東京スコラ・カントールム第41回定期・慈善演奏会
セビリア大聖堂の響き … スペイン・ルネサンス黄金時代の音楽

(2002/10/27、指揮・オルガン:花井哲郎、聖心女子大学聖堂)



《曲目》
1. モテット "めでたし このうえなく聖なるおとめ"
Motet "Ave, virgo sanctissima"
フランシスコ・ゲレーロ(1528-1599)
Francisco Guerrero
2. 入祭唱 "めでたし 聖なる産みの母"
Introitus "Salve sancta Parens"
グレゴリオ聖歌
Gregorian chant
3. キリエ
Kyrie
クリストバル・デ・モラレス(1500?-1553)
Cristóbal de Morales
4. グロリア
Gloria
モラレス
C. de Morales
5. 第1旋法によるティエント--オルガン独奏
Tiento de primo tono
アントニオ・デ・カベソン(1510?-1566)
Antonio de Cabezón
6. アレルヤ唱 "御子をお産みになった後も"
Alleluja "Post partum"
グレゴリオ聖歌
Gregorian chant
7. モテット "救い主を育てた母"
Motet "Alma Redemptoris Mater"
ゲレーロ
F. Guerrero
8. モテット "起き、急ぎ来てください、愛しい人よ"
Motet "Surge, propera amica mea"
ゲレーロ
F. Guerrero
9. 叙唱
Praefatio
グレゴリオ聖歌
Gregorian chant
10. サンクトゥス
Sanctus
モラレス
C. de Morales
11. アニュス・デイ
Agnus Dei
モラレス
C. de Morales
12. 聖体拝領唱 "幸いな御胎"
Communio "Beata viscera"
グレゴリオ聖歌
Gregorian chant
13. "幸いな御胎"--オルガン独奏
Beata viscera
カベソン
A. de Cabezón
14. モテット "めでたし 元后"
Motet "Salve Regina"
ゲレーロ
F. Guerrero
15. シャンソン "ミル・ルグレ(千々の哀惜)"
Chanson "Mille regretz"
ジョスカン・デ・プレ?
Josquin des Prez?



《プログラム・ノート》 ...東京スコラ・カントールム
スペイン南部、アンダルシア地方の中心都市であるセビリアは、長い間イスラム勢力の支配下にありました。8世紀初頭にイスラム教徒モーロ人がイベリア半島を制圧してから1248年にカスティリャ王フェルナンド3世によってキリスト教世界に組み込まれるまでの実に5世紀以上の間に、この街ではイスラムの影響を受けた多彩な文化・芸術が花開きました。イスラム建築の多くは後にキリスト教徒によって破壊されましたが、セビリアには今でも、イスラム教徒に祈りの時を告げるミナレットと呼ばれる塔など、かの時代を偲ばせる建造物が遺されています。そのひとつが、1198年に造られた「ヒラルダの塔」です。高さ98mのこの塔は、装飾を施したレンガを積み上げ特徴的なアーチを配した、スペインで見られる最も素晴らしいミナレットのひとつです。

このミナレットに隣接して、ゴシック様式の大聖堂が百年の歳月をかけて建てられたのは1506年のことでした。モスクの跡地を利用して建てられたこの大聖堂は、縦横に広くさほど高さがないのが特徴です。雨の少ないスペインの気候を反映して屋根の傾斜もゆるやかに作られ、林立した尖塔とその間を渡るアーチがどこまでも連続していくような印象を与えます。完成直後に崩壊し再建された中央の交差部は、緻密な彫刻が施された複雑なアーチを持ち、イスラムの華やかな文化を偲ばせます。時代を異にして建てられた「ヒラルダの塔」と並んで違和感なく調和するこの大聖堂も、イスラムの影響を受けつつ発展したこの地方の複雑な様式を象徴しているのです。内部は新大陸からもたらされた黄金や大理石で装飾され、当時のスペインの豊かさを物語っています。

16世紀のスペインは、政治的にも経済的にもヨーロッパでもっとも強く豊かな国家として、その黄金期を謳歌していました。新大陸が発見されたのと同じ1492年にイベリア半島が統一され、1516年には神聖ローマ皇帝カール5世がスペイン王カルロス1世として即位します。カール5世は他にもナポリ、北アフリカ、ハンガリー、フランドルも支配下におき、歴史上もっとも広い地域を支配した君主の一人でもあります。ルターの宗教裁判、領土拡大のための戦争に忙しかった彼は同時に芸術家でもあり、芸術の保護者でもありました。彼は出身地であるフランドルから優れた音楽家を招き、宮廷音楽家として活躍させました。デューラーやティツィアーノ、レオーニなどこの時代を代表する画家や彫刻家も、多くがカール5世の保護のもとに活躍したのでした。父の後を継いでスペイン王になったフェリペ2世の時代、スペインはオスマン・トルコをも破る海軍、新大陸からもたらされる金銀、地中海貿易で上がる利益などによって、軍事的にも経済的にも他の国をはるかに凌ぐ大国になりました。フェリペ2世は首都マドリッド近郊のエスコリアルに豪華な宮殿を建設し、のちにプラド美術館の所蔵品のもとになる芸術作品のコレクションをここに収めました。1579年には支配下にあったネーデルランドが独立し、1588年には無敵を誇った海軍がイギリスに敗れます。これを機にスペインの国力は次第に衰退していきますが、16世紀のスペインは文化・芸術にとっても、黄金時代と呼ぶことのできる輝かしい時代になりました。

セビリア大聖堂の聖歌隊で音楽の素養を身につけた少年達の中から、16世紀スペインを代表する2人の音楽家が輩出されました。クリストバル・デ・モラレスは1500年頃セビリアで生まれ、セビリア大聖堂の少年聖歌隊員としてそのキャリアをスタートさせました。生涯を教会音楽家として送ったモラレスは、スペイン国内のみならずローマでも多くの典礼音楽を手掛け、当時の教皇パウルス3世にもミサ曲集を献呈しています。もうひとりのフランシスコ・ゲレーロは1528年に同じくセビリアに生まれ、大聖堂聖歌隊ではモラレスにも師事したとされる音楽家です。モテットだけでも150曲以上を作曲した彼は当時から広く名を知られており、新大陸ラテンアメリカで初めて刊行された楽曲集が彼の作品だったことからも、スペインが経済的にも豊かだった時代に華々しく活躍した音楽家だったことが窺えます。どちらの作曲家の作品からも、複雑な文化の融合した、スペイン独特の情熱的な雰囲気が漂ってきます。

彼らが活躍した16世紀は、教会音楽に大きな変化のあった時代でした。ルネサンス、人文主義の動きの中からルターによる宗教改革、カトリック教会内での反宗教改革が起こり、教会内部の見直しの一環として典礼にも大幅に改革の手が加えられました。1545年から63年にかけて開かれたトリエント公会議では、ミサの中で唱えられる式文、歌われるべき聖歌などが規定され、それまで各国で独自の発展を遂げていた典礼音楽も、ヨーロッパのキリスト教世界全体で画一化されていきました。
またそれに呼応してか、典礼のために作られる多声音楽においても国際的に共通するスタイルが広まりました。各声部が同様の旋律を一定の間隔でずれながら追いかけるように奏でていく通模倣様式などはその特に顕著な例です。またいわゆるパロディー・ミサが発展、大変好まれて多くのミサ曲の作曲に際して応用されていきました。パロディー・ミサとは、キリエ・グロリアなどミサ通常唱全体にわたって、既存のモテットなどの宗教曲やシャンソンなどの世俗曲を素材として用いて作曲されたもので、教会や典礼音楽のあり方に大きな変化が生じたこの時代に特徴的な作曲方法です。

本日演奏されるミサ「ミル・ルグレ」も、当時スペインでよく歌われていたらしいフランス語のシャンソン「ミル・ルグレ(千々の哀惜)」をもとにしてモラレスが作曲したパロディー・ミサです。シャンソン「ミル・ルグレ」は長い間、フランドル楽派最大の作曲家、ジョスカン・デ・プレによるものと言われてきましたが、近年の研究では他の作曲家のものであるという説が有力になっています。モラレスはこのミサ曲をローマ滞在中の1544年に作曲し、当時音楽家のパトロンであったコジモ・デ・メディチ(コジモ1世)に献呈したミサ曲集に収録しています。
どちらかというと単純で和声的な4声部のシャンソンがモラレスの手によって、ソプラノ2声、アルト2声、テノール、バスの6声部の、対位法的で重厚な響きの楽曲に作り直されています。原曲の旋律とその対旋律は、セビリアの大聖堂に彫られた豪華絢爛な彫刻のように巧みに装飾され、さらに豊かな旋律に仕立て上げられているのです。
また、原曲の醸し出す哀感が、罪の悔い改めの祈りや天使たちの賛美の声に変貌している様は、見事というほかはありません。特に、シャンソンの旋律が、ソプラノなど同じ声域の二つのパートで同度のカノンのように、畳みかけるように繰り返されていく時、ミサの言葉は聴くものの心に実に印象深く響いてきます。

スペインでは中世以来聖母マリアが熱心に崇敬されました。キリストの母である聖母が人々の祈りをとりなす存在、人々を勇気づける存在として崇められていたのです。十字架の下に佇んで我が子の死を目の当たりにした女性、苦しみを終えたイエスを抱えて涙する女性として描かれたマリアは、戦争や疫病の絶えなかった当時のヨーロッパの人々にとって大きな慰めだったに違いありません。そのことは当時の芸術作品からも窺い知ることができます。受胎告知、被昇天など聖母の生涯の出来事、また聖母子像などが数多く描かれたほか、マリアを薔薇や百合、天国の門、海の星などになぞらえた讃歌も、様々な作曲家によって多声楽曲に作られました。絵画の分野ではムリリョなどが名作を残していますが、ゲレーロも「マリアの歌い手」といわれるほど多くのマリア讃歌を作曲しています。本日はその中から、特に美しい4つのモテットをお聴きいただきます。

モテット「めでたし このうえなく聖なるおとめ」の中に繰り返し歌われるモチーフは、当時スペインで大変好まれた聖歌「サルヴェ・レジーナ(めでたし 元后)」の冒頭の「サルヴェ」にあたります。本日のプログラム最後の曲が、ゲレーロがこの聖歌を忠実に引用しながら作曲したモテット「サルヴェ・レジーナ」です。明るく輝かしい「救い主を育てた母」においては、最後の祈り「罪人なるわれらをあわれんでください」での一種の転調がこの言葉の意味を際立たせているようで印象的です。
旧約聖書中の一巻である雅歌の言葉を聖母への祈りへと転化した「起き、急ぎ来てください、愛しい人よ」では、2部のソプラノのうちの1声がグレゴリオ聖歌の一節「来てください、キリストの花嫁」Veni sponsa Christi(ドラドレドド)を長い音価で何回も繰り返していきます。2部分からなるこのモテットの前半ではそのモチーフが1音ずつ高さを下げ、第2部では次第に上げていき、最後には出だしと同じ音域にたどり着き、輝かしくキリストの花嫁である聖母に歓喜の声で呼びかけるのです。そのような作曲技法上の枠組みに縛られながらも、このモテットの言葉一つ一つが様々な音型、和声により意味深く表現されています。ただ単に優秀な作曲家の作品であるという以上に、ゲレーロの聖母への熱烈な想いが伝わってくるようです。
本日歌われるグレゴリオ聖歌もすべて聖母のミサに固有の聖歌で、プログラム全体はおおよそミサの流れを再現するように組まれています。

16世紀スペインの音楽といえば、モラレス、ゲレーロ、ビクトリアの3人の作曲家による声楽曲が有名ですが、当時のスペインは器楽の分野が同時代の他国を凌いで高い水準を誇っていました。ビウエラというギターに似た、当時のスペインに独特の8弦の楽器が広く親しまれ、この楽器のための曲集も多く刊行されました。声楽曲やオルガン曲がビウエラ用に編曲されることも珍しくなかったようです。シャンソン「ミル・ルグレ」もビウエラ用に編曲され、「皇帝の歌」という名を冠されて収録されています。
オルガンに関しても、楽譜として残されている作品は多くはありませんが、当時のヨーロッパでは最高水準の作品が生み出されていました。「スペインのバッハ」と呼ばれるアントニオ・デ・カベソン(1510?-1566)は、スペイン北部ブルゴス近郊の街に生まれ、カルロス1世、フェリペ2世の二代の宮廷に仕えたオルガン・チェンバロ奏者、作曲家です。フェリペ2世に随行してヨーロッパ中を旅行したことで各国の音楽の影響を受けたと同時に、彼の名人芸は各地で絶賛され、オルガニスト達にインスピレーションを与えたといわれています。幼少時代から盲目であったカベソンの作品は、死後12年経ってから同じくオルガニストであった息子、エルナンドの手によって刊行されました。
「ティエント」は声楽のモテットを鍵盤楽曲にしたような対位法的な作品に総じて付けられた名称ですが、もちろん、独奏曲ならではの技巧的で個性的なパッセージが随所に折り込まれています。スペイン・オルガン音楽を特徴づける不協和な音程や独特のリズムが、16世紀というオルガン音楽の黎明期の作品にも垣間見られます。「幸いな御胎」は直前に歌われる同名のグレゴリオ聖歌の旋律を低声部が長く保持し、そのうえに二つの声部が唐草模様のような旋律を紡ぎ出していく美しい作品です。上声部の自然な流れにとっては不都合のような聖歌の音の動きを逆手に取り、奇想天外な展開をしていくあたり、カベソンの天才が感じられます。

ふたつの尖塔が天に突き刺さるように立つゴシック様式の大聖堂は、その豊かな経済力を背景に16世紀のスペインに多く建てられました。鐘の音が時を告げ、祈りの場、憩いの場として人々の生活の中心にあった大聖堂は、今も変わらずに街を見下ろしています。平和な時代にも、混乱の時代にも人々を見守ってきた石造りの建物からは、今にもかの時代の響きが聞こえてくるかのようです。黄金期、この大聖堂に響きわたったスペインの音楽家たちの作品を通して、その深く情熱的な響きと、そこに込められた祈りを感じ取っていただければ幸いです。

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