毛唐とそば



 林忠彦の写真展があったので、恵比寿にある東京都写真美術館に行った。駅ビルが姿を見せ、アメリカ橋まで橋梁のようなものが伸びていたり、サッポロビールの跡地にも数棟の高層ビルが天に向かって立ち並びはじめている。
「バブルの塔ってやつだな」
 数年前にビアステーションでソーセージを食べた痕跡など、微塵もなくなっている。
 写真は、アメリカでのほとんど未公開のもあったりして、なかなか充実していた。はじめてのアメリカなのに、被写体に限りなく迫っていたりする。どう話しかけたのだろうか。それともスナップのようにして、黙って撮ったのだろうか。文句なんかいわれなかったんだろうか。そんなことが、疑問となって頭に浮かぶ。
 だって戦後まもなく、極東の、この間まで鬼畜米英で竹やりもってた黄色い小人が大陸に上陸してパシャパシャ写真撮ってたら「なんだこのジャップ!」ぐらいいわれただろうに、と思うのだけれど。
 二階へへの階段を上ろうとしたら、見覚えのある偉容と声。植田正二だった。付き添いの二人の男は、館員だろうか。以前、デザインセンターにいたとき一度仕事をしているのだが、覚えているはずもないよな。ぼくは、そおっと見送った。

         ◆

 ちょうど昼食時だったので、目黒の一茶庵にしようかとも思ったのだが、帰りの交通の便を考慮してなな樹にした。
 蕎麦屋である。信州戸隠そば。入るのは、二度目。入って右手に、八人座れる四角いテーブルがある。そのひとつに座った。戸隠のざるを二枚頼む。
 と、もう一方のテーブルに、銀髪で髭のインテリっぽい西洋人がやってきた。紅毛碧眼が蕎麦。別に悪いわけじゃない。いまや、日本食は世界のメニュー。天ぷらだってスキヤキだって寿司だった映画の中にも気軽に登場する。箸の使い方だって堂に入ったものだ。 しかし、蕎麦だけは見たことがない。
 果たして、ずるずるずるずるず…といくのだろうか。それに、興味が湧いた。
 彼は「山菜そば…」と注文を出した。ちゃんと品書きを見ながら選んだのだ。店員は「ざるですか」と確認の言葉を入れる。そのあと彼は「ワインも」と付け加えた。
 ぼくの方には馬蹄型にそばをひねって、ざるの上に並べたそばがきた。二枚分のせてあるという割りには、然程の量ではない。まずは、つゆだけで。それから、大根下ろしを入れて食べる。最初のひとくちは喉越しでと飲み込んだが、ちょっとハードだった。腰が強く、とても噛まないでは飲み込めぬ。二、三本つまんでずるっとすすって、もぐもぐと噛む。冷たい水を通ってきた腰の強いそばが、口の中で滋味に満ちてくる。香りは然程ないが、田舎っぽい不器用な感じがいい。
         ◆
 さて、彼に山菜そばがやってきた。
 すでにグラスワインを半分ほど飲んでいる彼は、まず山菜に箸を伸ばす。別盛りの山菜の内容までは把握できなかったが、カリカリと音がしたところをみると、蕨、ぜんまい、山筍の他にもなにかあるのだろう。
 ワイン、カリカリ、ワイン、カリカリ…
 一向にそばに箸を出さない。
「おいおい、そばが伸びちまうよ」
 ちょっとイライラさせてくれるではないか。ぼくはあらかた食べ終わり、蕎麦湯でつゆを伸ばす。ほどほどの濁りかげんで、いい香りだ。
 おっと、彼がそばをつまんだ。そのままそば猪口へもっていく。つゆに浸してどうするか…。そのまま団子状態のそばを口に運んだ。
 もっちりもっちりと、音など全然立てることなく、お上品に食べはじめたぞ。
 はははははは。やっぱりな。そばってもんは、目の前に出てきたらずるずるっ…って音を立てて素早くかっ込まなくちゃいけねーよ。
 なんてね。
                           一九九四年一月十七日

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