ。でも、その後数年間誰も受からなかったみたいだ。初回は確かにやさしいと言う話もあるけどな。
- まあ、どこにでもいるタイプだな。その手の輩は。それと、日本の試験は一見難しいが一度受かると永久だからな。何もしなくても資格の剥奪は原則的にないからね。俺の国の試験は資格取るのは結構やさしいけど、資格維持のための事をやらないといけない点は最近みたいに変化が激しい時代にはマッチしているんじゃないかな?
- そうだね。最近、情報処理試験等より、外資系のソフト会社等がやる試験を受ける人も結構沢山いるみたいだね。
道東でのシステム支援とか、会社に入った頃にやったシステム支援は、殆どが中小企業のシステムか、大企業の部門システムで、中小企業の場合には企業全体を考えながらシステム化を行う必要があり、また普通は全て1人でユーザ企業に対応しなければならなかったので、業種の特性とか企業の活動を知る上では非常にいい勉強にはなったな。
- この辺りにお前の原点がありそうだな。
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- 2番目の企業は、造船重機のシステム子会社で、システムのオンライン化を行うために設立された会社だったが、入社早々に「オイル危機」があり、システム化を中断せざるを得なくなり、また予算も減らされたりしたので、外部からの収入を確保しながら、自社のデータをキーツーディスクと言うシステム機器を利用してやるという事になり、そのデータ入力センターの構築をやらざるを得なくなったんだ。最初は他の人間がやることになっていたが、色々あって、こちらに回ってきたんだ。カード入力なんて今までの経験は殆どなかったため、全くゼロから20人のデータ入力オペレータ(キーパンチャー)を擁する所までの構築をやったんだ。その当時のデータ入力業界とか、色々勉強になったけど、非常に大変だったよ。1月に1回程度は徹夜みたいな事をしていたし、終業時間後に約束をしてもなかなか時間通りに行けなかったね。
- 10人を管理できれば、3000人の会社の社長にもなれるとか?
- うん。この業界の先輩格の会社の社長にそう言われた事あるよ。
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- 3番目の企業はニューヨークに本店がある米国系の銀行の東京支店だよ。この辺りからはお前もよく知っているだろう?
- そこにいた最後の5、6年位からかな?
- そうかもな。ここは、2番目の会社での付き合いがあったので、前の会社での仕事を評価してくれて、退職後に声が掛かったんだ。最初の5年程はコンピュータ運用部門にいたが、2年に1度程度の割合でコンピュータのレベルアップがあり、その度にコンピュータの移行業務などをやってきたんだ。コンピュータ室のレイアウトを作ったり、電源工事の打合せをやったり雑用はかなりやったな。大体いつも人がやりそうもないことばかりやってきた気はするな。
この最後の頃に東京にある外資系銀行のコンピュータ部門の人達を組織化してメーカーやベンダー等のシステム紹介の勉強をしたり、日本銀行が全国の銀行間をオンラインで結ぶ「日銀オンライン」等を外資系各銀行に徹底するための支援をこの組織をやったりしたんだ。始めてからもう15年位になるので、今年は盛大にパーティをやろうかなんて考えているよ。
82年にシステム監査部門に異動になり、コンピュータ部門のシステム監査もやるようになったんだ。ロッキード事件の教訓として米国の銀行は内部監査を強化する方向に米国政府が動いたんだ。この辺りは日本とはかなり異なるね。
ちょうどこの頃、システム監査に興味を持つ人達を、今、日経BP社でだしている某雑誌の編集長が中心になって集め、勉強会始めたんだ。月1回で、かれこれ1年半は続いたかな。それで、この勉強会が発展して「EDPAA(EDP Auditors Association)」(現在のISACA)の日本支部ができることになったんだ。直ぐに関係がなくなったが、日本支部の発起人の1人でもあったんだ。また、この当時一緒だった多くの人達には、「日本セキュリティ・マネジメント学会(JSSM)」でも一緒になり、色々お世話になったんだ。
その後、為替情報をオンラインで顧客に提供したり、外国為替業務支援を行うシステム等のマーケティングを行う部門で技術支援を行う立場に移ったんだ。
- うん、この頃からは多少は知っているよ。
- そうかも知れないな。表参道のユニオンチャーチでやっていたTokyo PC Club (PCT)へ行きだしたのはこの時代だったからな。
外為業務支援ソフトはIBM-PC/XTを利用するもので、それをお客様に使って貰うものだったんだ。あまり日本ではIBM-PCが使われていないので、国産のIBMパソコンにソフトを移植し、メッセージを日本語にするとの話があり、最初はシステム部門の担当者がいく予定だったが、やっていたシステムが大幅に遅れていたため、行けなくなり、急遽「お前、10月は休暇を取る予定があるか?」って聞かれて、ないと言うと「ロンドンに行って、英語のメッセージを全部日本語にする作業をやってこい!」と言うことになったんだ。
システムは、Lattice Cで作られていて、単に英語のメッセージを日本語に変換するだけだで、英語からフランス語やドイツ語に変換するのは1週間でできたんだから、日本語への変換は2週間もあれば十分だと上司に言われたんだ。
行ってみてびっくりしたのは、単に英語のメッセージを日本語に変換するだけでなく、コンパイルから全て自分でやらなければならなかったんだ。
エディターなんかなくて、EDLINを使ってロンドンの人間はLattice Cのプログラムを作成していたんだ。そんな事は知らないから何も用意がないし、EDLINだって基本的な使い方しか知らなかったんだけど、それしか使うものがなかったんだ。日本語は2バイトコードだから、一部の漢字の2バイト目がエスケープシーケンスになるのがあるんだ。でも、コードがわからなくて、BASICでエスケープシーケンスが2バイト目にくる漢字が何かを調べて、その場合にはメッセージ中に¥記号を入れる事をしないとうまく実行できないなんて事があったな。また、英語だと10文字でも日本語では漢字5文字以内にしなければならない訳だから、日本でマーケティングにいた女性達が作って、持たされたものが役立たないケースが沢山あって、それをこちらで短い漢字に直したりしながらの作業だったけど、そんな事や日本語を知らないイギリスから来ていた上司にはなかなか理解できなかったみたいだったな。後から、ロンドンで僕がどれほど苦労したかを同僚から聞いたみたいだったけどな。確か、86年だったかな? 結局4週間でも終わらず、作業を継続するために、ロンドン−東京間で電子メールを利用してソフト開発/テストを行うと言う今で言う「グループウェア」のはしりみたいな作業的をやったんだ。ロンドンで開発したプログラムをFDやファイル転送で受信し、東京でテストを行って、エラーがあればエラー内容をファイル転送すると言うような作業だったな。公衆網を利用したパソコン通信的な仕組みを実際の業務で国際的な形でやったんだ。
- へえ、それは知らなかったな。どうりで公衆回線とかが結構詳しかったんだな。
- うん、それと同時に公衆回線用モデムについても大いに勉強をさせてもらったよ。当時1200bpsのモデムがやっと出始めた頃に2400bpsの台湾製モデムを販売していた所から10万円を超えると稟議を書かないといけないから、それ以下で納入してよ。その代わり4台まとめて買うからなんて言って4割程度の値引きをさせたのもこの頃だったなぁ。今では2400bpsモデムなんて買う人いないかもね。
- 相手もよく値引きしたなぁ。
- そうだね。でも、随分ユーザを紹介したりしたし、新しいモデムのテストをやったり、米国のビジネスで利用している公衆網の通信ソフトとか、色々教えてやったね。使っていた通信ソフトには「スクリプト・プログラム」があったんだが、パスワードは画面からは見えない様になっていたんだ。こんな事、国内のソフトでは全く考えられなかったね。当時米国でも有名なパソコン通信用のシェアウェア・ソフトである「PROCOMM」でもそんな機能は持っていなくて、パスワードは裸のままだったんだ。この辺りはお前の方が詳しいだろうけど。
- PROCOMMは、PS/55の通信ソフトにもなったんだろ?
- そうそう、あれは、そのシェアウェアを日本語化したものだよ。もう少し後だけどな。
- 3100がでてきたのも、この頃だったな?
- ああ。86年の春にドイツでやっているハノーバーメッセに始めてT3100と言う名前で、AT互換と言うことでデビューしたんだ。実はこれも面白い話があって、7月頃だったかに上司から「ロンドンでT3100を10数台試験導入したと言っている。このPCは日本の東芝が作っているのだから、お前なんとか1台手に入れてテストをやれ。」って言われたんだ。あちこち、調べて東芝の海外事業部に担当者がいることがわかったんだ。連絡は取れたんだが、日本には2台しかない。1台は自分の所でマーケティングに使っている。もう1台はアスキーの出版部門の女性編集者に貸し出していると言うんだ。この女性編集者は昔1、2度某社の編集者と一緒に会った事があったんだ。早速電話して、何とか1、2週間貸して欲しいと言ったんだが、なかなか埒があかなかった。東芝とアスキーを色々掛け合ったんだけど、時間ばかり経過してしまい、10月にロンドンに出張に行く事になってしまい、貸与の交渉は一時中断してしまったんだ。ロンドンに行っている間にJ3100の発表があって、国内販売をするとの事だった。ロンドンから戻ってきて、東芝に連絡をとると、もう今更T3100でもないでしょう。その代わり、J3100を1台しばらく貸与しますと言う事になり、T3100の製品版の初期ロットの1台を11月の中旬に借りることになり、2月頃まで借りた記憶があるな。英語版のDOSのバグ等をいくつか見つけて報告をだしたんだ。また、この時の利用状況を雑誌に書いたんだが、覚えているかなぁ?
- 誰かが編集部に問合せて、書いた人間を教えてくれと聞いたとかって話をTPCだったかで聞いた記憶があるな。
- そうそう、編集部では教えてくれなかったそうだが、TPCでそれを聞いた本人と3100の話をしていたら、「え? あれは内田さんですか?」って言われた事があるよ。
また、このシステムではロータス123を利用していたので、表計算ソフトについて少しやる必要があったね。少し後にロータスが日本法人を作った時に123のβテスターになって色々な事をロータス社に随分提言したのも、これと最初の会社でやったCOBOL開発がかなり影響しているね。
- 色々注文を付けたなんて話を聞いたことあるよ。
- 「英語バージョンのワークシートとの互換性を」とか、コピー機能は英語版では1行だったのに、日本語版では2行になり、なおかつ「複写元、複写先」なんて紛らわしい表示をすべきでない。英語ではFrom,Toで1行になっているのであれば、元、先だけでも複写をやる事はわかっているのだから、そう表示すれば、日本語だった1行で表示できるのではないのか? なんて言ったりしたから、相当煙たがれたんじゃないかな?
- でも、ユーザにとって何がベストかだね。βテスターなんて、優良顧客対策的な面が多かったんじゃないのか? バグ潰しや機能向上なんてβテスターにやって貰うことを期待していなかったんじゃないの?
- どうかな? 最初の頃の本社から来た部長は結構期待していたみたいだね。ワークシートの互換性は製品版ではできていたね。勿論、英語版で日本語を表示すると変な文字が表示されるけどちゃんと動いたし、英語のワークシートは問題なく日本語で読めたんだ。
- ふぅーん、そうだったのか。
- ただ、逆にIBMのPC戦略については非常に疑問を持っていたね。この辺りはお前の方が切実だったのかも知れないけど。
- 多少はね。互換機を知り合いから随分買ったよ。IBM-PC/ATと55シリーズは互換性がなかったし、米国製の純正PCは高かったからね。英語でサポートを受ける立場だと互換機でもいいサポートを受けられたから、あまり問題はなかったね。
- うん、僕はTPCのメンバーに随分お世話になったよ。ネットワーク・ボランティアとでも言ったらいいのかも知れないね。TPCのBBSに随分質問を書いたりして、教えて貰った。そのお礼で随分日本語とか日本独自の状況をBBSに書き込んだりしたね。これがニフティ等でのロータスフォーラムをやるきっかけになったんだ。
僕も98から、PS/2モデル70に切り替えたんだが、多分個人でPS/2を購入したのは日本では数少なかったんじゃないかな?
会社の話に戻すと、あまりファーム・バンキングの営業が芳しくなく、上司が英国人から米国人に替わり、同時にマーケティングの方針も変更になったんだ。ロンドンで作ったシステムの販売は中止になり、パソコンを利用したファームバンキング業務はニューヨークで開発したものをやる方向になったんだ。このシステムでは公衆回線で国内にあった子会社であるVAN業者のノードに接続し、そこから米国にあるセンターに接続する仕組みで、公衆網を利用するためセキュリティについてはかなり工夫があったね。ユーザID/パスワードの仕組だけでなく、FDに入ったキーをアクセスする毎に1つづつ使っていく仕組みが考えられていたんだ。このため、同じFDをコピーできても利用する時にオリジナルのFDで既に利用をしていれば、エラーになり、利用できない仕組みで、ちょうどワンタイムパスワードの変形みたいなものだったんだ。
- 日本でも最近はセキュリティに関心を持ってきたけど、10年位前の話だろ?
- もうそれ位になるね。前の部門でのシステム監査とか公衆回線でのセキュリティをこの頃やった事がセキュリティに関心を持つきっかけにはなったかもね。パスワード盗難なんかが日本では最近話題になっているけど、アメリカの銀行ではこの当時からそれなりの工夫はしていた事がよくわかるね。パスワードの仕組みなんかも連続した文字をシステムが許さないとか、同じパスワードを何世代か使ってはいけないとか、もうこの頃からあったんだ。
結局方針転換を計って、ファームバンキング業務を拡大しようとしたけど、ダメだったので、部門を縮小することになり、再度システム部門に戻ることになったんだ。入行当時推進したバッチでのデータ入力業務をオンライン入力変更するなんて作業等があったけど、まあ比較的スムーズに移行でき、コストも削減もできたんじゃなかったかな?
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- ちょうどその頃フランス系銀行から業務システムをUNIXシステムで導入する予定になっているが、システム部門の管理者を探しているって話があって、小規模だったけど、面白そうだったのでそこへ行くことに決めたんだ。ただ、実際には現行システムからの移行が相当遅れおり、当初半年後程度って話だったけど、3年以上導入ができなかったんだ。
- まあ、あそこはだいぶもめていたからな。本社のシステム部門があまり力がなかったようだし。
- そうみたいね。証券子会社の方でも随分苦労していたからね。
この年(89年)の夏にJSSMの方と郵政省の課長に「コンピュータウイルスもどき」を見せた事があるんだ。そうしたら、VAN事業者の会合でコンピュータウイルスの話をして欲しいとの依頼があって、依頼があった時は、まだ日本でコンピュータウイルスなんてあまり知っている人がいなかったんだが、発表直前にちょうど日本で始めてコンピュータウイルスが見つかったとマスコミが騒いでいた頃だったんだ。全くの偶然だったんだけど。その後に、郵政省でネットワークセキュリティの研究会に参加して欲しいと言われて参加することになり、コンピュータウイルス等について調査していた関係から、コンピュータウイルスに関する内容と前年にコーネル大学院生が起こした「インターネット・ワーム」についてのまとめを担当する事になったんだ。
- 何が身を助けるかわからんな!
- そうだね。日経MIXでやっていたセキュリティ関係の会議にロータスマガジンにあった「コンピュータウイルス」関連の資料を載せたのはこの年の6月頃だったな。
- あの記事は面白かったな。アメリカでもコンピュータウイルスは、まだ「都市伝説」なんて言われていたとの記述があったな。
- 日本だってコンピュータウイルスがいるかどうかわからないなんて言う人は最近はいないからね。
- パソコン通信を本格的にやったのは、3番目の会社の頃だろう?
- そうそう。ファームバンキングをやり始めた頃だったかな? 日経MIXで、ibm.pc会議を担当していたんだ。PS/2を自宅で使っていたり、PC互換機を会社で使っていたりしたから、日本IBMのパソコン戦略に対して随分色々な事を言ったね。初代5550はフォントをロードする発想は良かったが、フロッピーでやった所に問題ありだ。小さなハードディスクでやっていたら、もう少し国内のPCの世界が変わったんじゃないかとなぁ。当時の日経MIXには、結構PCの世界を動かす様な人がたくさん参加していたね。
- DOS/Vの話はそれだけで物語ができるんじゃないの?
- DOS/V裏話? MIXの当時のログを読んでみると面白いかもね。その内、機会があったら読み返して、日経エレクトロニクスがしばらく前にDOS/Vの話をしていたがあれは殆ど表の話が多かった。「実録DOS/V秘話(?)」なんて書くとか・・・・
それと、例の某表計算フォーラムだね。日本の現法はパソコン通信については、全くどうしようもなかったからね。随分色々提案したり注文したけど結局は何もしない状態が4、5年続いたのかな?
- 多少、聞いた事があるね。最初は3人でやるんだったんだろ?
- うん、でも結局2人はあまりにも日本現法の対応が悪くて嫌気がさしてしまったんだ。米国本社と言うか、会長が昔いた所にいた人達だったし、色々やろうと思っていたからね。
多分、僕もTPCでのネットワーク・ボランティア的な活動をしていたTPCメンバー、お前さんもその1人だけど、との出会いがなかったら、あそこまで続かなかったかも知れないね。もう少し立ち回りをよくすれば、今頃「御殿」が建っていたかも知れないよ。
- そんなことないじゃないか。高円寺に立派な家があるじゃないか?
- 豪邸なんて呼べるものじゃないし、ローンもまだ沢山残っているしね。
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- 所で、お前のお袋さんは?
- うん、元気だよ。今年は年女だけど。
- すると、今の所は、カミさんとカミさんのお袋さんと・・・・
- うん、昔はペルシャがいたけど、今は「世の中に一種類しかいない血統」の犬、健太とだよ。
- ん?
- いや、譲ってくれた人の言葉。雑種の犬ね。
- はぁはぁはぁ・・・・
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