芝居好きの定吉が仕事をサボって芝居に行ったのがばれ、蔵へ入れられるという「蔵丁稚」、『忠臣藏』四段目を題材にしていることもあって、上方での歌舞伎の演出がそのまま落語に入っている。落語でも東京と大阪で大きく違うように、歌舞伎でも、特に人形浄瑠璃を歌舞伎に写した物では、東西で演出に違いが見られる。中でも東西の違いが大きいのが『假名手本忠臣藏』だ。「蔵丁稚」では、上方の型、上方の上演習慣での『忠臣藏』を定吉が見ている。そして、東京の人が江戸落語の「四段目」でなく、上方落語の「蔵丁稚」を聴いたとき、「?」となるのもこういった上方での上演習慣の部分であろう。以下、順に見て行きたい。
定吉がお店(たな)へ帰った時刻は、桂米朝演じる「蔵丁稚」では、夕方の五時前ということになっている。道頓堀の芝居小屋から船場のお店へ帰った時間が五時前ということから考えて、芝居小屋を出たのは遅くとも四時過ぎと考えられる。さて、蔵に入れられた時の定吉の言葉では、『忠臣藏』の通し狂言のうち、六段目まで観ていたから遅くなった、ということになっている。
東京の人は、ここで「あれ?」と思うのではないだろうか。今、『忠臣藏』の通し上演を東京で観た場合、六段目が終わると、まづ六時頃になっているから。現在の歌舞伎は昼の部と夜の部の二部制になっているが、戦前はそうはなっていなかった。とはいえ、やはり東京で六段目が終わればこれくらいの時間にはなる。定吉が六段目まで芝居を見て、五時前に帰り着いたのは大阪式の上演であったからだ。現在の二部制でいえば、東京では昼の部が四段目(あるいは「道行旅路の花婿」)まで、夜の部が五段目から、ということになるのに対し、大阪では昼の部が六段目まで、夜の部が七段目から、という習慣になっている。ここで、東京、大阪で実際に演じられた例を見てみよう。
〈東京〉平成7年2月 松竹百年記念二月大歌舞伎『假名手本忠臣藏』
昼の部:午前11時開演
〜「大序」「三段目」「四段目」「道行旅路の花婿」〜
夜の部:午後4時15分開演
〜「五段目」「六段目」「七段目」「十一段目」〜
〈大阪〉平成11年3月 二代目中村鴈治郎十七回忌追善三月大歌舞伎『假名手本忠臣藏』
昼の部:午前11時開演
〜「大序」「三段目(含「裏門」)」「四段目」「五段目」「六段目」〜
夜の部:午後4時15分開演
〜「七段目」「九段目」「十一段目」〜
となっている。つまり、六段目の勘平腹切りを観た後でお店へ帰れば五時前、というのは大阪では至って自然なのである。
定吉がいろいろと嘘をついて言い逃れをしようとしているのに対し、旦那が鎌をかける。
「今度の『忠臣藏』では五段目が評判や。とくに猪(しし)がええ。前脚が中村鴈治郎で後脚が片岡仁左衛門。こんな猪は二度と見られん」
対して定吉が笑い出して、
「五段目の猪いうたら、大部屋の役者が、それも一人でやりまんねんで。前脚が成駒屋、後脚が松嶋屋やなんて、そんなアホな」と返すのだが、その前に定吉は「わたい、芝居嫌いでんねん」と言っている。芝居の嫌いな人間が、なんで屋号で返すんや、と、ここで「語るに落ち」たわけだ。実際にはそのあと旦那の「わしゃ、佐助はんに聞いて言うてますのじゃ」「旦さんは、聞いて言うてまっしゃろ、私ら現に今まで観てた」で、完全にばれてしまう。
さて、この後定吉が「謀る謀ると思いしに、却って茶瓶に謀られた」と言うが、これは『鬼一法眼三略巻』の「一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)」からの科白。平治の乱で死んだ源義朝の側室・常磐御前は、平清盛によって一條大蔵卿のものとされてしまった。大蔵卿はいわゆる「バカ殿」。源氏の遺臣吉岡鬼次郎が常磐御前の元へと忍び込んで行くと、常磐御前は楊弓で遊んでいる。怒った鬼次郎が楊弓の的を引き下ろすと、裏には清盛の絵が。常磐御前は遊びに見せかけて、平清盛を呪っていたのだ。それを大蔵卿の家来(実は清盛の密偵)の八剣勘解由に知られ、注進に、という危機に現れたのが大蔵卿。実は大蔵卿は平家の天下に憤りを感じ「作り阿呆」の姿で韜晦していたのであった。心は源氏の味方。一刀のもとに八剣勘解由を斬り殺す。この時、八剣勘解由の云う科白が「謀る謀ると思いしに、却って虚(うつ)けに謀られた」。これを定吉が使った、という次第。
芝居を観て、遅くなった原因というのが、同じ観客の云った言葉。四段目の判官と六段目の勘平を同じ役者がやる。同じ役者で大名の切腹と勘平の腹切りの違いを見てやらねば、ということなのだが、ここで両者の腹の切り方を云い分けている。「腹を詰めるのと切腹との違いを」という部分。ここで歌舞伎では判官には「切腹」、勘平には「腹切り」という言葉が当てられている。これは、判官の場合は作法に則ったものであるので切腹、対して勘平は作法もなにもなく、いたたまれなくなって刀を腹へ突き立てたので、腹切り、ということ。
さてここで四段目の判官切腹の場を定吉が回想する。現在、四段目は東京も大阪も九代目市川團十郎が創始した型に統一され、役者、あるいは東西による違いが少ない。定吉の観た芝居でも、ほとんどは團十郎の型のようだが、一部違いがある。判官が刀を腹へ突き立てた瞬間、由良之助が揚げ幕から現れ駆けつける、という部分。「気は上擦(かみず)ってしまい、袴の紐を繕い繕いやって来て、花道の七三へ平伏する」とあるのだが、團十郎の型の駆けつけに、袴の紐を繕いながらという動作はないようなのだ(単に見落としかも知れないが、少なくとも、自分の観た四段目では、なかった)。團十郎型が大勢を占めるまで、大阪で行われていた中村宗十郎の型とも違う。「ひょっとしたら」と思うのは、三代目中村歌六(1849〜1919)の芸談に、袴の紐のことが出てくること。ちょっと長いが引用しよう
四段目で団十郎は大小を次の間に置いた心で、丸腰になって出ておりましたが、私はデボ三津(嵐三津五郎の事)さんの型で、脇差を抱えて袴の紐を結びながら出ます。このしぐさを御覧になったお客が「あれは袴の紐を結ぶのか……緩めるのか」とのお尋ねがございましたが、それは御見物のお考えにお任せしますと申しますは、結ぶ方にも緩める方にも理屈がございますからで、しいてお尋ねならばあの場合ゆえ、締め直すのが至当だろうと思って演じております。(白水社『仮名手本忠臣蔵』p.420)
三代目歌六は、もともとは大阪の役者。大阪の芝居でこの型が出たことは充分に考えられる。袴の点を除けば、定吉の描写は團十郎の型に当てはまるのだが、ひょっとしたらこの歌六が演じていたという嵐三津五郎の型を定吉は見たのかも知れない。
なお、笑福亭松鶴の「蔵丁稚」では腹を切る寸前、判官が力弥に対し、由良之助へ「晋に予譲ありと伝えよ」と言い残す場面がある。これも現行の演出になく、また、義太夫の本文にもない。明治の頃大阪で一般に行われていた演出だったのだろうか(*註参照)。
さて、石堂に「聞き及ぶ国家老大星由良之助とはその方か。苦しうない、近う、近う」と云われた由良之助、ハっと見るとご主君、すでにお腹を召している。しもたぁ、という思い入れのあと腹帯を締めるのがきっかけ、舞台へと進むところであるが、ここで「腹帯を締める」となっている。
この部分、今でも役者によって解釈の違うところである。「腹帯を締める」のか、「腹帯をゆるめる」のか。「早馬あるいは早駕籠で伯耆から鎌倉まで来た由良之助が腹帯をしているのは、内臓が下がってしまわないため。これ以上ないくらいに締めている腹帯を、また締めることが可能か」ということで、むしろ腹帯をゆるめる演技をする役者も多い。落語でははっきり「腹帯を締める」としている以上、明治のころの大阪では締める演技の方が一般的であったのかもしれない。
以下、余談ながら。
この場で薬師寺の云う科白「これさこれさ判官殿、またしても御酒御酒と。自体この度の科(とが)、縛り首にも及ぶべきところ、我が君のありがたいお情けで切腹仰せつけられる上からは……」、この中の「縛り首」だが、これは西部劇に出てくるような縛り首、つまり絞首刑ではなく、縛ったまま首を打たれる、という意味。単なる斬首刑ではなく、大名としての対面を重んじて切腹(一応は自裁の形をとる)を命じるのが「ありがたいお情け」という意味。
なお、桂文珍の録音では、蔵の中へ入れられた定吉が「翼が欲しい、羽根が欲しい」というが、これは『本朝廿四孝』の「奥庭狐火」の段の八重垣姫の科白。七段目で同じ科白を小米朝が使っている。また、四段目の真似のあと「おーなーかーがーすーいーたー。うーばーやー……『先代萩』になってしもた」とあるが、これは『伽羅(めいぼく)先代萩』「御殿」の場のこと。幼君毒殺をおそれた乳人・政岡が幼君鶴千代と実子千松を御殿の奥へ匿っている。食事も自分が作ったものしか与えないのだが、どうしても一日一食、握り飯ということになってしまう。それで幼君が政岡に「おなかがすいた。乳母や」と云うことになるのだ。政岡が諭した後、侍の子というものは「腹が減ってもひもじうない」というのは有名な科白。
〈付け足り 文珍の録音の枕について〉
文珍の録音の枕の部分で義太夫と歌舞伎について、少し噺が出ている。それについて簡単に説明を。
「ムフ、アハ、ハハハハハハハハハー……これ、笑うておるのでございます。来てるのではございません」
義太夫での典型的な笑い声。『忠臣藏』では三段目、殿中刃傷の場で師直が判官に「鮒だ、鮒だ、鮒侍だ」と云った後「ムフ、アハ」と笑いが入る。歌舞伎では平成11年3月の大阪松竹座での通し狂言の時、中村鴈治郎がこの笑いを取り入れた。
「でかしゃった、でかしゃったでかしゃった、でかしゃった。あああーーー……最初、うどん食べてはるのかと思いました」
『伽羅(めいぼく)先代萩』「御殿」の場。上述の「乳母や」の後のところ。山名宗全の奥方・栄御前が幼君に毒入りの菓子を食べさせようと持ってくる。足利本家管領の持ってきた菓子を、まさか毒入りと疑うわけにも行かず政岡が進退窮まった時、千松が現れて菓子を蹴散らし、自分が一つ食べる。毒で苦しむ千松は、陰謀がばれては困ると「無礼」の名のもとになぶり殺しにされてしまう。政岡が自分の子を目の前で殺されても顔色一つ変えないことから、栄御前は、政岡が自分の子供と幼君を取り替えた(だから死んだのは幼君のほうだ)と思いこみ、政岡も同じくお家乗っ取りを企んでいると早合点して謀反の連判状を託して帰って行く。その後に千松の死体に政岡が云うのがこの科白。自分の命を犠牲にして主君を守った千松に云う言葉であり、主君のためとはいえ可愛い息子を死なさねばならなかった政岡の嘆きがこの科白から始まる。
同じく文珍が歌舞伎の掛け声として挙げている屋号について対応する役者を、ご存じとは思うものの挙げておく。
松嶋屋 文珍は「松」を略して「嶋屋」とやっている。片岡仁左衛門、片岡我當、片岡秀太郎、片岡孝太郎、片岡進之助、片岡愛之助、片岡芦燕、片岡亀蔵など
成駒屋 中村鴈治郎、中村翫雀、中村扇雀、中村歌右衛門、中村芝翫、中村福助、中村橋之助など
高麗屋 松本幸四郎、市川染五郎など
成田屋 市川團十郎、市川新之助、(市川海老蔵)
大和屋 板東三津五郎、板東玉三郎、岩井半四郎など
紀伊国屋 澤村宗十郎、澤村藤十郎、澤村田之助など
*註
「晋に予譲あり」とは、『史記』刺客列伝にも出ているエピソードを踏まえている。予譲は自分を国士として遇してくれた主君・知伯の仇を討とうと、知伯を殺した趙襄子を二度にわたって狙い、最後には自害した。彼の意気に感じた趙襄子は自害する予譲の願いを聞き入れ、彼に自分の上着を与えた。予譲はその上着に斬りつけた後自害する。他にも主君を持っていたのに、なぜ知伯の仇のみを討とうとしたのかと趙襄子に聞かれて予譲の答えた言葉として残ったのが「士は己を知る者のために死す」という言葉。この予譲のエピソードは落語「写真の仇討ち」にも登場する。なお、『噺の肴』で小佐田定雄が指摘しているように、「晋に予譲あり」とは、まさに「仇を討ってくれ」と云っているようなものであり、検視の石堂や薬師寺の前で云うのはあまりにも不自然。それだけに、本当にこんな言葉が明治期の芝居で使われたのか疑問視もされる。