このホームページのタイトル「Quest for Utopia(ユートピアを探し求めて)」はカール・ポパー(Karl R.Popper)の自叙伝「果しなき探究」(UNENDED QUEST)にちなんでつけたものです。彼は何かを求めていたのでしょう。私にも求めているものがあります。それは、真実、幸福、ユートピアといったもので、それを探し求めることは、私にとっての果しなき探究となるのです。
人は誰でも自分の幸福や存在意義、世界の真理といったものを追い求めるものです。学主時代、私は正義とは何かということを知りたくて法哲学を学びました。そして、私は、新カント学派の書籍を読み漁り認識論について研究しました。私たち人類は、真理とは一体何なのか知り得るのだろうかとか、もしかするとこの世は、相対的なものであって、自分の目に映る世界と他の人に見えている世界は違っているのかも知れないなどと思ったものでした。私たちには、「物自体」を見ることはできないでしょう。でも、私たちの目に映る世界は本当の世界を正しく反映しているのでしょうか。当時、私は、究極の真理とは何かとても知りたがっていました。その一方で、私はそもそも真理なんて存在するのだろうかと思ったりして、存在論と禅仏教の勉強を始めました。そして、研究すればするほど訳が分からなくなってしまいました。そんなとき、「もし、仮に神がいればすべての質問に答えてくれるだろう」と思ったり、また、「神なんて存在するのだろうか、神様がどうのこうのなんていう議論は現実逃避ではないだろうか、神という概念なんて人間の想像の産物に違いない。」などと思ってみたりしました。しかし、内心では、決して神の存在を否定することなどできないことを十分わかっていました。なぜなら、イエス・キリストやお釈迦様などといった人類に現れた偉大な精神的指導者たちは決して愚か者ではなかったことを十分に知っていたからです。時が経つにつれて、私は、そもそも真理を言葉で表現することはできないのではないかと思うようになりました。
人間が魂と肉体の二つからできているかどうかという身心二元論について哲学者たちは昔から議論してきました。ある哲学者は人間は魂と肉体からできていると主張し、また、ある哲学者は魂なんて存在せず、人間は身心一体であるとする一元論を唱えてきました。ソクラテスは、魂の不死を証明しようとしましたが(プラトンの対話編 例、パイドン(PHAIDON76C-77D))、他方、なかには心や感情の根源は、脳内の化学変化によるとさえ主張した者もいました。今日では、脳死をもって人の死であると言って憚らない医学者もいます。そんなことが真実であると心の底から納得し、信じられますか。私には、そんなことを真実として受け入れることはできません。
多くの偉人たちが神の存在を証明しようとしてきました。例えば、アイザック・ニュートンが引力の法則を証明したのは、神の創った世界が完璧であることを示そうとしたからであったし、アルバート・アインシュタインが量子力学が不完全であることについて批判的であったのは、神が不完全な世界を創るわけがないという理由からでありました。
芸術分野は私にとって苦手な分野ではありますが、思うに、芸術もまた真理への道の一つでありましょう。芸術家、音楽家、文学者たちの多くが神の臨在を感じたことでありましょう。
現代の心理学者たちは、心の起源について論じようとしません。しかし、そのなかにあってカール・ユングだけは「集合的無意識」や「シンクロニシティー」について語り、宗教的なアプローチを示しました。私は、アブラハム・マズローやジョセフ・マーフィーの業績を高く評価したいと思います。マーフィーは、「なぜ、悲しんでいる人と幸福な人がいるのでしょうか。なぜ喜び繁栄している人と貧しくみじめな人がいるのでしょうか。なぜびくびく心配している人と信念と自信に満ちた人がいるのでしょうか。」などと問いかけ、「 このような問題に対する答えが、あなたの意識する心と潜在意識の働きの中に見いだされるでしょう。それは確かに見いだされるのです。」と自ら答えています(眠りながら成功する(THE POWER OF YOUR SUBCONSCIOUS MIND))。トランスパーソナル心理学者のケン・ウィルバーは、意識にはレベル(意識のスペクトル)があることを認めています。彼は、人間は意識の進化(evolution)と深化(involution)を通じて神を目指すと「アートマン・プロジェクト」という言葉を使って説明しています。彼は、悟りにも興味を示していて、心理学と宗教との間を架橋しようとしています。しかし、私の関心事が神の存在と輪廻転生の有無であったにもかかわらず、彼は神の存在については言及しようとはしていません。私は、新興宗教の書籍もけっこう読みましたが、結局、わかったことといえば、新興宗教の教祖たちには神のことなどわからず、私たちがどちらの方向へ進むべきかも示してくれませんでした。
今世紀、マルクス主義は、その動的理論のゆえに、私をも含めて多くの若者をひきつけました。しかし、今、私は、マルクス主義には、その弁証法的唯物論に弱点があったことを指摘しておきたいと思います。弁証法的唯物論は認識論であり、マルクスは弁証法的唯物論を歴史の理論に適用すべきでなかったと思われます。マルクスは、ヘーゲルの弁証法は逆さまであると主張しましたが、しかし、後の哲学者たちが指摘したように、逆さまであったのはマルクスの弁証法のほうです。(ここでは因果律の議論は省きます。)史的唯物論から客観的な認識を導くことはできません。そして、史的唯物論から常に最良の社会経済政策を導くこともできません。ソ連邦・東欧諸国の崩壊は、共産主義の哲学が貧困の分配であり、それに対して資本主義の哲学は富の分配であることを示しています。結局、マルクスは私にユートピアを見せてはくれませんでした。マルクスは「フォイエルバッハに関するアンティテーゼ(THESES ON FEUERBACH)」のなかでこう書いています。「哲学者たちは世界をさまざまに解釈したにすぎない。大切なことはしかしそれを変えることである。」 「・・・・世界を変える?」そう、確かに彼もまたユートピア社会を夢見たことでありましょう。そして、この言葉が私の目を学問の世界から社会へと向けさせてくれたことも事実です。しかし、いま、私はこのように提唱したい、「心を変えよう、そうすれば社会が変わる。」と。
デカルトは彼の書籍の中で「我思う、故に我在り(Cogito, ergo sum)」と書いていますが、私は「神念う、故に我在り」と言いたいと思います。
ケン・ウイルバーは、人類がアメーバーから進化してきたとすれば、人類は神を目指して進化すると主張していますが、私は、人類は神(仏)の子であるからこそ、神を目指し、悟りを求めると信じています。
相対主義者あるいは多元主義者たちは、価値判断に対して厳格な立場に立ち、学問的中立という名目で価値判断を下そうとはしません。私は、彼らが事実判断から価値判断を導き出すことは不可能であると主張しているのは重々承知していますが、しかし、彼らの態度は、学問ひいては真理の探求に対して無責任であると思っています。彼ら相対主義者たちは、天地創造という考え方についても単純で馬鹿げていておとぎ話だと見なすかも知れません。いやむしろ、天地創造を馬鹿げていると考える方が易しいことでしょう。しかし、たとえどれだけ素朴に思われても、天地創造という絶対的真理は自ずから明らかになるでしょう。
私の結論としては、人間はあの世からこの世に生まれてきて、死とともに魂が肉体から離れあの世へ帰る。世界について説明するとすれば、簡単です。「神がすべてのすべてを創造された。」
ユートピアという言葉は、トーマス・モアによる造語で、「どこにもない場所(ου τοποs)」という意味です。イマヌエル・カントは永久平和について、それが実現されるべきであるからこそ実現可能であると説きました。私は、ユートピアの実現は可能であると思います。それは、実現されるべきであるからと言うだけではなく、この世はあの世の反映であって、あの世は真実の世界でありユートピアであるからです。私たちが協力さえすれば実現できます。それは神仏の御意志でもあります。マルクス主義者たちは環境は人の意識に影響を及ぼすものであり、神仏などいないと主張しますが、しかし、私は、人の意識は周囲に影響を及ぼすものであり、また、神仏はすべてをご存じでいらっしゃると思っています
。
まず初めに、神仏の御光を自らの内に見出しましょう、そうすれば自分自身の中にユートピアを見つけることでしょう。私たちは神仏の御意志に沿った生活を求めるべきです。私は、世捨て人になるつもりはありません。社会の中で活躍するいわば偉大なる常識人を目指します。社会全体、世界全体の公的幸福を実現させましょう。それは個々人の私的幸福が実現されてこそ実現できるのです。
私たちは、青い鳥を求めてあちらこちら探し回るものですが、なかなか見つからないものです。自分自身の中以外には青い鳥を探し出すことはできないでしょう。つまり、私たち自身の外のあらゆるところをどれだけ探してみても、私たちの心の中以外には幸福を見つけだすことはできないのです。しばしば、私たちは、自分自身をごまかして自分が幸福であると信じ込もうとさえします。私たちは、心の表面では恋人や息子、娘、仕事や財産などといったものに生き甲斐を見出すものですが、しかし、心の底をよく見て見れば私たちの魂は、私たちが幸福であるか否かを知っているものです。
いったい、人間とは何ものでしょうか。私たちの肉体や魂はどこから来るのでしょうか。私たちの魂の起源は何でしょうか。私たちの死後、私たちの心はどこへ行ってしまうのでしょうか。人間にとって幸福とは何でしょうか。幸福とは、人類にとって見果てぬ夢なのでしょうか。究極の幸福を実現することは不可能なのでしょうか。
神と魂の輪廻転生を前提にしなければ、誰もこれらの問いに答えることはできないでしょう。神はこの宇宙を、地球を、人間を含めた地上のすべての生き物を創造されました。人間は、魂の世界すなわちあの世からこの世に生まれてくるのです。この説明は、陳腐に思われるかも知れません。しかし、いったい誰が他の答えを提示できるでしょうか。
果てしなき探求 その2
果てしなき探求