東京スコラ・カントールム 第37回定期・慈善演奏会
バッハ追悼
In Commemoration of J. S. Bach
(2000/7/7、 指揮:花井哲郎、 ウェスレアン・ホーリネス 淀橋教会)
《曲目》
1. | 讃美歌 | 苦しみのきわみに
Wenn wir in hoechsten Noeten sein |
2. | 教会カンタータ BWV106 | 神の定めし時こそ最善の時 - 哀悼行事
Actus tragicus: Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit |
3. | モテット BWV229 | 来ませ イエスよ
Komm, Jesu, komm |
4. | モテット BWV227 | イエス わが喜びよ
Jesu, meine Freude |
5. | 教会カンタータ BWV118 | おおイエス・キリスト、わが命の光
O Jesu Christ, meins Lebens Licht |
6. | 讃美歌 | ついにみ座のみ前に
Vor deinen Thron tret ich |
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《プログラムノート》
... 小笹 和彦 (東京スコラ・カントールム)
1. ささやかな想い
今年はバッハの没後250周年…
200周年の頃はどうだったろう。中学時代の私は「音楽の父」とか「三大Bの一人」といった知識、それに重苦しそうなかつらをかぶった、こわもての肖像画しか印象にない。音楽といえば、こけおどしのような「トッカータとフーガ・ニ短調」のひびきか「G線上のアリア」だけが耳に残る。バッハのレパートリーが急速に増えたのは高校で音楽クラブに入ったからである。私は、音楽教師の部屋兼クラブの部室に入りびたり「ブランデンブルク協奏曲」や「フーガの技法」を長時間盤(当時はまだ片面約3分間のSP盤が主力だった)でタップリ楽しませてもらった。しかしそれらはあくまでも教養としてのバッハであり、人格的ふれあいではない。当時はむしろベートーヴェンに傾倒していた。しかし、迂遠な道ではあったが、ベートーヴェンに親しんだおかげで、バッハへの道が開けたといえる。ベートーヴェンが語ったと伝えられる「バッハ(ドイツ語で小川の意)は海であって小川ではない。すべての流れがそそぐ大海である」ということばや、「バッハの膨大なクラヴィア練習曲集を旧約聖書に例えるとすれば、ベートーヴェンが生涯を通じて作曲したピアノ・ソナタは新約聖書に相当する」、といった評言がバッハへの関心につながっていったのである。
そんなある日、友人が一枚のLPをもって遊びにきた。当時は高価な珍しい輸入盤で、まだ日本では全く発売されていない曲種だったから記憶は鮮明である。それが、今から思えばバッハに親しむきっかけ、あるいは魂の交流を結ぶきっかけになった。曲のタイトルが「目覚めよ、と呼ぶ声がする」という教会カンタータ第140番だったから、正に啓示的な出会いである。
大戦後の混乱をようやく脱しつつあった日本にバロック音楽ブームがきざしたのは、私が社会人になってからのことだった。バッハに関する文献も続々と刊行されるようになり、シュヴァイツアーの「バッハ(山根銀二訳)」を始め、辻荘一、杉山好、角倉一朗のバッハに関する論文をむさぼるように読んだ。ヤマハの樂書売り場に「バッハ年鑑」やシュミーダーの「バッハ作品総目録(BWV索引)」が並ぶようになり、日本でも徐々にバッハの実像を知る資料が整いつつあった。ラジオの服部幸三・皆川達夫両氏が解説する「バロック音楽の時間」もこの頃から始まった。日本で始めての「バッハ合唱団」も創設され、私も勇んで参加した。そこはバッハの教会カンタータを日本語で歌うユニークな合唱団で、ずいぶん教えられることもあったが音楽的感興を得るには至らなかった。そこで同志と語らい、その合唱団をとびだし、現在の東京スコラ・カントールムを創設したのであった。
こうして思い返せば、バッハの没後200年から250年は、私の青年期から老年期にかけての半生と共にある。そして逝去の年(1750年)から遠く隔たればへだつほど、逆にバッハが身近な人となってきたのは不思議という他はない。自分の年齢がバッハの享年65歳(1685年生まれ)に近づいた今は、聖書を通じてバッハへの思いがいや増す。もはやバッハは、生きることと死ぬことの意味を語ってくれる、最も大切な師であり友である。
2. バッハの死生観
どんなに美しいことや楽しいことにも死の影を見出すのは、いつ頃からのことだろう。
バッハの場合、それは既に少年期から芽生えた感覚ではなかったか。9歳で母を失い、その翌年には父とも死別したバッハは、その後も生涯、暗い死の影につきまとわれて過ごす。22歳で結婚したものの、その妻はバッハが35歳のとき急死。翌年再婚し、生涯で20人の子供を得たが、その内11人はバッハが自らの手で葬らなければならなかった。しかも生涯の大半を教会音楽家として過ごしたバッハは、葬儀のための音楽を作曲したり演奏したりすることが、重要な任務の一部であった。死はバッハにとって避けることのできない、日常の課題であり続けたのである。
したがってバッハの音楽には死を題材とし、生と死の意味を問いつめ、死とは何か、死の先にあるものは何かに思いを至らせる作品が異常と思えるほどたくさんある。おそらくあらゆる作曲家の中で、最も真剣に死と対峙した音楽家といえよう。その思いが最も凝縮したかたちで現れるのが、イエス・キリストの受難と死をテーマとしたマタイ受難曲やヨハネ受難曲だが、そうした大曲の礎ともいうべき珠玉のような小品に、今日は焦点を当ててみた。それらは何れも受難曲のようにイエスを主題とするものではなく、バッハ自身を含めた身近な人間を対象とする死の歌であるが、生きていることの悩み、苦しみ、悲しみ、痛みを超え、死が一つの終着点であると同時に、永遠の命への出発点としてとらえる点ではマタイ受難曲などと軌を一にする。つまりバッハは、神人イエスの苦難と十字架、死と復活に自分の姿を重ねあわせて考えていたのだ。
人との別れは限りなく寂しく、辛く、切ない。けれども、やがては天国で再会し、共に栄光の讃歌を捧げることができる。おそらくは、その希望がバッハ自身を支え、また音楽を通して人に訴えたかったことと思える。
「私(イエス・キリスト)は復活であり、命である。私を信じるものは死んでも生きる。生きていて私を信じるものは誰も、決して死ぬことはない(ヨハネによる福音書11:25)」。
このことばにすべてをかけたバッハにとって、死は一つの眠りであり、癒しであり、安らぎであり、憩いであったのだ。そうした死生観は、本日演奏する曲の他にも、死を主題としながらも、類いもまれな美しさを示す「片足は墓穴に立つ(BWV. 156)」や、死への憧憬を思わす「来たれ 甘き死よ(BWV.161)」などの教会カンタータに端的によくあらわれている。実にバッハの死にまつわるカンタータは、死によって死に克つ凱旋歌なのである。
3. 演奏曲目
1) | 讃美歌「苦しみのきわみに」
バッハ愛唱歌の一つ。バッハの愛唱歌と思われる讃美歌(Choral/コラール)は無数にあるが、その中でもバッハ自身が死の床で想起した唯一の曲として貴重である。
原詞はヨアヒム・カメラリウスという伝記作家が1546年につくった「暗闇にあって」というラテン語の詩を、1566年にパウル・エーベルという人が独訳したもの。曲はカルヴァンの依頼によって、ジュネーヴの教会音楽家ギヨーム・フランクが作曲し、1543年にジュネーヴ詩編歌として出版したもの。これがドイツ・ルター派の讃美歌集に編集され、ヴィッテンベルクで出版されたのは1567年。バッハ誕生の約120年前のことであるが、バッハはこの曲をことの他好んだ形跡がある。
初期のオルガン用讃美歌小前奏曲集(いわゆるオルゲル・ビュッヘライン)には珠玉のような編曲(BWV.641)が掲載されているし、ヴァイマール時代の作品を編纂した18曲のコラール編曲集ではそれがフーガ風に展開されて(いわゆるライプツィッヒ・コラールBWV.668)掲載されている。さらに最晩年に作曲を始めた「フーガの技法(BWV.1080)」の最終曲にもその旋律が取りあげられたが、惜しむらくは未完(BWV.668a)のまま絶筆となった。
バッハの最後は次のような経過をたどったらしい。1749年5月。卒中の発作とともに急速に視力減退。2回におよぶ手術も失敗に終わり、ついに失明して体力著しく衰弱。1750年7月。死期を目前にしたバッハはかつての弟子で娘婿のヨハン・クリストフ・アルトニコルを枕辺に呼び、讃美歌編曲を口述した。そして、その原曲コラールの題名「苦しみのきわみに」を「ついに、み座のみ前に」変更するよう指示した…。後年、バッハの次男 C. Ph. エマヌエルは、未完の「フーガの技法」を出版の際、その初版の序に、概要次のようなことを記した。
「最後の曲はバッハの名を転用した B-A-C-H の対位法主題を提示したところで、作曲者が眼病と、その直後におとずれた死によって筆を置いた。このため、作曲者が自らの姓を署名しようとしたフーガの完成譜を、この作品集に掲載することはできなかった…」。その未完のフーガの原曲こそ、今晩冒頭と最後に歌う讃美歌なのである。これがバッハ生涯の愛唱讃美歌というゆえんである。
なお原詞は12節からなるが、現行ドイツ福音派教会の讃美歌集では10節に圧縮されている。ただし、もともと2節をもって一連の歌詞として構成されているので、2節ずつ続けて歌うのが常道である。
このほど日本基督教団から刊行された「讃美歌21」には、新たにこの曲が526番として採用された。バッハの編曲によるものではなく、歌詞も7節に圧縮されているが、原詞の趣旨はよく理解できる。ぜひご参照いただきたい。また、この讃美歌の歌詞の下には<詩10:11 ルカ 23:46 Iペト 4:19>といった聖書の参照個所が記載されているが、特に詩編第10編は、バッハの生い立ちと符節があい、その心境を知るうえでも興味深い資料といえるので併読をおすすめしたい。 |
2) | 教会カンタータ「神の定めし時こそ最善の時 - 哀悼行事(BWV.106)」
1607-1608年、バッハ22歳の時に完成した作品。もともとバッハは父親が40歳のとき、8人兄弟の末子として生まれたぐらいだから、幼くして両親と死別する宿命にあったのかもしれない。その後は長兄に引き取られて生活するが、音楽家の家庭で生活はつましく、バッハを慰める者はいなかった。しかし母方の伯父、T. レンマーヒルトには可愛がられ、その死に際して相当の遺産を与えられたという。この曲は1707年8月14日、その伯父の葬儀のために作曲されたものとされており、現存する約200曲の教会カンタータの中では、最も初期の作品である。18歳でヴァイマール宮廷のヴァイオリン奏者となったバッハは1707年、つまり22歳でミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストに就任、10月にはこの伯父の遺産を得てマリーア・バルバラと結婚した。教会音楽家として自立していく、意気軒昂のバッハではあったが、この曲は既にして枯淡の境地がただよう。
曲はとても簡素な構成(4声部合唱、独唱者4人、器楽は2本のリコーダーと2本のヴィオラ・ダ・ガンバおよび通奏低音)で、古雅といえば古雅、典礼的といえばプロテスタント的典礼の質朴さを備えているが、ロマン派的、情緒的葬送曲に慣れ親しんだ人たちには、あっけないほどの曲である。しかし、内容的には高度に緻密な作曲技法と深い聖書解釈で練りあげられており、後期の円熟した作品と比べて何ら遜色がない。冒頭はソナティーナと題された器楽のみの前奏曲。リコーダー2重奏が織りなす美しい調べは、故人との別れを悲しむ涙を思わし、切々とした情感が胸をおおう。
2曲目は一転して独唱と合唱の交唱。先ず合唱が「神の定めたまいし時こそ最善の時」と歌うが、これは使徒言行録17章28節の「我らは神の中に生き、動き、存在する」ということばを受け、生きるも死ぬもすべて神のみ心にお任せします、といった意味での信仰告白。次いでテノール独唱が詩編90編12節の「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」という、神の人モーセの祈りを歌う。さらにバス独唱はイザヤ書38章1節にあるイザヤの預言そのままに(主はこう言われる)「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」と告げる。すると合唱がシラ書14章17節のことば「生あるものはすべて、衣のように古びてしまう。<なんじ、死すべし>。これは昔からの定め」と歌う。何とも非情な調べだ。ところがそこに一条の光が射しこむ。それはソプラノ独唱による聖書最終巻の、しかも巻末にあることば(ヨハネの黙示録22章20節)の提示であり、それによって主イエスの再臨が予告され、死者とその遺族に希望がもたらされる。この旧約と新約の預言の対比は鮮烈な印象をもたらすが、現代の聴衆にとってはいささか唐突に聞こえるだろう。なぜ神によって「死ぬべき」存在に定められた人間が、「主イエスに呼びかけ、その再臨を促すのか」。その理由が実は、器楽の伴奏によって説明されている。おそらく器楽の奏する旋律は、当時の聴衆にとってはかなり有名なもので、それを聞けば直ちに「イエスこそ死ぬべき者を救ってくださる唯一の方」だということを想起させたのだろう。それはJ. レオンの死と永遠を想起させる讃美歌の旋律であり、特にその第12節の歌詞「このわが主イエス・キリストはわが罪のために死に、わが救いのために甦りたまえり、地獄の業火をその血潮もて消し去りたまえり」という内容をもっている。それが、短いソプラノ独唱の歌詞である「然り、主イエスよ、来りたまえ」ということばの背景に符合するのだ。非常に説得的に組み合わされた聴衆参加型の3重唱形式といえよう。
第3曲では先行するガンバの上昇音形が、既に死の恐れが救いの喜びに昇華された状態を示し、これに導かれてアルト独唱が確信に満ちて「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます(詩編31:6)」と歌う。するとバス独唱が「あなたは今日、私と一緒に楽園(パラダイス)にいる」というイエスの十字架上のことばで答える。それがキリスト者としての最終的な希望であり、信仰の核心である。その気持ちをアルト合唱が代表し、イエスのことばに添え、ユニゾンで讃美歌を歌う。それはルターが「シメオンの歌(ルカ2:29以下)」に基づいて創作し、1524年に出版した讃美歌の第1節である。これによって死の恐れは完全に払拭され、救いの喜びと平安に満たされたキリスト者は、ひたすら神を仰ぎ、その栄光に帰す。
それが終曲第4曲の合唱であり、一般に「栄光の讃歌」といわれる曲種である。ここには死の影が全くない。ひたすら神の栄光を讃美する。原曲讃美歌は1533年に出版されたA. ロイスナーの詩編31編に基づく讃美歌の第7節。終結部の見事な2重フーガによるアーメン・コーラスは、むしろ歓喜の歌といってよい。 |
3) | モテット「来ませ イエスよ(BWV229)」
モテットという曲種は必ずしも葬儀用の合唱曲を意味するものではない。バッハ以降一般的には、独唱や独立した器楽伴奏を伴わない、ポリフォニーによる短い宗教合唱曲をさす。しかし、今晩演奏される曲はまぎれもない葬送曲の代表的作品である。
この曲はいつ、誰のために作曲し演奏したのか定かではない。が、ライプツィヒ時代の初期(1723-1734)に作曲されたものと推定されている。歌詞はライプツィヒのトーマス学校のある校長の死に寄せた、P. テューミヒの「葬送歌」から2節を援用している。
その中心思想は「イエスは言われた。<わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父の許に行くことができない>(ヨハネ14:6)」である。
このことばは前半の美しい二重合唱が呼び交わす「来ませイエスよ(Komm, Jesu, komm)」という導入部に続き、執拗に繰り返される。「道、真理、命」というたった3語が、二つの合唱群で17回も歌い交わされ、最終的に「命(das Leben)」で終わる。バッハの言わんとするところはおのずから明らかであろう。
続く「アリア」と題された第2曲の終曲は簡潔な4声部の讃美歌だ。普通なら単に「コラール」と記されるべきものが、バッハはなぜ「アリア」と指定したのか、それが気にかかる。歌詞はいきなり「だから(Drum)」という接続詞で始まる。だから、それ以前のポリフォニックな曲とこのホモフォニックな曲が切れ目無く演奏されるべき一連の曲であり、しかも詞の内容を断絶させてはならないことはすぐ分かる。つまりバッハは「イエスが命」であることを確信し、「だから、安らかに、この世と別れを告げ、永遠の命に生きる」希望を歌う。だが「アリア(詠唱)」とは何だろう。常識的にいえば「アリア」は独唱曲であり「コラール」は讃美歌合唱曲である。個人と団体の違いがある。おそらくバッハは「アリア」と指定することによって、ここに一まとまりの団体の歌ではなく、歌う者各個人こじんの魂の表白を求めたのではなかろうか。譜面上ではこの第2曲で、8声部の複合唱が、4声部の単独合唱になる。第1曲の華麗な音楽的展開に対して、付け足しのような気さえする。だが、コラールこそバッハである。バッハは例えば、50人が歌えば50人の異なる心、異なる声の表現を求めているのではないか。もっと言えば50声部への発展と解釈することもできるだろう。 |
4) | モテット「イエス わが喜びよ(BWV227)」
現存するバッハのモテットの中で、最大・最高の作品であり合唱の難易度も高い。ア・カペッラ形式による合唱曲の白眉であると同時にバッハの音楽的修辞法(フィグーラ)がちりばめられた、内容の濃い傑作としても有名である。作曲されたのは1723年と考えられている。バッハは38歳の壮年。終焉の地となったライプツィヒ市のトーマス・カントールに就任して間もなく、市の中央郵便局長未亡人の葬儀で初演されたものらしい。全体はバッハの好んだシンメトリックな構成であり、そこに配置した歌詞と楽曲編成によって、この曲でバッハが表明しようとした中心思想が容易に明らかとなる。
(1) | 讃美歌 (4部合唱) |
(2) | 聖書 (ローマ8:1・5部合唱) |
(3) | 讃美歌編曲 (5部合唱) |
(4) | 聖書 (ローマ8:2・高声3部合唱) |
(5) | 拡大讃美歌 (5部合唱) |
(6) | 聖書 (ローマ8:9・5部合唱) |
(7) | 讃美歌編曲 (4部合唱) |
(8) | 聖書 (ローマ8:10・低声3部合唱) |
(9) | 拡大讃美歌 (バスを欠く4部合唱) |
(10) | 聖書 (ローマ8:11・5部合唱) |
(11) | 讃美歌 (4部合唱) |
これを一見すれば、全曲が(6)の聖書を中心として左右均等の対照で展開されていることがすぐ分かる。(1)と(11)は歌詞だけを異にする同曲、(2)と(10)もほぼ同曲、(3)-(5)と(7)-(9)も対照関係にある。
歌詞は讃美歌と聖書が交互に配され、それぞれの意味を補完する。音楽的には、ヨハン・フランクの有名な讃美歌の旋律を主柱とし、讃美歌部分はホモフォニックに、聖書部分はポリフォニックに展開し、ヴァラエティーに富んだ対照の妙を浮きぼりにする。非常に手のこんだ精妙きわまる曲だが、その中心は何といっても(6)の2重フーガと聖書のことばにある。ところが、そこで示されている聖書のことばはかなり難解である。
「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません(ローマ8:9)」。
これだけでは意味がつかめない人達のために、バッハはステンド・グラスで絵解きするように、フランクの讃美歌を配した。ここはぜひ対訳と楽譜を参考にしながら一語一語、一音一音を吟味していただきたい。バッハの音楽は単に聞くだけのためのものではなく、読むものでもある。
特に注目すべきはバッハの原語感覚の鋭さだろう。全曲の始めと終わりに「イエス わが喜びよ」ということばが配置されている。これはバッハが決して音楽的結構だけを重んじた人ではなく、ことばの意味と価値を最大限重視した人であったことの一つの証明である。
この誰にでも分かる、しかも意義深い簡潔なことばを最初と最後に響かすことによって、難しい教理は別にして、バッハは故人と悲嘆に沈む葬儀参列者に、心安らかな葬送の音楽を贈った。バッハ細心の配慮というべきか、あるいはそれが、バッハの生と死を貫く哲学だったというべきなのだろうか。 |
5) | 教会カンタータ「おおイエス・キリスト、わが命の光(BWV.118)」
あまり演奏されることのない、珍しい曲だが、やさしさと慰めに満ちたバッハ晩年の名曲の一つである。教会カンタータとして分類されているが、自筆スコアーには「モテット」と記されており、特定の用途と時期は不明だが、葬送行進の際や、埋葬のときによく用いられたものらしい。現存するのは年代を異にする2種の樂譜である。第1稿は1736年から1737年までの間に完成され、第2稿は1747頃に加筆(BWV.118b)されている。が、違いは伴奏譜だけである。
今日演奏されるのはその第1稿版だが、おそらくバッハは50代後半から、この曲を教会外の墓地で演奏するために作曲したのだろう。それはこの版が、金管楽器のアンサンブルだけを伴う簡素な合唱曲であることから容易に想像がつく。第2稿はこれに弦楽器などを加えた大編成のもので、お金持ちの喪主のために用意した盛大な葬儀のための曲と推察される。原曲讃美歌は両版に共通で、古歌に寄せたマルティン・ベームの12節の詩によっている。バッハのスコアーには最初の1節しか記されていないが、楽譜にはダル・セ−ニョ(反復)記号が明示されている。従って、葬列の長さによって自由に2節以下を追加して歌ったものと思われる。現在のドイツ福音派教会の讃美歌集には10節までしか掲載されていないが、今日はその内の第7節を1節に続いて歌うことにした。詞の内容が本日のプログラムの趣旨と一致すると考えたからである。
失明して死期を目前にしたバッハ。そのバッハが「イエス・キリスト、命の光」に導かれて「天国にいたる」姿がほうふつする。私達はこれをバッハの墓前にささげたい。 |
6) | 讃美歌「ついにみ座のみ前に」
バッハは1750年7月18日ごろ、一時的に視力を回復したが、すぐまた卒中の発作がおき、その10日後、7月28日の午後8時45分、静かに他界したと伝えられている。
死期を悟ったバッハは、その直前に弟子のアルトニコルに、本日のプログラムの冒頭で歌った讃美歌のオルガン編曲を口述した。その際、題名を「苦しみの極みにあって」を「ついにみ座のみ前に進みます」に変更するように頼んだ。題名すなわち、讃美歌の初行を意味するから、その讃美歌の詞によって、バッハは死に向かう心境を告げたのである。まさにバッハの辞世の句、白鳥の歌といっていいだろう。
この讃美歌はロワ・ブルジョワが1547年に編纂したジュネーブ詩編歌の1曲を、ツェレの人ボード・フォン・ホーデンブルク(1604-1650)が復活祭用の讃美歌として翻案したもの。歌詞は対訳をご参照いただくとして、その根底にある聖書のことばを記して、このノートの筆を置こう。生涯を通してイエスを慕い求め、ついに「苦しみの極み」を脱したバッハが、莞爾として主イエスの招く「み座」に向かう情景を想いうかべて欲しい。
「この大祭司(イエス)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか(ヘブライ4:15-16)・下線筆者」。 |
なお終演に際し、プログラムの2ページに印刷したこの曲の和訳讃美歌を、聴衆の皆様と唱和させていただきたいと思います。曲は「教会讃美歌」の468番を転用させていただきました。また、すべての聖書引用句は、日本聖書協会発行の「新共同訳聖書」から転載させていただいたものです。関係各位のご好意に厚くお礼申しあげる次第です。
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