第1曲 |
大規模な導入合唱で、全曲の性格を示す。マタイ受難曲が人間に対する呼びかけで始まったのに対し、この曲では神とその栄光の讃美から始まる。 |
第2曲 | ヨハネによる福音書18章1〜7節(以下はヨハネ:18/1-7と略記)」そのままの朗誦で、イエスが捕縛されるまでを簡潔に表現している。 |
第3曲 | 自ら進んで受難に向かうイエスへの讃歌。よく知られた歌いやすい旋律で、会衆の心の唱和を期待したもの。 |
第4曲 | ヨハネ18/9-10。弟子は騒いだが、イエスは落着いて、むしろ進んで縛についた。 |
第5曲 | 直前のイエスの言葉「父がお与えになった杯は飲むべきではないか」を受けて、「み心のままに」と歌う会衆の応答歌。イエスが示した「主の祈り」のエッセンス。 |
第6曲 | ヨハネ18/12-14。ここからはユダヤの民衆裁判の様相になる。その指導者たちの政治的思惑と、民衆の愚かさの絡み。 |
第7曲 | 一人離れてイエスを見守る目。バッハは往々にして、アルトに聖母マリアの役割を託している。これもその一つか。 |
第8曲 | ヨハネ18/15。12人の弟子の内、最も信頼され重用されたペトロと、もう一人の弟子(ヨハネ)がイエスに従った。 |
第9曲 | このソプラノはイエスを慕い、常にその傍を離れず、復活のイエスを最初に発見したマグダラのマリアの役、らしい。よく十字架像の下に、香油の壷をもって描かれる人。 |
第10曲 | ヨハネ18/15-23。毅然とした態度に腹をたてた下役が、イエスを殴った。 |
第11曲 | 普通ならここで義憤を感じるところだが、バッハは内省に向かう。自分こそ加害者だと痛悔する。会衆歌だがバッハ自身の思いかもしれない。 |
第12曲 | ヨハネ18/24-27。有名なペトロ否認の場。ただし、マタイほどの劇的表現はないので、部分的にマタイの記事(マタイ26/75)を借用している。 |
第13曲 | 第9曲と好対照をなす。マグダラのマリアの明るさとペトロの暗さ。前者はフルートとソプラノの相聞歌。この曲は痛恨歌、激しい心の揺れが弦の動きで助長される。 |
第14曲 | 第1部締めくくりのコラール。ここまでの4曲のコラールは何れも厳しい内省と懺悔の歌。心を謙虚にして説教を聞く準備。 |
第15曲 | 説教から再び音楽へ。いよいよイエスの受難の本番を迎える激しい緊張感と言葉がみなぎる。一音一音が、イエスの四肢を釘打つ槌の響きのように食いこむ。 |
第16曲 | ヨハネ18/28-36。当時のイスラエルを統治していたローマ総督ピラトの審問。イエスは臆さず「私の国は、この世には属していない」と明言する。イエスの神性を認めないユダヤ教徒たちは苛立ち騒ぐ。 |
第17曲 | キリスト教徒たち(聴衆)はそれに対し、イエスが神であることを伝えられないもどかしさ、自分の非力さを嘆く。 |
第18曲 | ヨハネ18/37-19/1。ローマ人ピラトはイエスに罪を見出せない。しかしユダヤ人たちは執拗にイエスの処刑を迫り、鞭打たせた。 |
第19曲 | むごい光景に隠された美しいヴィジョン。幻影ではない、信仰者の見る将来の予見。背を鞭打たれた傷跡が虹に見えてくる。バス独唱は通常、バッハの声とみなされる。 |
第20曲 | 前曲を受け、優美な弦楽伴奏に伴われたテノールが天国のヴィジョンを絶唱する。 |
第21曲 | ヨハネ19/2-12。演劇ならここで暗転。舞台は裁判の山場で、喧騒を極める。 |
第22曲 | とげとげしい騒ぎをよそにソッと挿入された、ホ長調(#記号4個)の明るいコラール。事の成り行きを知っている、後世の会衆の感謝の歌。このあたりから調性記号や変化記号に#(ドイツ語の音楽用語でKreutz、つまり十字架と同義)が多出する。 |
第23曲 | ヨハネ19/12-17。ついに十字架上の処刑が確定する。音楽的には22曲を折り返し点として、第18から23曲までが同型を反復する、いわゆるシンメトリー構造で作曲されている。あたかも興奮した群集が、わけも分からず蟻地獄にはまりこんでいくようだ。 |
第24曲 | その不安定な状態を脱するために、バスのリーダーが人々を鼓舞し、救いの抜け道を示す。ゴルゴタ、そこはむごい修羅場。だが、キリストによって救いの場となった。 |
第25曲 | ヨハネ19/18-22。群集はその力でイエスを十字架に追いやった。陰にピラトの惑いがある。イエスに心ひかれながらも、ついにその惨劇を止め得なかった優柔不断さ。 |
第26曲 | これとは対照的な、晴れやかな変ホ長調の明るいコラール。死は終わりでなく天国への架け橋と信じる、バッハが愛した名讃美歌の一つ。 |
第27曲 | ヨハネ19/23-27。イエスの死は突発的な事件ではなく、旧約の時代からの預言の成就であった。 |
第28曲 | ここにもイ長調という明るいコラールがある。こういう現象は、マタイ受難曲にはなかったこと。バッハは明らかに神の子イエス・キリストへの全的信頼を歌わせている。 |
第29曲 | ヨハネ19/27-30。十字架上の最後の一言「成し遂げられた」は、他の福音書にはないヨハネだけの記述。ルター訳聖書の「Es ist vollbracht!」という言葉には、単に物事の終わりを示す以上の、意思的行動の完成・貫徹・実現をあらわす意図が隠されている。 |
第30曲 | それを受けてバッハは、自分の最も好むロ短調で、すばらしいアルトのアリアを創作した。涙ながらにキリストの勝利を歌うこの曲は、一つの逸話を想起させる。明治の先覚者・内村鑑三がその愛娘を亡くして埋葬するとき、あふれる涙と共に「ルツ子万歳!」と叫んだという話。死別ほど悲しいことはない。だがそれを、天国への凱旋と信じる人もいる。多くの、最愛の肉親の死に直面したバッハも、その一人であったに違いない。 |
第31曲 | ヨハネ19/30。楽譜を見ると、イエスが力なく頭を垂れる様子がよく分かる。 |
第32曲 | それをバス独唱者は死のしるしとは思わない。肯定を示す無言のしぐさ、うなずき、と理解する。会衆が静かな祈りのコラールでそのアリアを補完する。 |
第33曲 | マタイ27/51-52。このレチタティーヴォを中心とする、もう一つのシンメトリー構造がある。第31曲アルト、32曲バス、34曲テノール、35曲ソプラノの各アリア/アリオーゾが、この劇的な惨劇(この第33曲)を目前にした、あらゆる世代の人々、全世界の人々を代表して、それぞれの思いを伝える。いわば「キリスト処刑の場」のエッセンス。 |
第34曲 | この31-35の各曲はいかにもマタイ的表現に満ちた作風で、絵画的様相を見事に音楽化している。大地の揺れ、心のきしみを表す音画的表現が見事だ。 |
第35曲 | 前曲の周章狼狽に対して、ここには見事な落ち着きがある。視点を天に据えて、心の悲しみや、地の動揺をおさめる。第9曲の明るい曲想を思い出す。ここにもソプラノとフルートの協奏があった。目前で主を失った悲しさが、短調という調性ににじみ出ているが、モティーフも楽器編成もほぼ同じ。両曲は表裏一体で、「愛」の極致を示すようだ。 |
第36曲 | ヨハネ19/31-37。再びヨハネに戻り、イエスの肉体の死を確認する。 |
第37曲 | ところがどっこい、イエスは生きている。その霊は高く挙げられ神の右に座している、という信仰告白がこのコラール。第2部の冒頭コラール、第15曲が半音高くなって再現される。前はどちらかといえば怒りと憎しみ、ここでは胸叩く痛悔と謙虚な祈りが支配的。 |
第38曲 | ヨハネ19/38-42。イエスの遺体を慕って徐々に戻ってくる弟子たち。追慕の念。 |
第39曲 | その弟子たちや、イエスに心を寄せるものたちの大合唱。単なる哀悼の歌ではない。自らの存在、全世界、天と地の平和を祈念する壮大さがある。旧版(第2版)ではここに、主の平和を求める「Agnus Dei(神の子羊)」のドイツ語訳コラールが置かれていた。ミサ曲なら、それで終曲となる。だがバッハはあえて、次の簡潔なコラールを加えて終曲とした。 |
第40曲 | 終曲をコラールで締めくくるのは、バッハの教会音楽作品に通有する基本的パターン。そのコラール選択にバッハ独特のセンスが光る。死の床で口ずさんだと伝えられるバッハの白鳥の歌が「神の玉座に進み出で」というコラール。コラールはバッハの血であり肉であった。ちなみにバッハの作品にはこの「玉座」という言葉がよく出てくる。ヨハネでも同様だ。そして、このヨハネが初演されたニコライ教会には、ルーカス・クラナッハの「Gnadenstuhl(恵みの座)、1515年」が飾られていたという。それはいわゆる「三位一体」を示す宗教画で、その玉座には父なる神が座し、膝には鳩(聖霊の象徴)がとまり、降架されたイエスが横たわる、という構図である。M. ゲックという人の最近の研究によると、ヨハネ受難曲の冒頭合唱は、いみじくもそれを音楽的に象徴化し、なぞったもの、と言う。その解釈をとれば、このヨハネ受難曲は冒頭と終曲の合唱を「恵みの座」によって、括っていることが分かる。この楽譜を整えたとき、バッハは確実に死を予感していた。そして「恵みの座」に向かい、このヨハネ受難曲を辞世の句として、心からの希望、感謝そして讃美を捧げた、と理解できる。願わくはその遺志が、永遠に歌い継がれんことを。 |