果てしなき探求 その4

学問方法論について 1

 すでに述べたように、3次元の球体である地球の表面を正しく2次元平面である地図に表すことはできません。同様に、私たちが、神、真理、愛、悟り、幸福と呼んでいるものは、高次元の神の領域に属すものであり、私たちが使っている言葉は地上の3次元世界に属するものですから、言葉をいくら重ねたところでそれら神、真理などを完全に表現することはできません。
 みなさんの中には、人間の認識力が如何に限られたものであるかを示すものとして「盲人と象のたとえ話」という示唆に富んだ話しを聞いたことがあるかもしれません。

昔、インドパキスタン地方のある王様が6人の盲人に象を観察して報告するように言いました。盲人たちは、各々象の異なる部分に触りました。ある者は象の耳、ある者は鼻、というふうに足、尻尾、牙、横腹に触り、それぞれ異なる報告をしました。「象は団扇のようだ。」、「象は蛇のようだ。」、「象は木のようだ。」、「象はロープのようだ。」、「象は槍のようだ。」、「象は壁のようだ。」と。

「この象と盲人」の寓話は、私たちの感覚や認識が限られたものであることを教えてくれるもので、わたしもそう思います。しかし、「地球と地図」の例えで私が意図したことは少々異なります。私の視点は他次元世界にあります。象と盲人の寓話では、仮に王様が盲人たちに象の表面を全面的に触らせて報告させれば、王様はその報告を総合して立体的な象の姿を想像することができます。しかし、地球の表面を平面的な地図に正確な形、面積、方位、距離でもって描くことは、しようとしてもできません。象と盲人の寓話が同じ3次元上のことであるのに対して、地球と地図の例えは次元が異なるからです。

 つまり、象と盲人の例えはどちらも同じ3次元世界のことであり、盲人の話を基礎に象の姿を王様の3次元的な認識能力で把握することは可能です。しかし、私の例えで示したように、高次元に属する真理(神、愛、悟り、幸福)を我々の3次元的な認識能力で理解し表現することは原理的に不可能です。
 もし仮に、王様が、象はヒラメのように平面(2次元)的な動物であるという先入観を持っていたらどうなるでしょう。「耳」の部分を触った人からの「象は団扇のようである」という報告は、容易に理解できます。しかし、他の様々な部分を触った人からの報告を総合して平面的な一つの動物にまとめることが果たしてできるでしょうか。少なくとも、象がヒラメのように平べったいものであると思っている人には、立体的な姿を思い描くことはできないでしょう。同じようなことが、我々が真実を理解しようとするときに起こっているのです。
 かつて、ナポレオンは、地球が球形であるという前提(仮定)の下に地球を技師たちに測量させてメートル法を制定しました。地球の姿を正しく捕らえられるようになったのは、大航海時代以降のことであります。18世紀当時の科学者たちは地球の大きさを4ないし5パーセント内の誤差で知っていたましたが、地球の正確な形が完全な球形ではなく、西洋なし型であることがわかったのは人工衛星の軌道観測をするようになってからのことでした。もちろんそれは、きわめて困難な作業でありましたが、しかし、それは地球も測量技師たちも同じ3次元世界の存在だからこそ、ナポレオンは測量させ、メートル法を制定することができたのです。同次元においてすら、困難なことなのですから、高次元のことを把握しようとなると、現代の科学水準における学問方法論や思考方法では非常に困難なのです。

学問方法論について 2

 学問の方法論では、推論のプロセス自体が議論されています。自然科学の領域でさえ様々な観測、仮説、実験の方法論が議論の対象であり続けてきましたのですから、哲学、宗教の分野では、さらに困難な問題が潜んでいます。

どれだけの観測点が必要かという点


 たとえば、王様が盲人たちに指示したとき、もし象が未知の動物であった場合、象に触れさせて象の全体像を描くのに何人の盲人が必要であったかという点。たとえ王様が何人の盲人たちに象に触れさせても、象の全体に触れたという確証を得ることは困難であったに違いありません。同じような理由で、気象観測地点が年々増え続けていたり、各種経済社会統計データの項目が統計を実施する度に増えています。
 真理を悟るためには、何冊の書籍や教典類を読めばいいのでしょうか。全ての古典、名著を読むことが不可能であることはご納得いただけるでしょう。どれだけ書物を読んでも真理を知り得たという確証を得ることはないでしょう。一つの理由は、書物を読むことだけで真理を得ようとすることは、高次元のことを3次元世界において把握しようとすることだからです。真理とは、知識を得るだけはつかむことができず、智慧と愛を基にして自分自身の心を見つめ、実践を通して体得していくものなのです。

観測されていない部分をどのように推量するかという点。


 また、象の触れられていない部分をどのように推量するかという点。たとえば、象の足について3本は報告されていた場合、残りの足についてどのように推量するかという問題です。現代の統計学でパラメータが多くなれば多くなるほど、その「解」は無難でありますが、しばしば政策決定には役に立たない「解」であったりしています。一方、現代社会はあまりに複雑であり、一次方程式で社会現象を解析するようなことはできません。
 聖書や仏典などを読んで、原理・原則は、十分理解したつもりであっても、実際には、日常生活においてどう日々過ごしていくべきなのかはなかなか分かりづらいものです。愛が大切であることはわかっても、では今日何をすべきなのか。仕事と家庭のバランスは、どうすべきなのか。日常生活での問題は山積です。教典は、日常生活のすべてに関して書かれているわけではありません。たとえ守りべき戒律があったとしても、現代の生活様式は教典が書かれた当時とはずいぶん異なっています。例えば、禁酒などは教典に書かれておりますが、禁煙については、何も書かれていないでしょう。それは、教典が書かれた古代社会に煙草がなかったに過ぎないのです。

推量が正しいかどうかの確認方法


 象についての推量が正しいかどうかどうのようにして確認するかという点。象についての報告をまとめて一つのイメージが得られたが、まだ、報告のない部分についての推量が正しいかどうかをどのように確認できるでしょうか。物理学では、仮説に基づいて繰り返し実験できます。しかし、政治学や経済学などでは、仮説に基づいた実験が致命傷になりかねません。
 間違った宗教に入信すれば一生が台無しになりかねません。かといって通常は自然科学のように実験して試してみることもできません。多くの人は、ここで躊躇してしまうものです。それは、自然科学以上に原因と結果の因果関係を把握することが困難であるためです。また、原因、結果といっても単にこの世における原因結果だけでなく、この世と高次元世界との間にも因果律があると思います。私たちが神にお願い事をしたり、祈ったりするのは、この世と神がいる高次元世界との間の縁起の法を前提にしてのことです。

理論の有効性−適応範囲


 象の足について3本の存在が報告されているとき、4本目の足についての存在は容易に推量でき、その存在を確かめることも容易でありしょう。4本目があるであろうところに盲人を行かせて触らせればいいのです。しかし、象の頭部について確かめるには少々異なる方法が必要です。象は背が高い動物ですから、梯子を用意する必要があるでしょう。

 科学者たちは、普遍的な自然法則を探求してきました。それにも関わらず、全ての科学理論には多かれ少なかれ限界又はいわゆる有効射程距離とも言うべきものがあります。それらのいくつかは、普遍的で観察、仮説、実験、現象の分析にたいへん有用です。また、そうでないものもあります。

 例えば、普遍的な自然法則の一つであり、物理学ではたいへん有用なニュートンの法則をご存じでしょう。人工衛星の打ち上げにはニュートン物理学で事足りますが、惑星間の動きを解析するには役不足です。科学者たちは、天体観測をするときに、光が重力によって曲がる(空間が曲がる)ことを考慮に入れなければなりません。また、天体力学を論じるときには、相対性理論を無視できないのです。もちろん、ニュートンが間違っていてアインシュタインが正しいなどと言うつもりはありません。両方とも正しいのです。問題は適用範囲です。他方、科学理論のあるものは限定的で、適用範囲も広くありません。特に実験方法は、すぐに時代遅れになります。

 話変わって、多くの教祖たちが普遍的な教えを説こうとしてきました。しかし、彼らの教えには、彼ら各々が生きていた時代の制約があり、彼らの教えは、部分的に時代遅れとなり、次第に救済力を失ってきました。宗教にも世界宗教と各地域の宗教があります。前者は普遍的な教えを持ってので世界に弘まったキリスト教や仏教であり、後者は様々な民族宗教に留まったもので、教えが普遍的でなかったり、また、あるものは儀式があっても教えがありませんでした。やはり、宗教にも有効射程距離というべきものがあり、普遍的なものとそうでないものがあります。過去二千年間あるいはそれ以上、キリスト教と仏教は、普遍的な世界宗教でありました。


果てしなき探求 その3
果てしなき探求 その5
果てしなき探求


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