過去、多くの神学者や哲学者が神の存在を証明しようと試みてきました。彼らは、レトリックを駆使しながらも、結局は、宇宙や私たちの生命の起源について誰も説明できないという理由から、きっと神がいて宇宙を創造されたのだと結論づけています。既に幾人かの哲学者が気づいていたことですが、私たちの思考作用の限界について触れておきたいと思います。私たちは、どの言語で考えるにしても、言葉を使って考えなければなりません。しかし、言葉はこの地上の3次元に属するものです。他方、神は私たちより高い次元の存在であり、神は私たちの思考を超えた存在です。
私たちは地球の表面を表すために、地球儀や地図を使用します。地球儀は球体で、地図は平面です。地図には、メルカトール図法、ランバート正積円錐図法、等距離方位図法等々いろいろなものがあります。あるものは円形、あるものは長方形、またあるものは別の形をしています。それらは、それぞれ一長一短があり、あるものは面積が正しいが方位が違うとか、地図の中心からの方位と距離は正しいが形が違ったりしています。球体である地球の表面を正しく平面に表すことはできません。そもそも、3次元の球体を2次元の平面には表現できないのです。
このホームページの読者の中には、ユークリッド幾何学の「平行線公理」(「平行線が交わることはない。」)がユークリッド空間では成り立つが非ユークリッド空間では成り立たないことを思い浮かべる人がいるかもしれません。アインシュタインは、私たちが住む時空間の性質はユークリッド空間よりも非ユークリッド空間であるとした方が合理的であることを相対性理論で示しています。)
まさしく同じように、神の愛について、いくら言葉を重ねたところで完全に表現することはできません。なぜなら、それは、高次元の神の領域に属すものであり、他方、私たちが使用している言葉は地上の3次元世界に属するものだからです。そして、私たちが、神、真実、悟り、幸福と呼んでいるものは、同様の理由から言葉で完璧に表現することは不可能なのです。私たちは、「愛は情熱である。」とか、「愛は愛情である。」、「愛は力である。」、「愛は盲目である。」などと言うことがあります。しかし、どれだけ「愛」について説明しても、それらの言葉は「愛」そのものを説明するには十分ではありません。そこで、「愛はすべてである。」などと言わざるを得ません。しかし、その「愛はすべてである。」という言葉自体が、言葉では愛を完全に言い表すことができないということを示しています。
愛の本質は何でしょうか。しかし、愛が何であるかを言葉で説明することができなくても、私たちは、人を愛するし、愛したり愛されたりしたこともあったはずです。神を言葉で説明できなくても、神の臨在を感知することはできるのです。私たちは、怒りとか悲しみの感情を言葉で説明できなくても、時には怒ったり悲しんだりするものです。私たちにはこれらの感情が元来何なのか言葉で説明することはできません。言葉は、所詮、言葉であり、他方、「愛」は「愛」なのです。私たち人間には、言葉で表現することはできないが心で感じることができる何かがある故に、歴史上、様々な哲学、文学、思想、芸術を生み出してきました。神の存在を言葉で表現することはできません。しかしそれ故にまた、信仰の存在する余地があるのです。それは、高次元への扉です。私たちは、信仰を持っている限り、たとえ神について言葉で説明できなくとも、私たちは神の臨在を魂によって知ることができるのです。信仰によって、目の前に高次元への扉が開かれるのです。
人類の歴史上、様々な文化、習慣、道徳、倫理が興り、各時代、それぞれの社会を規律してきました。それらの道徳律は、普遍的な規範ととそうでないものが含まれていました。旧世代と新しい次世代は新しい習慣や道徳ためにぶつかり合い、そして、伝統的な規範は時代とともに新しいものに置き換わってきました。私たちは、普遍的な規範とそうでないものを区別する基準を持ち得なかったが故に、道徳に関して多くの議論がしばしばなされてきました。普遍的な道徳律か否か、それは規範が高次の神の次元に由来しているかどうかという問題であります。
たとえば、交通法規は、行政技術的便宜的な規範であり、この地上の三次元的世界のものであり、神が自動車は右側通行すべきか左側通行すべきかといったことを決めないだろうことは誰もが同意するでしょう。他方、「汝、殺すなかれ。」、「汝、盗むなかれ。」などという規範は普遍的規範であり、いつの時代、どの場所でも妥当性を持ってきました。
カントの「黄金律」は、普遍的規範の一つであるものの、小さな地域社会の中だけで暮らしていた人々には妥当性があったかもしれません、それは今でも妥当性があり、修得し実践すべきです、しかし、世界中を股にかけて活動する現代人にとっては、それだけでは妥当性が十分とはいい難くなってきています。文化の違いは、しばしば民族間の衝突をあちらこちらで引き起こしています。それぞれの習慣にはそれぞれの民族にとって存在理由があるにも関わらず、人々は、他の習慣に普遍的合理性を見出すことができません。
神は、交通法規など私たちが日常生活において守るべき法規についてのすべての問題に答えるわけではありません。この点を見落とすと原理主義に陥ってしまいます。
現代の倫理学者たちや哲学者たちは、認識論から形而上学を排除しようとする傾向があり、「論理実証主義」のように論理学に近づこうとしています。しかし、認識論から形而上学を排除しようとすることは、倫理学や哲学にとって自殺的行為であり、それはそれら学問の使命を放棄することを意味するものです。より高次な神の次元に由来する普遍的規範と、3次元的世界の規範を区別することは、私たちにとって非常に困難なことです。それ故、価値相対主義と絶対主義が、プラトン以来あるいはそれ以前から議論されてきました。しかし、もし、哲学者たちや倫理学者たちが形而上学を排除しようとすれば、彼らは決してより高次な神の次元に由来する普遍的規範を見つけることはできないでしょう。
この世とあの世は相互に影響しあっているのですから、哲学者は、形而上学と取り組むべきです。
たいていの人は、イエスの教えや仏陀の教えは尊いものであることを認めるでしょう。誰でも、自然の美しさ、ダイヤモンドの輝き、母親の子への愛情、そよ風の心地よさは知っております。この世には、良いものと悪いもの、徳高いものとそうでないもの、正しいことと間違ったこと、公正なこととそうでないこと、意味あることと意味ないことが必ずあるのです。私たちはそれらを注意深く判断し、見分けるようにしなければなりません。もし、教養ある人が、良いことと悪いことを判断しようとするときにその人の知識が邪魔になるようであれば、その人の知識は不毛なものと言わざるを得ません。あらゆる学問の使命は人類の幸福に寄与することです。ならば、現代の学識ある人々は価値基準を提示すべきです。価値判断することを恐れてはいけません。
実は我々になにも知り得るものでないということがわかっている。
それを思うと、ほとんどこの心臓が焼けてしまいそうだ。
(ゲーテ 「ファウスト」より)
私が学問の世界に浸かっていた20代の頃、「ファウスト」のこの一節読んだとき、まさしくその通りだなと思いました。私は、学問に没頭していましたが、その知識が私を救うということはありませんでした。知識は私を高慢にすることはあっても、それで賢くなったり、幸せになるということはありませんでした。知識だけでは、私たちが幸福になるには十分ではありません。たとえ頭が良くても、それは幸福とは関係ないのです。というのも、幸福とは頭脳ではなく心に関係することだからです。多くの人々がこの点に気付いていながら、どのような心を持てば良いのか、心をどのように統御すればいいのか分かっていません。
私たちが幸福や真理を探求すべきところは、外の世界ではなく内なる世界です。私たちは、自分の潜在意識が不幸を愛してそれを抱きしめていないかよく点検してみる必要があります。幸福は日常生活の中以外には無いのですから、どのような心が日常生活を支配しているかをはっきりとさせなければなりません。
幸福になるか否かは、第一に、私たちが本当に幸福になりたいと思っているかどうかにかかっています。第二に、私たちにとって本当の幸福とは何かが、分かっているかどうかです。第三に、幸福になるためには何をすべきかが、分かっているかどうかです。そして、第四には、実際に幸福になるための努力をしているかどうかです。
私たちは、自分はこうであると思っているようになるものです。ですから、幸福になりたいということをはっきりとさせることです。自分自身に自信を持ち、自分の心を耕しましょう。積極的な考え方をし、悪影響を避けるため悪霊を遠ざけよう。きれいな心を持ち続け、仏の光を受けよう。私たちは仏の子であり、仏は、私たちに光を与え、希望を与えてくれます。仏は、いつも私たちの側にいらっしゃいます。
果てしなき探求 その1
果てしなき探求 その3
果てしなき探求