東京スコラ・カントールム第25回定期・慈善演奏会
久遠の響き ある聖歌史 I … 復活祭主日・日中のミサ
Sound of Eternity … A Mass for Easter Sunday


(1993/4/12、指揮・オルガン:花井哲郎、聖心女子大学聖堂)


《曲目》
1. 入祭唱/Introitus … 我、甦りぬ/Resurrexi Gregorian Chant+W. Byrd
2. 憐れみの賛歌/Kyrie J. G. Rheinberger
3. 栄光の賛歌/Gloria J. G. Rheinberger
4. オルガン・ソロ/Canzona quarta from “II sekondo libro de toccate” G. Frescobaldi
5. ソプラノ・ソロ/Deus canticum novum A. Grandi
6. 昇階唱+アレルヤ/Graduale+Alleluia … 今日こそ/Haec dies Gregorian Chant+W. Byrd
7. 続唱/Sequentia … 犠牲を/Victimae Gregorian Chant+G. P. da Palestrina
8. 信仰宣言/Credo J. G. Rheinberger
9. 奉納唱/Offertorium … 地は震え/Terra tremuit Gregorian Chant+W. Byrd
10. オルガン・ソロ/Toccata quarta per l'organo da sonari
all 'Elevatione from “II secondo libro di toccate”
G. Frescobaldi
11. ソプラノ・ソロ/O dulce nomen lesus A. Grandi
12. 感謝の賛歌+ほむべきかな/Sanctus+Benedictus J. G. Rheinberger
13. 平和の賛歌/Agnus Dei J. G. Rheinberger
14. 聖体拝領唱/Communio … 我らの過越し/Pascha nostrum Gregorian Chant
15. 交唱/Antiphone … 天の元后/Regina caeli Gregorian Dhant+G. P. da Palestrina


《プログラムノート》
『久遠の響き -- ある聖歌史』 ... 小笹和彦 (東京スコラ・カントールム主幹)
…グレゴリオ聖歌(単旋律聖歌)の由来
古いものでありながら決してすたれることなく、人々の心に命脈を保つものがあります。『グレゴリオ聖歌』もその一つです。なぜ『グレゴリオ』かといえば、ふつう『大教皇』といわれる聖グレゴリウス1世がローマ・カトリック教会の典礼のために集大成し、普及させた音楽だとされているからです。
この教皇は540年にローマに生まれ、590年から14年在位し、古代から中世への転換期にあった多事多難な教会をまとめ、世界宣教、典礼の改良、教皇権の確立などに尽くしました。ベネディクト会出身で典礼と労働を重んじ、人々からは博学、高徳な人と慕われ、自らは『神の僕』と称して献身的な生涯をおくりました。その功績の一部として、各地の各教会でバラバラに用いられていた聖歌の編集統一と、その普及のための聖歌隊員養成のための学校(スコラ・カントールム)の創設などがあげられています。
しかし、最近ではこの聖歌の編集統一を大教皇一人の功に帰するのではなく、より長い時間を経て形成されてきたものだという学説が常識になってきています。従って、今日私達が手にし、歌うことのできるのは必ずしも大教皇の手になるものとはいえません。とはいえこの大教皇が聖歌史の流れに大きな影響を及ぼす存在であったことは確かです。さればこそ、昔から多くの聖歌集には、『Cantus Gregorianus』とか『Gregorius praesul』あるいは『Antiphonarius S. Gregorii』といった名称が記され、また現在日本で最も先進的な研究・実践活動を展開している『聖グレゴリオの家』も、この大教皇の名を冠しておられるのだと思います。
私達もその『聖グレゴリオの家』で国際的な活動を続けておられる橋本周子先生の指導を受けており、常にその最先端をゆく解釈によって『グレゴリオ聖歌』を学んでいます。それはラテン語歌詞と音楽の密接なつながりを重視し、かつ最新の古記譜法(セミオロジー)を解読した結果を援用した唱法で、従来の歌い方とずいぶん変わってきていることに気づきます。

それは今世紀前半に脚光を浴びた『計量派=定量リズム唱法』とは異なり、ヨーロッパ各地で発見された10世紀以降の写本を元に、古い記譜法や歌い方についての記号を解読しながら、限りなく原曲が歌われていた時代の唱法に近づこうとするものです。それはまた、カトリック教会が公認し推奨してきた『ソレーム唱法』ともかなり趣を異にした唱法です。ソレーム唱法はグレゴリオ聖歌復興のため、フランス・ソレームにあるベネディクト会修道院で、前世紀前半から営々と研究を積み重ねてきた結果の唱法であり、それはそれで深い祈りの心に満ちた美しい表現です。
しかし、それはロマン派時代の影響を受けた所産であって、必ずしもその後の実証的研究成果と一致しない、というのが今日の通説です。確かに、一名『等価リズム唱法』といわれる『ソレーム唱法』の、あらゆる音符(古記譜法ではネウマ譜という)がその形(四角や菱形や特別な記号など)に関係なくすべて等しい長さをもつということ、さらに、それらが2ないし3個で一つのグループを作ってリズムを形成するという理論には無理があり、現在盛んに演奏されるようになった中世の音楽と遠い隔たりがあります。そこで私達も『グレゴリオ聖歌』が最初に記譜された最盛期の唱法で勉強させていただいてきたわけですが、その成果を本日は、古楽研究と演奏のメッカであるオランダでご活躍中の新進気鋭の音楽家・花井哲郎先生の指揮で聴いていただきます。

…ミサ形式の由来
第二次世界大戦の後にカトリック教会は大変革期を迎えました。ことに1959年に登位したヨハネス23世は第2ヴァチカン公会議を開催(1962-1965)し、典礼の簡素化や各国語による典礼の執行を熱心に推奨しました。そのため各国では自国語に翻訳した典礼文や各国語による典礼聖歌の創作を進め、改めて普及活動を始めることになりました。それから約30年。現在日本のほとんどのカトリック教会では口語による典礼文と典礼聖歌が普及し、グレゴリオ聖歌は影をひそめてしまいました。それは大変残念なことですが、一方、前世紀初頭からくすぶりつづけていたリズム論を再燃させるきっかけとなり、さまざまな学問的研究成果をもとに各地でより純粋なグレゴリオ聖歌をもとめる動きが活発になりました。
しかし、いかにグレゴリオ聖歌が音楽的に純粋な形で復元されたとしても、それが典礼を離れ、教会以外の所で演奏されるのを聞くのはなんとも空しいものです。後で触れる多声音楽ならまだしも、グレゴリオ聖歌だけは祈りと瞑想の次元でとらえなければ本来の美しさと生命力を感じることはできません。その意味で私達は、本日のグレゴリオ聖歌をできるだけ本然の形で演奏することを心がけたわけですが、それをご理解いただくためにはミサの形式について触れておく必要があると思います。
現代のミサの形式が定まり、その祭儀に用いられる典礼文(カノン)が確立したのは6〜7世紀、すなわちグレゴリウス大教皇の時代といわれています。それ以後約1500年が経過し、内容的にはさまざまな変遷がありますが式順そのものはほぼ不動のまま今日に至っています。本日演奏される曲目を、いま日本のカトリック教会で行っている一般的な式順に沿って、概要を説明すると次表の通りです。便宜上、その内容は5部に分けて説明しますが、実際はすべて連続して行われます。なお、番号の前にある♯は『固有文(Proprium)』を、♭は『通常文(Ordinarium)』の区別を示す記号です。固有文とは特定祭日固有の典礼文を指し、通常文とは原則として年間を通じて不変の典礼文を意味します。

1.開祭の儀
(1)入祭の歌(Introitus)
全員が起立して歌う間に司祭が入堂する。
(2)入祭のあいさつ
(3)回心への招き
(4)あわれみの賛歌(Kyrie)
全員起立のまま主に向かい、その慈しみを願い歌う。
(5)栄光の賛歌(Gloria)
あわれみの賛歌にひきつづき、三位一体の神の栄光をたたえ歌う。時期によって用いないことがある。
(6)集会祈願

2.みことばの典礼
(7)旧約聖書の朗読
(8)答唱詩篇
旧約聖書の詩篇を応唱(Responsorium)、または交唱(Antiphona)する。応唱とは詩篇を独唱者がその他大勢と呼応しあう関係で歌唱するもの。交唱は聖歌隊または会衆が2群に別れて歌いかわす詩篇の歌唱形式。
(9)使徒書の朗読
新約聖書にあるキリストの使徒たちの書簡が朗読される。昔はこの後に昇階唱(Graduale)が歌われた。その語源はラテン語のGradus=階段に由来する。
(10)アレルヤ唱(Alleluia)
昇階唱の後に全員起立して歌う。語源はヘブライ語でアレルが『讃美せよ』、ヤは『主を』の意。時期によって用いられないことがあるが、復活祭など喜びのときには盛大に用いられ、昔はこの後に続唱(Sequentia)が歌われた。続唱はそのほとんどが1563年のトレント公会議で使用禁止となったが、復活祭の“Victimae paschali”(過越しの犠牲者)は廃止を免れた僅か5曲の一つとして、今日も往時の姿で用いられる。
(11)福音書の朗読
(12)説教
(13)信仰宣言(Credo)
会衆は着席のまま
(14)共同祈願

3.感謝の典礼
(15)奉納の歌(Offertorium)
一同起立して歌う。この間に信者の代表は行列を作ってパンとブドウ酒などの捧げものを運ぶ。司祭はこれを受けて祝福し聖壇に奉納する。
(16)祈りへの招き
(17)叙唱(Praefatio)
司祭が主導する感謝と讃美の祈りでオルガンなどの器楽伴奏は一切ない。
(18)感謝の賛歌(Sanctus)
(19)奉献文
叙唱、感謝の賛歌とこの奉献文は一体となって、後につづく聖変化の序曲となる。昔はこの奉献の部以降を『信者ミサ』といい、求道者は(13)の信仰宣言をもって退堂する習わしとなっていた。ミサの祭儀はこうして神秘的な頂点に向かう。
(20)聖変化
ミサの核心としてキリストの最後の晩餐の情景が再現される。奉納されたパンとブドウ酒がイエスのみことばによって聖別され、キリストのからだと血に聖なる変化をとげる。一同ひざまづいてこれを仰ぎ拝する。
(21)栄唱

4.交わりの儀
(22)主の祈り
(23)平和のあいさつ
(24)平和の賛歌(Agnus Dei)
一同起立して司祭がホスチア(聖変化後のパン)を割く音を聞く。これは最後の晩餐で示されたイエスとその弟子達の所作にならうことである、重要な意義を持っている。それにより神と人とを和解させ、人と人を一致させるために自ら犠牲となられたイエス・キリストの愛を偲ぶ。平和の賛歌はその愛と平和を嘆願する祈りとなる。
(25)聖体拝領の歌(Communio)
司祭から拝領が始まる。一同は起立してこの歌を歌い、行列をなして聖壇に進む。
(26)拝領祈願

5.閉祭の儀
(27)派遣の祝福
神が司祭の手を通して信者に祝福を与え、かれらをキリストの証人として家庭・社会に送り出す。
(28)閉祭のあいさつ(Ite missa est)
一同平和と感謝の思いに満たされて退堂。


…多声音楽の華 - パレストリーナとバード
音楽史的に『グレゴリオ聖歌は音楽の原点』といわれます。それは斉唱で歌われたこの単旋律聖歌が多声音楽に発展する素地をはらんでいたからです。始めは話しことばに若干の抑揚をつけた程度の狭い音域で歌われていた、あるいは朗唱されていた単旋律聖歌が、徐々に発展して音域の幅を広げていきました。今晩歌われるグレゴリオ聖歌の中でも、アレルヤ唱は一番下と最高音の間に9度の開きがあります。
これが日本古来の音楽、例えばお経や浄瑠璃と決定的に違う点で、この違いのためにいわゆる西洋音楽は和声(ハーモニー)を生み出したのです。つまり音域が広がると一つの音に含まれている自然な『倍音関係』に気づきます。例えば、響きのよい発声でドならドの音を鳴らします。それを注意して聞くと、鳴らしているドの音の8度(オクターヴ)上のドの音が下の音と共鳴して鳴っているのが分かります。もっと耳を澄ましてよく聞けば、その単音にソ(長5度)やミ(長3度)の音が含まれていることが分かります。これらを倍音関係と言い、そこから自然に和声が発達し、複数の音が別々の音で歌いながらも調和を保つ多声音楽へと発展していくのです。これに対して日本の伝統音楽はドからファまでの完全4度の枠が支配的であったこと、又演奏する場が音響効果として自然倍音関係を知覚しにくい構造であったため和声感覚を生じなかったのです。
ともあれこの倍音関係は、10世紀以降主として修道院内部であらゆる可能性が追求され秩序づけられていきました。本来の美しい旋律(いわゆる教会旋法)と躍動するリズムに和声が加わり、いよいよ新時代の音楽の幕開けとなります。グレゴリオ聖歌を定旋律とし、その4度または5度下に伴奏声部をつけて平行に歌唱する技法や、対旋律をつけて主声部と協働させる、いわゆる『ポリフォニー』の技法が芽生えました。そして、これらを総合して『オルガヌム』という形式が生まれたのです。こうした技法を用いた聖歌は当初ミサ固有唱(固有文をテキストにした聖歌)にしか適用されませんでしたが、それから3〜4世紀を隔てた13〜14世紀頃になると、これがキリエ、グローリアといった通常唱にも適用されることになりました。
こうして音楽家の関心は多声楽に向かい、それまでの単旋律聖歌=グレゴリオ聖歌は時代遅れの古い音楽として位置づけられ、徐々に創作の対象から退いていきます。それでも多声音楽流行の初期には定旋律にグレゴリオ聖歌が採用されていましたが、いつしかそれも俗謡のメロディーに代わります。

例えば当時を代表する最大の音楽家、ギョーム・ド・マショー(1300頃-1377)は『ノートル・ダム・ミサ曲』の作曲者として有名ですが、その中でグレゴリオ聖歌を定旋律に用いたのは短めの4曲だけで、長い典礼文をテキストとするグローリアとクレドにはまったく用いておりません。この4声部のミサ曲は、今日知られている限り、一人の作曲家が全ての通常文に曲をつけた、いわゆる『通作ミサ』では最初のポリフォニー・ミサ曲として音楽史に特筆されています。が、特に典礼上の意義は認められません。そもそもマショーは教会音楽家としてよりも、詩人、外交官、世俗曲の音楽家として名を成した人です。晩年、修道院に入るのですが、聖務よりも俗事に専念し、うら若い乙女との恋物語が有名です。現存する作品も世俗曲がほとんどで、教会音楽はごく僅かです。
こうした聖・俗のけじめない交流は当時の教会の腐敗・堕落と無縁ではありません。教皇庁は政争に明け暮れ、教会は利権の鬼と化して聖職の地位まで売買の対象としてしまいました。聖歌の統一・育成どころではありません。次第に教会音楽は教会と修道院の手を離れ、王侯貴族の庇護を求めてさ迷うことになりました。そこでは当然、内面的な価値より社交的・外面的なきらびやかさが求められます。いきおい音楽も趣味・実益・社交の道具となり、技巧におぼれ、新しさを誇示する技量偏重の職人芸が重んじられるようになりました。
聖堂も質朴な古代建築からカロリンガ、ロマネスクを経て威容を誇るゴシック式大聖堂に変わります。そこにふさわしい響きを求めて、歌隊は増員され、器楽や管弦楽奏者も増強されました。もっとも、これは大規模な司教座聖堂や宮廷付属教会の話で、一般の大多数の教会では伝統的な「グレゴリオ聖歌」が営々と歌い継がれ尊重されてきたことは申すまでもありません。

1517年、ルターの『95箇条の意見書』に始まる宗教改革のうねりは、カトリック聖歌史の分野にも大きな影響を及ぼしました。北イタリアのトレントに招集された公会議では、2回にわたる会期を経て1563年の第3会期で次のような決議がなされました。
・トロープスの禁止と大部分のセクエンツィアの排除
・典礼および聖歌の地方的変種の排除
・世俗的な定旋律の排除
・ラテン語の正しいアクセントとシラブル(音節)の長短の強調
・短時間で、簡潔な構成の多声ミサ曲(ミサ・プレヴィス)の奨励

これらはあまりにも技巧的で派手になった典礼音楽に対する反省から出たもので、一時は典礼音楽をグレゴリオ聖歌のみに限定しようという強硬意見も出たようです。それにもかかわらずこのような穏やかな結論に落ち着いたのは、パレストリーナの音楽によるところが大であったと伝えられています。
ジョヴァンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(1525頃-1594)は終生教会音楽と深くかかわりをもった宗教人でしたが、妻帯もし、聖職者となることはありませんでした。しかしその音楽は、深い瞑想にもとづく敬虔さに満ちており、一点の曇りもない和声と流麗な対位法の技術によってあたかも天上の歌を思わす清澄さを感じさせるものでした。それがトレント公会議に出席した司教団の心を動かし、典礼聖歌の乱れが必ずしも多声音楽のせいではないことを認めさせた、といわれています。この伝説を裏付けるかのように、パレストリーナの音楽はトレントの公会議の決定に忠実であり、いささかも華美に流れたり、新しさをてらうことなく、あくまでも歌詞を明晰に表現するように作曲されています。そのため、その多彩な音楽的才能と高い芸術性にもかかわらず、音楽史家は彼を単に『古様式=教会様式』の完成者として評価します。

しかし、かれの作曲技法や教会音楽が後世の音楽家に与えた影響ははかり知れません。同じ頃、ウィリアム・バード(1543-1623)は『イギリスのパレストリーナ』として声望を高めていました。もともとイギリスはグレゴリウス大教皇の時代からローマと密接な関係をもっていましたが、15世紀後半からヘンリー8世の時代(在位1509-1547)まではバラ戦争の影響で大陸との交流が途絶えてしまいました。その間イギリスの音楽は独自の歩みを進めるのですが、ヘンリー8世によって交渉が再開されるや、どっと大陸の音楽が流入して新たな音楽の流れを形成するのです。その頂点に立つのがバードであり、『イギリス最大の音楽家、オルガン奏者、音楽の父』として幅広い活動を行いました。バードが活躍した時代はエリザベス1世女王の時代(在位1558-1603)で、英国国教徒が勢いを盛り返した時代でした。が、女王はカトリック教徒にも寛容な態度を示しました。バードは終生カトリック教徒でしたが、その活動は保護され、特別の恩顧によって楽譜出版権まで与えられました。当時のイギリスの国情は反カトリックに傾いていましたから、この王室の庇護がなければバードは生き延びることができず、その作品もほとんど失われていたかもしれません。しかし幸いなことに現存するバードの作品は多数に上ります。そしてそれらの作品からパレストリーナと同質の深い祈りの心が伝わってきます。
両者とも16世紀後半の音楽界を代表する高度な作曲技法と、洗練され尽くした音楽様式を駆使しながらも少しも技巧が目立たず、もっぱらテキストの内容を味わい深く表現することに徹しています。あえて両者の違いを言うなら、次のコメントが当を射ているように思います。
『パレストリーナは、その音楽から世俗的な匂いを取り除き、場合によっては人間的な感情をも取り去る能力において、他の全ての者に勝っている。彼はあまりにも祈りの中に引き入れられているため、しばしばその音楽には動きがほとんど無いように見える。とくに、より静かな気分のモテトでは、頭を垂れ手を前に組んで深い瞑想にふけっている作曲家の姿が浮かんでくる。バードの教会音楽はまた異なった領域で最高のものである。パレストリーナの音楽がしばしば態度(attitude)にすぎないとすれば、バードの音楽は身振り(gesture)であるからだ。それはときには目を上げて手を伸ばさなければならない人間の、避けることのできない静かな身振りである。』(D.J.グラウト著/西洋音楽史・上/328p <A. T. Davison - Protestant Church Music in America の一部>/服部幸三・戸口幸策訳/音楽之友社/1969年)
こうして人間性解放を目指すルネッサンス期にも、深く敬虔な祈りに満ちた多声の教会音楽が生まれてきたわけですが、そこで中世のグレゴリオ聖歌は僅かな形影を残すだけの存在になってしまいました。それではその違いはどのようなものなのでしょうか。今日はパレストリーナとバードの数ある作品の中から、『復活の主日』の『日中のミサ』のために書かれた固有唱をグレゴリオ聖歌に続けて歌います。歌詞はどちらも同じ典礼文をテキストにしていますから、まったく変わりありません。

…ロマン派の隠れた逸材 - ラインベルガー
ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー(1839-1901)は日本ではほとんど知られていませんが、西欧では著名な作曲家の一人です。今から100年ほど前に、音楽史でいえばロマン派の後期にミュンヘンで活躍し、モーツァルト、ベートーヴェン、あるいはブルックナー等のオーストリア系音楽家を別として、ドイツのカトリック音楽史上最も重要な音楽家として位置づけられています。特に今日演奏される通称“Cantus Missae”(ミサの歌/変ホ長調/作品109)は、1879年に出版されると同時に時の教皇レオ13世に献呈され、それが当時の最高の教会音楽作品であると評価され、ラインベルガーが『聖グレゴリオの騎士』に叙勲されるきっかけとなったことで有名な作品です。
18世紀の全ヨーロッパにいきわたった啓蒙思想とその反キリスト教的運動は、マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』(1848)や『パリ・コミューン』(1871)を転機としていわば世紀末的混乱を呈します。教会は混迷を増し、プロテスタントとカトリックとを問わずその典礼は真の精神を失い、啓蒙的合理主義とロココ的現世主義が横行するようになりました。

ところが不思議なことに、そういう不幸な時代に中世・ルネッサンス以降忘れられていた聖なる音楽が不死鳥のようによみがえってくるのです。1804年に始まる前述の『ソレーム修道院』での中世グレゴリオ聖歌の復元作業もその一つです。その成果は徐々に一般の芸術家にも影響を及ぼし、リストを始めとするロマン派の巨匠達は競って交響楽的作品にグレゴリオ聖歌の旋律を採用し始めました。1829年にメンデルスゾーンがバッハの『マタイ受難曲』を復活上演すると、それが大きな刺激となって古楽復興の動きがたかまり、ヨーロッパの人々は古典派以前の作品の美しさにあらためて開眼するようになりました。教会内ではプロテスタント、カトリックともに典礼音楽の浄化に乗り出し、いろいろな運動が展開されていきます。なかでも19世紀の中葉にはドイツのカトリック教会で盛んになった『ツェチリア(またはセシリア)運動』は、パレストリーナを頂点とする16世紀の無伴奏多声楽復興に光をあて、それ以外の大規模教会音楽を締め出すなどの過激な行動を起こしました。そのため一時はハイドン、モーツァルトなどの作品は教会から追い出されてしまうのです。
そうした背景の下に、ラインベルガーは独自の道を開拓しました。かれの才能は幼少の頃から抜きんでており、20歳にしてミュンヘンの音楽院のピアノ科教授となりました。その翌年には作曲科での地位を得、終生その地位を離れることなく独自の作曲活動をつづけました。この教師としての国際的名声と安定した身分がなかったら、かれのあの独創的な、多彩な創作活動はつづけられなかったかもしれません。いくらかれが優秀であったとしても、ごく少数の例外を除けば大衆に迎合しなければ音楽家として独立した生計を営むことはできなかったからです。

その前半生に作られた作品はほとんど世俗曲です。しかし、1877年(38歳)にバイエルン王国の君主ルートヴィヒ2世によって宮廷の教会音楽・楽長に任命されると、それ以後は教会音楽に没頭するようになりました。宮廷図書館にこもって古典派以前の巨匠達の作品を丹念に調べ、多声合唱曲の学習に専念したのです。そしてそれ以後の後半生で多数の典礼用合唱曲やオルガン曲を作曲し、ミサ曲だけでも18曲以上の作品を残したといわれています。それがいかにかれ独特の生き方であったかは、同時代にドイツで活躍したマーラー、ブラームス、R.シュトラウス、リスト、ヴァーグナーといった後期ロマン派の雄達の生涯をみれば明らかです。かれの関心は明らかに芸術家、音楽家としての大成や栄誉ではなく、神の栄光を讃美することに向けられていたように思われます。そうでなければ人間としても作曲家としても最も充実した後半生を教会音楽に捧げ、大交響曲全盛の時代に独り古様式といわれる対位法(ポリフォニー)に取り組んで無伴奏教会音楽に従事し、しかもその作品を教皇に献呈するなどという前時代的な行動を理解することはできません。その意味で、今日演奏されるミサ曲を『かれの“Credo(信仰告白)”』とするF.ザウアーの説は真に当を射たことばといわなければなりません(独 Carus盤CD83. 113のライナーノートより)。
この譜面を一瞥した限りでは、ルネッサンス期の巨匠、例えばラッススを思わす擬古的な様式で構成されています。けれどもその和声と調性の推移を仔細に見れば、これが明らかに近代の機能和声法の効果を巧みに発揮したロマン派ならではの作品であり、むしろルネッサンス期には禁じられていた和声展開であることが分かります。 かくしてこの作品は、『何が真正な教会音楽か』が問われていた時代の、ラインベルガーによる真摯で確信に満ちた解答となっています。つまり、ここでラインベルガーはいきすぎた『ツェチリア運動』の懐古趣味に警鐘を鳴らす一方、凡庸な教会音楽家に新しい道を開示したのです。伝統的な手法を尊重しながらも、新しい時代の新鮮な技術と感性を注ぎこむことによって、かれは教会音楽のあるべき姿を神と人間に問うたのです。

『新しい歌を主に向かって歌え』(詩篇)との呼びかけに応じて、あらゆる時代のあらゆる場所で、人々は喜びに満たされて神への讃歌を捧げてきました。その形は今までのべてきたように様々な要因によって変貌しましたが、真の祈りの歌は時と場所を超えて心ある人々に普遍的な感興を呼び覚まします。約1000年前のグレゴリオ聖歌、約400年前のパレストリーナとバードの聖歌、そして約100年前のラインベルガーのミサ曲は、その最も良いところを今に伝えています。それらを聴きまた歌うことができるのは永遠の命に連なる喜びです。


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