東京スコラ・カントールム第46回定期・慈善演奏会
G. F. ヘンデル ... メサイア

(2006/1/22、指揮:J. シュトラウベ、ティアラこうとう)



《プログラム・ノート》

『プロローグ』...小笹 和彦(東京スコラ・カントールム)

MAJORA CANAMUS
And without Controversy, great is the Mystery of Godliness:
 God was manifested in the Flesh, justifi ed by the Spirit,
  seen of Angels, preached among the Gentiles,
  believed on in the World, received up in Glory.
 In whom are hid all the Treasures of Wisdom and Knowledge.


偉大な讃歌*1
  *2 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、
  キリストは肉において現れ、
  “霊”において義とされ、
  天使たちに見られ、
  異邦人の間で宣べ伝えられ、
  世界中で信じられ、
  栄光のうちに上げられた。
  *3 知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。


「メサイア」初演は1742年4月13日(受難週の火曜日)正午から。場所はアイルランドの首都ダブリン。指揮はもちろんヘンデル(G. F. Handel /1685-1759)。聴衆は会場の収容定員をこす600有余名。その入口で、今のプログラムに相当するWord-book(歌詞台本)が、1部6ペンスで頒布されました。その表紙を飾ったのが左に掲げた前口上、つまりプロローグです。
原文を書いたのは、「メサイア」の台本をヘンデルに提供したチャールズ・ジェネンズ(1700-73)というイギリスの文人貴族ですが、ヘンデルがその意向を尊重して音楽化したことはいうまでもなく、これはいわば2人の合作です。そしてその小冊子(Word-book)は初演時の体裁そのままに、ヘンデル時代の殆ど全ての演奏会で配布されましたから、これこそ「メサイア」というオラトリオ(聖書の物語を題材とする楽曲)の趣旨と仕組みを理解する、最も貴重な資料として味読に値します。以下はその参考としてご笑覧ください。

*1 "MAJORA CANAMUS" というタイトルは、古代ローマの詩人ウェルギリウス(70-19B.C.:英語名ではVirgil)の詩集「ECLOGUE(牧歌)」第4編初行からの引用です。その "Sicclides Musae, paulo majora canamus!" というフレーズの下線部分がこれに相当し、訳せば「シチリアのミューズ(ギリシャ神話の学問・芸術を司る女神たち)よ、我により大いなる歌を授けたまえ!」となります。
「より大いなる歌(拙訳では文脈上『偉大な讃歌』と意訳)」の「より大」とは何との比較でしょうか。それが、このラテン語タイトルを読み解く鍵となります。

・・・「牧歌」は題名の示すとおり、美しく広がる田園風景、そこに点在する自然の風景や恋物語を、美しくのどかに謳いあげた、10編からなる詩集です。しかし、この第4編には単なる叙景をこえた、神意の啓示ともいうべき、未来への希望がこめられています。つまり、その違いがこの詩を「より大」にしているのです。
その背景には、紀元前44年のシーザー暗殺に端を発する、悲惨なローマ市民戦争と、その余波で荒廃したイタリア全土の状況や、父祖伝来の土地を追われた農民たちの悲哀があります。
その現実を体験したウェルギリウスは、「新たな世紀の大いなる秩序が生まれ」、「処女神と農耕神が司る時代になり、新たな子孫が天から遣わされる」ことを夢見ます。そして「幼子」が「父の徳によって世界を平和に治め」、「蛇は死に、人をあざむく毒草は枯れ」、「田園はやわらかな穀物の穂先で、やがて黄金色にそまり」、「野生の茨の藪には赤いぶどうの房が垂れ」、「固いオークの木からは蜜がしたたる」等々と未来の情景を歌うのです。それがこの第4編の、他の詩と異なる際立った特徴です・・・
既にお気づきのように、この中には「処女」「幼子」「黄金」「蛇」「茨」「ぶどう」「蜜」といった、聖書によく使われることばがでてきます。他にも「古の誘惑(原罪)」とか、イザヤ書9章6節や11章6節とよく似た、平和の情景を思わす象徴的表現があり、さらにはキリスト教の「ミレニアム(救世主が再臨し支配する千年王国)」思想と類似の表現が、随所にちりばめられています。
ウェルギリウスは紀元前のローマ人ですから、もちろんユダヤ教・キリスト教とは無縁です。しかしその詩人としての令名は高く、歴史的評価も定まっていましたから、「牧歌」は他の「農耕詩」や「アエイネス(トロイの勇士アエイネスの冒険と古代ローマの建国譚)」と共に、後世の人たちに愛読されていました。初めてキリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝(c.274-337)も、特にこの「牧歌」第4編を愛し、古式ゆかしいヘクサメタ(韻律)でギリシャ語に翻訳したほどです。この大帝に仕えた教父ラクタンティウス(250-325)や、後の聖アウグスティヌス(354-430)もこの詩に重大な関心を寄せています。
特に「ミレニアム」と、「キリスト(メサイア/救世主と同義)」との関連で、この詩がその前触れとして注目をあびたのです。影響は甚大で、中世には教会や高僧知識によってウェルギリウスの名がさらに広まり、その作品はダンテ(1265-1321)の「神曲」をはじめ、ヨーロッパ文学や学術に欠かせぬ素材となりました。
今でもイギリスの学校では、この第4編がラテン語の教材もしくは詩文の模範として、使われているようです。日本的教養でいえば漢詩の素読、百人一首の暗誦にあたります。例えば「村雨の・・・」といえば、小学生でも即座に「霧立ちのぼる・・・」という下の句を続けることができるでしょうし、「秋の夕暮れ」や正月のカルタとりの風景を連想することでしょう。これと同様に、少なくとも当時のイギリス人聴衆は、“MAJORA CANAMUS”というタイトルから、直ちに「牧歌・第4編」に重なるキリストの「降誕」とその「生涯」、あるいは来るべき「再臨」と「ミレニアム」といった「偉大」なことどもを連想したはずです。
ジェネンズ/ヘンデルが、この大文字で印刷した1行のタイトルに、「メサイア」全曲の創作意図と、特に第I部の曲想を託したと考えるゆえんです。

*2 そう考えれば、プロローグ本文が And という接続詞で始まるのも不思議ではありません。それは "And without Controversy, great is the Mystery of Godliness...." と続きますが、この great と、タイトルの "MAJORA CANAMUS" とは「係り結び」のような呼応関係にあります。厳密にいえば、ラテン語の majora と英語の great には形容詞と名詞、比較級かそうでないかといった違いがあります。しかし、タイトルの性格やこの本文の扱いから、ジェネンズが両単語を掛けて名詞的に用いたことは明らかで、上の文章を直訳すれば「そして論ずるまでもなく、偉大とは信心の神秘のことである」となるでしょう。
冒頭の囲みの中の訳文とは少し異なりますが、それは単純に原典の違いとご理解ください。英語本文は、「メサイア」本体の台本同様、すべて「欽定訳聖書(King James Version:1611)」の引用ですが、訳文は「新共同訳聖書(日本聖書協会:1987)」を引用させていただいたものなのです。該当箇所は「テモテへの手紙(1)」3章16節で、字下げ部分(本文3行目の God was... から6行目の ...in Glory. まで)は、初代教会で歌われていた「キリスト讃歌」といわれています。
その讃歌の内容が、そっくりそのまま「メサイア」第II部の台本と音楽に反映されていることは、曲をお聞きいただけばすぐお分かりいただけることと思います。つまりプロローグ*2 は、タイトルの意味を敷延すると同時に、そのまま第II部の構成を提示する内容となっているのです。

*3 "In whom..."/知恵と知識・・・以下の部分は「コロサイ人への手紙」2章3節の引用で、「メサイア」第III部と全曲の本質を示すものです。
「欽定訳」原文に「キリスト」という文字はありませんが、「新共同訳」ではハッキリとその名が示されています。こうした違いは前述したように随所にありますが、「メサイア」台本に関する限り、致命的な相違とは思われません。
そしてこの短い聖句に以上の全てをこめ、「メサイア」第3部の大団円を、いや全曲を通じての神への讃歌を結ぶのです。

ヘンデルは、その手稿譜の最後に「S. D. GL.(=SOLI DEO GLORIA=神にのみ栄光あれ)」と記して、筆をおきました。

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