コラム7.つわものどもが夢の跡−窯跡は今
英国磁器窯の中には、例えばスポードやミントンのように、創業の初期から同 じ場所で事業を継続しているところも(建物自体は建て替えられていても)ありますが、初期窯の多くは短期間で閉窯してしまいましたし、生き延びた窯も、事業拡大や合併などを機に別の場所に移っていますので、初期工場は、ほとんどの場合、売却・取壊しの運命をたどっています。「発祥の地」がどのような経緯をたどり、窯跡が現在どうなっているか、3つの例をご紹介します。
ボウが1774年に閉窯したとき、各種資産はウィリアム・デュズベリー(ダービー)が購入していますが、工場の建物と土地はその中に含まれていません。その後、ボウの工場は、1780年からはタール工場として使用され、さらに1787年には、ジョセフ・フライト(ウースター経営者であるトマス・フライトの兄)が賃借して、アパートに転用しました。最終的に取り壊されたのは1919年のことで、1962年にはあたり一帯が再開発され、「セントラル・ハウス」と呼ばれる大きなオフィス・ブロックに生まれ変わったとのことです。
ダービー窯のデュズベリー期以来の工場(それ以前の、アンドリュー・プランシェの工場については、跡地が特定されていません。)である「ノッティンガム通り工場」は、1848 年に閉鎖され、建物も壊されました。その後修道院が建てられましたが、川に近すぎて衛生上の問題があったため、 1863年には取り壊されています。その後、長らく大きな開発はされなかったようです。現在では、跡地は分割されて敷地内に新しい道路も敷かれており、1990年代にはコミュニティー・センターなどが建てられたようです。なお、敷地の一角に、そこがダービー窯跡であることを示すプレートが設置されているとのことです。
ウースターの「ウォームストリー・ハウス」は、1840年にチェンバレン社に吸収合併されるまで、本社として使用され続けました。その後も短期間チェンバレン社のタイル製造工場として使われましたが、結局は売却され、手袋製造工場として長らく使用されていたようです。最終的には、建物は1960年に壊され、その跡地にウースター工業大学が建設されています。