果てしなき探求 その7

実存主義は選択の自由に侵されている。

最古の原人もすでに道具を使用していました。一般的に、道具の使用が人類とその他の動物を分ける一つのポイントであると言います。
実存主義は、あらゆる道具はその「理念」が先にあって、その後にその「存在」がくると主張します。例えば、「机」は「人間がその上で作業をする平らな台」という「理念」が先にあって、そのあとに実際に人間によって「机」が木や金属などから造られると言います。そして彼らはさらに続けます。しかし、人間は「現実存在」が先に来ると、そして生きる目的という「理念」は個々人が自ら探さなければならないと。つまり、人間はこの3次元世界に投げ出された存在であると。
このような実存主義者の見解は、我々が自己と向き合う機会を与えますが、結局、我々を孤独と不安の淵に追いやるのみです。しかも、実存主義によっては、その孤独と不安、そして死に対する恐怖から人間を解き放す方策を明示できません。
しかし、大川総裁先生は説きます。人間は仏の念いによって永遠の命を与えられ、大宇宙の進歩と調和の中で魂修行という目的(理念)を持ってこの世とあの世の間を転生輪廻する存在であると。そしてさらに、この3次元世界における苦しみと向き合いながらもそこから抜け出す解脱の道を四諦(苦、集、滅、道)と言う明確な形で示されています。このような、霊的人生観からすると実存主義者は仏神を知らぬように思われます。誰が宇宙を創造されたのか、全ての存在の源は何か知らないようです。
私は、実存主義とは、選択の自由から逃れられないことによるある種の病のようなものだと思います。 産業革命以降、労働力確保のために、職業選択の自由が人々に与えられ、人々は都市に住み働くか農村に残るか選択できるようになりました。人々に様々な自由が確保されるようになってきました。その一方で人々は今までになかった選択の自由に悩むようになったのです。なぜ悩むか。それは選択の基準と選択の結果が分からないからでしょう。生きる理由がわからないのです。それゆえ、何を選択の基準にしてよいのかわからず、自己拡張や自己の欲求の満足のための選択をしてしまうのです。己の仏性を知らず、本当の自己実現を知らないがゆえに、自分のした選択がよい選択なのか悪い選択なのかわからないのです。実存主義はこの症状を如実に表している思想なのです。

信じることは知ること違う。

私たちは、見えないことを証明できないが故にそれを信じるのです。もし、見えないことを証明できるのであれば、私たちはそれを信じるのではなく、それを知るのです。かつて、無神論者の私の友人が、神やその力を証明できた人はいないが故にそれらは信じられないと言っていました。そこで、私は彼に「信じられない」とはどう意味かと尋ねました。なぜなら、もし何かを証明できるのであれば、私たちはそれを信じるのでなく、それを知るのですから。そして、私は彼に、果たして彼が何かを信じたことがあるのかどうか、そして仮に何かを信じたことがあればどうしてそれを信じたのかを聞きました。ちょっと間をおいて彼はこの世に生まれて以来、何も信じたことがないかも知れないと洩らしました。
つまり、信じているということと知っているということは明らかに異なるのです。しかし、また議論の余地があります。信じているということと知っているということは異なるという結論になるのですが、一方で、わたくしたちは、そのことについて日常、気にしていません。場合によっては信じているということと知っているということの間の関係は相対的あるように思われます。

ある哲学者が事実と真実とは違うと主張しているのを本で読んだことがあります。私たちは、空気が窒素、酸素、水素、その他の元素から構成させていることを知っています。空気が多くの元素からできているという事実をほとんどの人が証明できないにも関わらず、私たちはそれを真実であると信じていて、誰も疑いません。私たちは、科学者が何か現象を証明したということを学校で習ったり、本で読んだり、聞いたりしたという理由だけで、科学的知識を知り、それらを真実としてもっともだと見なします。しかし、仮にあなたが科学的現象を証明できないのであれば、知っているということと信じているということとの間に違いはありません。一体どのようにして、窒素の存在を未開の原始人に証明できるでしょう。それは、ほとんど不可能です。

もし仮にあなたが宇宙飛行士だったとして、宇宙から地球を見たとすれば、あなたは地球が球体であることを発見することでしょう。それは経験から得られた知識です。しかし、実際にはほとんどの人は宇宙へ旅行したことがありません。そして、人々はただ宇宙船から取れられた映像を見て、それを真実であると信じるのみです。 知識とは何でしょう。知識のあるものは人が経験したことです。またある知識は人が本やテレビから得たものです。私たちの知識のほとんどは人から聞いたり、マスメディア(新聞、テレビ、ラジオ、雑誌)が報道していることです。もし、マスメディアが報道していることを信じないという人がいたら、その人には一体どんな知識があるのでしょう。つまり、私たちか知識を得るとき、意識的にしろ無意識的にしろ他人が言ったことを信じるということを前提条件としているのです。

地球の表面の70%は海に覆われています。ですから、初のロシア人宇宙飛行士ガガーリンは地球は青かったと言ったのです。砂漠に住んでいて海を見たこともなく海のことを聞いたことすらない遊牧民が仮にいたとしましょう。もし彼がガガーリンの言ったことを聞いたとしても、地球が青いなんて言うことは信じないでしょう。何しろ、その遊牧民は砂漠しか見たことがないのですから。反対に、海辺に住んでいて砂漠を見たこともなく砂漠のことを聞いたことすらない漁師が仮にいたとしましょう。もしその漁師が砂漠や遊牧民のことを聞いたとしても、彼はそれを容易には信じないでしょう。彼には見渡す限りの砂があってそこに遊牧民が住んでいるということは想像できないでしょうから。
この世には信じられないことがたくさんあるにもかかわらず、一般的に言って、私たちは真実として受け入れられない真新しい考え方は無視したり、否定しがちです。このことから、個人の知識(どんな知識をどれだけ持っているか)が何か新しい考え方をその人が信じるようになるかどうかに影響しているということがわかります。このことは、もっともなことだと思われますが、他方で、豊富な知識が新しい知識を受け入れることの妨げとなってしまい、それを無視したり否定したりする人もいます。結局、その人が疑い深いかどうかにかかっている問題です。ある人が新しい知識を受け入れて信じるようになるかどうかは、その人の魂の傾向性とこの世においてどのような経験をしてきたかということにかかっています。
多くのキリスト教徒は転生輪廻の思想が聖書に書かれていないと言う理由だけでその思想を受け入れない傾向があります。酒を飲み過ぎることは伝統仏教の戒律に反することですが、タバコを吸いすぎることは戒律違反ではありません。なぜなら、2,600年前のインドではタバコのことを知っている人も吸っていた人もいなかったからです。もちろん、タバコを吸いすぎることは酒を飲み過ぎることと同様、良くないことです。私は、キリスト教徒は転生輪廻の思想が聖書に見当たらないからと言って、それを否定すべきではないと思います。 正確に言えば、転生輪廻の思想は、聖書に明確に書かれていないだけです。私たちがこの世とあの世を転生輪廻していると仮定すれば、聖書の多くの箇所が容易に理解できることでしょう。


果てしなき探求 その6
果てしなき探求 Vol.2


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