霧と風に乗ったドラゴン

The Tao that can be defined is not the real Tao.
The name that can be named is not the real Name.
The unnamable [Tao] is the source of Heaven and Earth.
Naming is the mother of all particular things.
Free from desire, you experience reality.
Trapped in desire, you see only appearances.
Reality and appearance have different names,
but they emerge from the same source [i.e., the Tao].
This source is called darkness, deep darkness;
and yet it is the way to all wisdom.
Lao Tzu
紀元前5五世紀頃の話である。漢王朝に、太史令として使えた宦官である司馬遷の記述によると、現在の中国である周の帝都に、当時の学者であり弁士であった孔子が、賢人老子を訪ねたことがあった。

孝悌と修学を通じて社会の完成をめざすという自らの理想によって、すでに孔子も名声は確立していた。彼は社会のなかに固定された役割を見出し、役割の間に築かれる調和のとれた関係の一覧をまとめ上げた。さらに孔子は、万物の道徳的秩序に基づいた、試験可能な礼儀作法というものを定めた。この道徳的秩序は、天からの下命として示され、学を修めた賢人によって解釈され、彼らが作る試験、暦、儀式、計画の中に組み込まれていくものである。何千年ものあいだ、巨大な中国の官僚機構はこの方法に従ってきた。孟子、法家、朱子学など、多数の分派が孔子の教えから生まれたが、そのどれもが、混沌は「正しい儀式のやり方に無関心なこと」または「指導者が儀式を誤って執り行うこと」から生まれるのだ、という点で一致していた。 伝統的なソフトウェア方法論は、この儒教の教えに似たところがある。技術者たちに固定的な役割を割り当て、彼らの間に様式化された文書をやり取りさせることで、プロセスの完成を目指す。前もって定められた時間に定型文書をきちんと完成させること、そして文書の作成者が誰であるかを明らかにしておくことに強調点がおかれる。伝統的なソフトウェア方法論者が、失敗や遅延を説明するときの言い草もそっくりだ。彼らは、手順において間違いがあった、または管理者がプロセスを誤って適用した、などと言い出すのだ。

老子に関しては、そもそも実在の人物ではなかったかもしれないし、そもそも彼が著したとされる書物の作者でなかったことは確かだ。老子という名前ですら作られたもので、「年老いた哲学(者)」という意味でしかない。反儒教的な考え方を風刺や謎かけに託した、マークトウェイン風の放浪者である荘子によるものと思われる話がある。その話によると老子は周王朝の守蔵室(図書館)の書記官であったが、堕落していく帝国を後に、その地を逃れ出たという。雪に覆われた峠に至ったとき、関守の尹喜(いんき)に、シナを見限る前にどうかその学識を後世のために記録してほしいと請われたという。賢人はこれに応じ、「道徳教」と題した韻文を書き上げた。「道徳教」とは、ざっくり言えば「流れと調和について」という意味だと考えてよい。そして老子は知られざる地へと旅立ち、それ以降、神話の世界からも姿を消すことになる。

エクストリーム・プログラミング(XP)と老子の詩作には、驚くほど似通った点が認められる。Kent Beckが「知られざる地」に旅立ってしまったわけではないが、彼の方法が、直接のフィードバック、反復的なプロセス、そして使い捨ての成果物などに関心を寄せている点は「道徳教」と同じである。Beckは、変化に乏しい「ドキュメント」を儒教者の奉った聖堂から追い落とした。それらのドキュメントを、一貫性と完全性を体現する偶像ではなく、単に「軽くて便利なもの」といった扱いに変えてしまった。徐々に完成に近づく、互いに調和の取れた成果物たちのかわりに、XPが目指しているのは、ソフトウェア開発における太極拳のようなものである。すなわち、リズミカルな実践の連動からなる武術であって、これによりオープンな意思疎通、臨機応変なスケジューリング、そして顧客と開発者との密接なパートナーシップを維持しようとしているのである。

孔子と老子の対面の話は、後世になって付け加えられた。儒教と道教の教えは、改定され、寄せ集められ、仏教と混じりあい、何度も注釈が加えられ、そのことで呪術、政治、武力闘争、ヨガ、詭弁、その他もろもろの誇張をひっくるめた彼らの膨大な聖典を、もっともらしく見せようとしてきたのだった。紀元前500年に実現されたとされる2人の対面の話には、両者の緊張関係がはっきりとあらわれている。

司馬遷の記述を見よう。孔子が訪れたとき、老子は周の守蔵室で忙しくしていた。孔子は、祝祭を行うべき時期とその作法とか、古賢の貴き言葉とかいった事柄について、探るような質問で武装してのり込んできた。老子はこれに応じて答えた。儀式など空っぽだ、人は機をつかむことのみによって利がもたらされる、自らを賢者と呼ぶような奴はみんな愚か者に他ならん、貴殿に告げるべきことはただ一つ−−学問を忘れ、自然に学べ。

孔子は弟子のもとに戻った。弟子たちはこの対決の結末を知りたがった。「私は魚を釣ることはできる。鳥を撃つことはできる。兎の罠を仕掛けることはできる」孔子は言った。「しかし、霧と風に乗った竜を前にして、いったい何ができようか?」

(『XPエクストリーム・プログラミング検証編』Peter Merel)
原文

こさぼのページ