果てしなき探求 その6

「進歩」と「調和」、「自由」と「平等」

 この宇宙を統べる法則は、「進歩の原理」と「調和の原理」です。この二つの法則は、現代の政治思想を理解するための鍵ともなります。例えば、フランス革命以降の現代政治をリードしてきた二つの原理は「自由」と「平等」です。私見によれば、自由は進歩の原理に、平等は調和の原理に基づくものです。また、この二つの原理は、二つの経済システムを生み出しました。一つは資本主義(自由経済)、もう一つは社会主義または共産主義(計画経済)です。前者は自由の原理に、後者は平等の原理に由来するものです。資本主義は、個人の能力と人間の自由な活動を尊重し、生かすものですが、貧富の格差が生じる傾向があります。社会主義は、人間の平等を尊重し、貧富の格差が生じるのを防止しようとしますが、個人の自由が阻害されたり個人の能力を生かせなかったり、また、経済の停滞を生じさせたりします。

自由と平等は、フランス革命以来、憲法の基本的問題となりました。多くの政治家、法律家、法学者が自由と平等を調和させようと努力を重ねてきました。私たちは、誰でも自分自身の自由と平等を基本的人権として主張できることを当然のこととして考えてきました。しかし、今日、多くの政府にとって住民の基本的人権を調整するのがいろいろな場面で徐々に困難になってきていることを認めざるを得ません。様々な基本的人権や人権に基づく利害が、しばしば、あちらこちらで互いに衝突し、多くの場面で軋轢を生んでいます。例えば、自由な経済活動を主張する人々と生存権を主張する人々との対立、開発と自然保護、道路建設と立ち退き問題、自由貿易と保護関税といった利害の対立です。それらの幾つかは、個人の魂の傾向性に起因しているかも知れません。現在の状況からすると、それらを調整することができなくなるでしょう。

自由と平等の精神はアンシャン・レジーム(旧体制)を政治的に破壊し、政治的にだけでなく、経済的にも社会的にも世界を導いてきました。しかし、今日、この二つの原理が行き詰まっていることは明白です。この二つの原理は、次世紀には、「智慧」と「慈悲」という他の二つの原理に取って代わられるべきでしょう。智慧は、私たちを無明から解放してくれます。智慧があれば、あらゆる束縛から自由になることができます。自由を得ることは人間にとって権利ではなく、仏の子としての使命であります。仏の心は、人々を救済したいという慈悲の心で満ちています。そして、私たちも慈悲の心を持つべきでしょう。智慧と慈悲があれば、私たちは、お互いに理解し合い、無用な衝突を避けることができるでしょう。智慧と慈悲の精神は、私たちを新しい地平に導くことでしょう。智慧を得るためには、多くのこと、なかでも仏法真理を学ばなければなりません。慈悲とは、与える愛の実践し、寛容になり、人を許すことです。そのために、救世主が地上に下生され、福音を説かれ、また、多くの光の天使が遣わされたのです。

他の視点から見た「自由」と「平等」

人間は、誰もが同じ心の機能を持っており、心を自由に統御し、使うことが許されているという意味においては、平等であり「平等」という同じ法則の下に生きています。私たちは、良くも悪くもそれを自由に使うことができます。しかし、それをどのように使ったかによってその結果は異なります。もし、心を旨く統御できれば、良い結果が得られるでしょうが、できなければ良い結果は得られません。これを、「原因結果の法則(因果の理法)」ともいうことができるでしょう。
魂の世界では、努力すれば光の量が増し、怠ければ光の量が減少します。これは、明確な法則です。原則として、私たちには、進歩する機会は平等に与えられ、努力の結果に対しては公平に処遇されます。ですから、機会平等の原則は、努力の結果に対しては異なった処遇がされます。それが、公平なのです。
まわりのことに影響されながらも、私たちは、心の中外で起きたことに対して、絶えず自由に判断を下し対処することができるのです。そして、その結果に対しては、転生輪廻のなかで、必ず責任を負わねばなりません。ですから、誰にでも責任能力はありますし、仏神の下では自由は責任をともなうのです。それが、自由の意味なのです。カントはこのことを理解していたと思います。
結論としては、魂の世界では、個々の魂は、自由かつ平等ですし、そのように仏は魂を創造されたのです。この地上世界において、自由と平等がぶつかり合うことがありますが、あの世においては、自由と平等は両立し得るのです。自由と平等の相克は、次元構造に起因しているのでしょう。

学問の世界にルネサンスを!

このホームページ上で語ってきたこと、これから語ろうとすることは、必ずしも原典に当たり、厳密な推考を重ねたものではありません。
しかし、仏神の存在と転生輪廻を前提としたとき、認識論や存在論は見直されなければなりません。仏神や転生輪廻が真実であれば、もちろんそう信じておりますが、これからの数十年間ですべての学問は再構築されなければなりません。かつて私たちが失ってしまった信仰心を再びこの手に取り戻すことによって、様々な問題の解決の糸口が見つかるのです。

 西洋哲学の用語や学問体系は、アリストテレスが確立したと言われています。そして、アリストテレスは、師プラトンのイデア論を批判し、対象について語られることは知覚され得るこの世の現象界のことに限定されるべきであると主張しました。しかし、プラトンの世界観はもっと豊かなものであったばずです。
 カントは学問の対象を理性が捕らえることができる範囲に限定したかも知れません。しかし、今世紀になって、新カント主義者たちの議論では、カントのいう「純粋理性」で捕らえられる対象のみが学問で扱う世界となってしまいました。しかし、カントは信仰の余地を残していたはずです。 議論の対象となっていることが世界のそして宇宙のすべてではありません。言葉で捕らえられることだけを宇宙のすべてであると誤解すると間違えを犯すことになります。
ニーチェも東洋思想、特にゾロアスター教の善悪二元論へ傾倒しながらも、この世にもあの世にも厳然と善と悪が存在していることは認識していなかったでしょう。何しろ、彼にとって、「神という前提」や世界の宗教的、形而上学的解釈は耐え難いものでしたから。彼は、「神が死んだ」と結論付けました。彼は「超人」について語ったように、神を畏れることはありませんでした。そして、暗闇の淵に沈んでいったのです。
ハイデガーは、いかに私たちが日常性に埋没しやすいかについて教えてくれました。彼の思想は、私たちを人生において何かしなければと駆り立てます。しかし、何をすればいいのでしょう。彼は、人間存在や人生の使命についてまでは教えてくれませんでした。

私は諸学問が神学の下僕であるべきだとは主張していません。 諸学問が神学の下僕であるとき、学問の進歩は阻害されてしまいます。また、学問の対象となり得ることだけが世界や宇宙ののすべてであると誤解されるとき、学問は人間が生きていることの意義を見失います。学問は人類の幸福と進歩に貢献すべきものです。個々具体的な専門分野での議論は、それぞれの専門家の方に譲りたいと思いますが、いずれにしても、次世紀以降、学問の世界にルネサンスがやって来ることでしょう。
アリストテレス以来の学問の枠組みを、カント以降の'sein'(存在)と'sollen'(当為)の二元論を、マルクスの弁証法的唯物論を、ハイデガーの存在論をいま、私たちは大川総裁先生の教えによって超えようとしています。

この世しかないという仮説

学問には、仮説がつきものです。自然科学などは、仮説に基づく推論の提唱とその検証と反証によって進歩してきたようなものです。 賢明なこのホームページへの訪問者であれば、このホームページに書かれていることは、神を仮説し、あの世を仮設し、転生輪廻を仮説していると解釈されることでしょう。そして、それらの仮説を多次元宇宙という仮説によって一つの世界観に組み上げて、そして、進歩と調和という神の念いをベクトルにして時間を与え、動的理論に作り上げられていると。賢明な訪問者諸氏であれば、きっと学問に形而上学を持ち込むのは、近代哲学以降許されていないと感じることでしょう。
哲学の歴史は、あたかも焦点を森から木へ、幹へ、枝へ、葉へと絞り込んでいくうちに森を観察していることを忘れてしまうように、議論の対象を絞り込んでいくうちに哲学の目的を忘れてしまったように思われます。ギリシア哲学は「より良く生きる術」を学ぶものでした。しかし、現代哲学から「より良く生きる術」を期待する人はもはやいないでしょう。今日では、人々は人生に関する回答はむしろ文学や映画に期待しています。哲学者達は神やあの世といった検証できない仮説はすべて排除してきたようです。そして、哲学者達は神の概念やあの世の概念を哲学から排除することによってより精緻な議論をし、真理を求めることに特化したようですが、個人が幸福な人生を送るための真理であることを忘れたようです。

デカルトは、神の存在を疑い、最後には「我思う故に我あり」と言いました。他方、老荘思想家の荘子は蝶々になって心地よく飛んでいる夢から覚めたとき「夢から目覚めた後の自分が本当なのか、夢の中の蝶の自分が本当の自分なのかわからない」ということを言っています。デカルトは「考えている主体の存在」は幻想ではないと確信したのですが、荘子は「考えている主体の存在」を疑ったのでした。つまり、この世は確かな実体であるという近代哲学の前提こそが、一つの仮説であり、そして、そこに形而上学が無批判のまま潜んでいるのです。
あの世に実体があり、この世のことは仏神の念いによる物質化現象であるとすれば、カントによる「物自体」の仮説や、現代物理学者による素粒子の仮説は、その理論体系がこの世で因果関係が完結しており、不完全に思われます。あの世と転生輪廻を前提にしたとき、この世で因果関係が完結していると考えることは一つの仮説であり、一つの信条に過ぎないのです。しかも、その仮説はこの世とあの世の相互作用という点が欠落しているのです。
カール・ポハーの主張のように、どんな仮説を仮定するにしても、反証可能性のないことを仮定すると、学問としては成り立たないと思われる人もいると思います。 しかし、あの世がありこの世とあの世の相互作用が働いていると仮定することも、あの世はなくこの世の中で因果関係が完結していると仮定することもどちらも反証不可能なのです。また、あの世は見ることもできずあるかどうか確かめることもできないのだから、考慮する必要はないと考える人もいることでしょう。そして、だからこそ思想家達はあの世のことを考慮してこなかったと。それはもっともありそうな意見ですが、しかし、そもそも学問の歴史は人類が見ることも確かめることもできないことを悪戦苦闘して研究してきた歴史なのです。学問からあの世の概念を排除する理由はありません。現在のところ、あの世を見たり、その存在を科学的に確認することはできませんが、あの世を前提とした学問をうち立てることは十分に可能なのです。

(そして、付け加えて言えば、四正道(愛、知、反省、発展)を実践されれば、すぐあの世とこの世の間の相互作用を理解し確かめることができるでしょう。)


果てしなき探求 その5
果てしなき探求 その7
果てしなき探求 Vol.2


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