東京スコラ・カントールム第22回定期・慈善演奏会
モーツァルトの教会音楽
Church Music of Mozart


(1991/4/12、指揮:黒岩英臣、東京カテドラル聖マリア大聖堂)


《曲目》

第一部 戴冠式のミサ(ハ長調のミサ)KV317 / Kroenungsmesse (Missa in C)

1. 憐れみの賛歌 / Kyrie
2. 栄光の賛歌 / Gloria
3. 昇階唱 教会ソナタ KV329(317a) / Graduale ... Kirchen Sonata
4. 信仰宣言 / Credo
5. 感謝の賛歌 / Sanctus
6. ほむべきかな / Benedictus
7. 平和の賛歌 / Agnus Dei


第二部 証聖者のための晩課 KV339/ Vesperae Solennes de Confessore

始めの祈り 「神よ、速やかに私をお救いください」/ Opening Prayer “Deus, in adjutorium”
交唱 「主よ、あなたは私に5タレンタを」 / Antiphon “Domine, quinque talenta”

1. 主のみことば / Dixit
交唱 「主よ、あなたは私に5タレンタを」 / Antiphon “Domine, quinqui talenta”
交唱 「よくやった、良いしもべよ」 / Antiphon “Euge serve bone”
2. 主に感謝 / Confitebor
交唱 「よくやった、良いしもべよ」 / Antiphon “Euge serve bone”
交唱 「思慮深く忠実なしもべ」 / Antiphon “Fidelis servus”
3. 幸いな人 / Beatus
交唱 「思慮深く忠実なしもべ」 / Antiphon “Fidelis servus”
交唱 「祝福されるしもべ」 / Antiphon “Beatus ille servus”
4. 人々 讃美せよ / Laudate pueri
交唱 「祝福されるしもべ」 / Antiphon “Beatus ille servus”
交唱 「良い忠実なしもべよ」 / Antiphon “Serve bone”
5. 主を讃美せよ / Laudate Dominum
交唱 「良い忠実なしもべよ」 / Antiphon “Serve bone”
交唱 「この方こそ」 / Antiphon “Hic vir”
6. 主を崇めよ / Magnificat
交唱 「この方こそ」 / Antiphon “Hic vir”

結びの祈り 「讃美を主に」 / Closing Prayer “Benedicamus Domino”



《プログラムノートより》
『モーツァルトの教会音楽』 ... 小笹和彦 (東京スコラ・カントールム主幹)
…スコラと宗教音楽
東京スコラ・カントールムが創設されてから12年になる。 その間いろいろなことがあったが、音楽史のうえで記念すべき重要な年を2回も経験できるのは幸せである。1回目は1985年のバッハ生誕300年を記念して現代に生きる新しいバッハ像を提示した。そして今回は、モーツァルトの没後200年を記念して、教会音楽家としてのモーツァルト像を一新したいと願っている。 宗教音楽、特に教会内で演奏される典礼音楽を専門とする私達としては、この分野で最高峰に位置するこの二人の巨匠の音楽が、単に芸術上の価値で、あるいは単にその音楽の美しさだけで評価されている現状について常日頃疑問を感じてきた。 したがって私達は、宗教音楽本来の姿、その精神と文化を受け継いで演奏することに情熱を燃やしてきた。バッハ生誕300年記念祭のときにはドイツから指揮者とソプラノ独唱者を招き、おりしも完結した新バッハ全集版の楽譜、古楽器、バロック奏法と唱法により「ヨハネの福音書による受難曲」を2回演奏し、高い評価をいただいた。その中で私達がもっとも嬉しかったのは、この曲を聴いて「キリストの受難について想いを深めることができた」と多くの方にいっていただいたことだった。キリスト教信仰の有無は別として、「この世ならぬ想いにとらわれて涙を止めることができなかった」との感想も寄せられた。
これらは教会暦上の受難週に合わせて、一般の演奏会場ではなく、ここ東京カテドラルで演奏させていただいたのも成功の一因だったと思うが、なによりもひたむきにキリストの生涯と受難の意義に思いをいたし、バッハの心と視点にたって歌いあげようとした演奏態度に多くの聴衆が共鳴して下さったのだと自負している。

いろいろな資料研究や作曲者が作曲した当時の演奏法や楽器の復元は、近年めざましい発展をとげつつある音楽学の貴重な成果である。このおかげで私達は、いままでより身近にバッハやモーツァルトを感ずることができるようになったし、彼等の意図した音楽的効果を最大限に再現することも可能になった。教会のご協力が得られれば、教会音楽として最も重要な要素である宗教的環境と響きの良い音場も与えられる。
しかしそれだけでバッハやモーツァルトの教会音楽が立派に演奏できると思ったら大間違いである。日本のことわざでいえば「仏作って魂入れず」といった演奏がなんと多いことか。あるいは聖書のことばをかりていえば「白く塗りたる墓」のように外面ばかり取り繕って内容の乏しい演奏のなんと多いことか。 そこには美しい楽の音があるかもしれないが、人格としてのバッハやモーツァルトが感じられず、作曲者の意志を反映した宗教的感興がない。「楽譜に忠実であれば、作曲者の意図はおのずと現れる」という人がいるが、少なくとも宗教音楽では正しい演奏態度とは思えない。

例えば、あるミサ曲のある箇所に“p”の指定があったとする。 ある奏者がその部分を絶妙な弱音で演奏したとする。それだけでその音楽が生きた演奏といえるだろうか。 その箇所が「イエス・キリストよ」と呼びかける“p”なのか、“CRUCIFIX”と受難を偲ぶ“p”なのかを判別し、記号は同じ“p”であっても表現に微妙な差がでてこなければ作曲者の意を体した演奏とはならない。 音符にしても、ことばのアクセントの置き方によって同じ形の音符でも奏法や唱法に千変万化の相違がある。その差を知るためには単に譜面を忠実に追うだけの作業では足りず、グレゴリオ聖歌以来の「ことばと音楽」に関する、あるいは「教会音楽作法」に関する知識と伝統を身につけなければならない。さらにテキストの背後にある聖書と教義に関する広範な知識も必須である。
したがって西欧でカントール(教会所属の音楽監督)あるいは宗教音楽演奏家となるためには、普通の音楽家としての知識と能力のほかにさまざまな学問と技能を積まなければならないのだか日本ではその常識が欠けている。 だからオペラであろうがミサ曲であろうが、いずれも音楽的な価値だけで判断され、演奏されるが、それだけでは決して作曲者の意を体した音楽とはならないのである。宗教的感情移入のはなはだしい音楽ではとうてい芸術的鑑賞の対象とはなりえないが、さればとて、洗練された技巧や美しい旋律だけが目立つ宗教音楽は空しいものである。
モーツァルトの教会音楽は、その意味でも最もアプローチの難しい音楽である。 ともすれば、そのあまりの美しさに心をうばわれてモーツァルトの本質を見失う。しかし私達としては、その美しい音楽が美そのものを誇示するために作曲されたものではなく、モーツァルトの信仰の発露として整えられたものだと理解する立場で演奏にのぞみたい。そのためには、世上よく誤解されている彼の信仰生活の基盤を明らかにしておく必要があるであろう。

…モーツァルトの信仰
1. モーツァルトの信者歴
モーツァルトは話題性に富んだ人物であり、それだけに映画や文学によってかなり歪曲されたイメージが人々のあいだに流布している。しかし、そうした主観的判断を離れ、素直に彼の足跡を見ればその信仰は一生を通じてゆるぎない。
彼は篤心のカトリックの両親のもとに生まれ、育ち、教会音楽を書きつづけ、レクィエムを作曲中に息絶え、1791年12月6日にウィーンの聖シュテファン教会の十字架小聖堂で最後の祝福を受けてその35年の生涯を閉じた。
また、その優れた天与の才が認められ、当時の教皇クレメンス14世から「黄金拍車勲章」を授けられたのも事実である。これは、音楽家としては200年以上も前のルネサンス期最後の巨匠オルランド・ディ・ラッソに次ぐ名誉である。これにより14歳のモーツァルトは教皇庁出入り自由の特権を与えられたほか、裁判権まで免除されることになった。この栄誉に浴したイタリア滞在中に、彼はマルティーニ神父という教会音楽の権威の知遇を得た。
幼少の頃から多くの聖職者や修道士と交わり、その精神的影響を数多くの教会音楽作品に反映したモーツァルトは、この神父との出会いによって、彼の後半生にはかりしれない偉大な影響を受けた。対位法の作曲技法を中心に、教会音楽の伝統と作法をこの神父から受け継ぎ、その成果を彼のあらゆる芸術作品に応用し発展させていった。精神的にもこの神父を真の師として慕い、尊敬したことが彼の手紙のはしばしにうかがわれる。

2. コロレド大司教との確執
モーツァルトが仕えていた、ザルツブルグの大司教ヒエロニムス・フォン・コロレド伯爵と確執があったことは事実である。モーツァルトが自分の職業生活について生殺与奪の権を握るこの大司教に反抗し、忌み嫌い、ついにはその支配から逃れ出ることになった経過は、彼自身の手紙に明らかである。けれども、そのことだけでモーツァルトの信仰問題を判断し、この事件以後彼が信仰と教会を離れていったという通説は浅薄にすぎる。なぜなら、この不幸な事件の後でも、彼は教会に行くこと、教会音楽を作曲することをやめなかったからである。
もし大司教との訣別が教会からの離反も意味するというのなら、私達はあの有名な「ハ短調大ミサ曲」や、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」や「レクィエム」などに接することはできなかったはずである。だが幸いなことに、それらは厳然として私達の目前に遺されている。
この3曲は、いずれもモーツァルトが独立した音楽家として活動を始めた最初期から、死に至るまでの10年間に、ウィーンで書かれた重要な作品であるが、そのいずれもが教会の典礼のために書かれたものだ。
また、もしモーツァルトがほんとにコロレド大司教によって信仰のつまづきを与えられたのだとしたら、なぜこのような信仰告白の粋ともいえる傑作が生まれたのだろう。しかも「ハ短調ミサ曲」を、モーツァルトは大司教から離反した直後に、わざわざウィーンからザルツブルグにまいもどって初演したのはなぜだろう。
大司教の立場から考えれば、モーツァルトは忘恩の徒である。相当の厚遇を与えていたはずなのに、彼は勝手に任務を放棄してその庇護から離れた。ザルツブルグに戻ったらそれそうとうの処罰を与えて当然である。ところが大司教は、そうはしなかった。しかも多くの宮廷音楽家がその曲の初演に参加したことを黙って見逃している。これらの事実から、私はコロレド大司教がモーツァルトを憎悪していたという通説に疑問を感じている。また、モーツァルトが決定的にコロレド大司教を憎み、そのあげくに信仰まで捨てたという説にも与することができない。

3. コロレド大司教とポンテオ・ピラト
多くのモーツァルティアンは、多くのクリスチャンがキリストを処刑した直接の責任者としてローマの総督ポンテオ・ピラトを嫌うように、モーツァルトが反撥したコロレド大司教を憎み、悪役に仕立て上げている。しかしそれは公正な評価ではない。
モーツァルトは13才の時からコロレド大司教の前任者によって宮廷音楽家(コンツェルト・マイスター)に任命されていたが無給であった。これを有給の身分に取り立てたのは着任間もないコロレド大司教である。この時モーツァルトは16才。破格の待遇である。この後5年間平穏な日々が続く。1777年、21才のモーツァルトは母親と一緒にパリ、マンハイムの旅に出た。それは、1年4ヶ月にもおよぶ長い空白であったがコロレド大司教は前よりも格段によい条件で宮廷オルガニストとして復職させた。
その頃のモーツァルトは、父親の勧めもあり、よりよい地位を求めてウィーンやパリで求職活動を行ったが、いずれも失敗に終わった。神童としての面影を失った青年モーツァルトに、もはや王侯貴族は何の関心も示さなかったのだ。その音楽的能力を認めて、よりよい待遇で宮廷音楽家の地位を保証したコロレド大司教は、むしろ当時ただ一人のモーツァルトのよき理解者であったということさえ可能である。
宮廷音楽家といっても、当時のザルツブルグはローマ教皇に任命された大司教によって祭政一致の統治が行われていたから、宮廷の主は聖職者であり、モーツァルトの任務はそこで教会音楽を作曲したり、演奏したり、ミサ典礼や聖務日課でオルガンを奏楽を務めることがほとんどで、一般の王侯貴族の宮廷とは趣を異にしていた。
カトリックのミサはプロテスタントの礼拝と違い、年間を通して毎日執り行われる。主日(日曜日)には、これが何回も繰り返して行われる。そのうえ、司祭や修道士のための聖務日課にも奉仕しなければならない。そのすべてに参加する義務はなかったとしても、この日課は文字どおり毎日8回、3時間おきに厳粛に行われる礼拝行事である。クリスマス、受難週、復活節などの時期の多忙さは想像を絶する。
幼少の頃から家族で旅し、学校には行かずに父から教育を受け、寄宿舎といった集団生活の経験もなく、貴族社会を転々として可愛がられていたモーツァルトにとって、これはたいへんな苦痛だったに違いない。
そして、これこそモーツァルト親子がザルツブルグでの地位を嫌った真の原因であると考えるのだが、そのことを指摘した評伝は日本にはない。

4. モーツァルトの反抗期
コロレド大司教は厳格な人で、ミサ中に用いる音楽の時間を45分に制限した。したがってモーツァルトの自由を認めない、音楽に無理解な人であった、とほとんど全ての伝記が訴える。モーツァルトは、イタリヤのマルティーニ神父に送った手紙の中で確かにそのことを嘆いている。しかしそれだけで大司教を悪役としてきめつけるのは「ひいきのひきたおし」というもので、当時の歴史的趨勢をみれば、コロレド大司教ひとりを責めるわけにはいかない事情が分かる。
17、18世紀を通じてミサの祭儀は盛大になり、そのために費やされる時間はどんどん延長された。ところがミサに参加すべき庶民の心は徐々に教会を離れていった。新しい市民の楽しみが教会生活以外の場に移っていったからである。この傾向はとどめようもない勢いで進展したから、教会はその対策としてミサの時間を圧縮することにした。19世紀初頭のウィーンの聖シュテファン教会では「約12分でミサを捧げる司祭の時に、最も多くの会衆が集まった」という報告があるくらいだから、18世紀後半のザルツブルクのミサで、音楽が関与する部分が45分間というのは、むしろ寛容な措置だったと考えてよい。少なくともコロレド大司教の一方的な、音楽に無理解な命令でなかったことは確実である。
モーツァルトは賢明な人だったからこうした事情はすべて理解していたに違いない。その上でなおかつ大司教を強く嫌悪したのは一種の甘えか、ようやく芽生えた自我意識のたかぶりだったと解釈するのが妥当である。甘えとは、コロレド大司教がもっと時流に抗してイタリア式の長いミサを挙行して欲しいというないものねだり、あるいは彼の音楽創作上の自由をもっと与えてほしいというわがままにあり、それが叶えられないくやしさが悪口になって表れたものである。こうしたあつれきは雇用主と従業員の間で、今も昔も絶えずくり返されている葛藤に過ぎない。ちょうどその頃、モーツァルトは遅い反抗期を迎えていたのではないか。本来なら父親に向かうべき反抗が大司教にむけられたと考えることができる。
父レオポルトの圧倒的な影響を受けて育ったモーツァルトは、終生父親に頭が上がらなかった。父は息子の音楽的天分を自分以上のものと認めて敬意を示してはいたが、20歳を過ぎた息子の自立を認めず、その生活や結婚に強力に介入した。この強い父親に直接抵抗することを避け、その代わりにコロレド大司教の名を借りて反抗したというのが真相ではなかろうか。大司教とモーツァルトの地位には天と地ほどの差があった。いくらモーツァルトが天才でも、一音楽家の悪態が封建時代の領主に直接届くはずがない。モーツァルトはそれを心得ていて、父親に差し出した手紙の中でだけ大司教に対する悪口雑言を並べ立てる。しかしそれは、神の次に大事な存在として、恐れつつも愛してきた父親からの離脱に備える、誰をも傷つけずにすむ格好ないいわけの材料に過ぎない。したがって、大司教とモーツァルトとの個人的なレベルでの直接対決や、それに起因するモーツァルトの棄教うんぬんという俗説は、後世の好事家が自分の目的を正当化するためのこじつけに過ぎないと考えられる。

5. モーツァルトとフリー・メイスン
モーツァルトは死ぬまで聖書を手放さなかった。その遺産目録には「十分に使い古された1679年版の聖書」が含まれていた。そのこともってしても彼の信仰を疑うのは愚かなことなのだが、いまだに彼の信仰に疑義をさしはさむ議論が絶えないのはなぜか。
コロレド大司教との確執の他によく挙げられる根拠は、彼が晩年フリー・メイスンという団体に所属していたことだ。確かにこの団体の活動は、一時期秘密のヴェールに包まれ、教会に否定されるなどの物議をかもしたことがあった。しかし、モーツァルトの時代にはもっと開かれた、今でいえばロータリー・クラブのような、ウィーンの名士達の集まりに過ぎなかったのである。会員は男性だけで、なんらかの宗教を信仰していることが資格要件の一つであった。したがってこの会員にはカトリックの司祭や貴族もいればユダヤ教徒の大商人や有力な学者もいるといったぐあいで、ヒューマニティーと世界市民的な精神とを涵養する活動を展開していた。モーツァルトは独立した一人の音楽家としてこれに参加し、その風変わりな儀式に参加したり、そのための音楽を作曲した。モーツァルトにとって、そこでの活動と富裕な人々との交流は、ウィーン時代の彼とその家族の生活を支えるために重要な意味をもっていた。だが、モーツァルトがこの結社の奉ずる神に帰依したとか、その独特な標識や真義を信奉して音楽を作曲したというのは、フリー・メイスンの立場から考えても不合理な話だ。なぜならフリー・メイスンは新興宗教のような団体ではなく、独自の神を礼拝したり新たな信仰を強要したわけではないからだ。
従って、あえてこの説をなす人達は、歌劇「魔笛」をモーツァルトの最高傑作として神格化するモーツァルト教の信者だと判断してさしつかえないだろう。それにしてもこの人達は、モーツァルトがフレー・メイスンのために書いた音楽が、実はキリスト教精神によって裏打ちされていることを知っているのだろうか、それとも知ろうとしないのだろうか。

6. モーツァルト教徒とセシリア運動の誤解
モーツァルトの信仰と音楽について最後にもう一つだけ誤解を解いておきたいことがある。それは彼の音楽が並外れて美しいところからくる批判ないし曲解である。
19世紀に興隆をきわめたロマンチシズムは、しだいに芸術至上主義の台頭をうながし、やがて芸術家が神に等しい存在として崇められたり、自らを美の司祭に擬する音楽家が出現したりする。この風潮は現代にも受け継がれ、多くのバッハ教徒やモーツァルト教徒やワーグナー教徒、あるいは音楽教徒を産む結果を招来した。しかしこうした風潮を危惧して、当時の教会はセシリア運動として知られる教会音楽の浄化運動を促進した。セシリア(チェチリアとも読む)とはローマ教会で最も尊崇をあつめた殉教者の一人で、のち音楽の守護聖人として称えられる聖女の名であるが、その名をかりて華美な教会音楽や世俗音楽を教会から放逐しようとしたのだ。この聖女は、有名なラファエロの絵にもあるように、必ず小型のポジティーフ・オルガンを演奏する姿で描かれている。
そのことから、教会音楽にふさわしいのは質素なオルガンの奏楽か、アカペラ(無伴奏の)合唱だけであるとして他は追放されることになった。パレストリーナが理想的な教会音楽だとして称揚され、モーツァルトやハイドンの音楽は信仰の純粋さを阻害するものだとして排斥された。
こうした批判も今日まで受け継がれ、いまだにモーツァルトの旋律美が官能的で教会音楽にふさわしくないとか、オペラ的で不真面目だとか、あまりにも世俗的でその信仰を疑う、といった議論がかまびすしい。しかしそのようにモーツァルトの教会音楽を誤解する人達は、おそらくキリスト教の本質さえ誤解しているのだ。キリスト教は本質的に喜びの宗教であり、希望の宗教であり、愛の宗教であって、決して人に苦渋を強いたり禁欲を強制するものではない。セシリア運動は当時のゆきすぎたロマンチシズムに対する反動としてやむをえなかったとしても、現代人がモーツァルトを批判する時代的要請はなにもない。むしろ現代こそ、モーツァルトの音楽が必要とされている時代なのではないか。
今から35年前のことだが、今世紀最大のプロテスタントの神学者であるカール・バルトは、モーツァルトの生誕200年を記念する著書の中で次のように述べている。
「モーツァルトの音楽はバッハのそれとはちがって使信ではない、また人生告白ではないという点がベートーヴェンと異なっている。また何等の教えを作曲したわけではなく、ましてや自己を歌い上げたわけでもない。…モーツァルトは何を語ろうとしているのでもない。ひたすら歌い響かせている。だから彼は聴く人になにも押しつけはしない。決断であるとか、意思決定などを要求はしない。ひたすらに人を自由にするばかりである。彼を聴く喜びは、それを素直に心に受けることに始まるだろう。」(小塩 節訳/新教出版社/『モーツァルト』)
つまりバルトは、モーツァルトの音楽を神の恵みとして、人々に平和をもたらす普遍的な賜物として享受しているのだ。それは美しければ美しいほど天国の情景をほうふつとさせ、人の心を希望で満たす音楽である。
モーツァルトは笑えない時でもよく笑ったという。不幸のどん底にあっても人を幸福感に包みこむような音楽を書きつづけもした。それは、彼が終生抱きつづけた幼児のようにすなおな信仰の発露でなくてなんであろう。
彼は、その信仰を次のように書き遺している。
『お父さんはどうか心配しないで下さい。僕の目の前にはいつも神様がいます。僕は全能の神にたいして罪を告白し、許しを乞い、また神の怒りを恐れています。でも、また同時に神の愛や憐れみや慈悲も感じています。神はそのしもべをけっして見捨てはしません。』

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