第52回定期・慈善演奏会
日本聖書協会「アジア・アフリカの識字率向上プログラム」推進活動のために
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ J.S. Bach
マタイ受難曲(BWV244)
2010年3月27日(土) 午後2時 ウェスレアン・ホーリネス淀橋教会
指揮・アルト:青木 洋也
エヴァンゲリスト:畑 儀文
イエス:篠部 信宏
ソプラノ:藤崎 美苗
テノール:中嶋 克彦
バス:浦野 智行
合唱:東京スコラ・カントールム
プログラムノート ... 岩崎 次郎(東京スコラ・カントールム)
バッハのマタイ受難曲…教会的背景の中で…
☆はじめに
マタイ受難曲はバッハの多くの作品の中でもとりわけ愛好される音楽のひとつと言えるでしょう。東京スコラ・カントールムは創立以来30年の間にマタイ受難曲を既に1回、(また、ヨハネ受難曲を2回)演奏してきました。今日は2回目のマタイ受難曲の公演となります。
このプログラムノートでは、この名曲が18世紀にバッハによって生み出されるまでの背景をキリスト教会ならびに信者の生活の歴史の中に探り、かつ、マタイ受難曲初演当時のドイツの教会的背景をご紹介しようと思います。
☆イエスの受難・死・復活は信仰の拠り所
受難曲の歌詞の主題はイエス・キリストの受難、そして死です。この受難と死に復活を加えた3主題こそが、キリストによる救済を信ずる者(クリスチャン)たちの信仰の最大の拠り所です。従って、イエス・キリストの昇天後エルサレムで生まれた最初の教会以来、信者たちはこの「信仰の拠り所」を記録し、口伝えに伝えてきました。集会の折々にイエスの言行が語り継がれ、信者たちの信仰を励ますものとなったのです。やがてイエスの生涯も、その教えも共に記録され、後に「福音書」と呼ばれるようになる書物にまとまります。
イエスの「受難、死、復活」が昔も今もクリスチャンたちにとってどれほど大切であるかは次の4つの事柄の中に見ることが出来ます。
(1)信条として言い表される信仰宣言に占める重さ、
(2)新約聖書の中に占める関連記事の重さ、
(3)教会暦の中に占める関連行事の重さ、
(4)イエスが復活した日=日曜日を記念して、信者たちが毎週、「主の日」礼拝に集うことの重さ。
イエスの受難と死と復活がこの4項目のそれぞれにどのように表されているか、見てみましょう。
★信条…synbolum(ラテン語)、creed(英語)
信条とは信仰の核心を言い表す文言です。その原型はおそらくイスラエルの信徒の集団の中で最初の形をとったのでしょう。3世紀までにはその定式化が進みます。この信条は現在も生きています。21世紀の全世界の信者たちもこれを礼拝で共に唱えます。
ここには代表的な「使徒信条」をご紹介しましょう。これは、イエスの使徒たちに由来すると伝えられてきた信条が、8世紀、カール大帝の治世に普及、以降現在に到るまで、礼拝(ミサ)の中で広く用いられている信仰宣言です。教派ごとに細部(言い回しや用語など)に違いがありますが、ここに一例を示します。
使徒信条(使徒信経)
わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。
わたしは、その独り子、私たちの主、イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によってやどり、おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこから来られて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。
わたしは聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン
★聖書
聖書は信者たちが折に触れ読む書物です。個人として読むだけでなく、礼拝や祈りの集いでリーダーが読む聖書のことばを聞くことも大事にします。信者にとって聖書は座右の書なのです。
旧約(神様の旧い約束)聖書と新約(神様の新しい約束)聖書がありますが、27書で構成される新約聖書の冒頭には、イエスの言行とその生涯を記した、福音書と呼ばれる書物四書が置かれています。
各福音書は、書き出しこそはそれぞれに独特で、イエスの系図と誕生(マタイ)、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼(マルコ)、洗礼者ヨハネの誕生(ルカ)、そして、哲学的・神学的な記述(ヨハネ)と、様々です。
しかし各福音書の終わりは一様に、イエスの受難、十字架上の死、そして復活を記したものとなっています。棕櫚の日曜日の民衆の歓呼歓迎以降、捕縛、裁判、十字架刑と死(金曜日)、墓への葬り(土曜日)、そして甦り(日曜日)に到る1週間(受難週=聖週間)に関わる記事のみでも、各福音書の総頁数の3割前後を占めるのです。これはイエスの「受難と十字架上の死、そして復活」が信仰者にとってどれほど重要なことがらであるかを象徴的に示しているものと言えましょう。マタイ受難曲はこの内のマタイによる福音書の記事に基づいて書かれた音楽です。
★教会暦
信者たちが信仰箇条を折々に想起し、またイエス・キリストの生涯の主な出来事を毎年記念していくために作られた「教会暦」と呼ばれる暦(こよみ)があります。
待降節(降誕日の直前の日曜日の3週間前の日曜日に始まり、降誕前日まで続く約4週間)の第一日曜日から教会暦は始まります。降誕祭の後に顕現日を含む降誕節が続き、そして四旬節(=復活前節…2月半ばの灰の水曜日に始まり、復活祭前日に至る約40日間)が復活祭に備えて心を整える期間として置かれます。
これに続くのが受難週(棕櫚の日曜日に始まり、イエスの捕縛と裁判、鞭打ち、十字架を背負っての道行、十字架上の磔刑と死、埋葬がこの1週間に記念されます)、そして復活祭。復活祭に続く復活節(=五旬節)の後に聖霊降臨日、そしてキリスト再臨を待望する教会の季節が次の待降節まで続きます。
この教会暦の中で、信者たちがとりわけ大切にするのが受難週及び復活祭です。そしてまた、これらの前後に置かれた四旬節ならびに復活節も、信者たちは格別の思いと祈りをもって過ごすのです。
★日曜日=主の日 初代教会以来、信者たちは日曜日(イエスが復活した日)を「主の日」と呼び、皆が集まって礼拝をする日としてきました。礼拝の主要な要素は二つ、言葉の典礼(聖書朗読、賛歌、説教、信仰宣言、共同祈願)と感謝の典礼(祈祷「主の祈り、ほか」、賛歌、平和の挨拶、聖餐の拝受、陪餐後の感謝)です。言葉の典礼の要素はキリスト教の母体となったユダヤ教の礼拝の伝統の基盤の上に構成されました。
礼拝の中心は初代教会以来一貫して感謝の典礼、つまり聖餐の拝受(聖餐式、聖体拝領、Holy Communion)でした。そこではイエスが捕縛される前夜、十二使徒たちと一緒のテーブルで食された最後の晩餐が象徴的に再現され、その食卓での出来事が語られます。また、キリストの救いの業を想起する信仰箇条が唱えられ、「キリストの受難と死、復活と昇天とを記念し、キリストの再臨を待ち望みつつ」、造り主の大いなる恵みに対する感謝の祈りを捧げます。
☆バッハの受難曲を導いた歴史…朗読・祈り・歌
★古代の教会…受難の記事を礼拝で読む 福音の朗読も、詩編や定式化された祈願の詠唱という音楽要素も、ユダヤ教の伝統を受け継いだ古代教会から既に礼拝に取り入れられていました。四旬節と受難週の間、礼拝の中で受難に関する四福音書の記事を朗誦する伝統も古代教会から始まったものです。
歌はどうでしょうか? エゲリアというスペイン出身の修道女が巡礼者として4世紀に聖地を訪れて見聞きしたことを記した紀行文の中に、エルサレム周辺の典礼を記録したものがあります。その中で、司式者が唱える祈りの間に少年聖歌隊がキリエ・エレイソンを繰り返し歌ったことが記されているそうです。栄光頌(グローリア)も歌われていました。
単旋律聖歌(後世、グレゴリオ聖歌と総称されるようになる)は典礼の組織化・発展と平行してこの頃から始まり、ローマとその周辺で発展を続け、キリスト教の北・西方への広がりと共に各地の礼拝で用いられ、新しい土地で新たに作られた聖歌も加えて豊かなものとなりました。
★中世の教会…音楽・演劇要素を導入 樋口隆一氏は、受難曲の歴史を書く中で次のように記しています。「中世のミサ典礼書には、語りの部分のみを担当する福音史家、イエス、群集を表す記号が書かれており、キリストの言葉を赤い文字で区別したものもある。群集を単旋律の合唱で歌う伝統は1348年の写本から確認される」「15世紀になると群集の合唱にポリフォニーが導入された」と書いています。こうして受難曲が様々の形で各地で作られ、歌われる流れが作られて行きました。
★宗教改革以後の教会…自国語による賛歌 ルターの翻訳によってドイツ語の聖書が16世紀に生まれて広く読まれるようになると、ドイツではプロテスタントの礼拝用語にはラテン語に替わり、ドイツ語が用いられるようになります。ルターはまた沢山の衆賛歌(コラール)をドイツ語で書き、専門歌手でない一般会衆がそれを礼拝で歌うようになり、ラテン語のグレゴリオ聖歌に取って代わりました。
このような時代の流れの中で、1524年にはルター作のドイツ語の衆賛歌集が発行され、その後の多くのドイツ語讃美歌集に道を開き、またゲルハルトなど、優れた詩人たちが16〜17世紀に輩出して、優れた教会歌曲の誕生に貢献します。この時代、四福音書を統合した受難曲が広く受け入れられました。
★17世紀…プロテスタントの確立と受難曲 30年戦争(1618〜48年)がドイツ全土を荒廃させた17世紀前半、信者(とりわけプロテスタント)たちの信仰には内省的要素が強まりました。衆賛歌ほかの教会歌曲にもその信仰が反映されます。
受難曲も、聖書の受難記事のみならず、衆賛歌やゲルハルトらの自由詩によるレチタティーヴォやアリアをオラトリオ風に取り入れたものが作られました。
青年時代にヴェニスでガブリエリに学び、壮年期にはモンテヴェルディにも師事したH.シュッツは、晩年の1665〜66年にマタイ、ルカ、ヨハネのそれぞれに基づく受難曲を書きました。
★そして18世紀…バッハの受難曲 バッハ(1685年生まれ)は受難曲を2曲、ひとつはヨハネ福音書(初演1724年)に、ひとつはマタイ福音書(初演1727年)に基づいて書きました。バッハのこの二つの受難曲はオラトリオ受難曲の頂点に位置する名曲です。今晩演奏されるマタイ受難曲は1736年に初演された後期稿です。
ルターは『ドイツミサと礼拝の順序』(1526年刊)の中で、ドイツ語をミサ全体で用い、キリエ・グローリアなどミサ通常文もドイツ語の衆賛歌で置き換えるとしています。ルターのこの方針が実践される教会でバッハの教会音楽は用いられました。教会暦に従い、各日曜日に割り当てられた福音メッセージを伝える役割を、聖書朗読・説教・公同祈祷などと共にカンタータやコラールが担ったのです。
マタイ受難曲も同じ意味で福音メッセージを感動的に伝えます。その音楽的感動は何処から来るのか? バッハは五線譜に向かう時はいつも、まず初めにJesu, Juva(イエスよ、助けたまえ)と書き、楽譜の最後にはSoli Deo Gloria(栄光はただ神に)と書く人でした。「音楽は神の創造の秩序に基づいて作られたとき、それは美しく響く和声を有し、瞑想的で、神の心に適う」とバッハは信じていました。マタイ受難曲の音楽的感動はバッハのこの信念の産物だったのです。
参考文献
・『岩波 キリスト教辞典』 岩波書店 2002年
・H. Werthemann、村上茂樹訳『神には栄光 人の心に喜びを —J. S.バッハ その信仰と音楽』日本キリスト教団出版局 2006年
・徳善義和「ルターの宗教改革前後とミサ」『礼拝と音楽 2010冬号』 日本キリスト教団出版局 2010年
・樋口隆一『バッハの風景』小学館 2008年 |
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