◆
ちょうど昼食時だったので、目黒の一茶庵にしようかとも思ったのだが、帰りの交通の便を考慮してなな樹にした。
蕎麦屋である。信州戸隠そば。入るのは、二度目。入って右手に、八人座れる四角いテーブルがある。そのひとつに座った。戸隠のざるを二枚頼む。
と、もう一方のテーブルに、銀髪で髭のインテリっぽい西洋人がやってきた。紅毛碧眼が蕎麦。別に悪いわけじゃない。いまや、日本食は世界のメニュー。天ぷらだってスキヤキだって寿司だった映画の中にも気軽に登場する。箸の使い方だって堂に入ったものだ。 しかし、蕎麦だけは見たことがない。
果たして、ずるずるずるずるず…といくのだろうか。それに、興味が湧いた。
彼は「山菜そば…」と注文を出した。ちゃんと品書きを見ながら選んだのだ。店員は「ざるですか」と確認の言葉を入れる。そのあと彼は「ワインも」と付け加えた。
ぼくの方には馬蹄型にそばをひねって、ざるの上に並べたそばがきた。二枚分のせてあるという割りには、然程の量ではない。まずは、つゆだけで。それから、大根下ろしを入れて食べる。最初のひとくちは喉越しでと飲み込んだが、ちょっとハードだった。腰が強く、とても噛まないでは飲み込めぬ。二、三本つまんでずるっとすすって、もぐもぐと噛む。冷たい水を通ってきた腰の強いそばが、口の中で滋味に満ちてくる。香りは然程ないが、田舎っぽい不器用な感じがいい。
◆
さて、彼に山菜そばがやってきた。
すでにグラスワインを半分ほど飲んでいる彼は、まず山菜に箸を伸ばす。別盛りの山菜の内容までは把握できなかったが、カリカリと音がしたところをみると、蕨、ぜんまい、山筍の他にもなにかあるのだろう。
ワイン、カリカリ、ワイン、カリカリ…
一向にそばに箸を出さない。
「おいおい、そばが伸びちまうよ」
ちょっとイライラさせてくれるではないか。ぼくはあらかた食べ終わり、蕎麦湯でつゆを伸ばす。ほどほどの濁りかげんで、いい香りだ。
おっと、彼がそばをつまんだ。そのままそば猪口へもっていく。つゆに浸してどうするか…。そのまま団子状態のそばを口に運んだ。
もっちりもっちりと、音など全然立てることなく、お上品に食べはじめたぞ。
はははははは。やっぱりな。そばってもんは、目の前に出てきたらずるずるっ…って音を立てて素早くかっ込まなくちゃいけねーよ。
なんてね。
一九九四年一月十七日