ここでは、発掘されたものの中の幾つかを、紹介いたします。
柱穴の規模や、柱の太さなどは、縄文時代で最大のものと思われ、高床の建物で『物見やぐら』や
『お祭りの施設』,『倉庫』などを目的とした大規模な建物であったと思われています。
このような大規模な建物を建築するには、多くの人手を必要とすることから、当時の群落のしくみを
理解する上でも貴重なものです。
また、柱の間隔がすべて同じであることから、縄文時代になんらかの長さの単位があったのではとも考えられて
います。
●北盛土・きたもりど
竪穴住居などを掘った時の土や、排土や灰、土器などの生活廃棄物を約1000年間にわたって繰り返し捨てた
結果、小山のようになった場所です。
ここでは、土器が一面に敷き詰められたようになっていますが、見えているのは、ほんの一部で、 この周辺一体に幾重にも重なっています。
ここは、年代毎の土器の形や、文様の種類を知る大きな手掛かりとなっています。
●大人の墓(土坑墓)・おとなのはか(どこうぼ)
大人の遺体は、地面にほぼ人の大きさの楕円形の穴を掘り埋蔵しました。
三内丸山遺跡では、谷の東側に二列に並んで向かい合うように配置されています。
人骨は出土していませんが、ヒスイ製の玉(ペンダント)が出土した例もあります。
同様の墓列は、南側の谷向かいからも発見されており、全国的にも例がなく、
丸山遺跡の大きな特徴となっています。
●大型竪穴住居跡・おおがたたてあなじゅうきょあと
この大型竪穴住所跡は、縄文時代前期の終り頃(約5000年前)のもので、
長さ約15m、幅約10mあります。
両側に3個ずつ並んだ大きめの穴は、この建物を支える柱穴で、
周囲の小さな穴は、それらを支える柱穴です。
柱穴などの様子から、この住居は2回以上の増改修が行われたことがわかっています。
大型竪穴住居は、集会所や作業場、あるいは共同家屋として使用されたものと
考えられています。
●南盛土・みなみもりど
この盛土も約1000年かかってできたもので、深さ2m〜2m50cm程あります。
この中からは、多数の土器・石器のほか、ヒスイ製の玉、土偶など非日常的な品々も
数多く出土しており、単なるゴミ捨て場というより、お祈りを行うなど神聖な場所として
利用されていた可能性も考えられます。