エムシープランニングの未来志向について 21世紀の私たちの将来を夢見る時、それは多くの先人達の叡知と時代の精神に振り返り学び、今をみつめて、これから先、 私達の未来に何が起きればよりよいのか、正しい想像と創造の力をたくましくしてゆくことになります。 1945年の敗戦の翌年、20世紀もまもなく半ばにさしかかろうとする1946年1月。いまや日本を代表する グローバル企業として躍進めざましい大企業の前身となる事業を興す設立趣意書が、井深大氏の想像力によって 起草されました。そこには『国民科学知識ノ実際的啓蒙活動』が、朗々としるされています。当時、戦後の物質的にも 精神的にも混乱をきわめていた時代に、真面目な実践力ある技術者達を集め、その人々に技術することに深い喜びを 感じさせ、その社会的使命を自覚して思いきり働ける安定した職場をこしらえることが第ーの目的でした。 この目的は、井深氏自身が不遇の戦時下に、大いなる意義と興味を有する技術的主題に対しては、人々が使命達成に 努め驚くべき情熱と能力を発揮する現場を目のあたりにしたこと、そして何がこれらの真剣なる気持ちを鈍らすもの であるかということを真に知ることができたことによると語られています。そこで、これらの人達が真に人格的に結合し、 堅き共同精神を以て思う存分技術能力を発揮できるような状態に置くことができたなら、例えその人員は僅かでその 施設は乏しくとも、その運営はどんなにか楽しいものであり,、その成果はどんなにか大いなるものとなるかを考え、 この理想を実現できる構想をビジョンされたというのです。それは、いま、20世紀をふりかえり21世紀の入り口に たつ私たちが、もう一度、志しをあきらかに見つめ直さなくてはならない『20世紀の忘れ物』への示唆に富んでいる ように思われます。大きな政府のもとで、今、個性と自立が問われる私達日本人。かつて、その規模が如何に小さくても、 人的結合の緊密さと確固たる技術をもってすれば、どのような荒波も押し切れる自信をもって大きな希望とともに 日本が邁進した時代がありました。グローバリズムが進むほどに、日本という国、日本人という国民がどのような 方向に進んでゆけばよいのか、混迷の時代といわれる現代に私達が複眼的に見つめることが求められる『和魂洋才』。 戦後、欧米の先進的な基礎技術を導入し、あらたに独自に科学技術立国日本をめざした視点のなかにも、わが国固有の 失われることのない精神と愛情が、20世紀なかばに起草された井深氏の事業設立の志しには読み取ることができます。 真面目ナル技術者ノ技能ヲ、最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設 日本再建、文化向上ニ対スル技術面、生産面ヨリノ活発ナル活動 各方面ニ非常ニ進歩シタル技術ノ国民生活内ヘノ即時応用 諸大学、研究所等ノ研究成果ノ内 最モ国民生活ニ応用価値ヲ有スル優秀ナルモノノ迅速ナル製品、商品化 無線通信機類ノ日常生活ヘノ浸透化並ビニ家庭電化ノ促進 通信網ノ復旧作業ニ対スル積極的参加並ビニ必要ナル技術ノ提供 新時代ニフサワシキ優秀ラジオセット製作普及並ビニラジオサービスノ徹底化 国民科学知識ノ実際的啓蒙活動 今を生きるものは、いつの時代も未知なる創造への挑戦を以て、人々の暮らしの文化向上をめざし、精神的豊かさへの 取り組みに最大発揮を志すことを忘れてはならない決心が力強く明示され、例え、この文面を日本の21世紀の文化復興の 設立趣意におきかえてみたとしても、今もって新たな燦めきを放つように思われます。 では、テレビやラジオ、自動車も日常生活に普及していなかった昭和二〇年代の「新時代にふさわしい優秀ラジオセット に替わるもの」は、果たして、今、21世紀という新しい世紀にむかう中で、何がそれにあたるのでしょうか。 その未知なるものへの視点が今後の私たちの進むべき道を照らし出してくれるヒントになるかもしれません。 日常生活のなかで、携帯電話を誰もがパーソナルに手にし、インターネットで世界中の情報を瞬時にして呼び出し、 受信発信することが可能になった時代。誰もが気軽に海外に旅行し、国と国の距離がさらに近づいたかの ようにみえる今、さらに数年後には、地球外の宇宙空間で、日本を含め10数カ国の国々が協力協調し共同で建設を すすめる国際宇宙ステーションが稼働をはじめる時代に、私たち日本文化の復興がなされるべきここで喩えられる 「国民科学的知識」とは、果たしてどのようなものなのでしょうか。 《科学がこころを耕すとき》 科学的な思考方法は想像力を必要とします。また同時に、訓練によって鍛え抜かれてゆくものでもあります。 それは私たちの学習成果を考える場合の最も重要な思考の原理原則をふまえているのではないでしょうか。 ある親しい宇宙物理学者は、次世代へのこころある言葉を語っています。「科学は、たとえ予想に反していても、 事実は事実として受け入れるように我々を励まし、また、仮説はいくつも用意しておいて、事実にいちばん合うものは どれかを見極めなさいと教えてくれる。そして、自分のなかでアイディアが出れば、それがどんなに奇妙なものであっても、 こころを開いて受けとめる一方で、新しいアイディアであれ、定評ある学説であれ、とことん疑ってみるように強く 迫るものだ。こうした思考法は、めまぐるしく変化する時代の民主主義にとっても欠かせない道具になってくれるだろう。 科学が自然に出会うとき、そこにはいつも畏敬のこころがある。たとえどんなに小さなことでも、理解するという行為こそが、 壮大な宇宙に参加してそこに溶け込むための喜ばしい一歩なのだ。」20世紀、私達は、この『こころを耕す科学』を、 どこかで置き去りにしてきてはいないでしょうか。青年や青女、これからの子ども達に託すものがいまだ整理がつかないままに 新世紀を迎えているかのように思えます。「世界中の人達がじっくり知識を積み上げてゆけば、科学は、国や世代を超えた メタ理性とでもいうべきものに変わるだろう。英語の『スピリット(精神)』という言葉は『呼吸する』という意味の ラテン語に由来する。われわれが呼吸しているのは空気であり、どんなに薄くとも物質であることに変わりはない。 つまり『スピリチュアル(精神的な)』という言葉は、必ずしも物質(脳を構成する物質も含めて)以外のもの、 あるいは科学の範疇外のものを指すわけではないのである。科学は精神と矛盾しないばかりか、深いところでは精神性を 生み出す源なのだから。」この息の詰まった時代や人々を開放してくれるような風通しのよい『呼吸できる豊かな科学精神』 を、現代の私達はどれだけ理解し享受しているでしょうか。「人が空間と時間のなかで自分の位置を認識するとき、あるいは 生命の複雑さや美しさや精妙さを理解するとき、そこには歓びと謙遜が入り交じった感情が生まれる。それは、まさに 精神的としか言い様のないものだ。その感情は、マハトマ・ガンジーやマーティン・ルーサー・キングらの勇気 ある無私の行為を前にしたときに感じるものと何ら変わるところが無い。科学と精神性は互いに相容れないなどと考える ことは、どちらにとっても、百害あって一利なぁwVというべきだろう。考えることを教えない科学教育は、科学を 教育しているのではなく、単に従順さの教育をしているに過ぎないのだ。」 科学は学ぶことの精神、知ることの歓びを開発し耕してくれるものです。その科学の知によって豊かな精神が育まれる現場を、 私共は幸いなことにこれまで数多く目のあたりにさせていただきました。例えばそれは子ども達や親子の皆さんを 前に宇宙の不思議を考えるサイエンススクールを展開している現場です。自然現象の原理原則を確かめる身近な 科学実験を体験したり、宇宙という未知の空間を往還した宇宙飛行士の方々の体験談やスペースシャトルからの 美しいドキュメント映像にふれ、宇宙から私達が生活する地球を眺め、その位置を確認してみるという大局的な視座を明らか にしたとき、彼らの食い入るような瞳に宿るまっすぐな光は何なのだろうと、いつも深い感動を覚えます。数分のうちに、 彼らの情報を受けとめる身体の姿勢が変わってくるのです。そして、「何故だろう」「不思議だな」と感じるところから はじまる、科学の思考方法の第1歩を歩みだした彼らが、注意深く物をみて観察したり、話を集中して聴いたりすることから、 深くその知識や情報を身体の内側にまで浸透させてゆく様子がうかがえます。またそれは、誰かに言われて外側から 与えられてそうなってゆくという他律的なことではなく、本来生れながらに私達の細胞レベルにそなわっているようなものが、 求めていたきっかけにふれて、自然に創発してゆくような印象を覚えるものなのです。ですから、彼らに科学技術の 叡知の最前線の情報を提供した後、「質問や意見、夢がある人!」と投げかけますと、一同にばっと「はい!はい!」 とまっすぐに手が上がります。そして、その子ども達の直感的学習ともいえる率直な学習態度に接するほどに、 その声や思いやまなざしにしっかりと応えられる私達大人や環境装置が準備されていなくてはならないことを痛感する 次第です。 子ども達ひとりひとりのなかに潜む可能性から、私達大人は、いつでも学ぶべきことがたくさんあります。 私たちもかつては子ども時代がありました。忘れかけている、けれども忘れてはならない何かを思い出させて くれる瞬間がそこにはいつでも用意されています。 実際、その敬愛する子ども達の可能性や個性をまっすぐにのばしていってよいのだという承認と励ましを送るとともに、 次世代を担う子ども達のよりよい将来を考えるならば、彼らの将来の選択を可能にする知識と技術、能力を身につけさせる ことができる、こころを耕す苗床としての科学技術-知恵と道具の文化装置がなくてはならないことに思い至ります。 そして、それはとりもなおさず、私達大人が育った20世紀精神の忘れ物である『環境問題』や『少子高齢化社会』という 課題の解決の糸口となる知恵を手中にしてくれることにもなりうることでしょう。『いかに生きるか』ということを見つめる メタ理性を伴って、前時代的な想像力がつくりだした対立する日本の内と外、先進国後進国という概念や境界、 思想・哲学・芸術・宗教・科学といったさまざまな学際の細分化分断化を超えて、知とこころを耕し、新世紀創造を歓び とともに豊かに担ってほしいと願うものです。では、21世紀を目前に、現代の私達は、次世代に取り組むべきどのような 夢と創造を語れるのでしょうか。 《真面目ナル人々ノ技能ヲ最高度ニ発揮セシムベキ自由闊達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設》 日本には、いまや4〜5000を数える多様な種類の博物館が存在しています。歴史をひもとけば、明治政府による 近代国家体制の成立以降、殖産興業を国家目標の主眼にした日本において、博物館は啓蒙強化の装置として設置されました。 わけても第1次世界大戦後は、科学技術の重要性が痛感され、日本でも科学立国論が佐野利器らによってとなえられ 上野の科学博物館は1931年に建設されています。当時、市民に対して、実験の公開や野外観察会を催すなど、 当時としては他に類を見ない参加体験できる施設であったそうです。しかし第2次世界大戦後、敗戦を契機に、 民主的な憲法と諸制度が成立しましたが、科学教育を通して科学技術や工業技術の水準引き上げを目指す視点が重視され、 基礎的な物理学を学ぶ展示が、科学博物館や青少年科学館でおこなわれてきました。近年、コンピューターを 駆使した映像や高度な展示技術による大規模な展示を行なう大型科学博物館は多くありますが、しかしその中身が どのようになっているのかは見え難いものとなっているブラックボックスに近いものも多く見られ「何故だろう」 「不思議だな」という素朴な感覚から、自らの経験に持ち,込めるものは非常に少ないと言えます。もっと知ってみたい という知的欲求を開発する配慮が行われているかというと、問題点も多くみられます。まず徹底した子どもの学習の視点に 立った博物館展示がなされておらず、科学とその技術の進歩をしめすにとどまっていること、もしくは子ども向けに 幼児化し、曲言してしまったゲーム性や娯楽化を追求するような商業的展開があることはとても残念なことです。 「なぜ」ということを問いかけながら、親と子が博物館で一緒に学び対話することの意味や、学校教育と地域の博物館の ありかたを見つめ、青少年の理科離れに危機感を抱く前に、子どもが遊びながら科学への興味をかきたてる装置としての 博物館づくりが目指されなくてはなりません。多くの博物館は、最も大切な観客としての子どもを無視している としかいいようのない罪作りな展示を未だ展開しているところが多く見受けられます。学ぶチャンスを提供する場 でありながら、説明パネルひとつを見ても、子どもの感覚や学習発達を考慮した知識を視野に入れた手当てがまったく なされていません。これでは情報は伝わりません。伝わらないどころか、興味を持ってでかけてきた子ども達に、 「わからない」「つまらない」という自身のサイズからかけ離れた不満と失望を持ち帰らせるようなことがあったとしたの なら、次世代をささえる原動力を失ってしまう大きな損失です。彼らはもう戻ってこないでしょう。 今、欧米の恒久的にすぐれた科学教育を展開している施設と日本のそれとの比較をしたならば、『文化』に対する愛情と 敬意の不足が露呈されるでしょう。私達の『文化』とは、何でしょうか。文化という「カルチュア」は、ラテン語の 「カルティベート」という「耕す」という語源をもっています。今、私たち日本人の『耕すべき文化』とは何でしょうか。 清潔で物質的快適を目指し24時間商業施設が開店している便利な都市生活のなかで、今を生きる私たち日本人が 追い求め導かれてきたこと、そして、これからも社会から学習し、習得してゆくべきものは何なのでしょうか。 さまざまなメディアにさらされて見えにくくなっているものものの中で、私たちが感じて動きだし語り継いでゆく 『文化』を、今、確かめなくてはなりません。例えば、日本では、博物館活動を財政的に支える財団や企業が、 欧米に較べてまだ未成熟ではないかという意見があります。博物館支援に対する税負担の軽減などの処置が十分でないこと にも関係して、こうした面の発展を妨げていることは、欧米のかわらぬ文化啓蒙をみても悲しむべきことです。 経済泡沫な時代には、企業の文化支援(メセナ)行為が成立しても、不況を迎えた途端、よき文化活動が成立しなく なる日本の貧弱な文化装置を、今、この21世紀に新たに変革できるでしょうか。例えば欧米のドネイション制度を参考に、 もっと国民の文化への善意が注がれやすい環境装置とその掲揚を実現できないものでしょうか。日本では、コレクターや ヴィジョナリーに対してあまり敬意を払わない傾向があります。寄贈者や創設者に対する敬意は後の代にまで語り継がれ、 その志しが伝わる装置の中でこそ、人が人のもたらす愛情に育まれ、その愛情を受けた人はまた自分が受けた愛情を 次世代に語り継ぐという文化遺伝子が、安心して必然連鎖してゆくはずなのです。それは、本来、人の生命の遺伝子が 愛情に育まれて幸せとともに豊かに受け継がれてゆくかのようでもあります。 誰もが21世紀の文化創造に夢と希望をビジョンして語ることを許されるのであれば、私もぜひ試みてみたいと思います。 それは、科学の知識と技術がこころを耕すユニバーサルな『21世紀世界の時間+空間をつなぐ4次元型 アート&サイエンス文化装置』の設立です。それは、謙虚な文化輸入と真摯な平和外交を礎にして、勤勉な日本人が、 知ることの歓びを謳歌しながら、洋の東西文化を通観し、時代を眺め渡しながら、普遍的な知の情報資産を再編集し、 地球上のすべての次世代を担う子ども達のために、わかりやすく知識と技術の優れた学習装置を再加工し、送りだして ゆく無国籍でユニバーサルな生産工場です。 そこには20世紀までの産業遺産と21世紀の先端のテクノロジーを通じて、老若男女は自らの体感を通じて English translation to come soon. |
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