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コラム3.ふたりの外国人経営者


 大陸よりも遅れて磁器製造が始まった英国では、会社経営から作品の造形・絵付けにいたるまで、外国人が果たした役割はとても大きなものでした。ここでは、2人の外国人経営者をご紹介します。

 チェルシー窯を設立したニコラス・スプリモント(Nicholas Sprimont)は、1716年にリエージュ(ベルギー)の銀職人の一家に生まれました。自らも銀職人となりましたが、20代半ばで、家族との軋轢からか、単身ロンドンに移住します。スプリモントはフランス新教徒でしたが、当時のロンドンには同教派の大きな拠点があり、物心両面での支援が得やすかったという事情があるようです。
 ロンドンでも銀職人として働く一方で、1744年ごろから、富裕層が多く住むロンドン郊外のチェルシーで磁器製造に着手しました。1748年頃までは、彼自身はロンドンに住み続け、銀職人と磁器会社経営の二足のわらじを履き続けたようです。チェルシー磁器に銀器を模した形状のものが多いのは、この点に由来するとされています。
 磁器工場自体は、優秀な職人と裕福な資金提供者を得て、大きな成功を収めました。しかし、スプリモント個人は早くから健康問題を抱えていました。1756年には腎臓の病を得、1760年代にはそれが悪化の一途をたどりました。病が進行する中で、彼は(子供がいなかったこともありますが)工場経営の後継者を抜擢するのではなく、各種資産を含めて工場そのものを売却(土地は賃貸)する道を選びました。チェルシー窯の成功に大きな自負心を抱いてたスプリモントは、経営権を誰かに譲るくらいなら、全くの他人に売却して、実質的に自分一代でチェルシー窯の栄光を終わらせるつもりだったのかもしれません。土地の賃貸契約終了後には、工場を壊して更地で返却することを条件にしているのも、その表れのような気がします。
 1763年には早くも工場売却の話が公になっていますが、実際に売却されたのは1769年でした。そして、売却後も続いた訴訟などのごたごたを病床から見つつ、スプリモントは1771年に亡くなっています。

 ダービー窯を設立したとされているアンドリュー・プランシェ(Andrew Planche)は、1727年(又は28年)に、ロンドンでフランス系家庭に生まれました。金職人としての修行を経て、20歳頃にダービーに移ったと見られています。当時のダービーでは宝石の細工が盛んで、金職人として宝飾の仕事を求めて移住したのかもしれません。しかし、移住後ほどなく、1748年頃から磁器製造に着手し、ドライ・エッジと呼ばれる、素朴な白磁像を中心とする作品を作っています。
 1756年には経営を拡大する新たなパートナー契約を、銀行家のジョン・ヒース及び絵付師のウィリアム・デュズベリー一世と締結します。この契約により、ダービー窯は大きく飛躍することとなりますが、なぜか、プランシェ個人はほどなくダービーを去り、磁器製造者としての輝かしい経歴は、突如として終わりを告げます。1756年に始まった七年戦争における英仏抗争の中で、英国生まれとは言え、フランス人としてダービーに残ることのできなかった事情があったと推測されていますが、真相は不明です。彼は、その後、アンドリュー・フロアと英国姓に改名して、南部の温泉町バースの劇場で台詞の振付師(兼俳優)として働き、1805年に亡くなるまで貧困生活を送ったようです。
 プランシェは、ダービーでの自分の業績を他人にはほとんど語らなかったようです。ただ、晩年にウィリアム・デュズベリー一世の娘アンとバースで会った際に、自分がデュズベリー一世を登用したこと、彼女(アン)が生まれたときに面倒をみたことを話したそうで、彼女が弟であるデュズベリー二世にその内容を伝えた手紙が残っています。自らが身を引いた後のダービー窯の隆盛を遠くから見て、彼はどのような感慨を持っていたのでしょうか。