フチャの青い空
一
空はどこまでもどこまでも青くひろがり、太陽はふかくふかく赤く輝いていました。
まず、どうしてフチャが学校からの帰り道を、こんなにもいそいでいたのかを話さなければなりません。となりの席に座っているセバのお父さんが、ひさしぶりに家に帰って来たのです。それも、新しいぴかぴかのすてきなボールを、セバへのおみやげに持ってです。
セバはその見たこともない、どこかの国のスポーツで使うボールを、今日フチャに見せてくれるそうです。そしてその見たこともないボールを使った遊びを、ふたりで考えようとさそってくれました。
しかし問題がありました。フチャのふたつ下の妹ミラに見つかったら、きっとミラもいっしょに来ると言いだすでしょう。もちろんフチャは妹がだいすきでしたが、自分よりも幼く、なによりも泣き虫なミラはこういうときにはじゃまに思えることもありました。
フチャは授業が終わるとミラに見つからないようにいそいで帰ることにしたのです。フチャが先に帰ってしまったことを知ると、きっとミラは泣きだしてしまうでしょう。でもしかたがないんだと自分に言い聞かせ、フチャは走りだしました。
道の両側に立ちならぶタベブニアの木々には、赤々とした花が咲きみだれていました。その花びらで覆いつくされそうな地面には、ヤツガシラがその長いくちばしでなにかをさがしだそうとするように歩きまわっていました。
やがて、両側の家並みをおだやかな午後の風が吹き抜ける道に出ると、フチャは走るのをやめて歩きだしました。沿道の家のラジオから流れてくる音楽に耳を傾けるのが楽しみだったからです。フチャはここを通るときは、いつもゆっくりと歩くのでした。
フチャの家にラジオはありませんでしたが、ときおりここで聴くどこか遠い国の音楽は、フチャをふしぎな、そしてとてもわくわくした気持ちにさせるのでした。そうしてラジオの音が聴こえなくなるあたりまで来ると、またフチャは走りだしました。
紅茶畑を突っ切る道を抜けて、やっと家が見えてきたときには、さすがに息が切れてきました。家には、ずっと年上のエダお姉ちゃんがユーラといっしょに遊びに来ていました。フチャたちが住む赤道に近いこの国では、こどもたちは学校を出るとすぐに、働きに行くかお嫁に行くのが普通でした。エダお姉ちゃんはユーラのところにお嫁に行き、そしてふたりでよく家に遊びに来ていました。
フチャはふたりともだいすきでした。エダお姉ちゃんはいつもフチャをとてもかわいがってくれましたし、ユーラもフチャに新しい遊びをいつも教えてくれました。
「どうしたんだい?フチャ、そんなにあわてて」
「うん、ちょっといそいでるんだ」
「オレンジ入りキャンディーがあるのよ、ひとつ持って行きなさいよ」
キャンディーを口にほうりこむと、フチャは家を飛び出し、また走りだしました。
前にフチャのお母さんが、エダお姉ちゃんにはもうすぐ赤ちゃんが産まれるんだと言っていました。フチャはそれを聞いたとき、とてもふしぎな、でもそれ以上になんだかしあわせな、とてもすてきな気分になったのでした。
それはとってもすてきなことにちがいない。エダお姉ちゃんたちにとっても、それはこれ以上ないくらいにとてもしあわせなことで、それこそが自分にとっても、とてもしあわせなことなんだと、幼いフチャは思うのでした。
紅茶畑の道を抜け、カッサバじいさんの家のわきを過ぎると、家の前でフチャを待っていたセバが手をふっているのが見えました。手には見たこともない、ぴかぴかの青と白のボールを持っていました。それは本当にすてきで、まるで空と雲をぎゅっと丸くしたようでした。
家の中からセバのお父さんが、にこにこしてこちらを見ていました。遠くの街に働きに出ていて、めったに会うことはありませんでしたが、前にふたりを釣りに連れて行ってくれたことがあります。とてもやさしくて、こどもがだいすきな人だとフチャはそのとき思ったのでした。
「タングステン広場まで行こう」セバが言いました。
「うん」
このあたりでは、ほとんどの家が農家でしたが、街はずれにタングステン工場がありました。その工場の裏手には広い広い草原がひろがり、フチャたちがタングステン広場と呼ぶその草原のはずれの一画には、太陽の光と大地の力をいっぱいに吸いこんだ風がいつも吹いていました。
タングステン広場には、ときおりイボイノシシの夫婦や、早起きがきらいなコシジロハゲワシがやって来たり、インパラのちいさな群れがすがたをあらわすこともありました。イボイノシシの、このみにくいイボは、他のオスから自分のメスを守ったり、ときにはライオンに勇敢に立ち向かうときに身を守る武器にもなり、彼を愛するメスにとっては、このみにくいイボがとてもすてきに見えるんだ…と、ときどきやって来るカッサバじいさんが話してくれたことがあります。
カッサバじいさんは、村でいちばんおいしいカッサバ芋を作るのでこう呼ばれていますが、ほんとうの名前は誰に聞いてもわからなくて、いちどフチャは本人にたずねたことがあります。
「ほんとうの名前?カッサバじいさん以外の名前はとうに忘れちまったよ。むかし遠い国からやって来た都会人がわしらにつけた名前など、ただの記号にすぎんのさ。名前というのは、そいつのことをあらわしてさえいればいいんだよ」
しわだらけの顔に笑みを浮かべ、大きな手をフチャのあたまに乗せてそう答えたのでした。
タングステン広場は、セバの家の裏手の道をまっすぐ行くのがいちばんの近道ということもあり、フチャはカッサバじいさんの家のわきをまわって、家の前で手をふるセバを見つけるのがいつものことになっていました。
セバはいちばんの仲良しでした。学校ではいつもふたりは一緒に行動しています。あんまり仲が良いので、先生はふたりをとなりどうしの席に座らせてくれたほどです。
フチャはセバのお母さんのこともだいすきでした。よくおいしいものをくれるからです。だからフチャは、ここに来るまでにいそいでエダお姉ちゃんがくれたキャンディーを食べ終わらなければなりませんでした。
今日ははちみつをたっぷり塗ったトウモロコシのクッキーを、セバとフチャに一枚ずつくれました。
「きみのお姉ちゃん、いつ赤ちゃん産まれるんだっけ?」クッキーをかじりながら歩きだして、しばらくしてからセバが聞きました。
「もうすぐだって。そういえばエダお姉ちゃん、きみのお母さんに料理を習いたいって言ってたよ。いいなぁお母さんが料理うまいといつもごちそうが食べられて」
「ぼくは毎日お母さんの料理食べてるからそんなふうに思ったことないなぁ」
「ふぅーん、そんなもんなのかな」
タングステン広場は今日も、高原の多いこの地方特有の気持ちのいい風で草がざわざわとなびき、また人影もまったくありませんでした。ほとんどのこどもたちは街の反対側に流れる川の近くか、あるいは街の中で遊んでいました。
ふたりは、そのボールを使った思い付くかぎりの遊びをしました。投げて受け取り、蹴っては追いかけ、ぶつけ合ったり地面をころげまわり、走ったり笑ったりで息がきれて、ふたりとも地面に寝転びました。
ユーラとエダお姉ちゃんがミラの手を引いて、こちらにやって来るのが見えました。
「あっおにいちゃんいた!」
「あーあ、せっかく見つからないようにしてたのに」
「フチャ、どうしてミラを置いて行ったの?泣いてたのよ」
「だって…」
フチャを見つけたミラの顔は、満面の笑みを浮かべ、目はきらきらと輝いていました。ミラはフチャのことがだいすきでした。ふたりはとても仲の良い兄妹なのです。
フチャは、ある計画を考えていました。それは、まだこどもであるフチャにとっては、とても大きな計画でしたが、だいすきなユーラとエダお姉ちゃんのための計画だったので、なんとしても成功させたいと思っていました。それはそれはすてきな計画で、きっとふたりとも、とってもよろこんでくれるにちがいありません。そして成功させるためにセバの協力が必要でした。
実は今日、セバにそのことを相談しようと思っていたのです。しかし、今日はもうあきらめるしかありません。ユーラとエダお姉ちゃんのふたりには、計画のことはひみつにしておかなければならなかったからです。
でも時間はたっぷりあります。ここでは、時間はとてもゆっくりと流れて行くのでした。
それから五人で並んで座って、エダお姉ちゃんが持って来てくれた釜焼きのパンを食べました。
青い空と白い雲はやさしく五人を見下ろし、赤い太陽はやさしく五人を照らし、さわやかな風はやさしく五人の顔をなでて通り過ぎて行きました。
二
エモはとてもなやんでいました。ユーラは家がとなりということもありましたが、なによりもユーラはエモの大親友であり、兄弟のようでもありした。
夕陽に赤く光る道を、ユーラがエダと並んで歩いて来るのが見えました。
「やあ、ユーラ、エダ、おかえり。どこに行ってきたんだい?」
「ああエモ、エダの家に行ってたんだよ。今日はエダがヒツジの肉を焼くよ。どうだい?きみも後で食べに来るかい?」
「そんなことばっかりして…おれはきみのことが心配なんだよ。そろそろ真剣に将来のこととか考えるべきなんだよ。どうして目を覚まさないんだ?ユーラ」
はるか遠くに見える山脈を浮かびあがらせ、そしてまた、はてしなく青かった空をその一息で見事に赤く染めあげた夕陽がおだやかに照らしていました。
どこかの家のラジオから流れる遠い国のクラッシック音楽が、おだやかな夕陽の光と溶けあい、ゆるやかに流れて行きました。
「わたしは食事を作るから。はやく入ってねユーラ」言い残してエダが家の中に消えると、
「エモ、そのことだったらもう話しただろう?もうほっといてくれないか?」と、ため息まじりにユーラが言いました。
最近はいつもおなじ会話のくりかえしでした。エモも大きく息をひとつ吐き出すと、ユーラの顔をじっと見てから、あきらめたように家に帰りました。
エモはお父さんとふたり暮らしでした。お母さんはエモを産み落とし、同時に自分のいのちをもエモに与え残したのでした。その後お父さんは、とてもたくさんの苦しみや哀しみを乗り越え、そしてエモを立派な青年に育てあげたのです。
エモの方もお父さんが必死で学校に通わせてくれたことに応え、一生懸命勉強し、そして今は大学に通っています。この国では大学まで行けるなんていうことは、ほんとうにごくまれなことなのです。
エモは一生懸命に立派な医者になるための勉強をして、そしていつかきっと、お父さんに楽をさせてあげたいと願っていました。わずかながらの国からの学資援助のおかげでなんとか生活はできていましたが、それでも他のほとんどの人々と同じように、決して楽な生活とは言えませんでした。
ユーラとはとても幼いころからの大親友です。エモが幼いころのお父さんは、毎日休むことなく、朝の光がエモの顔を照らし、やさしく起こしてくれるその前から、そして太陽がその一日の役割を終え、ふたたび大地に帰って行ったそのずっと後まで、ただがむしゃらに働いていたのでした。
エモは、ほとんどの時間をユーラとその家族と過ごし、そしてエモのお父さんはユーラのお母さんにエモの食費を払っていたのでした。それはお父さんにとって、とてもつらいことだったでしょう。だからこそユーラのお母さんも、こころよくそれを引き受け、エモも幼いこころでそれを察してか、すなおにお父さんにしたがい、それでも毎日お父さんの帰りをこころから楽しみに待っているのでした。
幼いころのユーラとエモのふたりは、いつでも一緒でした。ユーラのお母さんが、ふたりを買い物に連れて行くこともよくありました。そんなとき決まって、店やバスの中の人々は、ふたりを兄弟だと勘ちがいし、そしてユーラのお母さんもいつの日からかそれを否定しなくなったのでした。
そんなある日のこと、ユーラのお母さんがふたりを連れて、大草原のはるか東にある、それはそれは大きな湖に出かけたことがありました。
朝はやく、まだ薄暗いころから街に出てバスに乗り、そして便乗したトラックに労働者たちといっしょに長い時間ゆられ、ようやくそこにたどり着いたときにはもうすっかり日が昇っていました。
初めてその光景に出会うふたりの前に悠然とすがたをあらわしたその湖は、とてつもなく大きな鏡を大地に創りあげ、どこまでもはてしない青い空と、そこに浮かぶ白い雲を写しだし、そのはてしない映像を大地の上に創りあげていました。そしてその鏡の映像は夜になると、はてしなくつづく宇宙の映像へと変わり、そうやってただ黙って、ひたすら何百万年もの間くりかえしくりかえし、大地と大宇宙をひとつに溶けあわせてきたのでした。
ふたりにとっては一生忘れられない光景になりました。はるか北には山脈がかすみ、こんなにも隔てた距離を超え、その大きな大きな大地のちからを見せつけていました。草原から絶え間なく吹きつづける風は、太陽に与えられた宇宙の、そして大地に与えられた地球のにおいをいっぱいにふくんでいるようでした。
ふたりは大地の上を走り、さけび、ころげまわり、空に呼びかけ、大地を抱き、太陽を見つめ、やがて疲れて地面に溶けこむように寝転びました。ふたりとも黙っていましたが、同じことを考えていました。ただ、とても言葉になんかできなかったのです。
――この世界はなんて大きくて、なんてふかく、なんて強く、そしてやさしく、すべてのものがすばらしくすてきで、そしてすべてのものがとても重要であり、自分もこの地球や宇宙やこの世界の一部であり…――
そういう光景を見たり、またそういう気持ちになった人にしかわからない、そんな気持ちを幼いふたりは感じたのでした。
ユーラのお母さんはただ笑みを浮かべながら、じっとふたりを見つめて座っていました。彼女は、この国に産まれなかったばっかりに、世界がこんなにもすばらしいことを知らないかわいそうなこどもたちが、世界にはたくさんいるということを知っていました。そしてまた、ほかの国に産まれても、そのことをちゃんと知っているこどもたちもいるということ、この国に産まれながら、すばらしいこの世界を感じることができない、または忘れてしまったかわいそうなおとなたちもいるということも知っていました。
ずっと遠くをインパラの群れが駆けて行くのをながめながらお弁当を食べ終わるころ、いつのまにか午後の日が傾きはじめていました。いつのまにか湖畔の街をだいぶはなれてしまっていた三人は、草原の中のわだち道を歩いて街まで戻ることにしました。
日が昇りきってからようやく起きだすコシジロハゲワシが、はるか上空で風に運ばれるようにゆらゆら漂っていました。それをながめながら上を向いたまま歩いているとつまずきそうになるので、こんどは道端からこっちを見ている、草原に咲く名も知らない花をながめながら歩きました。
向こうから三台のトラックが砂ぼこりをあげながらやってくるのが見えました。その中の一台の荷台には十数人の男たちが乗っていました。近づくにつれ、なんともいやなにおいが風に運ばれて来ました。次の瞬間、ユーラのお母さんがさけびました。
「あんたたち!こっちに来なさい!」
ふたりはわけもわからないまま、彼女に抱きかかえられるように道端の草むらにしゃがみこみ、彼女は胸に抱きかかえるようにしてふたりのあたまを覆っていました。
とてもたくさんの、まだ血がしたたる積みきれないほどの象牙を乗せたトラックが、轟音とともに道端の三人の横を通り過ぎて行きました。殺戮の後の死のにおいをあたりに漂わせながら、そしてその巻き上げる砂ぼこりは、まるで地獄の暗雲のようでもありました。
すっかり通り過ぎてしまったのを確認してから、ユーラのお母さんはふたりを連れて急ぎ足で歩きだしました。
トラックの荷台の、ひとりの男は確かに自分の息子を見ました。
彼が父親として息子にいちばん教えてやりたかったことは、大地のこと、宇宙のこと、自分たちが住むこの世界のこと、そして同じようにこの世界に住む動物たちのことでした。
彼は、ただひたすら働き、労働者として雇われ、今このトラックに乗っている自分を見、そしてひとり涙を流したのでした。
三
フチャのお母さんのいちばん気がかりなことは、幼いミラのことでした。なにしろこの計画は、秘密を守ることがなによりも大切だったからです。ミラにはきっとそれができないでしょう。だからこの計画はミラに知られてはならないのです。
フチャの誕生日の一週間前になるとますます落ち着かなくなり、こどもたちと話すときに、自分の話し方がぎこちないのではないかと心配になるほどでした。後一週間でフチャの誕生パーティーです。それまではなんとかこのまま無事に…と願うばかりでした。
ほとんどの家庭が裕福ではないこの地方では、誕生パーティーなどやることはまずありませんでした。もちろんフチャの家も例外ではなく、今年もいつもと変わりなく過ごすはずでした。
それを変えたのは、孫の誕生でした。フチャのエダお姉ちゃんの赤ちゃんが、ようやく無事に産まれたのです。これほどうれしいことはありませんでした。無事に産まれることができるだけで、とても幸運なことなのです。そしてまた、フチャも無事に産まれ、今すくすくと育ち元気でいられることは、とても幸運なことです。あらためてその幸運を感じたお母さんは、この祝うべきすばらしいふたつのことを黙って見過ごすことができなくなったのでした。
フチャにとっても、こんなにうれしいことはありません。だいすきなエダお姉ちゃんのもとにしあわせがやって来たのです。そう思うだけでフチャもしあわせな気持ちでいっぱいでした。そうして自分の誕生日など、ほとんど忘れていたのです。
フチャのお母さんが、このしあわせを祝って、とてもささやかですがみんなを招待してパーティーを開こうと思い付いたとき、フチャのお父さんも大賛成してくれました。そして、いつもは仕事で帰りはおそいのですが、その日はできるだけはやく帰ることを約束してくれました。それからふたりで相談して、フチャには黙っていることにしたのです。めったにないことでもあるので、こういういたずらのようなこともしたくなったのでした。
フチャのお母さんは、セバのお母さんに料理を教わることにしました。セバのお父さんは遠くの街に働きに出ていました。そしてセバのお母さんも一緒に街に住んでいたこともあり、彼女はそこでいろいろな料理を学んだのでした。
彼女はこの計画を聞くと、よろこんで協力すると言ってくれました。そして小麦で作る外国のお菓子の作り方を教えてくれるそうです。そのときその話を横で聞いていたセバのお父さんが、そのお菓子に使うとくべつなシロップを街で調達して来てくれると約束してくれました。休暇で家に帰っていたセバのお父さんはこどもたちがだいすきだったので、この大役を自分から買って出たのでした。
そして今日が、その料理を教わりに行く日でした。こどもたちが学校に出かけてしばらくしてから、フチャのお母さんはセバの家に出かけて行きました。
紅茶畑の道は今日も、真っ赤に輝く太陽に照らされ色づいた紅茶の葉につつまれ、色とりどりの、ふわふわとした雲の上の一本道のように思えました。そしてどこからともなくブーゲンビリアの花のにおいが漂って来て、まるですべてのものがフチャの家のしあわせを祝ってくれているようでした。
カッサバじいさんの家の前にさしかかったとき、家の外のテーブルに置かれたラジオから、ゆるやかなリズムの、どこかなつかしい感じの曲が流れて来ました。そのテーブルの前のいすに腰掛け、カッサバじいさんがうとうとと、そのゆるやかなリズムに身をまかせるように居眠りをしていました。
「こんにちは」
フチャのお母さんがあいさつしてもまったく気付く様子がありません。しばらく間を置いて、ようやくカッサバじいさんは片目を開けてこちらを見ましたが、またそのまま目をとじてしまいました。
フチャのお母さんは、あきらめてまた歩きだしました。カッサバじいさんの家をまわってしばらくするとセバの家です。セバのお母さんが家の中から気付いてこちらに手をふっているのが見えました。さっきのゆるやかなリズムの曲は、ゆるやかな風に乗ってここまで聞こえて来ていました。
セバのお父さんも約束どおり、街でしか手に入らないお菓子用のとくべつなシロップを用意して待っていてくれました。お母さんたちが台所へ入ると、セバのお父さんは家の前にいすを運んで来て腰掛け、両手をあたまのうしろで組んでゆったりともたれかかりながら深呼吸をしました。
この休暇が終わればまた仕事が待っている。しかし、今のこの時間だけは自分のものだ…と、目をとじて考えるのでした。
セバのお父さんは、ものごころついたときには、ここからずっと遠くの街にいました。身寄りはなく、いつもひとりぼっちでしたが、それでも一生懸命に生きてきたのでした。
そして、今のセバのお母さんと知り合い、結婚しセバが産まれ、家族というものを手に入れたのです。同時に、セバのお母さんが産まれたこの地に移り住み、ふるさとをも手に入れたのでした。
ほんとうのふるさとは知りませんでしたが、産まれて初めて、自分と家族が住むこの土地のことをふるさとと感じることができたのです。
お母さんの呼ぶ声でようやく目を覚ましたのは、もうだいぶ太陽が真上に近づいたころでした。
三人でお茶を飲んでいるところに、カッサバじいさんが、かごいっぱいのカッサバ芋を持って来てくれました。
カッサバじいさんはほとんど何もしゃべらず、しわだらけの顔に笑みを浮かべ、出されたお茶を飲むと、そのまま帰って行きました。
「おじいさん、身寄りがないから心配よねぇ」フチャのお母さんが言いました。
「むかしは家族もこどももいたらしいけど、だれもその行方を知らないのよ。そうねぇ、いい人なんだけど、かわりものだから…」
セバのお父さんがラジオのスイッチを入れました。ラジオはさっきの曲とよく似た、とてもゆるやかなリズムの曲を流していました。
そのゆるやかなリズムに乗って、午後の時間がゆるやかに流れて行きました。
四
その朝は、いつもと何も変わらない朝でした。
朝の光にやさしく起こされたフチャは、すっかり自分が誕生した朝だということを忘れていました。ただ、今日は学校がおやすみの日だということだけを思い出し、それをとても嬉しがり、それから窓の外を見ました。
フチャの家は、村のはずれの、ほかの家から少しはなれた丘の上にありました。木々を抜けて来る風はとてもいいにおいがして、その風をいっぱいに吸いこむと、からだ中にその気持ちのいい風が吹き抜けて行く感じがしました。
家の外に出て、裏手の森の入り口にある水場に行き、両方の目をつめたい水でぬらしました。つめたくてとても気持ちがよく、そうしてあたまの中が晴れわたった空のようにすっきりと冴えてくるようでした。
近くの木の枝からモリハタオリが、巣作りに使うためのヤシの大きな葉をくわえてこちらを見ていました。どこか遠くで鳴った大きな音をすぐに風が消し、その風がモリハタオリの黄色い羽根をなびかせ、そのくわえた葉をゆらし、枝をゆらし、そしてフチャの顔をなでると、モリハタオリはその風を追いかけるように飛び立って行きました。
裏手から家に入ると、フチャは学校の勉強道具のところへ行きました。そのとき、なにか床のぬるぬるしたものに足をすべらせ、大きな音を立てて床に倒れてしまいました。すると、天井から下げてある大きな布と床のすきまから、妹のミラの、ふしぎそうにこっちを見ている顔が見えました。
おかしなことに、ミラの首から下がどこにも見あたりませんでした。フチャはふしぎに思いましたが、とにかくミラのからだをさがしてあげなければいけないととっさに思い、あらためてあたりを見回しました。
床には、なにやら赤黒いものがひろがり、どうやらそれに足をすべらせたようです。そのままゆっくり這うように柱の横をまわると、やさしいお母さんの腕だけがそこにありました。フチャはこのあたたかいお母さんの手がだいすきでしたが、このときのそのお母さんの手は、なんだかずいぶんいつもとちがって見えました。なにしろ、その腕の上で笑ってこちらを見ているはずのお母さんの顔がどこにも見あたりません。
家の表の方で、数人の走る足音や、なにかが壊れるような音が聞こえました。フチャは慎重に立ち上がり、窓からそっと外をのぞきました。
数人の男たちが向こうへ走って行くのが見えました。その中のひとりは、ユーラのともだちのエモによく似ていました。そして少しはなれたところにユーラが立っているのが見えました。窓からだいぶはなれた位置でしたが、片手にぶらさげていたのは、確かにエダお姉ちゃんの首から上でした。いつもやさしく笑みを浮かべていたエダお姉ちゃんのその顔は、見たこともないほどこわばっていて、まったく動きませんでした。
そのままユーラも、男たちが走り去った方に歩きだしました。もう片方の手には、フチャのお父さんが木を切るときに使っていたオノを持っていました。
ユーラが立っていたところから少しはなれた位置に、見まちがえるはずのない、お父さんの大きなからだが横たわっていました。ただ、見まちがえそうになったのは、いつもそこにあるはずのお父さんのあたまが、そこにはなかったからでした。
見たこともないこの光景に、フチャのあたまは考えることをやめてしまっていました。そうして、ただあたりの様子をながめていたフチャの肩を、誰かがうしろからつかみました。
ぜいぜいと息をきらせながら、カッサバじいさんがちいさくさけぶように言いました。
「フチャ、こっちだ!はやくここから出るんだ!」
カッサバじいさんに手を引かれ森の中を走りながら、フチャはふと聞きました。
「セバは?セバはどこにいるの?」
「セバの家は、…あの家族は…ちがうんだよ…」
フチャには意味がまったくわかりませんでしたが、その後はもう黙ってただ走りつづけていました。
街では、あらゆるものの壊れる音が飛び交い、おおぜいの人がさけび、誰かが投げたいろいろなものがあたりに飛びちらかり、人々が走り、いたるところで火が燃え、あちこちから聞こえてくるラジオの声は、しきりになにかをさけびつづけていました。
エモのお父さんが、となりのユーラの家から出てくるところでした。手には、その手のひらに乗るほどのちいさなちいさな赤ん坊の首だけを持っていました。まだ産まれたばかりのその赤ん坊は、とてもちいさく弱く、その首を切り落とすのはとてもたやすいことでした。
一部の人たちをのぞいて、ほとんどの人々は銃などを持っていなかったので、身近にあったオノやナタを使っていました。
その銃を持つひとたちに指示されて銃を持たない人々が、数十人のこどもたちや男たちや女たちや年寄りたちを教会の前の広場に集めました。一ヶ所に固められたその人たちに向けていっせいに銃が発射されはじめました。人の山がまったく動かなくなり、すっかりさけび声がしなくなっても、なおしばらくの間、弾が撃ちこまれつづけました。それでもこの方法は、ずいぶん弾を節約することができたのでした。
フチャとカッサバじいさんは、森を抜けてタングステン広場にやって来ました。
広場のはずれには、カッサバじいさんがカッサバ芋の葉で肥料を作るときに使っていた縦穴がいくつかありました。その穴は、ひとつが大人ひとりがやっと入れるほどの大きさで、木の枝を編みこんで板状にしたふたがそれぞれの穴を覆っていました。
カッサバじいさんは、その中のひとつにフチャを入れふたをし、ふたの上から言いました。
「フチャ、ぜったいに声を出すな。そしてなんとしても生きろ」
カッサバじいさんは、少しはなれた穴に自分も入りこみ、ふたをして、そしてじっと息を殺しました。
フチャの顔には表情がまったくありませんでした。まだ幼いフチャのこころは、こういうときにはどういう表情をつくりだしたらいいのかわからなかったからです。
いくらかの時間が流れました。
穴の中がとても蒸し暑くなってきました。そして、ずっとしゃがんだままの体勢だったのでからだがしびれてきました。少しからだを動かすと、木の枝のようなものがフチャの背中に刺さりました。それでもその体勢の方がいくらかは楽だったので、そのまま動かずにいました。暑さのための汗と、背中からしたたるフチャの血が、その木の枝をつたわり、足元の土を泥に変えていきました。
汗と泥が目に入りました。しだいにのどが渇いてきました。目の前の土から顔を出したなにかの幼虫をつまんで食べ、のどの渇きをいやそうとしました。
どのくらいの時間が流れたでしょうか。
数人の足音が聞こえました。じっと息を殺していると、話し声とともに足音があたりをうろうろしているのがわかりました。
しばらくして足音がしだいに近づき、そしてさけび声をあげました。とつぜん視界が明るくなり、ものすごい力で上から腕をひっぱられ、フチャは穴から引きずり出されました。
そのときフチャの目に映ったのは、セバのお父さんの持つオノが、カッサバじいさんに振り下ろされるところでした。
それからフチャは上の方を見上げました。
空はどこまでもどこまでも青くひろがり、太陽はふかくふかく赤く輝いていました。
What A Wonderful World
Lyric by George David Weiss
Music by George Douglass
(1967)
この目に映る、
緑の木々よ
赤いバラよ
彼らの咲く美しさは
私と、そしてあなたのために
ふと我に返れば
世界は、なんて素晴らしいんだろう
この目に映る、
青い空よ
白い雲よ
明るく晴れわたった日
そして清らかな夜
ふと我に返れば
世界は、なんて素晴らしいんだろう
美しい空の虹の色は
道行くみんなの顔にある
たくさんの友達は
握手をしてあいさつをかわす
彼らが心から言う
I love you
赤ん坊の泣き声を聞き
こどもたちの成長を見つめる
この子たちは
私よりももっとたくさんのことを学ぶだろう
ふと我に返れば
世界は、なんて素晴らしいんだろう
ほら、ふと我に返れば
この世界は、なんて素晴らしいんだろう
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