第53回定期・慈善演奏会
没後400年ビクトリアの小品とドイツ浪漫派の聖歌集
開催日:2011年1月28日(金)
開演時間:19時(18時30分開場)
会場:聖アンセルモ目黒カトリック教会 東京都品川区上大崎4-6-22
(JR山手線/東京メトロ南北線/都営三田線:目黒駅徒歩3分)
※会場は、駐車場・トイレの数が十分ではありませんので、ご利用についてはご配慮をお願いいたします。
献金先:東京カリタスの家(ボランティア活動支援)のために
指揮:青木 洋也
オルガン:米沢 陽子
合唱:東京スコラ・カントールム
◆T. L. de Victoria (1548-1611) ... トマス・ルイス・デ・ヴィクトリア
O magnum mysterium (in Circumciione Domini) おお、大いなる神秘
Jesu dulcis memoria 甘美なる想い イエス
Victimae paschali laudes 過ぎ越しのいけにえ
Veni creator spiritus 来てください、創り主なる聖霊よ
◆F. Mendelssohn (1809-1886) ... フェリックス・メンデルスゾーン
Aus tiefer Noth schrei' ich zu dir 苦しみの底からあなたに叫ぶ
◆F. Liszt (1811-1886) ... フランツ・リスト
Rosario ロザリオの祈り
Ave Maria アヴェ・マリアの祈り
◆J. Brahms (1833-1897) ... ヨハネス・ブラームス
Zwei Motetten 二つのモテット
1. Es ist das Heil uns kommmen her 救い主はわたしたちのために来てくださる
2. Schaffe in mir Gott ein rein Herz 神よ、わたしの内に清い心を創造してください
Geistliches Lied 宗教的歌曲
◆ アントニオ・デ・カベソン(1500頃~1566)
○第1旋法のティエント
アントニオ・デ・カベソンは、16世紀スペイン鍵盤音楽を代表するオルガニストです。絶対君主として知られるフェリペ2世の宮廷音楽家でもあり、王に随行して欧州各地を旅したとも伝えられています。ティエントとは、16〜17世紀のスペインにおける対位法的な楽曲や前奏曲の呼称です。この第一旋法のティエントは、動機にサルヴェ・レジナや、ドイツの降誕節コラールに由来すると考えられる旋律も織り込まれ、厳粛さと華やかさを兼ね備えた作品となっています。(米沢陽子)
◆ トマス・ルイス・デ・ヴィクトリア(1548~1611)
没後400年のトマス・ルイス・デ・ヴィクトリア
1548年スペインのアビラ出身。後期ルネサンス期のスペインを代表する作曲家であり、世俗作品を一切書かなかったことで有名です。1565年頃にスペイン王フェリペ2世の奨学金を下賜されて、ローマのドイツ学院に留学しています。この頃にパレストリーナに師事したようですが、確かな証拠は残っていません。1575年に司祭に叙階され、1578年からはローマのサン・ジロラモ・デッラ・カタリ教会の平の司祭となり、少なくとも1583年までをここで過ごしています。1583年ローマで出版されたミサ曲集の中で、スペインに戻って、聖職者として生活がしたいという希望を述べたヴィクトリアは、その願いがかなって1586年に帰国し、今度はマドリッドのデスカルサス・レアレス女子修道会の一員となった皇太后マリアとその娘マルガリータに仕えることになります。1611年8月27日に没するまでこの修道院にとどまり、司祭・作曲家・合唱指揮者・オルガニストなど、数々の役割をこなしました。皇太后マリアは神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世の妃であり、スペイン王フェリペ2世の妹だった人物です。代表作『6声のレクイエム』は皇太后マリアの葬儀のために作られました。
今回取り上げた曲は、クリスマスから聖霊降臨までのミサや聖務日課と言われる祈りの日課で歌われる曲です。
○O magnum mysterium
クリスマスの夜課(深夜に行われ、徹夜課・朝課とも言う)の応唱。この曲は、クリスマスの夜課の朗読に続くレスポンソリウムに代えて歌われる、詩編ではなく宗教的な詩に曲をつけたモテット。現在はクリスマスの深夜ミサに使うことがあります。応唱とは、朗読につづいて歌われる曲で、歌詞はふつう聖書、多くは詩編からとられていました。
○Jesu dulcis memoria
イエスの聖名の祭日の賛歌。賛歌とは、聖書からの引用ではなく、新たに作られた宗教詩で、普通は韻文で書かれています。
○Victimae Paschali Laudes
復活の続唱。続唱は、重要な祝日に事実上アレルヤ唱の続きとして歌われました。10世紀以降の創作で、有節形式の韻文で書かれています。詩の内容はアレルヤ唱をその祝日により密接に関連づけるための注釈になっています。
○Veni Creator Spiritus
聖霊の賛歌。現在でも聖霊降臨のミサや堅信式でよく使われます。
合唱の基本、ヴィクトリアの音楽
様式的に見るとヴィクトリア作品は、ローマ楽派に属するパレストリーナの様式にほぼ準じますが、旋律の書法や不協和音の扱いはもっと自由で大胆です。ヴィクトリアは随所で、16世紀の厳格対位法では禁則とされていた音程、たとえば上行する長6度音程を用いました。それ以外にも、時々、通常はマドリガーレに使われるような音画技法も利用しました。また、器楽を用いた作品もあり、それは16世紀スペインの宗教曲には異例のことでした。さらにはヴェネツィア楽派の作曲家がしたように、分割合唱のための作品も残しています。
その頃のカトリック教会の音楽はポリフォニーの重要性が増し、歌い手は修道士や共住聖職者たちによる聖歌隊から、専門的な訓練を積んだ俗人聖歌隊に変わりました。ヨーロッパの全てがそうではありませんでしたが、会衆席と司祭たちの間には中世の名残の大きな仕切りが残っていて、また、すでに人々はラテン語を理解できない時代であったため会衆に聴かせて祈りの助けにすることは重視されず、現代のように会衆の歌をリードする役目もありませんでした。
これらの曲には華やかなものはありませんが、合唱の基本が詰まっています。ポリフォニーにより入念に構成、装飾をほどこされた曲を一つの祈りとしてまとめるためにはお互いの声を自分の声のように聴き合うこと、正確な音程とリズム、素直でまっすぐな発声が重要で、さらに歌詞や当時の典礼様式、環境への理解と節度ある表現力が求められます。そしてこれらは他の時代の曲を歌うにも必要な基本で、劇的な表現などはあくまで応用問題でしょう。
とかく後期バロック以降の華やかな大曲に目が向きがちになるため、今回は意識的に基本のみで成り立つ曲に取り組む機会を作りましたが、正確なテクニックや繊細な表現をどこまでものにすることができるのか、私たちにとって大きな挑戦となりました。
(小泉聡子)
◆ フェリックス・メンデルスゾーン(1809~1847)
○オルガンソナタ第6番ニ短調 op.65-6 より
メンデルスゾーンは6曲のオルガンソナタを作曲しています。本日演奏する第6番第1楽章は、コラール『天にまします我らの父よ Vater unser im Himmelreich』に基づく、起伏に富んだ変奏曲です。(中間楽章は省略)一方、終楽章は平安と慰めに満ちており、その祈りの響きは香の如く天へ立ち昇り、曲は静かに閉じられます。
(米沢陽子)
○Aus tiefer Noth schrei' ich zu dir
メンデルスゾーンがロマン派全盛の時代に活躍した作曲家であることは良く知られています。しかしながら、多くの作曲家がロマン主義に基づき古典派の音楽から脱却していこうとする中で、メンデルスゾーンはこうした流れに否定的でした。『真夏の夜の夢』序曲や『ヴァイオリン協奏曲ホ短調』、交響曲『イタリア』、『スコットランド』などの作品が圧倒的に有名で、そうした音楽はロマン派の持つ情念のような暗さがなく、軽快で上品であり当時の聴衆にも絶大な人気があったようです。一般的にこれらの作品がメンデルスゾーンの評価の対象となりがちで、その行儀の良さは後年には退屈と見られることもありました。
しかしながら、実は彼の宗教曲には前述のような作品とは異なった性格を持つ多くの名曲があり、これを知らなければメンデルスゾーンを語ってはいけないという人もいるのです。そうした宗教曲の作品には、ロマン派のハーモニーの上にヨハン・ゼバスティアン・バッハの卓越した対位法的な技術が加えられており、深い精神性に満ちた傑作となっているのです。例えばそれらの作品には『聖パウロ』や『エリア』があり、また東京スコラ・カントールムが第51回定期・慈善演奏会で演奏しました『テ・デウム』などがあります。このほかにも交響曲『宗教改革』、多くのオルガン曲、合唱曲や未完成のオラトリオ『キリスト』などを手がけていました。
こうした業績の背景にあるメンデルスゾーンと信仰との関係について、少し調べてみましょう。彼のフルネームは、Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdyといいますが、この名前の中のBartholdy(バルトルディ)は父(アブラハム)がユダヤ教からキリスト教(ルター派)に改宗したときに、改姓されたものです。こうして父に強いられて新たな信仰に入ったのですが、生涯キリスト教の信仰に熱心に応じました。様々な教派の礼拝に出席し、カトリックに傾いた時期もありましたが、プロテスタント信者であるヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽に寄せる熱烈な愛がルター派にとどめたとのことです。よく知られているように、メンデルスゾーンの大きな業績は作曲家としてだけではなく、バッハの音楽を再発見し、指揮者としてそれを復興させたことにあります。彼はバッハの作品をこの世で最も偉大なキリスト教音楽とみなし、バッハの合唱曲を極めて高く評価しました。
本日演奏します『苦しみの底からあなたに叫ぶ』は、『3つの宗教曲』(作品23)と題されて1830年にボンで出版された3曲の中の1曲です(他の2曲は『われら人生のただなかにあって』と『アヴェ・マリア』)。これらの3曲はメンデルスゾーンが同年の秋から冬にかけてローマに滞在したとき、ルターのコラールに強い関心をもっていた時期の作品で、『苦しみの底から〜』もルターの作曲したコラールを基にしています。特徴的な最初の5度の下降音程は、「苦しみの底から」の深さを表しており、そのあと「あなたに叫ぶ」が上昇音程として続いています。
この曲は5部から構成されています。No.1は4声のコラールです。その後のNo.2では、先ずバスが「苦しみの底から」の5度下降のテーマを歌いだし、追いかけてテナーが「あなたに叫ぶ」の上昇旋律を歌い、アルト、ソプラノへと続くフーガの形式になっています。No.3は前半がテナーソロで後半が4声合唱のアリア、そしてNo.4は再びコラールですがバスが歌いだし、ソプラノがルターの旋律を受け持ちます。終曲のNo.5は4声のコラールで締めくくられます。全曲に渡りルターのコラールの「苦しみの底から」と「あなたに叫ぶ」2つの旋律が印象的に歌われます。
(福井良太郎)
◆ フランツ・リスト(1811~1886)
リストの宗教音楽
リストといえば、19世紀ロマン派の旗手の一人、メンデルスゾーンやショパンの友人で、作った曲としては、まずピアノ曲や交響詩、それも技巧的な曲を思い浮かべる方が多いでしょう。若いころの美貌と多彩な女性関係も知られているリストが宗教曲を手掛けたことは、意外に思えるかもしれませんが、3つのオラトリオ、2つのミサ曲をはじめ、多くの宗教曲を作っています。今日は、『アヴェ・マリア』(Ave Maria I-B)と『ロザリオ』を演奏します。
リストはカトリックの信仰が根強いハンガリーで生まれました。幼少のころから、カトリック教会の司祭になることを強く望んでいたのですが、父親の方針はピアニストとしての才能を伸ばすことにありました。その演奏には超絶的な技巧だけでなく、深い内面性が表れていたことを示す逸話があります。リストの愛弟子の一人、ドイツ系ユダヤ人のヘルマン・コーエンを連れて、ジュネーブの大聖堂のパイプオルガンでモーツアルトの『ディエス・イレ』を演奏した時、ヘルマンの心に大きな宗教的衝撃を与えました。ヘルマンは、のちにキリスト教に改宗し、カルメル会修道士・司祭となり聖人のような一生を送りました。リストとの出会いにおけるこの内的な出来事を、後にコーエン神父は「告白」として特記しています。
また、50歳前後のとき、息子と娘を相次いで失う不幸に見舞われたこともあってか、54歳の年には在俗修道士のしるしとして剃髪式を受け、後には、最下級ながら、教会の聖職の位を得ています。
アヴェ・マリアとロザリオ
「アヴェ・マリア」というのは、天使(ガブリエル)がマリアのもとに受胎を告げに訪れたときの、祝福を込めた挨拶の言葉(祝詞)です。天使の言葉は「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。」(ルカ書1.28)です。続いて、身重になったマリアが、高齢にもかかわらず子供を授かった従姉のエリザベトのもとに身を寄せたときの、エリザベトの歓迎の挨拶の言葉(ルカ書1.42)が唱えられます。後半は、救い主の母となったマリアに、神に対して罪の許しの取り次ぎを願う祈りに続きます。
ロザリオの祈りは、13世紀はじめの頃から、ベネディクト修道会で当時「聖務日祷」といわれた祈祷文によって日ごとに150編の詩編をすべて唱える代わりに、アヴェ・マリアを繰返し唱える習わしがあったことが起源であるとされています。そのときに、繰返しの回数を数えるための数珠が用いられ、その数珠がロザリオと呼ばれるようになりました。
ロザリオは、アヴェ・マリア10回を1連とし、5連を1環としていますが、各1環ごとに、キリストの母としてのマリアの喜び、苦しみ、栄光のそれぞれを想いながら祈るという、カトリック教会で今も行われている信心業があります。それらは、「喜びの玄義」、「苦しみの玄義」、「栄えの玄義」と呼ばれます。「玄義」は、カトリック教会用語でMysteria の訳語で、近頃は「神秘」とも言われますが、意味としては「礼拝」、「儀礼」のことです。
今日演奏する『ロザリオ』では、リストはそれぞれの玄義を三通りのアヴェ・マリアの曲で表現することを試みています。
(村田隆裕)
◆ ヨハネス・ブラームス(1833~1897)
今宵のドイツロマン派の演奏は、ブラームスでしめくくります。
ブラームスは、メンデルスゾーン、リストの後、ほぼ一世代(20余年)を経て、生を受けます。華やかなロマン派全盛時代の潮流の中に育まれつつ、ロマン派の偉大な先達たちの、革新と新機軸を目指した時代風潮に一線を画し、徹底的にバロック・古典派の音楽技法を研究し、彼自身の音楽的語法を確立しました。伝統的な方法論を根幹としながら、その枠組から飛翔したブラームス独自のロマン派音楽の世界が、築きあげられたのです。
このことは、ワーグナーが始めて若きブラームスに会ったとき、ブラームスの演奏した『ヘンデル変奏曲』を聴いた後に、感銘して発した言葉に表れています。曰く、「古い形式をどう扱うべきかを知っている人の手にかかると、古い形式で未だどんなことが行われ得るかを見させられます」。その後、この偉大な二人の作曲家は、再び会うことはなく、第三者を経由した相互の音楽批判と楽壇の政治的抗争の末、標題音楽を標榜する新ドイツ楽派とブラームスの絶対音楽派との抜き差しならない対立として、固定化されていきますが、ブラームス自身は、生涯ワーグナーの音楽にも興味を持ち、研究と称賛を続けました。
私生活では、20才の若い才能に衝撃的感動を憶え、楽壇に紹介の労を取った、ロベルト・シューマン夫妻、特にクララ・シューマンとの運命的で親密な関係が、彼の性格をよく表しています。シューマンが精神病でライン河に身を投じた後、21歳のブラームスは14歳年上のクララとその娘達の下に馳せ参じ、精神的・経済的に全面的な支援を始め、2年後にロベルトが亡くなった後も、生涯を通じて変わることのない交際を続けました。とはいえ、ロベルト亡き後何故かクララとの関係は、この若者が憧れた14歳年長の才能と美貌に溢れる女性に対する情熱的な恋慕の情から、むしろ控えめで深い共感を分かち合う友人の関係に変わっていったようです。以後ブラームスは、一生独身生活を通すことになります。その後、数々の才能と魅力を備えた女性達との交際でも、それぞれの女性との熱愛や結婚がまさに成就されんとするときに、自ら手に入れかけた世俗的な幸福に背を向け、歩み去るような行動が目立ちます。ロマン派の潮流の中で徹底的にバロック・古典派の技法に目を向けながら、その中から自分自身の新しいロマン派音楽への展開・回帰を求め続けた、二律背反的、重層的なブラームスの性格と重なり合う部分ではないでしょうか?
精神生活では、ルター派プロテスタント教会員として、篤い信仰心を持ちながら、それは単なる教理や形式ではなく、彼独特のキリスト教精神として内在化されたものでした。代表作『ドイツ・レクイエム』を始め、数多くの宗教曲には、彼自身が選んだ、聖書の詩編、預言、黙示録等からの聖句が、ドイツ語テキストとして採用されています。
今夜のステージで取り上げた、『二つのモテット』作品29と『宗教的歌曲』作品30は、いずれも作曲活動の比較的初期の時代である、1856年から1860年の間の作品です。『二つのモテット』は、作曲時期に重なるデトモルトでの合唱指導や、ハンブルグ女声合唱団での指揮活動の経験が、役立ったと思われます。全てドイツ語の歌詞で当時でも旧い聖歌のテキストや、詩編ドイツ語訳からとられており、作曲法としては、コラール・モテットの形式や、洗練された斬新なカノン、フーガ技法の採用等、バッハからつらなるモテットの伝統を踏襲しながら、ブラームス特有の彩どりが感じられます。
『宗教的歌曲』の作曲は、絶望的なシューマンの病状の中、彼がクララへの愛慕を通じて精神的な苦悩を持てあましつつ、対位法の研究に没頭した時期と重なります。その後、彼が熟達していった対位法の最初の研究成果が、この『宗教的歌曲』です。ソプラノ・テナーと、アルト・ベースの間で、興味深い9度音程の開きをもって進行する、二重カノンの手法が採用されています。今宵のブラームスの曲では、唯一オルガン伴奏があり、前奏、間奏が入り、印象的なアーメンの後唱で終わる三部形式となっています。
(池田龍亮)
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