…ペーター・ノイマン氏のこと
このたび世界の最高峰をいくペーター・ノイマン氏のご指導を受け、より深くモーツァルトを理解し、より深い共鳴感をもってそのレクィエムを演奏できることは大きな喜びです。
氏の経歴や業績、なかんずく「モーツァルト・ミサ曲全集」の録音については音楽之友社から出版された「古楽演奏の現在」という本(1993)の「ペーター・ノイマン」の稿で森泰彦氏が詳述されています。従ってこれを参照されれば、私たちのノイマン氏に対する尊敬が、我田引水の一目惚れでないことがお分かりいただけると思うのですが、ノイマン氏はこの「ミサ曲全集」のほか、「リタニエ」や今晩演奏される「レクィエム」をEMIレーベルで全世界に提供し、いずれも当代一流の評論家によって、「時代を画す優れた解釈と演奏である」と評されています。
しかし私たちはこれによって氏を知ったわけではありません。氏のご高名は東京スコラ・カントールム創立の頃からカントーリン(カントールの女性名詞)の橋本周子氏によって伝えられており、いつの日かそのご指導を受けたいものと念願しておりました。橋本氏は、十数年前のケルン音楽大学留学中の頃から、すでにノイマン氏の知己を得ておられましたし、以前私たちの仲間であった大原佳代氏は、その後やはりケルン音楽大学に留学して氏の薫陶を受け、現在は同じケルン市のマルティン・ルター教会でカントーリンを勤めておられます(本日はオルガンを担当されます)。
そこで私たちは創立15周年を期して、両氏を通じてノイマン氏の来日とご指導をお願いし、今回の公演が実現することになったのです。が、そのためには3年にわたる歳月を必要とし、氏の求めておられる水準に達するために、相当の準備を重ねなければなりませんでした。なにしろ氏のひきいるコレギウム・カルトゥジアヌムとケルン室内合唱団は、ドイツでも屈指の名手たちの集まりであり、しかも氏ご自身が厳選した専門家集団ですから、私たちアマチュアが大半の合唱団が指揮をお願いすること自体、あるいは分を過ぎたお願いだったのかもしれません。
それだけに、本年春、一同がドイツに赴き、ケルンで初めて氏に接し、その直接指導を受けたときの感激はひとしおでした。
…ケルンにて
自らピアノを奏し、2小節ほどの前奏をもって私たちの合唱を迎えいれられます。そのわずかな音楽のなかに、ほとんど全ての指示がこめられています。少しの音程の乱れも、粗雑な発声や発音も許されませんが、その温顔は絶えずほほえみにつつまれ、歌う者の心をひきつけます。
その峻厳さと、人の心をひきつけてやまない魅力に、モーツァルトその人に指導を受けているような感動がありました。
この練習に先立って参加したカルトカイザー教会(ルター派福音教会)の礼拝でも、氏は際立ったオルガン演奏によって、典礼全体を格調高い讃美で満たしておられました。
しかもその間、垣間見た氏の温顔は変わることなく保たれ、音楽大学では人一倍厳しい先生だという評判が、嘘のように思われるほどの穏やかさが感じられるのでした。
長いコラールの詞節が変化するたびに、その歌詞の内容に応じて即興でオルガンがヴァリエーションを奏でていきます。その見事な曲想の変化と音色の変化には、バッハの伝統に連なるドイツの教会カントールの実力のすごさを、あらためて思い知らされたものです。
…選曲について
これらを通じて私は、氏がバッハのカンタータとモーツァルトのレクィエムを同じ日に演奏しようと提案された真意を知ることができました。
今回の選曲についてはいろいろな案が検討されました。けれども、最後は氏のご提案で今晩のプログラムに落ち着いたのです。これは日本ではほとんどありえないプログラムのたて方で、最初は奇異に感じられました。けれども「<最後の審判>を軸として考えることができる」という氏のことばと、氏が世界的な名声を博した今日でも、地味なカントールとしての地位を全うしておられる姿に接して、初めてその趣旨が了解できたのです。
誤解を恐れずにいえば、氏はモーツァルトだけに魅せられているのではありません。むしろモーツァルトが讃えようとしたものを、共に讃えようとしているのだ、とお見受けしました。
その意味ではバッハも親しむべき精神的同労者であり、この三者は一点において何の違和感もなくつながるのです。その一点とはもちろん神の愛に対する信仰のことで、それによってバッハもモーツァルトもノイマンも、常に一心同体でありうるのです。従って今晩のプログラムは一般の音楽会とは、一味違う構成となりました。
…使用譜と使用楽器について
バッハのカンタータもモーツァルトのレクィエムも、それぞれオーソドックスな研究の成果である新バッハ全集版と新モーツァルト全集版(別名ジュースマイヤー版)が用いられます。
バッハのカンタータ70番については、ヴァイマール稿とライプツィヒ稿の違いがあり、それについては後述しますが、前者は BWV70a として分類され今日ではほとんど演奏されず、従って今晩も後者の BWV70 が演奏されます。
モーツァルトのレクィエムについては、その作品が未完に終わったため、さまざまな音楽家たちがさまざまな補作を試み、各種の版がでまわっています。最近はそれらの新しい版によって演奏する試みも盛んですが、私たちはその実験に意義を見出しません。従って今回はノイマン氏ご自身がオーケストレーションに若干の変更を加えられた新モーツァルト全集版によって演奏します。
なお、楽器はバッハが a=415 の古楽器、モーツァルトが a=440 のモダーン楽器で演奏されます。本当は両曲ともオリジナル楽器を使用したかったのですが、今の日本では種々の制約があって実現しませんでした。
…演奏会場のこと
今回の演奏会場の設定についてもいろいろと考えてみました。
私たち東京スコラ・カントールムとしては、創立以来の伝統として、教会音楽は教会堂で、という信念で今までの演奏会を開催してきました。それが教会音楽に一番ふさわしい場であるということと、作曲者の想定した音響条件にかなうことだと考えたからです。残念ながら東京にはそれらの条件を満たす聖堂はあまりありません。それでも私たちは、それらの条件を満たす数少ない教会に無理をお願いして聖堂にこだわってきました。
今回もバッハのカンタータだけのプログラムだったら、迷わず東京カテドラルだけにお願いしたでしょう。けれどもモーツァルトのレクィエムとなると、ちょっと状況が変わってきます。
日本では一般の演奏会場で演奏されることが多く、その音楽自体が一つの自己完結的な芸術作品としての鑑賞の対象となっているからです。
モーツァルト自身が、そういう可能性を前提として作曲したとは思えませんが、作曲様式から見て、必ずしも教会の典礼と不即不離の関係にあるわけでもありません。例えばザルツグルク期のミサ曲などには、聖職者の先唱を前提とするグローリア楽章など、典礼をはなれては本質をそこなうおそれのある楽曲が多数ありますが、ヴィーン時代の作品には、同じく未完のまま残されたハ短調のミサ曲にしても、教会の聖堂をはなれて演奏されてもおかしくない構成で作曲されています。
このレクィエムにしても、初演がたとえ試演という形式であったとしても、個人の私邸で「モーツァルトのレクィエム」として演奏されたことが明らかになっていますから、当時の人たちすらこの曲を一個の芸術作品として評価していたことが分かるのです。
つまりモーツアルトがヴィーンで教会や王侯貴族の庇護をはなれ、自立した音楽家として創作を始めた頃から、時代の風潮は教会音楽といえども独立した芸術作品として創作され、鑑賞される慣行が育っていたのです。その約30年後に作曲されたベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」にいたっては、もはや教会のミサで用いられることは不可能です。
そうした環境の変化を考えて、今回は初めて一般的なシュー・ボックス・スタイルの演奏会場でも演奏することにしたのです。東京カテドラルとどういう違いがあるのか、楽しんでいただければ幸いです。
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