罪の重荷に打ちひしがれていた魂は、回心によって一転して天に向かい、すべてを神の栄光に帰す。かなり長文の、古くから伝わる栄光讃歌を、バッハは9部に分け、彩り豊かな曲で飾る。
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4. Gloria in excelsis Deo (天のいと高きところには神に栄光・5部合唱・ニ長調・3/8)
トランペットの音が高らかに鳴りわたるが、これはバッハにとって「栄光のキリスト」を象徴する楽器である。
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5.Et in terra pax hominibus (地には善意の人に平和あれ・拍子のみ4/4に変わる)
その天の栄光が地に及ぶのは前曲の100小節目から。それは詩編100編を示す暗喩である。そのため曲想にはクリスマスの牧歌的雰囲気がただよい、イエスの降誕で「全地こぞって主に向かい、喜びの声をあげる(詩100:1-2)」情景を連想させる。
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6. Laudamus te (われら主をほめ・第2ソプラノ独唱・イ長調・4/4)
ソプラノとヴァイオリンの協奏は、トリルや装飾的音形、ロンバルディア・リズム(短長の逆付点)などの技巧を凝らし、眩いばかりの輝かしさで主の栄光をあがめる。
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7. Gratias (感謝したてまつる・4部合唱・ニ長調・2/2)
次いで合唱が古雅な趣で、わきあがる感謝を歌う。これはバッハが49歳の時に作曲したカンタータ「われら神に感謝したてまつる(BWV215)」を改編再生したもので、短いながら感謝の思いが濃縮されている。この曲は、全体の終曲としても再登場するが、徐々に加わる弦、管、打楽器の響が圧巻で、このミサ曲全体の荘厳さをひき立てている。
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8. Domine Deus (神なる主よ・ソプラノ/テノール2重唱・ト長調・4/4)
父なる神と子なる神への嘆願が2声のカノンで歌い交わされる。華麗なフルートの音は、おそらく聖霊の表象で、その働きによってみ子はおとめマリアに宿る。Agnus Dei(神の小羊)ということばで転調し、急に神秘的な曲想となり、イエスの降誕を想起させる。
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9. Qui tollis peccata mundi (世の罪をのぞきたもう主よ・4部合唱・ロ短調・3/4)
冒頭の Kyrie eleison、終曲の Agnus Dei の形を変えた表現である。
原曲は「罪」を主題とする教会カンタータBWV46の冒頭合唱で、そのテキストは、いわゆる「エレミヤの哀歌」といわれる旧約聖書の一節によっている。
罪に苦しむ者の痛切な悔恨の情が、模倣対位法の織りなす掛留音や減7の不協和な響、ため息、罪、あわれみを現わす音語によって表わされている。
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10. Qui sedes ad dextram Patris (父の右に座したもう主よ・アルト独唱・ロ短調・6/8)
イエスは生まれ、苦しみ、死して葬られ、死者のもとに下り、三日目に復活し、天に上って父の右に座した(信仰宣言の一部)。その生涯が前2曲とこの1曲で見事に語りつがれる。バッハはアルト独唱を聖母マリアにぎ擬すことが多い。イエスの生涯を語り、人の罪のとりなしを祈る人として、マリアにまさる方はない。愛を象徴するオーボエ・ダモーレ(oboe d'amore愛のオーボエ)も登場して花を添える。譜面上に数回 pianissimo(きわめて弱く)と書きこまれているが、非常に珍しいことだ。
天に昇り父の右に座すイエスへの追慕、子を失った母の悲しみ、神のみ子を死に至らしめた罪への痛惜、それらをおおう神の愛。そうした聖母の複雑な思いと祈りが、情感豊かに伝わってくる。
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11. Quoniam tu solus sanctus (主のみ聖なり・バス独唱・ニ長調・3/4)
冒頭コルノ・ダ・カッチャによって堂々と奏される旋律は、昇天し、神の右の座に着いた「王であるキリスト」の象徴。オクターブの跳躍を含むド→ド→シ→ド→ドの音形は、曲中何回も現れ、音画的に「王冠」を描いている。
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12. Cum Sancto Spiritu (聖霊とともに・5部合唱・ニ長調・3/4)
前曲に切れ目なく続くこの曲では、その王冠音形が3本のトランペットで何回も奏され、他の声部はそれと似た光輪音形を連ねる。それは「ヨハネの黙示録」に記された「天上のキリストの姿(黙1:9-20)」を連想させる。壮麗なホモフォニックの導入合唱と、躍動感あふれるフーガ部の展開は、限りなく上昇して天空を揺るがす。そして「栄光の讃歌」の部を閉じる。
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バッハはこの部に、直訳すれば「ニケア信条(Symbolum Nicenum)」というタイトルを記した。これは、正式には「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」といわれる、キリスト教の根本教義を定めたものであり、一般には「信仰宣言」、「信仰告白」あるいはミサ曲ではCredoというタイトルで知られる。4世紀に制定され、以後今日まで、ほとんどの教会で日常的に唱え、または歌われてきた。
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13. Credo (我信ず・5部合唱・ニ長調・2/2)
冒頭にグレゴリオ聖歌を定旋律とするフーガ主題が現れる。この聖歌の旋律は、コンチェントリック形式で対句となる第20曲にも登場する。グレゴリオ聖歌の利用は「ニケア信条」制定当時への回顧を誘う。往時を省みた時、人々は宗派も国籍も時代も超えて一致できるはずだという確信がこもる。バッハはそれを45小節という簡潔な曲にまとめている。45という数は、Credoというアルファベットの各文字を数字に換算した値と同じで、曲全体が信じる(Credo)ことを宣言している。
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14. Patrem omnipotentem (全能の神・4部合唱・ニ長調・2/2)
引き続いてCredoということばが響きわたる中、バス合唱だけが先行して、全能の神に向けたフーガ主題を提示し、「信」の内容を明らかにしていく。天と地の間を駆けめぐる通奏低音部と、密度の濃いオーケストラの総奏が、その確かさを支えている。
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15. et・・・Jesum Christum (主イエス・キリスト・第1ソプラノとアルト2重唱・ト長調・4/4)
この楽譜(改訂稿)には「2声は2を表わす(Duo voces Articuli 2)」との書きこみがあり、「2」の強調が目立つ。これは三位一体の教義で、第2の位格(ペルソナ)が子なる神、すなわちイエス・キリストを指し示すことの象徴であろう。また、「2」をもってイエスの2面性、すなわち神の分身としての神性と、人間として生活した人性の両面を現わすという意義もある。さらに、父と子という2位格が一体であることをも示す。
3組の密接に組み合わされた2対の声部―2重唱、2本のオーボエ・ダモーレ、2本のヴァイオリン―は、互いに呼応しながら、ある時は独自に、ある時はカノン風に、またある時は一体となってイエスの降誕を予告する。
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16. et incarnatus (受肉・5部合唱・ロ短調・3/4)
バッハは全曲完成後、このテキスト「incarnatus(おからだを受け)」以降を前曲から分離し、新たな曲を創作し、追加した。前項で指摘した改定稿というのは、この曲を新たに挿入したことによる改定のことである。したがって、この第16曲はバッハの生涯最後のオリジナル合唱作品ということになる。それだけに入念なつくりで、多様な意義がこもる。第一には伝統的なミサ曲の作法に則り、このテキストにこめられた神秘的な要素を最大限に高めるための工夫がある。当時のカトリック教会では、このテキスト部分を跪いて恭しく唱えるのがしきたりであった。改定によってその厳粛さ、恭順さが際立つものに改善された。改定前17小節に過ぎなかったものを、神の完全性を示す49小節(7x7)という神聖数に拡大したのも、その工夫の一つであろう。
次は、次曲「Crucifix」を中心曲に据えるための工夫である。ヴァイオリンが間断なく奏するモティーフには、絶えず十字架音形(Cis→D→Ais→H、Fis→G→Dis→Eなど)が現れ、イエスの誕生が十字架への道行きを意味することを予兆する。
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17. Crucifix (十字架・4部合唱・ホ短調・3/2)
Credo楽章は、外枠に第13曲 Credo(我信ず)と21曲 Expecto(待ち望む)を配し、その中心にこの第17曲Crucifix(十字架)を置いた。
バッハは、この構成によって信仰の核が十字架にあり、十字架を転換点として、信じることが永遠の命の希望につながることを表現する。
その意義を伝える既成曲として、復活節用のカンタータBWV12「泣き、嘆き、憂い、怯える」ほど適切な曲はない。バッハは若き日(29歳)に創作したその曲を甦らせることにした。
4小節を一区分とし、13回反復するラメント・バス(悲しみの低音)は、半音階的に下降する音形で底知れぬ苦悩と痛みを伝える。ため息のモティーフ(掛留的な半音下降)で歌い継ぐ Crucifix ということばの上では、十字架に釘打つ音や、涙の滴りがあらわに奏でられる。その涙もかれる頃、合唱は密やかにイエスの葬送を告げる。
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18. et resurrexit (復活・5部合唱・ニ長調・3/4)
何と輝かしい、喜びあふれる頌歌であろうか。この曲にも、いかにもバッハらしい沢山の音画的描写がちりばめられている。例えば、冒頭の第1ソプラノに現れる音形は、前から読んでも後ろから読んでも同音の王冠を示すものであり、復活したキリストが天の王として君臨するさまを表わす。
また、ここでは神聖数「3」に対するこだわりが強い。全体は131小節だが、内容的には3部構成である。最初の33小節は「3日目の復活」、次の33小節は「天にのぼり、父の右に座す」こと、続く66小節(3x22)で「終わりなき王国」の宣言となる。なお、この66小節の中には「最後の審判」の情景を活写するバス独唱が含まれているが、それも12小節(3x4)の神聖数でまとめられている。
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19. et in Spiritum Sanctum (聖霊・バス独唱・イ長調・6/8)
キリストの復活、昇天をへて神は聖霊を世に下した。聖霊は神の第3の位格であり、イエスのみ業を引継ぎ、人々を愛の完成に導く。したがって、その最大の賜物は愛である、とされている。そこで2本のオーボエ・ダモーレ(愛のオーボエ)が活躍する。トランペットが「栄光のキリスト」を表わすのと同様に、この楽器は「愛」を象徴する。「ロ短調ミサ曲」では2種のオーボエが用いられているが、オーボエ・ダモーレが登場するのは第1、3、10、15、19曲だけである。そしてそれ等のテキストは、いずれも神学的意味での「神の愛」を示唆している。2本の楽器が終始密接な関係を保って奏されるのは、聖霊が「父と子より」出るものであることの音画的表現であろう。
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20. Confiteor (我認む・5部合唱・嬰へ短調・2/2)
ここで第3部冒頭の第13曲の曲想に戻り、グレゴリオ聖歌の後半の旋律が現われる。古様式の合唱ポリフォニーで、通奏低音のみをともなう簡素な形式は、イエス自らがヨルダン川で受洗した故事を想起させる。
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21. et expecto (待ち望む・5部合唱・ニ長調・2/2)
前曲と連結して演奏され、第3部を終結する。と書くのは簡単だが、その連結部分は演奏上の最大の難関である。
前曲の終わりに既に「et expecto 待ち望む」というテキストが先行して出ているが、そこには Adagio(遅く)との指示があり、将来への期待 <expecto> は常に揺らいで落着かない。それは同時に歌われる「peccatorum 罪」や「mortuorum 死者」という不吉なことばを反映した心の迷いであろう。珍しくフラット記号(♭)を多用し、曲調は定まらず、ゆらめきながら下降していく。唯一上向するのは「resurrectionem 復活」ということばの所だけである。
しかし、その疑心暗鬼の<expecto>を3回繰り返し、4回目に入ったところで事態は一変する。それがこの第21曲の入りで、Vivace e Allegro(いきいきと速く)の指示に変わる。死者の復活と永遠の命への期待は、今や決然たる確信となり、ゆるぎないアーメン・コーラスをもって「信仰宣言」の部を閉じる。
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イエス昇天後の初代キリスト者たちは、使徒たちを中心にイエスが「最後の晩餐」の席で命じた通り「パンを裂く集会(エクレシア)」に集い、次第にキリスト教会としての基盤を固めた。2世紀のはじめ、「パン裂き」の集会は共同体の要として「感謝の祭儀」に発展し、5世紀頃からは「ミサ」ということばが用いられるようになった。しかしその本質は変わらず、ミサ聖祭は今でも「感謝の祭儀」といわれ、聖体拝領がその中心におかれている。「Sanctus 感謝の讃歌」は、その祭儀の頂点をなす奉献文(カノン)の一部であり、人々の思いを讃美と感謝で満たすものである。
バッハ時代のルター派礼拝では、この Sanctus がラテン語のまま用いられることもあった。次の曲は1724年(39歳)の時に作曲し、何回か演奏したものに若干の修正を加えて甦らせたものだが、少しも色あせた旧作という感がない。
瞼を閉じれば、みはるかす青空のカンバスに「天地創造」の光景が浮かぶ。シュヴァイッツアー博士は、これを「最も崇高な曲」と評した。
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22. Sanctus (聖なるかな・6部合唱・ニ長調・4/4→3/8)
天地万物がこぞって聖なる神の栄光を讃える。全曲中最大規模の編成であり、この曲だけのためにオーボエ1本を加えたのは、例によって神聖数「3」へのこだわりだろう。
Sanctusということばはもともと3回繰り返し唱えられるものだが、それを一組としてバス声部では9回(3x3)繰り返す。合唱は6部(3x2)、管楽器はトランペットとオーボエが各3本、弦楽部は第1、2ヴァイオリンとヴィオラの3声部編成。そしてこれらが3連音のリズムに乗って総奏する。それはこのテキスト原典である聖書の情景…天使の大群が飛び交い、歌い交わす…の音画化である。
後半の協奏フーガは、その情景が天地に広がり行くさまをほうふつさせ、同時に次曲の主題を強調して、その入りをうながす。
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23. Osanna (オザンナ・4部合唱×2・ニ長調・3/8)
いきなり合唱全員が無伴奏のユニゾンでオザンナと歌う。これは前曲の後半でバスが提示した旋律をパラフレーズしたもので、両曲の密接な関係を示唆する。それもそのはず、前曲は天の讃歌であり、この曲はそれに呼応した地の讃歌だからである。これもテキスト原典の聖書の音画化であり、ここではイエスのイスラエル到着を知った群衆が、歓呼してその一行を迎える情景を再現している。
原典となった聖書の該当箇所は、前曲が旧約のイザヤ書6章1-4節、この曲が新約のマタイ福音書21章9節である。
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24. Benedictus (祝福あれ・テノール独唱・ロ短調・3/4)
古今のミサ曲のほとんどがこの曲を静かな独唱曲としている。前後にくるオザンナとの対比効果を高めるための当然の策であろう。が、この曲にはバッハならではの、特別の感懐がこめられているように思えてならない。
人々は「主の名によってこの世に来たイエス」に「祝福あれ」と叫んで歓迎した。しかしその同じ人々が、後に暴徒と化してイエスの処刑に加担した。その場に居あわせたら、他ならぬ自分もその群衆の一人であったろう…。
それがあのマタイやヨハネ受難曲を作曲した人の視点ではなかったか。そうした厳しい内省がこの曲の「ロ短調」、また次の第26曲の「ト短調」という調性にひそんでいるように思う。
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25. Osanna
テキストの聖書原典に従い、第23曲をそのままに再現して「感謝の讃歌」を終わる。
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