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第54回定期・慈善演奏会
ある聖歌史 VIII
17世紀後半 イギリスとフランスの耀き

開催日:2011年10月21日(金)
開演時間:19時(18時30分開場)
会場:渋谷区文化総合センター大和田さくらホール
東京都渋谷区桜丘町23-21 ※駐車場はありませんのでご注意ください。
(JR渋谷駅 中央改札より西口に出て南方面へ徒歩約5分)

献金先:学校法人日本聾話学校 創立90周年記念事業のために

指  揮: 青木洋也
ソプラノ: 藤崎美苗/磯辺絢子
アルト: 青木洋也
テノール: 石川洋人
バリトン: 加耒 徹
合唱・管弦楽: 東京スコラ・カントールム

チケット:一般前売り3,000円、当日券3,500円、学生券1,500円

全席自由 

◆H.パーセル アンセムとモテット
H. Purcell Anthems & Motet

わたしは嬉しかった、人々がこう言ったとき
I was glad

おお、神よ、栄光の王よ
O God, the King of glory

主よ,わたしを苦しめる者はどれ程多いのでしょう
Jehova, quam multi sunt hostes mei !

あなたのみ言葉は、わたしの歩みを照らす灯
Thy word is a lantern

◆M.A.シャルパンティエ
M. A. Charpentier

真夜中のミサ
Messe de Minuit


【ヘンリー・パーセルとその時代】

ヘンリー・パーセル(Henry Purcell, 1659-95)は17世紀後半、イギリスバロック時代を代表する作曲家です。当時のイギリスはピューリタン革命と名誉革命を経験し、王制から共和制へ、また王制へ復古するという激動の時代でした。
パーセルが生まれたのは、その王制復古が始まった時期にあたります。
共和制時代はピューリタ二ズムに基づく禁欲的な社会で、教会には音楽禁止令が出され、16世紀後半に花開いたイギリス教会音楽の伝統は中断され、大衆の楽しみであった劇場も閉鎖されて、演劇や音楽などの芸術は冬の時代を迎えました。しかし、王政復古とともに芸術は息を吹き返します。パーセルがこの世に生を受けたのはこのような芸術復興の時代でした。

父も叔父も王室音楽家という環境下で育ったパーセルは6歳で王室礼拝堂の少年聖歌隊員となり、幼くしてアンセム(英国国教会の聖歌)も作曲する神童でした。14歳で変声期を迎え少年聖歌隊を退いた後は調律を学び、15歳でウエストミンスター寺院のオルガン調律師となります。その後同寺院の専属オルガニストに就任し、20歳を迎える頃には作曲家、オルガニスト、聖歌隊員、調律師など宮廷付音楽家として活躍します。そして36歳で生涯を終えるまで王室に仕え、王に捧げるオード(頌歌)、アンセムなど宗教曲、さらに劇音楽等を数多く作曲しました。

王政復古で即位したチャールズ2世は、革命期には母の祖国フランスに亡命し、フランス音楽や先進的なイタリア音楽から大きな影響を受けました。帰国後チャールズ2世はフランス宮廷にならい、王室ヴァイオリン合奏団を作り、様々な機会に演奏させました。これが教会音楽に影響し、華やかな器楽伴奏や独唱などが入るアンセム(ヴァースアンセム verse anthem)に発展してゆきます。パーセルのアンセムも初期のころは無伴奏の合唱のみのアンセム(フルアンセム full anthem)でしたが、チャールズ2世に仕えるようになると王の好みを反映して、ヴァースアンセムを多くつくるようになりました。それは教会音楽としては“世俗的”な華麗なもので、イタリアやフランスのオペラの影響が伺われます。

今日お聞きいただくのはそのヴァースアンセムです。
最初の曲《I was glad 私は嬉しかった、人々がこう言ったとき》はジェームズ2世の戴冠式で歌われました。パーセルはこの時自らも聖歌隊の一員としてバスのパートを歌ったといわれています。
次の《O god, the king of glory おお神よ、栄光の王よ》はキリスト昇天祭の祈りの曲です。
三番目の曲《Jehova, quam multi sunt hostes mei ! 主よ私を苦しめる者はどれほど多いのでしょう》はチャールズ2世の妃でポルトガルから嫁いだキャサリンに捧げられました。カトリックの王妃のために歌詞はラテン語で書かれています。
最後の《Thy word is a lantern あなたのみ言葉は、わたしの歩みを照らす灯》は他のパーセルの作品同様、繊細で、そして大胆なリズム感にあふれた作品です。

さて、宗教音楽家パーセルは同時に世俗音楽家としても優れていました。王室に仕え、多数の宗教音楽を作曲する一方、歌劇や劇中音楽など多くの世俗音楽を残しています。特に30歳を過ぎる頃から晩年までは王が戦争で不在中だったこともあり、宗教音楽とは違う劇作品に力を注ぎました。作品の一部は20世紀の英国の作曲家B.ブリテンが『青少年のための管弦楽入門 パーセルの主題による変奏とフーガ』に挿入され今日も親しまれています。

王室と教会に仕えた音楽家がジャンルの異なる劇場向けの娯楽音楽を書いたこと自体奇異な感じがしなくもありませんが、パーセルは、教会と劇場という異なる世界でその音楽的天分をいかんなく発揮しました。36歳で夭折しましたが、その音楽家としての人生は充実しており、“英国のオルフェウス”*と讃えられ、今も尚耀きを放っています。

*オルフェウスはギリシア神話に登場する音楽家、竪琴の名手でその美しい音楽は動物も草木をも感動させたという。

参考
J.A.ウェストラップ著 松本ミサヲ訳『パーセル』
(中西恵子)

 

◆シャルパンティエとその時代

マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier, 1643-1704)は、「太陽王」と称せられるフランス王ルイ14世(在位1643-1715)の時代に活躍した作曲家です。ルイ14世は、絶対君主制を確立し、新しく造営したベルサイユ宮殿を舞台に宮廷文化を花開かせました。音楽の世界でも、国王のミサや宗教儀式のために音楽を準備・作曲するシャペルや宮廷のバレエやオペラなど世俗音楽を担当するシャンブルなどの、国王のための音楽組織を中心に、リュリ(Jean-Baptiste de Lully, 1632-87)やドラランド(Michel-Richard Delalande, 1657-1726)などの作曲家が活躍しました。
シャルパンティエは、時期的にはこの二人のちょうど中間に位置します。シャペルやシャンブルなどには属していませんでしたが、同時代の人たちからは高い評価を与えられていたことがわかっています。
非常に多作で、宗教曲を中心にオペラや牧歌劇、幕間の音楽、世俗曲など、500曲を超える作品がのこされています。しかし、生前に出版された楽譜は非常に少なく、没後200年ほどの間は、ほとんど忘れられていました。幸いなことに、自筆譜が1727年に王室図書室に買い上げられ、散逸することなく保存されていました。20世紀にはいり、自筆譜の存在が明らかになったことから再び注目され、近年では、演奏機会も増えています。
経歴には不明な点が多く、パリに生まれ、1660年代にローマで3年ほど、オラトリオの作曲家として有名な作曲家カリッシミ(Giacomo Carissim, 1605-74)に学んだこと以外は、よく分かっていません。
パリに戻った後は、ギーズ公爵夫人(Marie de Guise, 1615-88)の庇護を受け、彼女の死まで仕えました。オート・コントルの専属歌手であったようです。同時に、当時の有力な作家モリエール(Molière)やコメディ・フランセーズ(王立劇団)とも関係を深め、かなり早い時期から幕間の音楽を書いています。また、リュリの失脚後は、宮廷とも関係し、王太子や国王の甥の音楽教師やサント・シャペルの楽長などの要職に就きました。

◆真夜中のミサ(Messe de minuit)とフランスの香り

1690年代初めの作とされる『真夜中のミサ』は、『テ・デウム ニ長調』と並んで、もっともよく知られた作品です。「真夜中のミサ」とは、クリスマスの真夜中に執り行われるミサのことです。当時のフランスでは、クリスマスの真夜中のミサで、伝統的なクリスマスキャロル(ノエル)を歌うことが認められていました。シャルパンティエは、10曲のノエルの旋律を忠実に、しかもポリフォニーの定旋律とは違う形でとりいれ、新たに作曲したメロディーとともに構成し、親しみのあるミサ曲に仕上げています。舞曲系・三拍子系のノエルのメロディーと、二拍子系のシャルパンティエ自身のメロディーが効果的に対比されています。今回のプログラムでは、シャルパンティエ自身が器楽用に編曲したノエルが、ミサ曲の間に演奏されます。
練習では、「イネガル」に大いに苦しみ、かつ大いに楽しみました。「イネガル」とは、不均等・不平等という意味のフランス語ですが、演奏法としてのイネガルは、「楽譜上では均等に書かれている2音を不均等に演奏する奏法」で、17世紀から18世紀にかけてフランスで確立し、他のヨーロッパにも浸透しました。フランス語の語り口に由来するとされる「イネガル奏法」は、簡素で角ばったリズム形に、優雅さや趣を与えるとされています。「イネガル」は、手稿譜ではつながったスラーのような記号で表されています。これを私たちは「カモメのスラー」と呼び、手振り身振りを交えながら、練習しました。不均等といっても付点のように分割するのとは違う。決して跳ねたり浮いたりしない・・・フランスの香りの源の一つ「イネガル」を表現できていると良いのですが。
さて、これまで多くの場合、シャルパンティエは、当時の有力な作曲家のリュリとの関係から、宮廷から閉め出され、教会や在野の劇場での活動を余儀なくされたと考えられてきました。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。あるいは、宮廷との断絶が彼の音楽に与えた影響は、マイナスのものばかりなのでしょうか。当時の宮廷文化はとても華やかなものでしたが、王の威信を高めるという目的は、芸術にとってはある種の枠・箍(たが)だったと考えられるからです。その意味で、最近進められているシャルパンティエの音楽への再評価は、フランス古典主義(バロックの当時の呼称)への再評価をもたらす可能性があるのかもしれません。
ともあれ、クリスマスにはまだ間がありますが、一足早く、フランスの香りのするクリスマスの音楽を、お聴き下さい。

参考
Catherine Cessac,”Marc-Antoine CHARPENTIER” Amadeus Press, 1995
浜中康子『栄華のバロック・ダンス』音楽之友社、2001
梅野りんこ「17世紀フランスオペラとその社会:リュリの『テゼ』とシャルパンティエの『メゼ』から見た近代ヨーロッパ」横浜国立大学技術マネジメント研究学会『技術マネジメント研究』、8号、2009
(井上匡子)

 

53th

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