小村井梅園安藤広重書(右)江戸時代の末、慶応三年(西暦一八六九)に出版された、安藤広重の「絵本江戸土産」には、「小村井梅園」の図があり、人々で賑わう模様が画かれています。中央に、富士山に似た築山があり、その傍らに茶屋風の建物がみられ、両者をとり巻くようにして池が巡らされています。土地の方の話によりますと、そこには、大きな、しかも形のいい値の張る石が数多くあったそうでして、こういった築山・池・石を中心として、辺り一帯に、紅梅白梅が花を競い、三三五五観梅の人々が訪れ、のどかな田園風景さながらといった所でした。梅雨の頃には、それこそ尨大な数の梅の実が獲れたそうでして、しかも、梅の実は、粒の大きなことでも定評がありました。
この小村井の梅園は、俗に 「梅屋敷」 とも呼ばれ、小村井村字出戸五百十一番に、三千三百坪の広がりを持っておりました。亀井戸の梅屋敷「臥龍梅」よりもはるかに広く、松の木が東西にずうっと二列、整然と並んで、梅の香りに緑の風情を添えていたそうで、江戸時代の切絵図には「梅屋敷、名主小山孫左衛門、年毎御成有」と記され、毎年梅花の盛りには、将軍家の御成りがあったことがわかります。従って、そのことを証するものとして、土地の方の話によりますと、梅屋敷には「御成り梅」といわれた梅の木あったそうです。「御成り」ということでは、この辺はまた、ご狩場として、将軍家の狩りの場でもあり、鴨・鷺など、かず多くの鳥が飛び交っていたといわれています。
明治十八年十月四日に発行されました「東京絵入新聞」には、次のような記述があります。

南葛飾群小村井村の小山孫一郎の梅園は、亀戸村の梅屋敷よりも広く、園中に釣堀を設け、利根川の魚を十分に畜たれば、梅花満開の時分には、両天秤の騒客が、仰げば梅を観、俯けば池中の魚を看る所謂梅見て見下げて聊かの科で釣糸の長き日を娯むれば、継竿の引続きて出掛ける事ならんと基近辺の人の話し。

この梅屋敷は、惜しくも、明治四十三年の大水で廃園となってしまいました。その後、数多くの石が買われていき、それを運び出すのに、一つの石に、牛馬数頭でかかって、やっとというくらいで、中には坂道(境橋のところ)が登り切れず、沿道の民家に突っ込んで、家をこわしてしまったというエピソ−ドもあるそうです。


香梅園梅祭り 江戸名所「小村井梅園」の復活

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