2004年11月

シークレット・ウインドウ11/1109シネマズ木場シアター5監督/デヴィッド・コープ脚本/デヴィッド・コープ
見事にしてやられてしまった。観客をハメる手管は巧み。まあ、いささか注文もあるのだけれど、完成度は高い。
作家モートが得体の知れないシューターという男に「盗作したろう。結末を変えろ」と脅されていく過程は、下手なホラーなんかよりずっと恐ろしい。なんかこう、ざらりとしてもので撫でられているような、とてもおぞましい気分になった。不快感を抱えながら映画を見るのは、気持ちがいいものではない。この点では、あんまりいい映画であるとはいえないのだけれど、まあこれは人にもよるのだろうな。個人的には生理的に耐え難い部分もあった。しかし、途中から「あれ?」という気分になっていく。モートはシューターを襲うとか、追いつめるとか、そういうことをしない。不思議なのは、あれだけ脅迫されていながら、モートが山荘にもどってひとりで過ごしていることだ。依頼した弁護士を泊めればいいし、警備員でも雇って防御すればいいじゃないか。なのに、何かあるに決まっている山荘に戻っていく。そして、最大の「あれ?」は、弁護士と目撃者トムの遺骸が乗るクルマを池に落とすシーン。そんなことする必要はないだろ! シューターをとっつかまえて警察に突きつければいいじゃないか! と思ったのだけれど、これはもうすでに私が物語の演出に完全にハメられていたってことの証だ。モートが自問自答をはじめ、身体が分離していくところまで、真相が分からなかった。お見事。ラストが冷酷無比のままなのも、よろしい。
しかし、感想をいえば、また分裂症、または二重人格かよ、っていう不満である。意外性という意味ではよく使われる手段。何をいまさら、とも思う。それに、分裂症=殺人鬼、アブナイやつという一般論を定着させるという意味では、あまり賛成できない。「ER」でも分裂病だの躁鬱病だのが悪印象をもたれるような扱いをされているけれど、アメリカではそういうことにこだわっていないようだ。彼の国との価値観の違いなのだろうか。せいぜい"潜在的欲望=夢想"てな表現はできないものかね。さて、ホームページを見たら、スティーブン・キング原作だと。ふーん。なるほど、「ミザリー」と何となくテイストが似ていたのは、そせいか。
隠し剣 鬼の爪11/1109シネマズ木場シアター3監督/山田洋次脚本/山田洋次、朝間義隆
なんだいこりゃ。「たそがれ清兵衛」と同じじゃないか。貧乏侍が藩命で友人を切ることになる。友人は開国派、主人公は藩命に逆らえない平侍。幕末という時代に翻弄された人物を描き、サラリーマンに共感を持ってもらおうというのかな。ワンパターんだよな。もちろん、ラストで「必殺仕置人」に変身したり、侍の身分を捨てる展開は、「たそがれ」とちょっと違う。でも、ちょっとだよ。基本は同じだ。
それにしても許せないのが、くどすぎるセリフだ。たとえば、「首があぶない」というセリフがあって、場面では赤塚真人がキセルを火鉢に叩きつける。すると雁首が落ちる。つづけて同僚の武士が「あ、落ちた」というシーンがあった。まるっきりギャグを説明しているわけでバカじゃないかと思うのだが、同類の説明過剰セリフが満載の映画でもある。なんでもかんでも、気持ちまでセリフで言ってしまわないと心配なのだろうか。しかも、このセリフが自然な口語体になっていなくて、フツーこういう言い回しはしないだろう、ってなものが多い。訛りや方言の使い方も恣意的で中途半端。下手な芝居を見せられているみたいで、感情移入できなかった。
松たか子が、病気でやつれているはずなのに、顔がぷっくり、っていうのもいただけない。それにしても彼女の頬骨は盛り上がっていて、目立つね。下僕の神戸浩は相変わらず、存在感あり。
しかし、下級武士とはいえど百姓家から女中を預かれば、多少はその手をだすだろうにねえ。いやその、真面目な侍も少なくなかったとは思うが。あの2人はずっと関係がなかったのかなあ、などと下世話なことを考えてしまっていたのだった。それから、えー、最後の「必殺」技だけれど、画面では喉に向かっていたように見えたけれど、説明では心臓をひと突き。するってーと、着物の上からではないと刺せないのではないか? 医師が「人間か他のものか・・・」といっていたので、気になってしまった。
ターンレフト ターンライト11/4シネマミラノ監督/ジョニー・トー、ワイ・カーファイ脚本/ワイ・カーファイ、ヤウ・ナイホイ、オウ・キンイー、イップ・ティンシン
原題は「向左走・向右走」。内容は、最初から最後までずっと、すれ違いの話。で、見ているときは、さあどうなる? とワクワクさせて。見終わったら、爽やかな感動があって。とてもいい気分で映画館を後にできるロマンチック・コメディだ。
2人は入口は別だけれど、同じ建物の隣同士に住んでいる。けれど、金城武の方は右に曲がってでかける癖があって、ジジ・リョンは左に曲がる癖がある。だから、これまで近くに居るにもかかわらず、すれ違いばかり。しかも、10年以上も前にも一度遭遇していて、そのときの再会も実現できずにいた。その平行線がたまたまクロスしてめぐり逢い、でも、お互いに相手の電話番号が雨で読めなくなって会えなくなる。この単純な物語をユーモアたっぷりに描く。金城にはレストランの娘が惚れ、ジジ・リョンには医者が惚れるという、恋愛の四角関係(?)も用意されているのだが、このトリックスター的な役割を演じるレストランの娘が可愛いし、いかにもおきゃんな感じがとてもいい。医者の方も、コント山口君と竹田君の竹田君みたいで、オーバーアクションが最高におかしい。この2人が、いいところを随分さらっている。
金城武(およびレストランの娘)とジジ・リョン(および医者)と、その双方に同じ様な状況がシンメトリーのように発生し、話が進んでいく。これも、単純なのだけれど、次はどうなるかな、と思わせる力がある。なんだか、上質な劇(ブロードウェイかなんかの)を見ているようで、洒落ていて、引き込まれてしまった。ラストは数年前の台北地震を思わせるシーンだけれど、ハッピーエンド。いや、仕合わせな気分にさせてくれる。
トスカーナの休日11/5ギンレイホール監督/オードリー・ウェルズ脚本/オードリー・ウェルズ
海外移住と家の再生の物語である。もちろん、それによって自分も再生していくわけだけれど、そっちは刺身のつまみたいなもの。むしろ、異文化へのアダプテーションのほうが気にかかる。もっとも、シリアスに描かれているわけでないので、異文化との折り合いのつけかたがリアルに描かれているわけではないのだけどね。映画なんだから。
ダイアン・レインは作家。米国での生活から逃げ出してゲイのイタリアツアーに紛れ込む。で、たまたま気に入った家を衝動買い。再生しようとする。家を再生するというドラマは、見ていて面白い。ビフォアー・アフターみたいで、どういう生活空間にしようとしているのか気になってしょうがない。イタリアでも職人は外国人というのが興味深かった。本国では大学教授でも、食い詰めれば出稼ぎだ。これは世界中どこでも同じなのだね。オトコ日照のダイアンは、若い男に声をかけられて舞い上がる。この辺りは下世話な話で、まあ、あってもなくてもいいような話題。女好きなイタリア野郎を出さないことには話にならない、とでも思ったのだろうか。原作もあるらしいので、本来の描き方はどうなっているかわからんが、映画では、単に下半身のうずきを抑えられない、ごくフツーの中年女性になってしまっている。なにも品性の高い女性を描いてくれというわけではないが、女ってえのはイケメンに易々と身体を許しちまうのね、という印象はぬぐえない。まあ、フツーのオバサンであるので親近感も湧くし、バカな女の可愛さというのも十分に表現されているんだけどね。というわけで、ちょっとドジなオバサンが異国でさまざまな出来事にめぐり逢い、時に騙され、親切にされ、悲恋も乗り越えるというコメディタッチの自立への物語。ラストで理想的な男が旦那になってしまうなど、まったくもってご都合主義的なお話だけれど、まあ、ぼーっと見ている分には楽しめるドラマだ。でもなあ、移住と家の修理なんて、現実にはもっともっと面倒な現実がたくさんあるはずだぜ。
あまり作品を書かず他人への辛辣な批評ばかりしている作家フランシスにダイアン・レイン。この人、50前後か? と思っていたら、ホームページに1965年生まれとある。ふーん。まだ40前かよ。老けているけどまだ可愛いじゃないか、と思ってみていたのだけれど、ま、年相応ってことかも。イタリア人の不動産屋とか、怪しい中年女がいい味をだしている。ダイアンの古くからの友人女性として、のっぺり顔の東洋人がでてくるのだけれど、生理的に見たくない顔つきだ。なんでこんなキャラクターが必要なのだろうか。どうせ出すなら、見ていて不快にならない人にして欲しい。
血と骨11/18上野東急2監督/崔洋一脚本/崔洋一、鄭義信
いやー。見ていて気持ちが悪くなってきたよ。といっても映画自体にというのではなく、豚の屠殺とウジのわいた肉を食べるところ。豚はまあ、日常的に食べているのだから敬意をもって見つめなければならないが、ウジの湧いた肉をなんで食うのだ? これは韓国の習慣なのか?
セットは素晴らしい。よくもまあつくったものだ。市電の線路のある通りは、まあ、50mぐらいは本物で、遠景はCG合成なのだろうけど。それにしても、念の入ったセットだった。あとは誉めるところがないなあ。原作は読んでいないのだが、オリジナルの凄さをビートたけしは演じ切れていないのではないかと思う。セリフ廻しに迫力がない。元来がうわずった声でドスがきいていないから、まったくすごみが感じられないのだ。底なしの怖さ、そんなものが、まったく感じられなかった。その怖さなのだけれど、金俊平はもともとああいう性格なのか、なってしまったのか、そこのところが描かれていない。済州島からの船上の青年金俊平は伊藤淳史が演じていて、とても凶暴な男にはみえない。それが、次のシーンでは家族に嫌われる暴力男として紹介される。ここに飛躍がありすぎる。鈴木京香を犯すシーンがあるけれど、久しぶりに帰ってきて妻と一発やりたい、その気持ちのどこが悪い、ってな気分になってしまう。このシーン、話題になっているらしいけれど、実際に見てみると荒々しい迫力はさっぱりない。たけしがチャックを下げるところになると、鈴木京香は抵抗をやめて、待っていたりする。これでよく監督がオーケーを出したものだ。こういう演出の中途半端さは一貫してあって、カット割りを余りせず、ミドルショットでリアルを追究しようとしたのかも知れないけれど、なんだか、のそのそもこもこしているだけで、がつがつした感じがさっぱりつたわってこない。こんなんで、監督はほんとうに満足しているのか? ビートたけしに遠慮があったんじゃないのかね。編集もリズム感がなくて、カットのつなぎももたもたしているところが多い。なんか、間の悪いつなぎ方なのだ。
ただでさえ迫力のない金俊平が暴力沙汰を起こして、みなが怖がっている理由もよくわからない。いやならさっさと逃げればいいじゃないか、と思ってしまう。戦後の日本で在日朝鮮人が生きていくのはたいへんだった、という反論もあるだろうけれど、死ぬほどの怖さから逃げることの方が簡単じゃないか、と思えてくる。だって、金俊平はヤクザでもないし仲間がいるわけでもない。単なる個人に過ぎない。後半で娘が首を吊って死ぬのだけれど、死ぬほど辛いなら、どっかへ逃げて女給でもなんでもやって暮らせばいいじゃないか、と思ってしまう。そんなこともできないほど、在日の世界は厳しかったのか? いや、それができないなら、みんなで共謀して金俊平を殺しちまえばいいじゃないか。見ていて、そんなふうに思っていた。
首を吊った娘といえば、これが、近所の人が弟を捜して現場に連れてくるのだけれど、連れてくるまでぶら下がったままにしておくって、ありなのか? さっさと降ろしてやれよ。知り合いなんだろ? とも思ってしまった。
さらにいえば、なんだか長時間ドラマを2時間ちょいのダイジェスト版にまとめましたから、ってな、上っ面を駆け抜けていくような印象がぬぐえない。人物への掘り下げも少ないし、だいいち、誰が誰やら、誰と誰がどういう関係なのだか、とても分かりにくい。描くべき時代やエピソードを絞った方がよかったんじゃないのかね。物語をフラットに詰め込みすぎだと思うぞ。
で、途中からも考えていたのだけれど、見終わって「いったい何がいいたいのだ?」と考えた。さっぱりそれが分からない。単に、そういう男がいた、というだけのこと。だからどうした、である。別に日本における朝鮮人の存在を考えさせるわけでもない。酷いことをしたことに対して、金俊平が死ぬ間際に悔悛するわけでもない。迷惑をかけっぱなしで人まで殺して、人を苦しめて、なんと最後には北朝鮮に渡って死んでいる。なんなんだ? 日本という存在との接点は、わずかしか描かれていない。メッセージ性が強い必要はないけれど、見ている側に嫌悪感しかつたわってこないのでは、それでよかったのか、どーも疑問である。
キャットウーマン11/18上野東急監督/ピトフ脚本/ジョン・ブランカート、マイケル・フェリス、ジョン・ロジャーズ
ピトフって、誰だっけ? 記憶にあるが・・・。で、おお「ヴィドック」の監督か。2度見て2度とも寝てしまった映画だ。やれやれ。
最初の頃はカメラぶんまわし、空や空間を飛び回るカメラに目がくらくらした。だけど次第に落ち着いてくる。ま、映画のリズムが、カメラの動きでつくられるというのも、ありなのかな。この感触は映画のラストまで一貫していて、慣れてくれば気持ちよく見られた。
お話は、いかにもチャチ、というかアメコミ的。でも、まあ、シンプルな勧善懲悪というカタチで整っているので、そんなにバカげているようにも見えない。たとえば「バットマン」や「スパイダーマン」はバカげたつくり話だし、敵役も奇想天外だったりするけれど、この映画では生身の人間に近いからだろうか。とんでもなくひどいものではなかった。
化粧品工場の2人のガードマンの1人は東洋人。見たことがあるなと思ったら、「沈黙の聖戦」にでていたバイロン・マンだった。なかなか男前に映っていたぞ。
最後の女の戦いになるのだけれど、ここはかなりヘン。だって、たかが化粧品会社の社長夫人とバトルになるのだぜ。なんで社長夫人がそんなに強いの? と思ったら、化粧品の悪作用で面の皮が厚くなってるって話らしいけど、化粧品で肉体まで強くなれるのか? だって、ハル・ベリーのデブの同僚は化粧品をちょっと使っただけで貧血状態になってただろ。それじゃつじつまが合わんだろと思うがね。それと、フルCGのキャットウーマンが、いかにもアニメになっちゃってるのが、残念!・・・というようなアラはあるのだけれど、軽快なタッチで、何にも考えずに見るには良かった。
ユートピア11/21シネセゾン渋谷監督/マリア・リポル脚本/クーロ・ロヨ、フアン・ビセンテ・ポスエロ
どこの映画だ? どーやらスペイン映画らしい。監督は、名前からすると、これは女か? で、予知能力をもった青年アドリアンがボリビアでボランティア活動しているアンヘラという女性を救い出す話。なのだけれど、なぜ彼女を救わなくてはならないのか? 彼女が、それほどまでにして救い出さねばならない存在なのかが描かれていないので、どーも説得力がない。もっと、救わないと世界が崩壊するとか、なんか壮大な課題として設定されないと、なるほど、と思えないと思うぞ。それでなくても、予知能力がテーマの話なんて腐るほどある。なのに、映画のテーマはどうやら「予知夢でみたものは、変えられる。運命は変えられる」ということらしいのだ。これって平凡すぎるというか、古すぎだろ。
そもそもの事件の発端の謎、すなわち、ユートピアと署名して爆発する件だけれど、これが最後の方まで解明されないままなのだが、最後にちょっと触れられていて「未来が見えることに耐えられず、狂気に陥って自殺した」という、ただそれだけらしい。そりゃあないだろう。もうちょっと納得のいくような説明というか理屈をつけろよ。それじゃあまりにも、しょぼいだろ。
イメージが先行する映像なのだが、ちゃらちゃらちまちましていて、印象として残る画像は少ない。さっさと記憶の片隅に追いやられ、消え去ってしまいそうだ。
ラストで師匠からアドリアンにあてた手紙が読まれるのだが、「悪夢に終止符が打てたはずだ」というくだりでアドリアンがにやにや笑う。これが、意味不明。
トリコロールに燃えて11/22新宿武蔵野館1監督/ジョン・ダイガン脚本/ジョン・ダイガン
シャーリーズ・セロンは可愛い。それだけで終わりにしてもいいんだが、中途半端なつくりにいくつか注文をつけておこう。そもそも大学生のガイと、金持ちの娘で教授の愛人のギルダー(シャーリーズ・セロン)が惹かれ合うようになる、って過程が、単にたまたま出会っただけ、ってぐらいにしか描かれてない。それだけで、この2人の関係性を10何年も引っ張っていこうというのが、そもそもの間違いだと思う。でまあ、最初の60分余りは退屈な映画である。ガイとギルダーの出会いと別れと再開と愛の日々。まあ、それだけなんだけれど、だからどうした的なお話ばかり。もうちょいとギルダーの奔放さ、妖艶さ、引き留めておけない自由人的な性格を強調すべきだろう。まあ、シャーリーズ・セロンでは、そういう妖しさはだせなかった、ということなのかも知れない。ただの可愛い淫乱な女にしか見えないからね。とろけるような魅力、危険な匂いがなさすぎだ。というわけで、最初の60分余は誰が何を考えているのか、何をしようとしているのか、どこに向かおうとしているのか、というのがほとんど見えなくて、話はとてもつまらない。それが、急転直下変わる。スペイン戦争への関与である。
そもそもガイはスペイン戦争に関心を抱いていた。それから、ギルダーと同居していた元ストリッパーのモデルにして看護婦はスペイン人のミア(ペネロペ・クルス)も、スペインのことが気になっていた。というわけで、この2人はギルダーを置いてスペインに行くわけだが、それまでの気怠い男女関係の世界からいきなりドンパチの世界である。しかも、ガイは戦争から戻るとイギリス軍に入隊してナチ占領下のバリで諜報活動に関与する。どーゆー展開なのだ! つていうか、前半の退廃的な様子が中途半端すぎて、後半への予兆が感じられないのだよ。もうちょいと時代の激動する様子や、翻弄される人々、てな様子を描き込んで欲しかったね。まあ、ペネロペ・クルスがいつものバカ女って描かれ方ではなく、強い意志をもった女性として演じているのは、光った。
で、パリでナチ将校の女として生活していたギルダーが、実はこれも諜報活動を・・・ってのは、なるほどねというか、こうやって花を持たせないと終われないよな、という展開であるが。しかし、前半であれだけ自由気ままに自分のために生きるといって行動してきたギルダーが、なんでそうなるの? ってな疑問も残ってしまう。なんか唐突すぎるのだよな。
スペイン戦争からパリ陥落まで、時代のうねりに翻弄された男女を描くドラマにしては、大きなうねりも感じられないし、時代の変化や変節の様子もうかがい知れない。もうちょっと前半を刈り込んで、ファシズムやナチの影を色濃く織り込み、時代に追われるように生活する男女を描けなかったものかね。いささか突っ込み不足でもの足りない。それと、ついでにいっておけば、パリ市内の街区のセットがちゃちい。アングルを変えて使いまわししているせいもあって、どーもスケール感がなく、映画のダイナミズムに貢献しているとはいえそうもないぞ。あと、それから。冒頭の、少女の手相を見て「お前の20年後(だっけか?)」が見えた、っていうシーンは不要だと思う。
風を吹かせよう11/22有楽町朝日ホール監督/パルト・セン・グプタ脚本/●
TOKYO FILMeX・コンペティション/インド映画である。いきなり少年が売春宿で義務のようなセックスしているシーン。テレビではインドとパキスタンが核開発競争をしている話。ニュース番組ではカシミール問題が話されたり、ブッシュが登場したり。人々も政治談議していたりする。しかも、若者たちは酒を飲み、女と談笑し、インド音楽風ディスコに入り浸っていたりする。こういうことからして、フツーのインド映画とは異なるテイストだ。インドの今が活写されている様子は、新鮮。しかし、中身は散漫。主人公は高校生か大学生の青年だ。悪い友達と夜な夜な映画を見たり酒を飲んだりディスコに行ったり。卒業後も安定した職につくつもりはない。彼の友達たちは学歴もなく、もっと荒んでいる。ドバイに行ってアメリカかぶれになっていたりする。一方で青年は同級生の女の子に恋心を抱いている。彼女の老祖父母はかつての建国の闘士で、今は上流階級・・・。てな状況が延々と展開されるだけで、青年自身の悩みがどこにも表出されない。不満のはけ口を求めるわけでもなく、ただ漫然としている様子に、見ている方も感情移入できない。なんか、コトを起こせよ、と言いたいぐらいだ。せいぜい事件といえば、青年のが友人が踊り子の女に入れあげる程度。で、どーなるのかと思っていたら、ラストがいきなりSFである。なんと、印バ両国が原子爆弾を発射し、あと32分後に主要都市は壊滅する・・・、て終わってしまうのだよ。なんだよ、この終わり方は、である。
見てくれ、テーマ、描写などが日本の1950年代の映画のテイスト。とくに、ときどき入ジャーンというピアノの音が、古臭〜い日本映画によく使われているものと酷似している。まあ、どんな国家も自由主義への脱却の時期、経済発展の時期があって、異文化が混入して生活が荒れたりする。そういう時代に、警告のようなメッセージをもった映画が生まれるものだ。この映画もそんな映画のひとつだろう。時代性を色濃く反映している。しかし、描写が甘いので、何をいわんとしているのか、切れ味が悪すぎる。
ティーチインで監督が出てきた。「歌や踊りのない映画も昔からある。ただ、劇場にはかかりにくい。もっとも、最近はシネコンもできてきてコンテンツ不足。かかるチャンスもふえつつある」といっていた。しかし「この映画はインドではまだ未公開。政治的なメッセージが強いので、検閲を通かどうか分からない」そうだ。「インドも、若い世代は昔の世代のように文化を守ることはなくなりつつある。そんな若者の、社会を変えようという気持ちを表現した」とも。で「挑発しているつもりである」ともいっていた。その心意気は、買いであるけれどね。
今回のTOKYO FILMeXでも初っぱなからスタッフや運営方法で議論してしまった。その模様はここに。
戦場の中で11/24有楽町朝日ホール監督/ダニエル・アルビッド脚本/●
TOKYO FILMeX・コンペティション/レバノン映画である。1983年の内戦時代が背景で、でも、その説明は一切ない。というか、戦闘シーンはなくて銃声や砲声、砲撃を恐れてときおり防空壕にこもる様子がある程度。あとは、ある一家の物語。主人公は12崔の少女。父親は博打びたりの借金漬け。毎日のように借金取りがやってくるが、女房のモノも持ち出して博打に走る。そのおかけで妻は家でまでする始末。大きな家らしく父親の姉も同居しているが、姉からも見捨てられている。他にも父の妹らしき人もいたりするが、実際の家族構成がどうなっているか、よく分からない。少女が友達のようになついているのは、家のメイド。かなりトロイ女だが、男には手がはやい。どーゆーわけかメイドは彼とのデートに少女を同行して、見せつけちゃったりする。このあたりが、意味不明で分からん。博打場でボコボコにされる父を見る少女。家族の罵りあいを見る少女。ときどき顔を水につけて、そういう現実から一瞬逃れようとするが、現実は変わらない。けど、この少女は現実が分かってないのかも? と思わせるところもある。メイドが「彼と逃げるからてつだえ」といっているのに、それを叔母に告げ口。おかげでメイドは部屋に閉じ込められるのだけれど、なぜそんな行動に出たのか理解できず。まあ、こういう、どーでもいいような、たわいのない出来事が80分ぐらいつづいて、ある夜の爆撃で博打好きの父親が死ぬ。家族は泣いているけれど、これは嘘泣きなのか? よく分からん。葬儀のどさくさにメイドは部屋から脱出し「なんでチクった」と少女の首を絞める。それを外に見られたメイドは外にトンズラ。それを追って、少女も外へ。で、エンドなのだけれど、何が言いたいのかさっぱり分からなかった。長辺初演出の女性監督らしいが、映画とは何かか分かっていないような気がする。つたえたいことはあるのだろうけれど、それをどうやってつたえていいのか、ノウハウが分かっていないといったところか。ただ漫然とエピソードを重ねていっても、エピソードに意味がなくては映画にはならない。ひたすら退屈なだけ。コンペティションに参加するようなレベルの映画でもない。
4時前に前売の3回券を座席指定券に変えるためカウンターに行くと「どの席がよろしいですか? この中から・・・」と座席表を示される。おお、態度とシステムが一変した。ひょっとしたら一昨日叱りとばした効果があったのかな? 場内は依然として不入りで600席に100人超程度。斜め右2メートルぐらいの、いつも関係者が座っている席に韓国系のちょいといい女が座った。ちらちら見ていたらオタク風高年齢青年が近づいてきてDVDやら書籍を差し出してサインを求めている。チラシを見ると審査員の中にムン・ソリの名があった。たぶん彼女だ。調べたら「ペパーミント・キャンディー」「オアシス」「大統領の理髪師」なんかの女優らしい。映画が終わってティーチインが始まろうとしたら、斜め前の席に評論家の佐藤忠男がやってきた。
そのティーチインには、監督が登場。「戦場の中ではあるが、家族の戦いを描いたつもり。これは自伝的要素も濃い。もっとも、家族も見ていて、よかったと言ってくれた。犬を殺すシーンがあるが、あれは父が犬を殺すといっていたことからのイメージ。そういう経験したエピソードが描かれているが、あくまでも要素として入れているだけ」というようなことをいっていた。
プロミスト・ランド11/25有楽町朝日ホール監督/アモス・ギタイ脚本/●
TOKYO FILMeX・特別招待作品/イスラエル映画である。今年のFILMeX3本目にして、不通レベルの技量をもった監督による映画を見たような気がする。もっとも特別招待作品なんだから当たり前のような気もするが、それでも、日本で興行的に公開できる映画かというと「?」首をひねってしまう。だいいちに、いろいろと説明不足。いつ、だれが、なにを、どのように・・・が、具体的に提示されない。提示されまいままだらだらと進むから、どーもスッキリしない。まあ、それでもアウトラインが分からなくても共有できる部分があるから最後まで見通せた。
若い女たちが砂漠にいる。同行しているのはアラブの男たち。一行はどこかの国境近くで競りにかけられる。売られていく先は、イスラエル(?)の淫売宿。逃げ出したいと希求する女がいて、彼女がある女に懇願する。ある女は、いまは娼婦をしていないが、実はかつて売られてきた身。あるとき、淫売宿で爆破事件が起こる。死傷者が散乱し、救急車やパトカーがやってくる。逃げ出したいといっていた女は、錯乱して路上で叫んでいる。彼女を、ある女が引きずるようにその場から立ち去り、道路の中央分離帯をまたいで去っていく。「やっと逃げられた」といいつつ。
・・・てな内容。これをドキュメンタリータッチで描く。それはいいんだけど、場所や背景がほとんど描かれない。切れ切れに分かったのは、女たちはエストニアあたりからやってきて、国境でベドウィンから引き渡され、途中で紅海らしきものを見た、という程度。東欧からサウジ辺りを経てイスラエルに入った、ということかな。で、彼女たちが何者であるか、分からない。旅行者でさらわれたにしては、みな落ち着いている。中の一人などアラブ人に暗闇に連れていかれ弄ばれるが、悲鳴も上げないのだ。では、女衒に買われてきた女たちか? にしては、女郎屋で堂々と働いている女が大半。一体、何者なのだ? こうした中で、1人の女が「逃げたい」という意志を表すのだけれど、一体何から逃げるのだ? だいたい、彼女たちが競りにかけられた、あの代金は誰の手に渡るのだ? とかね、いろいろ分からないまま進行していく。てなこともあって、彼女たちがとても可哀想な境遇にあるというようにも、あんまり思えなかったりするわけだ。
で、FILMeXのチラシを見ると「東欧から連れてこられた娼婦たち」とあるではないか。なーんだ。最初から彼女たちは娼婦で、それが、東欧の雇い人たちから売られたということなのかな。まるきり自由がない、アンダーグラウンドな娼婦なのだろうか? ああ、分からん。分からない映画は、結局のところ、つまらない映画であるということになるのだよ。ええい。今年のFILMeXは外れ映画ばっかりだぜ。
ビハインド・ザ・サン11/26新宿武蔵野館2監督/ウォルター・サレス脚本/ウォルター・サレス、セルジオ・マチャド
ブラジル映画。青年の自立と旅立ちの物語である。しかし、並大抵の旅立ちではない。古い因習やつまらぬプライド、そして、土地や両親からの旅立ちである。成人したから家をでるという類の、どこにでもある自立ではない。
設定は100年近く前のブラジル。両親と息子3人の家族が、近隣の一家と土地問題で骨肉の争いをしていた。争いは何世代も前からつづき、先日も3人の息子のうち長男が殺されたばかり。その仇討ちに、次男が向かわされる。次男は相手一家の主人を殺害。今度は、相手一家の長男(?)が、こちらの次男を殺しにやってくる・・・。という案配で、いつまでたったも終わらない閉塞的な状況。まるでアラブとイスラエルのよう。いや、世界にいくらでもある領土問題や宗教問題を連想させる。
映画は三男の視点から語られる。村に男女2人連れのサーカスが来るのだが、三男は本をもらって大喜び。三男にとって火吹き女は海を自由に泳ぐ女神というイメージになる。しかし、火吹き女も、自由のように見えて閉塞的な状況にある。彼女は、サーカス男が以前組んでいた相方の娘のようだ。彼女は彼女で、サーカスではない別の世界を求めていたのだ。さて、次男は火吹き女に一目惚れしてしまう。次男は、それまで一歩も出たことのなかった村から別の村へと、サーカスの荷車に乗ってでかけていく。そこには知らないいろいろなものがある。彼は、井の中の蛙であったことを自覚する。そして、隣家との不毛な争いからQuitすることを決意することになる。火吹き女にとっても、次男は自分を解放してくれるナイトに見えた。彼女もサーカスをQuitすることを決意する。
残るのは、時代遅れのサトウキビ絞りをしている両親だ。広い世間を知ろうともしない両親。彼らのサトウキビ絞りは、牛に引かせる原始的なもの。牛は半径3メートルぐらいの円をぐるぐる回る一生を送る。ここにも、閉塞的な状況が象徴的に描かれている。
ラストは意味深。次男と火吹き女が一夜を過ごし、女が去っていく。寝むりこんてせいる次男。雨。この雨が、一家の室内の灯りの炎や、火吹き女の炎と対照的に描かれている。雨の中、隣家の追っ手が銃で狙っている。雨が上がり、三男が、次男がしていた喪章と次男の帽子を被って外に出る。まるで狙ってくださいとでも言うように。隣家の追っ手。銃声・・・。次男が、撃たれた誰かに涙する。しかし、撃たれたのが誰かは描いていない。たぶん三男だと思うけれど、ひょっとしたら火吹き女が間違って撃たれたという可能性もなくはない。次男は撃たれた犠牲者をそのままに家に戻り、そして旅立っていく。ここでまた、二股の道が象徴的に使われる。いつも歩いていく道と違う道に曲がっていくのだ。
あまりにも分かりやすい映像的な象徴原語が使われている。だから、新しさはない。けれど、閉塞的な抜け出すんだ。つまらぬプライドなど不要だ。意地を張ることになんの意味がある。とい一直線に言われているような気がしてきた。100年前のブラジルの土地問題をモチーフに、現代の国家間や人と人との争いを笑い飛ばしているみたいなところもある。ラストがちょっと分かりにくいのが辛いが、なかなか緊張感に満ちた映画だった。
次男役の役者が、なかなかハンサム。火吹き女はほんとうに火を吹いていたのが印象的。なんとなく素朴な愛らしさがあるのも、よかった。

 
 

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