そもそもの塾とのつきあい

僕が塾に行ったというのは、小学生の低学年の頃に算盤塾に6カ月ばかり通ったのと、中学生になって英語の塾に3カ月ぐらい通ったのが、すべてだ。どちらも個人塾だった。
算盤塾に通ったのは、おそらくちょっとしたブームだったからだろう。みんなが行くから、行く。それだけの動機だったような気がする。定かではないが、自分から行くと行ったような気がする。あるとき、算盤塾よりも面白いテレビ番組があったので、それを見ていたら、父親にえらく叱られた。「テレビなんか見てないで、算盤に行け」というわけだ。しかし、生来が吝嗇だった父親が、塾への出費を教育費として惜しみなく遣っていたかとなると、ちょっと疑問がのこる。「もったいないな」なんて思いながらの、塾通わせだったのではないか。
算盤塾に通っている間に、検定試験というものを2度受けた。6級というのに受かった。でも、算盤や暗算といったものにそれ以上の興味もなくて、やめた。
英語の塾に通ったのは、姉の薦めだ。3歳年上の姉は、高校に入ったばかりだったが、その塾で英語をみっちりと仕込んだというわけだ。それで、「明もいけばいい」となったわけだ。
まだ30歳になるかならないかの、黒く太いメガネをかけた、いかにも勉強はしました好きですよはい、といった女の先生だった。彼女の教育方法が、英単語の上に日本語のルビをつけさせて、それを音読させることから始まったのだけをよく覚えている。もちろん発音はそれなりに変えていく訳だが、発音記号を覚えるより先に、カタカナ読みから始まった。
ときどき、その先生の弟の青年が、教室となっている和室から見える庭に新聞紙を敷いて、上半身はだかになって仰向けに寝、バーベルを上下させていたのが記憶に焼き付いている。緑の匂いが、むっとする初夏だった。
その英語塾にいかなる効果があったのか。いまとなっては証明する手段はない。だって、3カ月でやめてしまったからだ。それくらい、僕は勉強が好きではなかったし、塾も、英語にも興味がなかったということだろう。
1953年生まれの僕の塾経験が平均的なものなのか、それよりも多いのか少ないのか、そういうことについては何も分からない。

塾の効果について

塾に行くと、頭が良くなるのか? といわれれば、そりゃ違うと誰もが応えるはずだ。ちょっと知識を他人より詰め込むだけさ。それに、他人より効果的に詰め込むことを覚えるだけさ、と。
昔、こういうことがあった。

小学校6年生のとき。家庭科で枕カバーを縫った。僕は、本のイラストを緑色の糸で刺繍して、表紙にBUUK、と多分紅い糸で刺繍した。普段からつんと突き出して傲慢そうな鼻と、熟れた桃のような頬をした同級生の女の子がそれをみてこういった。
「あきらくん。本は英語でBOOKよ。BUUKじゃないわ」
彼女は確かに勉強のできる女の子だった。それに、情緒が不安定で、小学生なのにときどき失踪事件などを起こして大人を困らせる、妙な女の子でもあった。そして、こまっしゃくれて生意気な女の子でもあった。
「だって、ローマ字じゃ、BUUKじゃないか」
せっかく上手に刺繍ができてご満悦だった僕は、横槍を入れられて正直にいってムッとした。そうしたら彼女は、
「先生! 本のことは英語でブック。BOOKですよね」
とあからさまにみんなのいる前で挙手をして尋ねる、というよりは、念押しのような質問をしたのだった。家庭科の教師は、若い女性だったような記憶があるけれど、
「ええ。そう。本は、英語では、BOOKね」といった。英文字といえばローマ字つづりしか知らない僕は、愕然とした。なに? なぜだ? どこがどうなっているのだ?
「でも、ローマ字で書けば、BUUKでも間違いではないわ」
家庭科の教師は、喧嘩両成敗のつもりか、そういって、どちらの肩をもつこともしなかった。それで、僕の心は半分は救われた。
(間違ってはいなかった。しかし、自分の知らない英文字のつづりがあった)
そのことで、僕の神経は剛直なものからレンコンのようにスのあるものに変わっていたのも事実だった。
休み時間。
僕のBUUKに横槍を入れた彼女が僕の横にやってきた。そして、こういった。
「先生、おかしいわよ。ブックは英語よ。英語だからBOOKよ。ローマ字なんて、ヘンよ。塾で習ったんだもん。

学校で習ったことしか知らない僕としては、習っていないことは知らなくて当然とおもっていた。英語? そんなものは知らない。知ったことか。
釈然としないし、第一先生が50%でも彼女のいっていることの肩をもったことにぶ然とした。習っていないことを知っているからといって、対等に評価していいはずがない。インチキだ! と。
違う世界があることを認めようとしない僕の世間の狭さと、反抗心だけが残るエピソードだ。しかしまあ、それはそれ。過去のこと。
で、塾だ。
つまり、塾には、学校で習わない知識を習得できる特典があるということだ。確かにそれは、一定の効果と報酬をもたらす。
件の彼女は中学校に入ってからも英語の成績は良かった。それに、僕が3カ月でやめてしまった塾にいた同級生たちも、中学校に入りたての頃は英語がもの凄くできた。
僕がThis is a pen.を異国の記号として解釈しようとしているときに、すでに、数100m先の曲がり角はとっくに曲がりきっていた。
ところが、僕が遅ればせながらコーナーを曲がったとき、彼らの背中はまだ見えていたし、追いつくまでにはさほど時間はかからなかった。もちろん、僕は平均以上の勉強もしなかったし、塾にも行かなかった。ごくごく自然にそうなっていった。おそらく、たいていの塾に行っていない子たちは同じ様な思いをしたのではないだろうか。まあ、とくに理解することを生まれつき嫌いな子供を除いてのことだけれど。

いまの塾の分からないこと

だから。そういう経験をもっているから。だから、塾に行かなければいい学校に入れないだなんていう話が、どうも理解できない。
ここの所は、想像モードになってしまうのだけれど。現在は誰もが勉強する時代なのだ。だから、多少記憶力や想像力が欠けていてもそれを学習によって補うことができる。補うことによって、試験という人間選別フィルターに引っかかることができるようになる。
知識の底上げだ。その底上げが、日本全土で行なわれている。したがって、できる子供とできない子供の差がなくなりつつある。その薄い層の中で、多種多様な試験が行なわれ、試験に引っかかるトレーニングをされているのだ。

僕は、塾というのは、一過性のスタミナドリンクみたいなものじゃないかと思っている。ゴクリと飲むと筋肉増強剤みたいにパッと効くあれだ。
「知識が一時的に不足しているぞ。ここは、ドリンク塾だ。ゴクリ・・・ぷはー! 効いてきた、効いてきた!」
っていう感じだ。飲んでいないと、効果がない。効果を持続させようとすると、飲みつづけなくてはならない。一種の麻薬だ。それを、小学校、中学校、高校とやりながら、大学に合格する。合格したらプッツリとやめる。そう。これはやめられる麻薬なのだ。
やめるから、それまで維持してきた知識レベルは急激に低下する。生来の想像力と知識が顔を出す。ま、実力ですな。そうすると、一流大学にようやっと入った彼と、大して勉強もせずにフツーの大学に入った彼のレベルは、ともすると逆転する。そんなことが日常的に起こっているような気がしてならない。

1997.03.17

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