東京スコラ・カントールム第26回定期・慈善演奏会
バッハの世界 ... 秋
The World of J. S. Bach ... In The Autumn Of His life
(1993/10/22、指揮:黒岩英臣、東京カテドラル聖マリア大聖堂)
《曲目》
カンタータ第78番 | イエスよ、御身わが魂を (BWV78) / Jesu, der du meine Seele |
カンタータ第99番 | 神のなし給う御業、そは良き実り (BWV99) / Was Gott tut, das ist wohlgetan |
カンタータ第8番 | 最愛の神、わが死いつぞや (BWV8) / Liebster Gott, wann werd' ich sterben? |
モテト 第2番 | 御霊は我らが弱きを助け起こし給う (BWV226) / Der Geist hilft unsrer Schwachheit auf |
《プログラムノートより》
『バッハの世界 … 秋』 ... 小笹和彦 (東京スコラ・カントールム主幹)
秋、それは豊かな実りの時であると同時にきびしい冬に向かう哀愁の季節です。
バッハがライプツィッヒで聖トマス教会の音楽監督の地位についたのは、バッハの生涯にとってちょうどそのような時期にあたります。かれは音楽修行を終え、教会音楽に専念する道に入りました。1723年、年齢38歳。その地位に就任すると同時に、かれはその後の5年分の教会カンタータを作曲する決意をしました。
年に60曲として300ものカンタータが必要です。現存するのはライプツィッヒ期以外のものを入れて200曲に満ちません。後の100曲が失われてしまったのか、あるいはその計画を中断してしまったのかは明らかでありません。しかし、それが3年分で終わっていたとしても、すごい創作意欲です。教会音楽の分野でこれだけの実績を残した人は他に誰もおりません。しかもその一曲一曲がすばらしい名曲なのです。けれども、かれの在世中にその功績を認めた人はほとんどいませんでした。いや、在世中ばかりではない。つい最近までその全容は知られず、従って正当な評価を受けることもなかったのです。
実に彼の没後約100年を経て「マタイ受難曲」のような大曲が知られるようになり、その後更に100年を経てようやく教会カンタータの一部が紹介されるようになりました。その間2世紀、バッハが心血を注いで作曲したかずかずの教会カンタータは世に埋もれたままでした。この事実を私たちはどう考えたらよいのでしょう。バッハ存命中の周囲の人々の無理解を笑うことができるのか、あるいは2世紀を経てもなお人の心に感銘を及ぼすかれとその作品にあらためて敬意を捧げるだけなのか。いずれにしても私たちはこのことをよく考え、これらの作品がもつ今日的意義を問い直す必要があるように思います。
ライプツィッヒに教会音楽家として定住したバッハの後半生は決して安楽なものではなく、かれは職業上のさまざまな悪条件と戦いながら史上稀な名曲を創作していったのです。それこそバッハにとって実りの秋であると同時に、哀愁の秋でもあったというゆえんです。
名曲の定義は人によって異なるでしょう。ある人はその美しい旋律や巧みな作曲技法を問うかもしれません。またある人は楽曲の多彩な表現力によってその価値判断をするのかもしれません。けれどもバッハの教会カンタータは、それとまたちょっと異なる視点からも考えなければなりません。それは、歌詞を持つ声楽曲として当然のことですが、その創作意図がどれだけよく伝えられているか、ということです。そしてそれを誠実に受けとめるためには、原詞の持つ意味と、バッハ独特の心象を理解しておく努力が必要になってきます。
惚れた、はれた、別れた、死んだ、といっただけの内容ならまだ簡単です。歌詞を見て音楽を聴けばそれなりの共感を持って感動に浸ることができるでしょう。しかし、神を愛す、罪への恐れ、死への憧れ、などのことばが連なってくると、字面だけでの理解ではバッハの真意をはかることはできません。バッハはこれらの曲を、同時代の同じ教会に集う仲間のために作曲したのですから分からなくて当然です。それを理解するのはかなり困難な、手間暇かかる作業かもしれません。しかし、その手順を経て聴くバッハのカンタータはまた格別です。
1.ルター派のコラール
バッハが音楽上の責任を持っていた教会の礼拝は、今では想像もできないほど長い時間に及ぶものでした。毎日曜日の主礼拝は5時間になんなんとするもので、信徒たちは朝7時から12時近くまでを教会の中で過ごしていました。その長い長い儀式に潤いをあたえたのが教会音楽です。それは大まかにいって2種あり、一つが信徒たち全員で歌う『コラール』で、もう一つが聖歌隊と独唱者たちによって演奏される『カンタータ』です。
コラールは今でも諸教会で用いられている讃美歌または聖歌と同じ親しみやすい一般信徒用の楽曲で、なじみやすい旋律が何節も繰り返して歌われます(有節歌曲)。その旋律は、初期には昔から伝わるグレゴリオ聖歌や民謡などを素材としていましたが、のちにさまざまな集会の目的にあわせて、新たな自国語によるコラールが数多く創作されました。これは宗教改革者ルターが典礼改革にもたらした最大の功績の一つで、かれ自身も多くのコラールを作詞・作曲しています。これを受けてバッハもコラールに強い愛着を示し、声楽曲に限らずさまざまな器楽曲にもその旋律を利用して芸術的な編曲をほどこしました。有名な「オルガン小曲集」や「クラヴィア練習曲集第3巻」などはその実績を示す美しいショウケースです。こうしたコラールのオルガン曲集は、もともと礼拝の中で信徒が歌う歌詞の伴奏として、あるいは前・間・後奏として即興的に演奏されたものを、後で自ら編集して書き残したものと考えられます。当時の歌詞は非常に長く、多いものでは20節を越えるものさえありました。
その長いコラールを、単調なきまりきった伴奏で繰り返すはずはありません。いかに音楽好きのドイツ人でも、歌う側の信徒はユニゾン(4声部に分けない)で旋律だけを歌うのですから途中でだれてしまいます。それを巧みな編曲技法と演奏技術で歌詞の最終節まで導いていくのがオルガニストの責任でした。もちろん歌詞の内容は各節ごとに変わります。しかしその内容は節を追うごとに発展し、最終節に向かって徐々に信仰の確信を高めていく筋書きをもっています。凡庸なオルガニストに務まる業ではありません。しかも1回の礼拝で、コラールは少なくとも2曲は歌われます。バッハが生前オルガニストとして高い評価を得ていたのはこの技術が卓越していたからで、それは礼拝の中でこそ最高の輝きを増すものだったのです。
こうして考えると、コラールはオルガニストと信徒全員が共同で作り上げる一種のカンタータだということができるでしょう。その典型が「キリスト死の縄目につきたもう(BWV4)」という有名な教会カンタータにみられます。このカンタータは全曲をコラールそのままの形で構成し、原詞の意味を素朴で味わい深く表現しています。バッハがワイマールの宮廷楽師兼オルガニストであった23歳頃の作品です。
2.バッハの教会カンタータ
カンタータはこうした有節歌曲のコラールを芸術的に発展させた音楽形式の名称です。それはイタリアで盛んになったマドリガルやオペラの影響を受けて確立した形式で、簡単にいえばせりふだけの音楽劇のようなものだと思えばいいでしょう。コラールと同様、このカンタータ形式も初期にはその主題が宗教的なものに限らず、世俗的な題材にも広く用いられました。バッハの世俗カンタータとしては「コーヒー・カンタータ」や「結婚カンタータ」などが有名です。けれどもバッハの世俗カンタータは教会で演奏されるカンタータ(教会カンタータ)にくらべてごくわずかで、実際に演奏されるのもごくまれです。教会カンタータは、コラールが一般信徒とオルガニストによって演奏されるのに対し、特別に訓練された聖歌隊と独唱者や器楽奏者たちを必要としています。そしてその内容は教会の礼拝の目的と正確に対応していなければなりません。
礼拝の形式は同じでもその内容は毎日異なり、信徒たちはさまざまな角度から教えの心理を学びます。そのテキストは当然のことながら聖書にあり、例えばクリスマスにはキリスト生誕の意義、受難節にはキリストの受難をしのぶにふさわしい聖書の個所が朗読され、それにもとづいて説教もコラールもカンタータも準備されたのです。ですから、カンタータが「礼拝の目的と正確に対応する」ということは、そのカンタータが演奏される日の「聖書の個所と正確に対応する」ということに他なりません。
そしてバッハは、このカンタータの作曲と演奏およびコラールの選曲を任されていたわけですから、諸礼拝におけるバッハの役割はきわめて重要なものでした。もちろんルター派の教会では牧師の説教が中心ですが、もしバッハの音楽がなかったらいくら18世紀の信心深いライプツィッヒ市民でも途中であきてしまったかもしれません。
カンタータは説教の前後に一つの曲を2部に分けて演奏されたり、異なる2曲が演奏されたりしました。従ってカンタータだけでも1時間近くの時間を割いていたわけで、当時のルター正統派教会がいかに音楽を重用し、信徒たちもまたそれに多くを期待していたかが分かります。信徒たちはあらかじめ配られた歌詞本を参照しながら傾聴し、当日の礼拝の意義をあらためて噛みしめていたのです。このように聖職者、音楽家そして信徒が一体となって形成したキリスト教文化の結晶がバッハの教会カンタータです。今は礼拝は礼拝、音楽は音楽としてすっかり分離してしまいましたが、ドイツではリリング(音楽家・指揮者)が聖職者と協力して原点に帰る運動を展開しています。かれは10年ほど前に来日の折、その成果を明治学院チャペルで披露し、参会者に多くの感銘を与えました。このような有益な試みが今後も永続的に展開されることを期待してやみません。
3.「三位一体節」とは
今回のプログラムはバッハが三位一体節の初秋に演奏した曲目で構成されています。そこで三位一体節について簡単にご説明しておきます。キリスト教の一年は大きく分けて約半年ごとにその性格を異にします。初めの半年はクリスマスや復活祭や聖霊降臨祭といった大祝日がつづきます。しかし、その後は大きな山場がありません。この初夏から晩秋にかけてしみじみと信仰生活を深めていく時期が「三位一体節」といわれる期間です。
キリスト教は一神教ですが、その神は父なる神(神自身)、子なる神(イエス・キリスト)および霊なる神(キリスト昇天後、送られた聖霊)という三位が一体となったものとして崇められます。キリストは死から復活し、40日目に天に昇り父なる神のみもとに帰りました。代わって父なる神と子なる神から発せられた聖霊が、キリスト復活後50日目に降臨します。こうして三位が揃ったところで一体の神を讃えるのが「三位一体の主日(「主日」はキリスト教用語で日曜日のこと)」で、それ以後の毎日曜日を順次「三位一体後第X主日」と呼んでいました。その期間は毎年少し違いますが、バッハは第27主日までのカンタータを用意しています。各主日にはそれぞれの礼拝にふさわしい聖書のことば(聖句)があらかじめ指定されており、バッハはその聖句に示されたメッセージを主題としてカンタータを作曲したのです。
今回はその第14、15および16主日のためのカンタータ第78、99および8番をとりあげました。いずれもバッハが39歳の時に毎週連続して作曲し、ライプツィッヒの聖トマス教会でそれぞれ1724年9月10、17および24日の日曜日に初演したものです。ある「一定の基調」を貫きながらも、聖書のメッセージに対応して多様な音楽的展開を示す、素晴らしい作品群です。なお、これら3曲のカンタータの台本作者と、コラール以外の作詞者は不明です。バッハ自身が原曲コラールの歌詞を自由に脚色したことも考えられます。
4.バッハの死生観
各カンタータを貫く「一定の基調」をよりよく理解するためには、バッハがその生と死をどう受け止めていたかを知っておくことが大切です。とはいえ、バッハ自身がこのことについてメモを残しているわけではありません。その作品、その時代の環境や信仰上の考え方などを示す諸資料から推測するだけです。
その限りでいえば、端的にバッハは神の栄光を現すために生き、神のみもとにゆくために死を憧れた、といってよいと思います。それは、まさにかれの愛読した新約聖書「ローマの信徒への手紙」の一説が示す通りの死生観です。いわく「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(ロマ14:8)。並の人間にはこれほど透徹した信仰生活は送れません。けれどもバッハはそのおびただしい作品の冒頭に「神よ助けたまえ」、末尾には「神にのみ栄光あれ」とラテン語で記すのが常でした。それらは宗教的な作品に限らず、ごく日常的な作品にも記されています。これは当時のしきたりではなく、バッハの意志的行為です。終生教会音楽家の地位にとどまり、死のまぎわまでコラールにこだわったバッハの姿もそれを物語る立派な証の一つです。バッハは単なる音楽家ではなく、より勝れて宗教家として生きたのです。
今「死のまぎわまでコラールにこだわった」と書きましたが、これはバッハの死生観を知るうえで重要な意味を持っています。多くの伝記には次のように記されています。「バッハは1750年の春から目の病で病床の人となりました。激痛を伴う2回の手術も失敗に終わり、かえって容態を悪化させてしまいました。目に黒い包帯を当てたバッハは高熱と炎症に苦しみながらついに視力を失ってしまったのです。亡くなる10日前のこと、死が間近に迫ったことをさとったバッハは、弟子を枕辺に呼びコラールの改訂を口述しました」。その原曲となったコラールはバッハが生まれる以前からあった古い詩編歌を4声部合唱に編曲したもので「われら悩みの極みにありて(BWV641)」という歌詞で始まる深刻な曲ですが、これをかれは死の床で深遠なオルガン曲に再編し、しかもその表題を「御身の御座に、今ぞわれ進み出で(BWV668)」に変更したのです。さらに驚くべきことはその定旋律の第一行に14、全体では41個の音符を配して、われが自分自身であることを表明したのです(ちなみに BACH を数字に換算すれば14、J. S. BACH で41になります)。そしてこれをかれの白鳥の歌としてバッハは7月28日、65年の生涯を閉じました。これはバッハの死の翌年に息子エマヌエルによって出版された「フーガの技法(BWV1080)の付記によって明らかになったことなのですが、いかにもバッハの最後を飾るにふさわしいエピソードで、これらによって私たちは次の三つのことを学びます。
5.バッハの愛したこと
一つはコラールへの愛、次は音楽家としての誇り、そしてゆるぎない神への愛の三つです。
一つ目はいうまでもないことですが、病床にありながらこの地味なコラールを選び出した理由を察すれば明らかです。
「われら悩みの極みにありて(BWV641)」という曲は特に有名なものではありません。ルター後約200年。各地、各時代のルター派教会で数多くのコラール集が出版されました。おびただしい数のコラールがバッハの周囲にあったのです。それらの中でこの曲をバッハが特に愛好した形跡はありません。これをカンタータや受難曲に転用したこともありません。前もってこれを辞世の歌と決めて温存していたとも考えられません。かれは無数のコラールの中から、その場、その時に最もふさわしい曲を選び出す知識と意欲に長けていたとしか考えられないのです。
そしてよく考えてみると、自分の最後の断末魔の状況を訴え、しかもなおそれを越えて神に絶対的信頼を寄せる心境を託するのに、これほどふさわしいコラールは他にないことが分かります。この一事によっても、バッハにとってコラールはかれの血と肉であり、生きていく上で欠くことのできないことばだった、愛する対象というよりもかれそのものだった、ということができるでしょう。ちなみに原曲コラールの歌詞を杉山 好氏の訳をお借りして掲げておきます。
「われら悩みの極みにありて
出ずるに道なく、入るに道なく、
助けも来らず、途方に暮るるとき
われらを支うる慰めはこれのみ。
すなわちわれら相ともに心を合わせて、
おお真実なる御神よ、汝に訴えまつり、
この悩みと苦しみより救いたまえと
切に祈ることなり。」
第二の音楽家としての誇りという意味は、盲目と高熱発作と激痛にあえぎながらも冷静に音楽家としての本分を完うしたということです。たとえそれがコラールのオルガン曲への編曲であったとしても、音楽的修辞法(例えば、前述したように自分の名前を数字に換算して音符化するなど、ことばを音楽の技法によって象徴的に表現すること)にこだわりながら多声部の曲に展開し、しかもそれを即興的に口述して筆記させるなどということは人間技とも思えない精神力の勝利です。それを可能にした原因の一つは、おそらくかれが常々自己を客体としてとらえる習慣を身につけていたからだと考えられます。音楽家に限らずおよそ優れた芸術家というものは自己の感情に溺れるということがありません。もしある作品が個人的な激情にかられただけでできたものなら、おそらく人をひきつける作品とはなりえないでしょう。それを普遍的な価値あるものに高めるためには、どうしてもある時点で自分自身を突き放し、客観的な基準で評価してみるか、そうでなければ絶対他者と合一して常に自分を厳しく見つめ直す修練を積んでいなければならないのです。特にバッハのカンタータは人に分からせるための音楽ですから、かれの独りよがりで創作活動がつづけられるはずがありません。そしてバッハは後者を代表する芸術家の一人だったのです。この教会音楽従事者としての長年の徹底したプロ意識が、死の床にあっても冷静に自己を見つめ、美しいオルガン・コラールを生み出すもとになったのだと思われます。それこそ自分の仕事を神から与えられた天職と信じるドイツ・プロテスタンティズムの精神であり、バッハにとっては音楽家としての誇りを示す最後の機会だったのでしょう。
第三の神への愛もとりたてて解説する余地のない自明のことです。が、「苦悶の極み」を「御身の御座に、今ぞわれ進み出で」と改題したバッハの意図を思うとき、深い感動を覚えずにはおられません。音楽家バッハは、コラールにすべてを託して最後の信仰告白をしたのです。
6.バッハの死
この聖者のような深い信仰は、バッハが幼少の頃から厳しく死と向き合って生きてきたことと無縁ではありません。バッハに限らず、当時の人々は現在の日本では想像もできないような悲惨な状況の中で生きていました。相次ぐ戦乱、飢饉、らい病(ハンセン病)や黒死病(ペスト)など疫病の恐怖、宗教上の確執、魔女狩りと火あぶりのおぞましい環境の中で人々は辛うじて生を保っていたのです。バッハの家族もみな短命です。バッハ自身は「並外れて頑健だった」といわれていますから虚弱体質の家系ではなかったと思われます。それにもかかわらずバッハの8人兄弟の平均寿命は30歳であり、20人の子供たちも平均すれば28歳でこの世を去りました。ちなみにバッハの65歳というのは兄弟の中で一番の長命で、相次いで50歳で死亡した両親よりも15年も長生きしたことになります。またバッハの子供のうち最も長く生きたのは三男のエマヌエルで74歳の長寿を全うした半面、当歳で死亡した子供は6人の多きを数えます。このような状況でしたからバッハはもの心がつくと同時に肉親の死に遭遇し、9歳で父を、10歳で母を失い、結婚後も毎年のように近親者の死をみつめてきたのです。
それに仕事の悩みが加わります。バッハの音楽上の理想はあまりに高く、しばしば無理解な上長達と激しく対立しました。そのため牢に繋がれたことさえありました。若い頃はそれでも転職によって希望を全うすることができました。しかし大家族となり、子供の教育のことも考えると、そう安易な転居や転職ができません。このためライプツィッヒ期以降のバッハは心の葛藤を増し、上長との確執も激しさを増すのです。そして多勢に無勢の戦いの中でかれは次第に孤立し、やがて別天地に憧れを抱くようになるのです。
自分の主張が容れられない、あるいは理解されないといった挫折感は精神的に小さな死を意味します。こうした意味での内的な死と、前述の相次ぐ肉親との死別をとおしてバッハは死に親しみ、死に新たな意味を見出す信仰を深めていったのです。死に生を圧倒するほどの意義を認める限り、死に至る病と不条理な災厄は、甘き死を迎えるための関門に過ぎません。そしてかれの想いは、常に死の先にある天国に向かうのです。その根拠は何よりも、かれの遺した多くのカンタータに聴けばよいのですが、ここではより私的な環境で用いられたかれの作品をご紹介しておきます。かれの信念が公私を一貫して常に揺るぎのないことがお分かりいただけるでしょう。それはバッハ家の愛奏・愛唱曲集ともいうべき「アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帖」に収められた「君わがかたえにあれば(BWV508)」というソプラノ独唱用の小品です。これはおそらくアンナ・マグダレーナ(1701-60/バッハの後妻でよき協力者/ソプラノ歌手)によって美しく歌われたことと思いますが、このような曲が日常家庭で歌われていたことを考えると、死がいかに身近なものであったかがよく分かります。この小曲集は今回のカンタータ群が作曲された前後、つまり1722年と1725年の2回に分けてバッハ自身が編集し、愛妻に贈ったものであり、かわいらしいクラヴィア曲やコラールと共にこの曲が収められているのです。
「君わがかたえにあれば、
われ喜びのうちにわが憩いなる死に向かわん。
ああ、いかに有り難きかな
わが息果つるとき、
君のうるわしき御手が
わが忠実な目閉ずるなら」
バッハにとって死は終わりではなく、新たなユートピアに向かう門出を意味していたのです。(後略)
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