ソフトウェア開発のダイナミズム

少しだけ人類学

 商業上の競合は、兵士の倫理から進化し、血なまぐさい側面をもつ。敵を征服し、敵の資産を強奪し、敵の未来を打ち砕きたいという、原始的でほとんど偏在的なまでの衝動と比べれば、やや洗練された代用物ではある。競合を「血なまぐさい」と言ったのは、敵の子孫を犠牲にして自分の子孫のために豊潤な環境を作り出す、という側面があるからだ。敵の身体からほとばしる鮮血は、敵の子孫繁栄の可能性がなくなり、自分の子孫が世界を支配する可能性がより大きくなったことを如実に表している。

 このような直接的な人間同士の闘争の概念を抜きにしても、人間集団における狩猟文化の(比喩的)急激かつ並外れた発展は、集団による侵略を成功させるための個人の集団への参加、という特性を必然的に選択してきたに違いない。侵略の見指すものはただ狩猟の獲物だけの場合もあったろうが、土地の所有と耕作を目的とした闘争もあったはずだ。このことから、人間は、目的を遂げんがために団結する遺伝的素質をもった者たちだ、と結論づけられよう。このような遺伝的素質の遂行を「チームワーク」と名づけることができる。「チームワーク」という言葉は、多くの人にとっては、ごく日常的な、地に足のつかない博愛や見返りを得ることのない善意を表している。しかしチームワークとは本来、低いうなり声を上げながら子羊にしのびよる、悪意のある狼の群れのイメージによって象徴されるものなのである。狼たちは何の呵責もなく近づき、絶妙のタイミングで襲いかかり、恐ろしい征服の舞踏を踊るのだ。


ソフトウェア開発リーダーのための
折衷主義的な参考資料
 私が本書で提示したアイデアがどこから出てきたものなのか正確に言うのは難しい。おそらくさまざまな本や、本書の冒頭の謝辞にその多くを記載した人々が源だろう。しかしここで、さらに広い世界の中でヒントを見つけられる場所を明記しておき、重要な概念や人物への有益な(誰でも知っているとしても)指標を示したいと思う。私の物の考え方に重要な影響を与え、おそらく読者にも影響を与えるであろう、思想家、作家、および歴史上の人物について、簡単な解説を加えてみよう。  この本の一番最後に出ている、参考資料・・ではないと思うのだが、読者に挑戦的な一節である。
 近代人を自称する人はすべて、フロイトを基本的に理解しておく必要がある。フロイトの際立った洞察力を正確に記述した本を読もう。フロイト自身の著作、書簡集、伝記、そしてCliffs Notes社の本でもいい。映画を見てもいいだろう。とにかくフロイトはチェックしておいた方がいい。何らかの手段で、われわれの最も偉大な心理の探究者についての認識を深めよう。できれば何らかの心理分析を受けてみるといい。金がかかるし贅沢ではあるけれど、あなたの意識にまったく新しい次元が(必ずとは言わないが)加わる可能性がある。  『夢判断』は一度、二度、読んだ。深層の欲求が夢となって表現されるので、それを解釈するといった内容だったと、うろ覚え。
 なんだか確かに非常に説得力があるような気がした。
 だが、ミシェル・フーコーの『言葉と物』を見て、表現されたものの奥に何か本質がひそんでいる、と考えるか、見たものはそのままその本質であると見るのか、最後まで見えない本質というのものの想定(解釈の可能性)というのを夢に見るのも何か疑ってもいい気もする。
 ダーウィンは言うまでもなくわれわれの最も偉大な自然の探求者である。彼の発見成果は思いもよらないほどあらゆる分野に応用されている。ダーウィンの物の見方について手掛かりを得よう。そうすることで、応用できないまでも解釈できる情報量が何千倍も増えていくはずだ。同じ分野では(ずっと同時代的だが)リチャード・ドーキンス、とくに『The Selfish Gene』(『利己的な遺伝子』紀伊国屋書店刊、1991)をチェックしよう。ドーキンスを読めば社会における進化の役割について考えさせられるはずだ。  ダーウィンの『種の起源』こそ、近代だと思う。ドーキンスも大好き。このあたりは確かに思想というものを形づくる大発見であると思う。
 デカルトの『方法序説』は、今日ではある程度誰にも染み込みすぎてあたりまえな印象があるが、『種の起源』は「発見」、今日でもハッとするような、それを知っている人と知らない人を分けるような、そんな部分がある。だからこそ、これこそが「近代」というものを感じる。
 シェークスピアにも時間を割こう。長い時間を費やす必要はないが、卓越したリーダーはシンボルの持つ美と自分の影響力・指導力に対する感覚に優れているものであり、シンボルの操作という点ではシェークスピアが絶対的な第一人者なのだ(『夏の夜の夢』はソフトウェア開発と似てないことはない)。  ケネス・ブラナー監督・主演の『ハムレット』を映画館で見た。長い。長い。映画も長いが台詞も長い。なんだか渋い俳優が次から次から、ここぞ正統派の演技のしどころ、と、楽しそうだった。
 リンカーングラント将軍、そしてチャーチルは、私がとくに興味を抱く指導者たちだ。グラントはソフトウェア開発マネージャとしても偉大だったに違いない。自ら戦争に突入し決着がつくまで決して攻撃の手を緩めなかったからだ。チャーチルはあらゆる点で研究に値する。彼は類まれな才能を持っていた。彼の信念への疑いが渦巻く中で信念を貫き通し、言葉の力と熟練したシンボル操作を通じて連合軍の忍耐と勝利への活力を導き出したことからも分かるとおり、恐るべき霊的なスタイルのリーダーシップを持った人物だった。彼の演説はそのまま無韻詩だったのだ!リンカーンは極度なプラグチズムと情緒的な共鳴力を併せ持った人物だった。  この辺は全然ついてゆけない。
 歴史は大学に入るまで退屈の極みにあったのだが、ゼミで日本経済史を習って、こういうのに熱狂するというのもありうるのだと感じた。
 京都に行ったときも、パリに行ったときも感じたが、歴史がわからないと、何が面白いのかわからない、ということも確かにある。
 ソフトウェアは独自の近代性を帯びた表現の一形式であるため、近代的な形態に対する感受性を養う必要がある。ピカソの作品、時代、雰囲気に接するといい。近代技術はピカソに端を発している。芸術は現実の最も極限的な境界を越える。デザイン、ファッション、およびその他の美の関連項目は、すべて芸術を起源としており、その後の文明を美学の波で洗い洗練される役割を果たす。建築、音楽、および他のすべてのデザイン作品は、さまざまな普遍的および同時代的な情動に形を与える。自分の生きる時代について考えよう。  近代の芸術大好き。ピカソの自画像のポストカードが私の子供のころから家に飾ってあって、「あれはあなた」と言われていたので、結構信じていた。いや、それがピカソの自画像とわかった後も、なんだか自分のような気がしている。
 美学理論については本文の中でも少し考察を加えたが、ルドルフ・アルンハイム、とくに『Art and Visual Perception』(『芸術心理学』地湧社刊、1987)を読むことをお勧めする。この本にはユーザーインターフェイスの設計と競合力のある製品を制作するために必要なすべてが書かれている。  この辺もついてゆけない。
 ユーザーインターフェースといえばアラン・クーパーの『About Face』を読んで、画面というのが言語であるというのが、よくわかった気がする。「見る人に失礼のない画面にしないとね。」というと冗談だと思われるのだが、そうでもない。以前はWindowsは「あなたは不正な処理をしました。このコンピュータを使う資格はありません。」といったメッセージが出てきていたのだが、XPではなんと、同じ障害でも「ごめんなさい。あなたが悪いのではなく、マカフィーが悪いんです。」などと謝るようになっている。びっくりした。
 歴史感覚を養うための最も快適な方法は、Will and Ariel Durantの大作『The Story of Civilization』を読むことだ。偉大なソフトウェアを制作しようと思うのなら、歴史的な次元を考察する必要があり、それには近代化の大きな流れを把握しておくことが不可欠である。
 人々の意識を開かせる方法を学ぶには、映画『バベットの晩餐』を見るといい。あなたはリーダーとして、多くの時間を費やし人々に物事を体験するための実り豊かな方法を示唆する必要があるが、この映画はそのやり方を教えてくれる偉大な寓話である。  「これこそまさに鴨の棺桶風。」プロってのは、こういうもんだよな、と感じる。
 芸術家(たとえばソフトウェア開発者)の使命とその真のあるべき姿は、映画『エド・ウッド』に描写されている。  最高。何が最高かというと、この映画、ちょっとついてゆけないぐらい走っていってしまうのです。最近、この映画に劣らない、暴走系の映画が『少林サッカー』だと思う。底抜けに、何のテライもなく、客に媚びない。いい感じ。
 以上のようなインスピレーションの源を探求する気にならない人は、ひたすらソフトウェアを作り続けるといい。それだけでも上達することは確かだ。

(『ソフトウェア開発のダイナミズム』ジム・マッカーシー)

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