東京スコラ・カントールム第43回定期・慈善演奏会
J. S. バッハ ロ短調ミサ曲
J. S. Bach ... Messe in h-moll


(2004/2/11、指揮:花井哲郎、めぐろパーシモンホール)




《プログラム・ノート》 ...小笹 和彦 (東京スコラ・カントールム)
プロローグ
創立25周年を記念して、教会音楽史上に燦然と輝くバッハの「ロ短調ミサ曲」に再挑戦する機会を与えられたことは感謝にたえない。
前回は1992年9月、ドイツ・マンハイム・コンコルディエン教会カントール、H-R.ドレンゲマン氏を招聘し、東京カテドラル聖マリア大聖堂での演奏であった。その後約10年。我々は教会音楽の本来あるべき姿を求めて歩みを進めてきたわけであるが、その間にどのような変化があったのか。そのあたりの評価も含めてお聞きいただければこれにすぐる喜びはない。
それにしてもこの曲は難曲である。単に技術的に難しいというばかりでなく、これを作曲したバッハの動機が謎なのだ。それは、これがバッハの「白鳥の歌」、つまり遺作であり、生前演奏されたことがない、という事情にもよるだろう。
技術的な難しさの要因は大まかに分けて二つある。一つは、バッハ音楽の集大成として、この曲にちりばめられた古様式と新様式の対比を、どう活かすかということ。第二は晩年のバッハの特徴である、声楽の器楽的表現を、いかに自然に歌いこなすかということにある。例えば、かなりテンポの速い曲で、幅広い音域を駆けめぐる歌詞つきの細かい音符を、表情豊かに表現すること。こうした箇所は随所にあるが、これらを実現するのは至難の業である。
一方、動機解明の難しさは、骨の髄までルター派プロテスタントであったバッハが、なぜ生涯の最後に、それまで筆を染めたことのなかったカトリック典礼のための「完全ミサ曲」に取り組んだのか、という疑問に端を発する。
現在最も有力な説は、バッハがバロック時代の最大の哲学者ライプニッツ(G. P. Leipniz 1646-1716 ライプツィヒ)の提唱したカトリックとプロテスタントの融合をめざした運動に共鳴し、エキュメニカルな作品を遺したというものだが、必ずしも確証があるわけではない。したがって、この曲が伝えるメッセージは、この曲に接する個々人の感受性にまかせる他はない。ただし、その際、バッハ自身が譜面の余白に記した「Fine D S Gl」ということばを忘れてはなるまい。それは「完・神にのみ栄光あれ」という意を伝える略号である。
以下は、そのことを心にとめてまとめた、ごく私的な曲目理解である。

第1部 あわれみの讃歌
1. Kyrie eleison (主よ あわれみたまえ・5部合唱・ロ短調・4/4)
ミサは先ず罪の告白と浄化にはじまる。いきなり合唱で始まる冒頭の痛切な響には、己の犯した罪ばかりではなく、全人類が犯し続け、これからも犯し続けるであろう罪の重みを感じる。
最上声部の旋律はルターの「ドイツ・ミサ(1526)」をパラフレーズしたもので、古(いにしえ)の回顧が鮮明である。バッハはことのほか罪の意識に敏感で、若き日のオルガン曲の一つ「おお人よ、なんじの大いなる罪に泣け(BWV622)」にも同様の感慨がある。次いで沈潜したフーガの主題が提示され、曲は静かな内省と祈りに向かう。器楽、合唱が交互に織りなすこの主題には随所にため息のような屈折音形、半音進行や長6度、減7度の跳躍など、耳をそばだたせずにはおかない音程推移の強調があり、罪を認め、その許しをこう心情が濃厚である。
2. Christe eleison (キリスト あわれみたまえ・ソプラノ2重唱・ニ長調・4/4)
前曲とは対照的に、明るく開放的で、ホッとした安らぎを感じさせる風情がある。ヴァイオリンのユニゾンは、あたかも天使が舞うようにソプラノ二重唱に寄りそう。この近代的で華麗な曲想は、明らかに前・後曲の Kyrie と、Christe という対象の違いを意識した対比だろう。
第1部は3曲から成り、この第2曲のテキストのみキリストへの呼びかけである。そしてキリストこそ、人々の罪をあがない、天から地上につか遣わされた救い主である。したがってこの曲が罪の許しと天国への希望を確信する者たちの、明るい表情を現わすことに不思議はない。
3. Kyrie eleison (主よ あわれみたまえ・4部合唱・嬰へ短調・2/2)
再び古様式に戻り、パレストリーナによって代表されるルネッサンス期の明晰な厳格対位法、アカペラ様式で曲が展開される。冒頭、バスによって歌いだされる4音(Fis→G→F→Fis)は、明らかな十字架音形であり、この音形が各パートに受けつがれていく。それは、キリストが十字架上の死によって、人々の罪を救われたことの暗示であろう。
なお、この3曲で、全曲の基調となるロ短調の主和音(H/D/Fis)が確立する。当時としては珍しい、この♯記号を多用する調性に、バッハが特別の思いを秘めていたことは確実である。♯をドイツ語では Kreutz といい、十字架を意味するからだ。
また、全曲中第1、9、10、16、24曲の5曲がロ短調で作曲されているが、そのテキストには必ず「あわれみ」と「イエスの存在」がある。つまりバッハは、神の愛と罪のゆるしが、イエスの受難と十字架によってもたらされるものであることを、この調性によって語ろうとした、と考えることができよう。

第2部 栄光の讃歌
罪の重荷に打ちひしがれていた魂は、回心によって一転して天に向かい、すべてを神の栄光に帰す。かなり長文の、古くから伝わる栄光讃歌を、バッハは9部に分け、彩り豊かな曲で飾る。
4. Gloria in excelsis Deo (天のいと高きところには神に栄光・5部合唱・ニ長調・3/8)
トランペットの音が高らかに鳴りわたるが、これはバッハにとって「栄光のキリスト」を象徴する楽器である。
5.Et in terra pax hominibus (地には善意の人に平和あれ・拍子のみ4/4に変わる)
その天の栄光が地に及ぶのは前曲の100小節目から。それは詩編100編を示す暗喩である。そのため曲想にはクリスマスの牧歌的雰囲気がただよい、イエスの降誕で「全地こぞって主に向かい、喜びの声をあげる(詩100:1-2)」情景を連想させる。
6. Laudamus te (われら主をほめ・第2ソプラノ独唱・イ長調・4/4)
ソプラノとヴァイオリンの協奏は、トリルや装飾的音形、ロンバルディア・リズム(短長の逆付点)などの技巧を凝らし、眩いばかりの輝かしさで主の栄光をあがめる。
7. Gratias (感謝したてまつる・4部合唱・ニ長調・2/2)
次いで合唱が古雅な趣で、わきあがる感謝を歌う。これはバッハが49歳の時に作曲したカンタータ「われら神に感謝したてまつる(BWV215)」を改編再生したもので、短いながら感謝の思いが濃縮されている。この曲は、全体の終曲としても再登場するが、徐々に加わる弦、管、打楽器の響が圧巻で、このミサ曲全体の荘厳さをひき立てている。
8. Domine Deus (神なる主よ・ソプラノ/テノール2重唱・ト長調・4/4)
父なる神と子なる神への嘆願が2声のカノンで歌い交わされる。華麗なフルートの音は、おそらく聖霊の表象で、その働きによってみ子はおとめマリアに宿る。Agnus Dei(神の小羊)ということばで転調し、急に神秘的な曲想となり、イエスの降誕を想起させる。
9. Qui tollis peccata mundi (世の罪をのぞきたもう主よ・4部合唱・ロ短調・3/4)
冒頭の Kyrie eleison、終曲の Agnus Dei の形を変えた表現である。
原曲は「罪」を主題とする教会カンタータBWV46の冒頭合唱で、そのテキストは、いわゆる「エレミヤの哀歌」といわれる旧約聖書の一節によっている。
罪に苦しむ者の痛切な悔恨の情が、模倣対位法の織りなす掛留音や減7の不協和な響、ため息、罪、あわれみを現わす音語によって表わされている。 
10. Qui sedes ad dextram Patris (父の右に座したもう主よ・アルト独唱・ロ短調・6/8)
イエスは生まれ、苦しみ、死して葬られ、死者のもとに下り、三日目に復活し、天に上って父の右に座した(信仰宣言の一部)。その生涯が前2曲とこの1曲で見事に語りつがれる。バッハはアルト独唱を聖母マリアにぎ擬すことが多い。イエスの生涯を語り、人の罪のとりなしを祈る人として、マリアにまさる方はない。愛を象徴するオーボエ・ダモーレ(oboe d'amore愛のオーボエ)も登場して花を添える。譜面上に数回 pianissimo(きわめて弱く)と書きこまれているが、非常に珍しいことだ。
天に昇り父の右に座すイエスへの追慕、子を失った母の悲しみ、神のみ子を死に至らしめた罪への痛惜、それらをおおう神の愛。そうした聖母の複雑な思いと祈りが、情感豊かに伝わってくる。
11. Quoniam tu solus sanctus (主のみ聖なり・バス独唱・ニ長調・3/4)
冒頭コルノ・ダ・カッチャによって堂々と奏される旋律は、昇天し、神の右の座に着いた「王であるキリスト」の象徴。オクターブの跳躍を含むド→ド→シ→ド→ドの音形は、曲中何回も現れ、音画的に「王冠」を描いている。
12. Cum Sancto Spiritu (聖霊とともに・5部合唱・ニ長調・3/4)
前曲に切れ目なく続くこの曲では、その王冠音形が3本のトランペットで何回も奏され、他の声部はそれと似た光輪音形を連ねる。それは「ヨハネの黙示録」に記された「天上のキリストの姿(黙1:9-20)」を連想させる。壮麗なホモフォニックの導入合唱と、躍動感あふれるフーガ部の展開は、限りなく上昇して天空を揺るがす。そして「栄光の讃歌」の部を閉じる。

構成の妙
バッハ音楽の楽しみは、楽譜を熟読することで倍加する。音形、調性、リズム、音符や小節数にこめられたシンボリズム、1音1語の配置や全体の楽曲配置など、音楽を構成するありとあらゆる要素に、作曲者の意図が秘められている。
第2部、第3部の楽曲構成を分析してみるのも一興である。
第2部は9曲から成っているが、それらは実に整然とした論理的構造で並んでいる。冒頭の第4・5曲は聖書(ルカ2:14)のことばをテキストとする一連の合唱だからこれをAとおく。終曲第11・12曲は、テキストの内容と調性、様式が冒頭2曲と酷似しているので A' とする。以下同様のロジックで分析すると、独唱の第6と10曲がBとB'、第7と8・9曲がCとC' の関係にあることが分かる。要約すれば第2部はA→B→C→C'→B'→A' の順で構成され、それぞれの曲が対称関係にあることがはっきりする。
この構成は聖書の民・ヘブライ人が好んだキアズモ(交差配列法)ないしその拡大形のコンチェントリックといわれる文章表現形式で、聖書にしばしばその用例がある。東洋にも序破急(じょはきゅう)、あるいは起承転結といった作法があるがその一種である。ただ後者の場合、筋立てはひたすら終わりに向けて展開するが、キアズモとコンチェントリックの場合には、最も外側の曲と中心部の曲が最重要な要素となる。
バッハは若い頃からこうしたシンメトリカルな構成に強い関心を寄せ、生涯を通して種々の作品にそれを応用した。初期(23歳以前)の教会カンタータBWV4「キリストは死の縄目に」から「マタイ」「ヨハネ」を経てこの「ロ短調」にいたるまで、その例証は数多い。
つまりバッハはこの方式を応用し、第2部 Gloria ではC とC′に該当する第7〜9曲を重要な要素とした。そこにあるテキストのキーワードはそれぞれ「感謝」、「イエス・キリスト」、「世の罪を除きたもう主よ」の3語である。バッハの意図はおのずから明らかであろう。
第3部 Credo (信仰宣言)も同様に、コンチェントリックでA→B→C→D→C'→B'→A'と展開する。13・14曲と20・21曲がA:A'、15と19曲がB:B'、16と18曲がC:C' であり、17曲だけが単独で D となる。つまり、信仰の中核に「十字架」を置く。いかにもバッハらしい構想ではないか。

第3部 信仰宣言
バッハはこの部に、直訳すれば「ニケア信条(Symbolum Nicenum)」というタイトルを記した。これは、正式には「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」といわれる、キリスト教の根本教義を定めたものであり、一般には「信仰宣言」、「信仰告白」あるいはミサ曲ではCredoというタイトルで知られる。4世紀に制定され、以後今日まで、ほとんどの教会で日常的に唱え、または歌われてきた。
13. Credo (我信ず・5部合唱・ニ長調・2/2)
冒頭にグレゴリオ聖歌を定旋律とするフーガ主題が現れる。この聖歌の旋律は、コンチェントリック形式で対句となる第20曲にも登場する。グレゴリオ聖歌の利用は「ニケア信条」制定当時への回顧を誘う。往時を省みた時、人々は宗派も国籍も時代も超えて一致できるはずだという確信がこもる。バッハはそれを45小節という簡潔な曲にまとめている。45という数は、Credoというアルファベットの各文字を数字に換算した値と同じで、曲全体が信じる(Credo)ことを宣言している。
14. Patrem omnipotentem (全能の神・4部合唱・ニ長調・2/2)
引き続いてCredoということばが響きわたる中、バス合唱だけが先行して、全能の神に向けたフーガ主題を提示し、「信」の内容を明らかにしていく。天と地の間を駆けめぐる通奏低音部と、密度の濃いオーケストラの総奏が、その確かさを支えている。
15. et・・・Jesum Christum (主イエス・キリスト・第1ソプラノとアルト2重唱・ト長調・4/4)
この楽譜(改訂稿)には「2声は2を表わす(Duo voces Articuli 2)」との書きこみがあり、「2」の強調が目立つ。これは三位一体の教義で、第2の位格(ペルソナ)が子なる神、すなわちイエス・キリストを指し示すことの象徴であろう。また、「2」をもってイエスの2面性、すなわち神の分身としての神性と、人間として生活した人性の両面を現わすという意義もある。さらに、父と子という2位格が一体であることをも示す。
3組の密接に組み合わされた2対の声部―2重唱、2本のオーボエ・ダモーレ、2本のヴァイオリン―は、互いに呼応しながら、ある時は独自に、ある時はカノン風に、またある時は一体となってイエスの降誕を予告する。
16. et incarnatus (受肉・5部合唱・ロ短調・3/4)
バッハは全曲完成後、このテキスト「incarnatus(おからだを受け)」以降を前曲から分離し、新たな曲を創作し、追加した。前項で指摘した改定稿というのは、この曲を新たに挿入したことによる改定のことである。したがって、この第16曲はバッハの生涯最後のオリジナル合唱作品ということになる。それだけに入念なつくりで、多様な意義がこもる。第一には伝統的なミサ曲の作法に則り、このテキストにこめられた神秘的な要素を最大限に高めるための工夫がある。当時のカトリック教会では、このテキスト部分を跪いて恭しく唱えるのがしきたりであった。改定によってその厳粛さ、恭順さが際立つものに改善された。改定前17小節に過ぎなかったものを、神の完全性を示す49小節(7x7)という神聖数に拡大したのも、その工夫の一つであろう。 
次は、次曲「Crucifix」を中心曲に据えるための工夫である。ヴァイオリンが間断なく奏するモティーフには、絶えず十字架音形(Cis→D→Ais→H、Fis→G→Dis→Eなど)が現れ、イエスの誕生が十字架への道行きを意味することを予兆する。
17. Crucifix (十字架・4部合唱・ホ短調・3/2)
Credo楽章は、外枠に第13曲 Credo(我信ず)と21曲 Expecto(待ち望む)を配し、その中心にこの第17曲Crucifix(十字架)を置いた。
バッハは、この構成によって信仰の核が十字架にあり、十字架を転換点として、信じることが永遠の命の希望につながることを表現する。
その意義を伝える既成曲として、復活節用のカンタータBWV12「泣き、嘆き、憂い、怯える」ほど適切な曲はない。バッハは若き日(29歳)に創作したその曲を甦らせることにした。
4小節を一区分とし、13回反復するラメント・バス(悲しみの低音)は、半音階的に下降する音形で底知れぬ苦悩と痛みを伝える。ため息のモティーフ(掛留的な半音下降)で歌い継ぐ Crucifix ということばの上では、十字架に釘打つ音や、涙の滴りがあらわに奏でられる。その涙もかれる頃、合唱は密やかにイエスの葬送を告げる。
18. et resurrexit (復活・5部合唱・ニ長調・3/4)
何と輝かしい、喜びあふれる頌歌であろうか。この曲にも、いかにもバッハらしい沢山の音画的描写がちりばめられている。例えば、冒頭の第1ソプラノに現れる音形は、前から読んでも後ろから読んでも同音の王冠を示すものであり、復活したキリストが天の王として君臨するさまを表わす。
また、ここでは神聖数「3」に対するこだわりが強い。全体は131小節だが、内容的には3部構成である。最初の33小節は「3日目の復活」、次の33小節は「天にのぼり、父の右に座す」こと、続く66小節(3x22)で「終わりなき王国」の宣言となる。なお、この66小節の中には「最後の審判」の情景を活写するバス独唱が含まれているが、それも12小節(3x4)の神聖数でまとめられている。
19. et in Spiritum Sanctum (聖霊・バス独唱・イ長調・6/8)
キリストの復活、昇天をへて神は聖霊を世に下した。聖霊は神の第3の位格であり、イエスのみ業を引継ぎ、人々を愛の完成に導く。したがって、その最大の賜物は愛である、とされている。そこで2本のオーボエ・ダモーレ(愛のオーボエ)が活躍する。トランペットが「栄光のキリスト」を表わすのと同様に、この楽器は「愛」を象徴する。「ロ短調ミサ曲」では2種のオーボエが用いられているが、オーボエ・ダモーレが登場するのは第1、3、10、15、19曲だけである。そしてそれ等のテキストは、いずれも神学的意味での「神の愛」を示唆している。2本の楽器が終始密接な関係を保って奏されるのは、聖霊が「父と子より」出るものであることの音画的表現であろう。
20. Confiteor (我認む・5部合唱・嬰へ短調・2/2)
ここで第3部冒頭の第13曲の曲想に戻り、グレゴリオ聖歌の後半の旋律が現われる。古様式の合唱ポリフォニーで、通奏低音のみをともなう簡素な形式は、イエス自らがヨルダン川で受洗した故事を想起させる。
21. et expecto (待ち望む・5部合唱・ニ長調・2/2)
前曲と連結して演奏され、第3部を終結する。と書くのは簡単だが、その連結部分は演奏上の最大の難関である。
前曲の終わりに既に「et expecto 待ち望む」というテキストが先行して出ているが、そこには Adagio(遅く)との指示があり、将来への期待 <expecto> は常に揺らいで落着かない。それは同時に歌われる「peccatorum 罪」や「mortuorum 死者」という不吉なことばを反映した心の迷いであろう。珍しくフラット記号(♭)を多用し、曲調は定まらず、ゆらめきながら下降していく。唯一上向するのは「resurrectionem 復活」ということばの所だけである。
しかし、その疑心暗鬼の<expecto>を3回繰り返し、4回目に入ったところで事態は一変する。それがこの第21曲の入りで、Vivace e Allegro(いきいきと速く)の指示に変わる。死者の復活と永遠の命への期待は、今や決然たる確信となり、ゆるぎないアーメン・コーラスをもって「信仰宣言」の部を閉じる。

第4部 感謝の讃歌
イエス昇天後の初代キリスト者たちは、使徒たちを中心にイエスが「最後の晩餐」の席で命じた通り「パンを裂く集会(エクレシア)」に集い、次第にキリスト教会としての基盤を固めた。2世紀のはじめ、「パン裂き」の集会は共同体の要として「感謝の祭儀」に発展し、5世紀頃からは「ミサ」ということばが用いられるようになった。しかしその本質は変わらず、ミサ聖祭は今でも「感謝の祭儀」といわれ、聖体拝領がその中心におかれている。「Sanctus 感謝の讃歌」は、その祭儀の頂点をなす奉献文(カノン)の一部であり、人々の思いを讃美と感謝で満たすものである。
バッハ時代のルター派礼拝では、この Sanctus がラテン語のまま用いられることもあった。次の曲は1724年(39歳)の時に作曲し、何回か演奏したものに若干の修正を加えて甦らせたものだが、少しも色あせた旧作という感がない。
瞼を閉じれば、みはるかす青空のカンバスに「天地創造」の光景が浮かぶ。シュヴァイッツアー博士は、これを「最も崇高な曲」と評した。
22. Sanctus (聖なるかな・6部合唱・ニ長調・4/4→3/8)
天地万物がこぞって聖なる神の栄光を讃える。全曲中最大規模の編成であり、この曲だけのためにオーボエ1本を加えたのは、例によって神聖数「3」へのこだわりだろう。
Sanctusということばはもともと3回繰り返し唱えられるものだが、それを一組としてバス声部では9回(3x3)繰り返す。合唱は6部(3x2)、管楽器はトランペットとオーボエが各3本、弦楽部は第1、2ヴァイオリンとヴィオラの3声部編成。そしてこれらが3連音のリズムに乗って総奏する。それはこのテキスト原典である聖書の情景…天使の大群が飛び交い、歌い交わす…の音画化である。
後半の協奏フーガは、その情景が天地に広がり行くさまをほうふつさせ、同時に次曲の主題を強調して、その入りをうながす。
23. Osanna (オザンナ・4部合唱×2・ニ長調・3/8)
いきなり合唱全員が無伴奏のユニゾンでオザンナと歌う。これは前曲の後半でバスが提示した旋律をパラフレーズしたもので、両曲の密接な関係を示唆する。それもそのはず、前曲は天の讃歌であり、この曲はそれに呼応した地の讃歌だからである。これもテキスト原典の聖書の音画化であり、ここではイエスのイスラエル到着を知った群衆が、歓呼してその一行を迎える情景を再現している。
原典となった聖書の該当箇所は、前曲が旧約のイザヤ書6章1-4節、この曲が新約のマタイ福音書21章9節である。
24. Benedictus (祝福あれ・テノール独唱・ロ短調・3/4)
古今のミサ曲のほとんどがこの曲を静かな独唱曲としている。前後にくるオザンナとの対比効果を高めるための当然の策であろう。が、この曲にはバッハならではの、特別の感懐がこめられているように思えてならない。
人々は「主の名によってこの世に来たイエス」に「祝福あれ」と叫んで歓迎した。しかしその同じ人々が、後に暴徒と化してイエスの処刑に加担した。その場に居あわせたら、他ならぬ自分もその群衆の一人であったろう…。
それがあのマタイやヨハネ受難曲を作曲した人の視点ではなかったか。そうした厳しい内省がこの曲の「ロ短調」、また次の第26曲の「ト短調」という調性にひそんでいるように思う。
25. Osanna
テキストの聖書原典に従い、第23曲をそのままに再現して「感謝の讃歌」を終わる。

第5部 平和の讃歌
「感謝の祭儀」が終わると「交わりの儀」に移り、ミサは最も重要な「聖体拝領」の時を迎える。奉献されたいのちのパンが裂かれ、分け与えられる時、人々は至福の思いにかられる。
昔、遊牧の民は感謝のしるし、あるいは罪の代償として、自らの命にも等しい小牛や小羊を神に捧げた。小羊は犠牲の象徴であり、罪をあがなう象徴的存在であった。
神は、人を愛するあまり独り子を世に遣わした(ヨハネ3:16)。が、愚かにも人はその愛を思いみず、十字架の死をもって報いた。それでもイエスは「父よ、かれらをお許しください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ23:34)」と祈り、自らを小羊として人々の罪を負い、その罪をあがなうため、甘んじて十字架上の死についた。
その人の聖体がパンとぶどう酒として今、眼前にある。自らのいのちを犠牲に供した究極の愛、無償の愛がそこにある。それを噛みしめ、人はイエスの愛と完全に一体化する。やがてその思いは、心からの感謝と真の喜びに高まり、おおらかな平和の讃歌に飛翔していく。
26. Agnus Dei (神の小羊・アルト独唱・ト短調・4/4)
全曲中唯一の♭(フラット)系のト短調は、主調ロ短調を3度下って限りない謙遜を示し、ヴァイオリンのユニゾンは間断なく「嘆きのモティーフ」や「お辞儀の音形」を繰り返して拝礼の姿を示す。アルト独唱は十字架の下に佇み、イエスの死を悼み、人々のために罪の許しを乞い、とりなしの祈りを捧げる「Stabat Mater(悲しみの聖母)」の姿を偲ばせる。
27. Dona nobis pacem (平和を与えたまえ・4部合唱・ニ長調・2/2)
第7曲とほぼ同じ曲の再現だが、テキストだけを異にする。通常このテキストはAgnus Deiを3回唱え、3回目の最終句だけがこのことばに変わる。
この曲は「感謝」を主題とするカンタータを第7曲に転用し、それを更に再利用したものである。この2重、3重の積み重ねに、バッハの特別な意図を感じる。おそらくバッハは、平和が感謝によってもたらされること、あるいは感謝と平和が表裏一体であることを伝えたかったのではなかろうか。

エピローグ
東西ドイツ統一後間もない'90年春。私たちは創立10周年を記念してバッハゆかりの地を訪ねた。各地の教会を歴訪して感銘を受けたのは、カトリックとプロテスタントが共存している姿だった。小さな教会では一つの建物を共有し、交代で礼拝していたし、大きな教会では場所を区切ってそれぞれの典礼を行なっていた。
'94年の再訪では中世の時代からひたすら祈り続けている観想修道院や、第二次世界大戦中に生まれたエキュメニカルな信仰共同体で、典礼に参加し生活を共にした。そこでの人々や聖歌隊との交流を通し、私たちは人々が宗派を超えて交わり、音楽を愛し、一つの神に結ばれていることに感動した。
ご存知のようにバッハゆかりの地は旧東独ないしその周辺に多い。その地の人々は共産党政権下で、ひどい差別を受けながらも信仰の灯を守り続けた少数派だ。だから宗派を超えて結束するのも当然だったかもしれない。
しかしふと「ロ短調ミサ曲」のことを思うと、それがバッハの頃から中部ドイツに芽生えた精神的風土による影響が強いようにも思えた。それはプロローグで述べたライプニッツの「合同教会」の思想であり、実践活動である。バッハがその運動に共鳴し、参画した形跡はない。が、「時代の子」としてそれと無縁だったといい切ることもできない。逆にこの曲が、最晩年のバッハが、その精神に共感を示した証左ともいえるだろう。
何れにせよこの曲は、謎に満ちている。本文で指摘したような数字のシンボリズムや音画的表現や音語の解釈を、ムダなことといわれる向きもある。が、果たしてそうなのか。それはシュヴァイツアー博士の名著「バッハ」以来の説示であり、耳で聞いただけでは理解できない、バッハ音楽の本質に迫ることである。特にこの曲の場合には、ミサ曲としてテキストが固定しているため、主観的、叙情的歌詞を挿入することができない。そこで作曲の構想段階で、下絵を描くようにさまざまな象徴表現を用い、個人的心情をこめた、と考える。もちろん今となっては、誰にもその正解は分からない。しかし、単に音楽の美しさだけで、これだけ多くの人がこの曲に魅了されるものなのだろうか。それが最後の謎である。
一方、終曲「Dona nobis pacem」を直訳すれば「与えたまえ 我らに 平和を」であり、私にではない。人はさまざまである。その人々に等しく平和をもたらすものは何か。それが終曲を歌いつつ思う、バッハからの問いであり、メッセージである…。

私たちは25年の歳月を、比類ない音楽に恵まれ、多くの方々の善意に支えられて過ごしてきた。これまでの活動を支えてくださったのは、先ずもって毎回の演奏会に足を運んでくださったお客様である。陰ながら一人一人の団員を応援してくださった家族、友人、知己も忘れることができない。そしてかけがえのない仲間たち。それらの人たちの熱い思いによって私たちの今日がある。
それら全ての方々に、そして「今おられ、昔おられ、やがて来られる主(黙1:8)」のみ前に、私たちは心からの感謝をもってこのミサ曲をお捧げする。皆さまの上に、主の平和が豊かにありますように。

先頭へ戻る
Activities へ戻る
トップページへ戻る