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ダービーのマーク一覧


 ダービーでは、1770年にチェルシーを買収するまでは、一部の例外を除いて、基本的にマークが使用されなかった。しかし、統一マークが導入された後は、マークの付いた作品の比率は高かった。特に、ウィリアム・デュズベリーII世が経営した時期(マークで言うと、下記13番マークの時期)には、厳格な生産管理に基づき、窯印以外に、図柄番号や技術者番号もあわせて記載されるなど、マークの持つ情報量が多い。チェルシーやウースターと異なり、ダービーのマークを入れた贋作が少ない(ないわけではないが)こともあわせて、ダービー作品の判別にとって、マークは重要な要素となっている。
 ただし、ダービーのマークにとっては、色の微妙な違いが重要であるにもかかわらず、以下の写真では、必ずしも実際の色合いと同じでない場合もある点には留意していただきたい。
 なお、本ページに掲載しているマークの写真のうち一部を、Antique Kit Porcelain Galleryのrisukoさん及びThe China CupboardのAlan Robertsさん
からご提供いただいている。


  チェルシー・ダービー (Chelsea Derby)

番号 マーク 年代・サイズ 説 明
1

1770-1784年頃
縦横とも5o
から数o程度
 チェルシー窯で用いられていた錨のマークとダービー(あるいはデュズベリー)のDとを組み合わせたもので、チェルシー晩年のマークと同様、金色で描かれる。非常に小さく描かれるのも、チェルシーの錨マークと同様である。チェルシー・ダービーの他のマークとしては、チェルシー以来の金色の錨や、同じく金色で「王冠の下に錨」がある。
 なお、これらのマークを付けた作品がチェルシーで作られたのか、ダービーで作られたのかは不明な点が多い。


  ダービー:ノッティンガム通り工場 (Nottingham Road Factory)

番号 マーク 年代・サイズ 説 明
11 1770-1784年頃  活字体・大文字のNの書き始めと書き終わりに丸いはねを加えたもので、磁体に刻み込まれているのが一般的である(一部、青色で描かれたものもある)。手刻みのため、あまり一定した形状ではない。また、Nが何を表すのかは不明である。
 左の写真のように、単独で用いられている場合もあるが、下の12番のように「王冠とD」のマークと合わせて付されている場合もある。
12



1775-1782(あるいは1784)年頃  ダービー社が同社の統一マークとして初めて導入したマーク。釉薬上に手描きされるもので、青が基本色であったが、暗褐色(puce)で描かれたものもある。
 このマークは、1775年に国王ジョージV世から、王冠のマークへの使用を許可されたのを契機に導入された。宝石を散りばめた王冠の下にダービー(あるいはデュズベリー)の頭文字であるDを配したもので、後世のコレクターの間で、ダービー製品が一般に「クラウン・ダービー」という愛称で呼ばれる由来となった。
 また、2番目及び3番目の写真のように、上記11の"N"マーク(及び小さい穴)とあわせて記されることがあるが、これは、セーブル風の花絵作品に多い。
 なお、このマークの付けられた作品は、時期的に重複しているチェルシー・ダービー作品と、形状や装飾において多くの共通点を有している。
13




























13













































13





























































13










































13

























































13







1782(あるいは1784)-1806年頃  上記12のマークの王冠とDの間に「交差するバトンとその左右に各3つの点」を挿入したもの。一般に「バトンマーク」と呼ばれる。この後長期にわたって、ダービーの基本マークとなる。
 この「バトンと点」が何を意味するのかは明らかでない。マイセンの双剣マークを意識したものとの見方があるが、それだけでは両脇の点を説明できない。なお、交差するバトンはV又はUを重ねたものであり、両脇の点は苺(berry)を表し、マークを下から読むと「D-Us-berry = Duesbury」となるという珍説(?)もある。
 このマークは、19世紀初頭(1806年頃)までは暗褐色(puce)で描かれるのが基本であった。そのため、単に"puce mark"と呼ばれることもある。(ただし、風景画の地名など絵付けの題名が裏面に記載された作品には、青色で記されることが多かった。)このpuceと呼ばれる色は、日本人の色彩感覚からいうと紫に一番近いが、茶系の色合いも若干あり、また地味な中にも透明感のある複雑な色である。
 このマークの導入に併せて、図柄番号の記載も始まった。多くの場合、2番目の写真(109番)や3番目の写真(529番)のように、マークのすぐ下に記載されるが、中には、一番下の写真(32番)のように高台付近などに先頭に"N"をつけて記されることもある。なお、ダービー(ノッティンガム通り工場)では、図柄番号が記載されたのはバトンマークの時期のみである。マークだけで図柄番号のない作品は多いが、逆に、マークなしで図柄番号だけの作品はない。


【金彩師別マーク比較】

 ダービーでは、マークは金彩師によって描かれるのが原則であった。バトンマークは複雑なマークであり、かつ、この時期には丁寧に描かれたため、描き手ごとのマークの特徴が明瞭に見て取れる。さらに、各金彩師(一部絵付師を含む)には番号が与えられており(これら金彩師の氏名は、すべてJ. Haslemによる。)、その番号がマークから見て一定方角の高台内側に描かれることが多い。以下の表で、こうした特徴を比較していただきたい。(ただし、金彩師番号は時代とともに別人に受け継がれたことに注意が必要。この表は1785〜95年頃のものである。)なお、高台内側に複数の番号が記されている場合があるが、これは、染付師、絵付師、金彩師の各々の番号である。染付師番号は青、絵付師番号は赤、金彩師番号は暗褐色(puce)で記されるのが一般的である。

番号・氏名 マーク 番号(記載位置)
1. Thomas Soare





(マーク上方)
2. Joseph Stables





(マーク下方)
3. William Cooper



(マーク左方)
4. William Yates

(マーク右上方)
5. John Yates



(マーク右上方〜右方)
6. 氏名不明(注1) (写真なし)(注2)(注3)
7. William Billingsley (写真なし)(注2)
8. William Longdon
(注3)
(注4)






(マーク右方)
9. William Smith
(注3)(注4)(注5)






(マーク左下方)
10. John Blood



(マーク下方)
11. William Taylor
(注5)




(マーク左下方)






(マーク下方)
12.John Duesbury (写真なし)
13. Joseph Dodd (写真なし)

(注1)John Twitchettは、6番(赤色)はEdward Withers(花絵の絵付師)の番号ではないかと推測している。Twitchett "Derby Porcelain" (1980) Plate173 (p157)
(注2)WithersとBillingsleyは金彩師ではないので、彼らがマークを描くことはなかったと考えられる。(彼らの番号が高台に付されるときは、金彩師の番号も別に記されていることが多い。)

(注3)William Longdonの欄の3つ目の写真には、高台内側に3つの数字、すなわち、暗褐色の8、青色の8及び赤色の6(又は9)が記されている。暗褐色の8と青色の8は同一筆跡のように見える。
(注4)William Smithの欄の写真にある9の数字(暗褐色)は、William Longdonの欄の3つ目の写真の9(又は6。赤色)とは筆跡が異なる。なお、そもそもWilliam Smithはエナメル調合師及び絵付師として知られており、彼が金彩師も兼ねていたかは不明。
(注5)William Taylorの欄の2つのマークは、明らかに異なる人物によるものである。puce mark期の同じ番号であっても、金彩師が異なる場合があることには要注意。なお、1つ目のマークは、William Smithの欄のマークと類似性が高い(さらに金彩師番号が記される方向も同じ
である)。
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1806-1825年頃  1806年頃以降、バトンマークの基本色は赤に替わる。経営者が替わったわけでもなく、マーク変更の理由は不明である。この赤という色は、オレンジ色がかった薄い赤であることが多い。当初は、puce markと同様、丁寧に描かれていたが、ブルア期(1811年以降)になると、次第に乱雑に描かれるようになっていく。
 図柄番号制度は、1810年代のはじめ頃までは継続されたと考えられているが、それ以降は新規図柄の番号登録は途絶え、図柄番号の記載された作品自体も減少したと考えられる。
 一方、金彩師番号の制度はそれよりも長く継続したと考えられている。番号の記載される位置は、もはや高台内側とは限らず、裏面マークの周辺全般に記される。金彩師と絵付師の2つの番号が記される場合も多い(色はともに赤が一般的)。また、puce markの時期と比べて大きな番号が多い。(Twitchettによれば、最も大きな番号は80番台に達しているとのことである。)なお、Haslemは、1820年頃の金彩師として、以下の番号と氏名をあげている。
  1. Samuel Keys
  2. James Clarke
  7.    Torkington
  8. John Beard
 14. Joseph Brock
 16. Joseph Broughton
 18. John Moscrop
 19. Munday Simpson
 21. James Hill
 27. George Mellor
 33. Thomas Till
 37. John Whitaker
15 1820(あるいは1825)-1840年頃  ロバート・ブルア(Robert Bloor)は、1811年にダービーの経営権を握ったが、その時点ではマークには変更を加えなかった。しかし、上述のとおり、バトンマークがあまりに乱雑に描かれるようになり、顧客からもクレームがつくようになった事態を改善するため、手描き方式に替えて、転写方式の新マークを導入した。二重の円の中央に伝統の王冠を配し、その周囲にBLOOR DERBYと経営者名を明記している。(当初は、二重円のみが転写で、王冠と名称は手描きだった。)
 本来は、銅版から皮のパッドを用いて転写する方式のマークであるが、実際には親指を使って転写されることも多く、そのため不鮮明なマークも少なからず見かける。
 なお、一般にBloor Derbyと呼ばれる作品は、このマークや下の16番のマークなどのブルア期の新マークの付された作品をさすことが多い。
16 1825-1840年頃  これもブルア期の転写マークの一つである。王冠の下にDという、12番のマークに倣った、よりクラウン・ダービーの伝統に沿った意匠であり、BLOORの文字は見られない。(このマーク以外にも、「王冠の下にリボン(リボンの中にDERBYの文字)」というマークもある。)
 なお、ブルア・ダービーは転写式マークを統一せず、複数のマークを並行して使用した(さらに、転写方式マークが導入された後でも、稀にバトンマークが使われた例もある)。また形状や図柄に応じて規則的にマークを使い分けることもなかったようである。

21 Patch Mark
(写真準備中)
1760年頃−チェルシー・ダービー期頃  窯の中で、3〜4個の球状の台の上に作品を置いて焼いたために付いた、黒ずんだ丸い焼き痕。したがって意図的に付けられた窯印ではない。一般にパッチマーク(patch mark)又はパッドマーク(pad mark)と呼ばれる。人形の台座裏に多く見られ、ダービーに特徴的なこの焼成方法とパッチマークの解明は、それまでチェルシーやボウに分類されていた無銘の人形をダービー作品と判別する決定的根拠となった。実用品でも壷やバスケットなど大きな作品にパッチマークが見られることが多い。
22
(注5)
デザート3番図柄(伊万里風図柄)の作品には、多くの場合、このマークが使用されている。青色で、二重の四角枠の中に丸や線が描かれている。マーク辞典やダービーの専門書にもほとんど掲載されていないため、どの程度のバリエーションがあるのか明らかでないが、四角枠の中に線が一本だけ描かれたものから、丸が渦巻状になっているものまで、多様な形状のものが存在するようである。
23
(注5)
 中国・明代の各皇帝期のマークは、中国のオリジナル作品あるいは日本の伊万里作品を通じて、英国各窯でコピーされた。写真は「大明成化年製」を写したもの。
 他の窯では、単に「漢字っぽい」記号に留まっていることが多いが、ダービーのこのマークは全ての文字を比較的写実的に書き写している。
24
(注5)
 三つ足の「鼎(ting)」に似ていることからting markと呼ばれる。これに似たマークに「陶工の椅子(potter's stool)」マークがあり、ともにダービーで焼成され、部外で絵付けされた作品に用いられたマークだとされている。(焼き上がりの悪い作品を白磁のまま部外に販売した際に付けられたマークだとする説があるが、異論もある。)
25 アルファベット
(写真準備中)
 ローマ字の大文字の刻印。10以上の文字が使われたとされている。窯で焼く際の区別のために用いられたと考えられているが、詳細は不明。年代を示すものではない。
(注5)Twitchettによると、中国や日本風のマークの模倣は、そうした作風の作品に、全ての時期に渡って使用されたとのこと。


  キング・ストリート工場 (King Street Factory)

番号 マーク 年代・サイズ 説 明
31 1861(あるいは1862)-1935年頃  1848年のダービー閉窯後まもなく、ダービーの6人の職人たちが、ダービー市内のキング通り(King Street)に共同で磁器会社を設立した。新工場は、旧ダービーの伝統の継承を謳っており、マークに関しても、当初は旧ダービーの手描きの「バトンマーク」をそのまま用いていた。(その他、円形の中に経営者名を記入したマークも使用された。)しかし、陶磁器研究者Llewellynn Jewittから旧ダービー作品との混同を指摘され、あわせて、その解決策として交差するバトンを交差する剣に変更し両脇に当時の経営者二人(Stevenson & Hancock)のイニシアルを配すべきとの提言がなされると、1861か62年頃に、そのとおりにマークが変更された。
 1866年にStevensonが亡くなり、Hancockの単独経営となったが、彼の姓名のイニシアルがS.H.(Sampson Hancock)であったことから、マークには変更が加えられなかった。その後も経営者は替わったが、マークは一切変更されず、1935年にロイヤル・クラウン・ダービー社に買収されるまで、同じマークが使用され続けた。(買収された後も一部使用されたとされる。)
 この同一マークが70年以上に渡って使用され続けたことは、キングストリート工場の作品の年代特定に大きな障害となっている。さらに、1890年以降、(米国への輸出品に原産国表示が義務付けられたため)多くの英国磁器窯でEnglandという国名が記載されるようになったが、キングストリート工場は、輸出には関心を示さなかったようで、国名が記されることがなかったことも、判別をいっそう困難なものにしている。


  クラウン・ダービー/ロイヤル・クラウン・ダービー (Crown Derby/Royal Crown Derby):オスマストン通り工場 (Osmaston Road Factory)

番号 マーク 年代・サイズ 説 明
41 1878-1890年  1876年、ロイヤル・ウースター社出身のエドワード・フィリップス(Edward Phillips)が、ダービーのオスマストン通り(Osmaston Road)にDerby Crown Porcelainという磁器会社を興した。明らかにロイヤル・ウースターの社名(Worceter Royal Porcelain)を意識するとともに、かつてのクラウン・ダービーの名声にあやかろうとする命名だと思われる。その姿勢はマークにも表れており、青色で宝石を散りばめた王冠の下にD(ただし、左右対称に2つのDを重ねたもの)という、12番のマークを強く意識したものとなっている。
 なお、1880年以降、マークの下に製造年を示す記号が付されるようになった。写真のカタカナのユを横に倒したような記号がそれで、これは1882年のものである。
42



1890年以降  クラウン・ダービー社は、1890年にビクトリア女王から御用達の指名を受け、社名をロイヤル・クラウン・ダービーと改めた。マークの基本的形状には(王冠の細部を除いて)変更はないが、"Royal Crown Derby"と社名が記載されるのは、この年からである。Englandの国名表示は1891年以降付されている。(1921年以降は"Made in England"と付される。また"Bone China"と記されるのは第二次大戦後のことである。)
 製造年記号は引き続き記載されており、1番目の写真では(図柄の登録番号の下の)下向きの三日月の記号で1890年を表す。Englandの文字は赤いスタンプで後から加えられたものである。(なお、その下のDERBYという刻印は、1878-1900年の作品に見られることがあるもの。)
 さらに、2番目の写真の製造年記号は漢字の中のような記号で1914年を、3番目の写真ではローマ数字(1938年以降は、38年をI、39年をIIというようにローマ数字で製造年を記載する方式となった。)のXLIV(=44)で1981年を、それぞれ表している。
 なお、マークの下のアラビア数字(2番目の写真の2451と3番目の写真の383)は、ともに図柄番号である。