東京スコラ・カントールム/聖グレゴリオの家 創立30周年記念合同演奏会
〜日本における宗教音楽研究・教育施設拡充に向けて〜
2009年5月10日(日) 午後6時 新宿文化センター大ホール
<第一ステージ>
F. メンデルスゾーン:オルガン「前奏曲とフーガ 変ロ長調」
... Präludium und fuga B-dur (op.35)
J. S. バッハ:モテット「聖霊は私達の弱さを助けてくださる」
... Der Geist hilft unser Schwachheit auf (BWV226)
F. メンデルスゾーン:モテット「全地よ、神に向かって喜びの叫びを上げよ」(詩編100編)
... Jauchzet dem Herrn alle Welt (Psalm100)
F. メンデルスゾーン:「神よ、私を裁き」(詩編43編)
... Richte mich, Gott (Psalm43) (op.78-2)
F. メンデルスゾーン:賛歌「主よ、私の願いを聴いてください」
... Hymn "Hör mein Bitten"
<第二ステージ>
F. メンデルスゾーン:オルガン「テーマと変奏曲 二長調」
... Thema und Variationen D-dur(作品番号なし)
F. メンデルスゾーン:テ・デウム
...
Te Deum
指揮:イェルク・シュトラウベ
合唱指揮:青木 洋也/橋本 周子
合唱:東京スコラ・カントールム/カペラ・グレゴリアーナ
オルガン:諸岡 亮子
ヴィオラ・ダ・ガンバ:福沢 宏
プログラムノート ... 服部 浩巳(東京スコラ・カントールム)
バッハとメンデルスゾーンをつなぐ教会音楽
この演奏会は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685〜1750)のモテットと、メンデルスゾーン(1809〜1847)のさまざまな教会音楽で構成されている。2人の偉大な作曲家には、もちろん直接的な接点こそない。しかし、そこにはライプツィヒやベルリンというドイツ東部の都市における地縁的なつながりとともに、ルター派のキリスト教信仰にもとづく多声(フィグラル)部の合唱音楽の伝統が脈々と受け継がれている。このことを通じて、ドイツ・ハノーファーで北ドイツフィグラル・コアを主宰するシュトラウベ氏の創り出す音楽を味わう上での一助になれば幸いである。
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(Felix Mendelssohn Bartholdy)は、今から200年前の1809年2月3日、ドイツ北部のハンブルクで生まれ、家庭の事情ですぐにベルリンに移り住んだ。祖父モーゼスは、ユダヤの民族主義思想を持っていたが、超教派的信仰一致(エキュメニカル)運動を熱心に擁護していた。父アブラハムは、銀行家であり裕福なユダヤ人の家系であることは有名だが、16年にユダヤ教からキリスト教(ルター派)に改宗しており、フェリックスも7歳の時に洗礼を受けた。バルトルディという名前はキリスト教徒であるということを証明するためにつけられたようである。
フェリックスは幼少期から、ピアノ、歌、絵などの才能を持ち、英語、フランス語、イタリア語にも堪能だった母レーアによって音楽の手ほどきを受け、さらに優れたピアノ演奏家であったルートヴィヒ・ベルガーが教師となり技術を身につけた。フェリックスは一般の学校で教育を受けず、家庭教師に学んだが、文豪ゲーテ、哲学者ヘーゲル、学者フンボルトらも家庭を訪れており、そのような中で教養を身につけながら育った。
●メンデルスゾーンにとってのバッハ音楽
メンデルスゾーンは作曲家としてだけではなく、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(以下バッハ)の音楽を再発見し、指揮者としてそれを復興させたことが今も知られる。メンデルスゾーンとバッハとのつながりとは、フェリックスが14歳の時、祖母バベッテ・ザロモンから「マタイ受難曲」の楽譜をプレゼントされていることが挙げられる。バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルが所有していた遺産であるバッハの自筆譜やオリジナルパート譜を、C. F.エマヌエルの死後に遺族が売りに出し、市民らで組織された合唱団であるベルリン・ジングアカデミー(合唱協会)の会員が購入しており、そこでバッハの音楽に触れる機会が数多くあり、バッハの音楽を継承してほしいという親心があったのであろう。
同合唱団には、早くから家族とともにフェリックスも所属し、ピアノ伴奏も担当した。1829年3月11日に同協会専用の大ホールにおいて、弱冠20歳で指揮者としてマタイを再演したことは良く知られている。バッハの研究家として知られる小林義武氏は、「十四歳の時に『マタイ受難曲』の筆写譜を贈られたメンデルスゾーンは、その後、年月をかけて熱心に、このバッハの大曲を学ぶことになる。やがて二十歳を迎えようとする青年メンデルスゾーンは、この知られざる大曲の深さに完全に魅せられ、公開演奏によって、一般聴衆にその重要さを表示することを渇望するようになった」(バッハ復活 19世紀市民社会の音楽運動)と記している。
しかし、ジングアカデミーのカール・フリードリッヒ・ツェルター会長は青年の提案に躊躇を見せた。その理由は、「第一に技術的困難であり、バロック音楽演奏の伝統が消え去った十九世紀の音楽界に生活する演奏家にとっては、受難曲を演奏するには不明な問題が多かった。第二に、古典派とロマン派の音楽に慣れていた聴衆が、一体、どのような反応を示すか予想がつかなかった。いや、むしろ、バッハの音楽はまったく理解されず、聴衆に受け入れられないという疑いが強かった」としている。
このような状況にありながらもメンデルスゾーンが、バッハのライフワークである教会音楽の遺産や精神に着目し、現在にもつながるその価値を見いだして、浸透させるきっかけを作ったことは、音楽史上注目すべきことといえる。
その後、演奏会はツェルター会長の納得を得て開かれた。反響は大きく、入場できなかった人も多数あり、3月21日と4月17日の2回の追加公演も行なわれた。ただ、その演奏形態はバッハが楽譜に記したままではなかったようだ。すでにバッハが生きたバロック時代にあったオーボエ・ダモーレはクラリネットに置き換えられ、オルガンやチェンバロはピアノに代わるなど、すでに衰退してしまった楽器もあった。また、原曲を生かしつつ一部のアリアやコラールを削除し、全体を35の楽章に切り詰めるなどの措置をとったようである。
また当時、ライプツィヒやベルリンなど文化的な都市では市民社会の広がりとともに、演奏会という形が一般化しており、受難曲の演奏会も教会ではなく演奏会場で開かれた。メンデルスゾーンによるマタイ蘇演が大成功を収めた一方で、マタイ受難曲は教会で演奏すべきだという声が広がり、その後教会における典礼の一部として認識されるとともに、チェンバロなど通奏低音楽器を用いるなどバロック時代の音楽様式が再認識されるようになるきっかけを築いた。
●市民社会におけるメンデルスゾーンの音楽
さて、メンデルスゾーンの作曲家としての歩みについて触れておきたい。彼は、ベルリン・ジングアカデミー会長のツェルター氏のもとで作曲を学び、すでに12歳から宗教曲を作曲し始めている。「ユベ・ドミネ」(1822年)やバッハの「ロ短調ミサ曲」を彷彿とさせる「キリエ・ニ短調」(1825年)など、バッハの音楽から少なからず学んだ影響があったと思われる。今回後半で演奏する「テ・デウム」は「真夏の夜の夢序曲」の書かれた1826年、17歳で作曲した作品である。
フェリックスが活躍した時代の100年前、バッハの時代には、音楽といえば宮廷、教会、市庁舎や大学が演奏の場であった。ライプツィヒはドイツでも当時から文化的に豊かな街であり、テレマンによって始まり、バッハ自身もコーヒー・カンタータなどの世俗音楽で接点のあった、ライプツィヒ大学の学生らによるコレギウム・ムジクムがその下地を築き、「大コンサート」という名の演奏会が開かれるようになると、やがて今も最古のオーケストラとして知られる市民のためのゲヴァントハウス交響楽団が設立された。さらに、オーケストラと合唱による規模の大きな作品が作曲されたため、それを演奏する合唱団も組織されるようになった。そこには市民が合唱活動に加わり、ベルリンなどの都市ではジングアカデミーのような団体が各地で設立されるようになった。
そして1835年、26歳のメンデルスゾーンは、バッハが生涯の大半を過ごしたライプツィヒで、ゲヴァントハウスの指揮者に就任する。現在の指揮者という仕事が確立した時代、市民のためにコンサートが企画され、メンデルスゾーンの手腕によって音楽的にも盛り上がりを見せた。彼はバッハ、ヘンデルの音楽も指揮しているが、古典とロマン派の音楽を並べる演奏会を企画したのもメンデルスゾーンの功績だといわれている。活動の場はドイツだけでなく、イギリスでも深く広く愛された。さらに、1843年にはライプツィヒ音楽院を設立し、教育者としての一面も示した。
作曲家としては「ヴァイオリン協奏曲」、5つの交響曲、「無言歌」などのピアノ曲も知られ、短い生涯であったが残した作品は多岐にわたる。世俗的な合唱曲など声楽作品も多いが、なかでも宗教音楽は、カンタータ、モテット、詩編歌やオラトリオなど大小50曲を超えており、作曲した領域として大きな意味をなしている。しかも、少年期から晩年まで生涯にわたって、常に作品を残しているのが特徴といえるだろう。無伴奏の合唱曲も多いが、教会のためというよりも、コンサートホールで市民が参加する形で教会音楽を奏でるのに必要な合唱団であるベルリン・ジングアカデミー、ベルリンのカトリック教会(大聖堂)聖歌隊、英国国教会のために作曲されている。
バッハに倣ってコラール(衆讃歌)を用いていくつかの教会カンタータを作曲しているが、交響曲第2番「讃歌」(Lobgesang)(作品52、1840年初演)と第5番「宗教改革」(1830年初演)に「神はわが堅き砦」の旋律を用いているように、メンデルスゾーンにとって、かつてバッハが信仰し所属していた教会であるドイツ福音主義の音楽が、作曲の精神的な根底にあったことも伺える。しかし、カトリック教会のために「テ・デウム」や「ラウダ・シオン」のようなラテン語の作品も書いているのは、祖父の代から、教会一致の思想や精神を育まれていたからであろう。
今回の演奏会でも、晩年の優れた作品が取り上げられている。さらに、オラトリオ作品として「聖パウロ」(1836年)と晩年の集大成ともいえる「エリア」(1846年初演)が良く知られているだけでなく、それらに続いて1847年、3つ目のオラトリオ「キリスト」(Christus)の作曲に取りかかっていた。「キリストの降誕」「キリストの受難」「キリストの復活と昇天」の3部作を構想として描いていたが、現在1・2部を残し、未完成のまま1847年11月4日、38歳で短い生涯を終えたが、教会音楽に傾けたエネルギーは、生涯途絶えることがなかった。
【参考文献】
・ 「<大作曲家>メンデルスゾーン」ハンス・クリストフ・ヴォルプス/尾山真弓訳(1999年 音楽之友社)
・ 西洋の音楽と社会⑦初期ロマン派「ロマン主義と革命の時代」アレクサンダー・リンガー編/西原稔監訳(1997年 音楽之友社)
・ 「バッハ復活−19世紀市民社会の音楽運動−」小林義武/著(1985年 日本エディタースクール出版部)
・ 「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ第Ⅱ巻声楽曲」マルティン・ゲック/小林義武監訳、鳴海史生訳(2001年 東京書籍)
・ 「魂のエヴァンゲリスト」礒山雅/著(2001年 東京書籍)ほか
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