東京スコラ・カントールム第47回定期・慈善演奏会
大いなる祝福への目覚め ... J. S. バッハのカンタータとモテット

(2006/9/18、指揮:青木洋也、青山学院大学ガウチャー記念礼拝堂)



《曲目》
1. カンタータ BWV196 主は私たちをみ心に留めたもう
Der Herr denket an uns
2. カンタータ BWV131 深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます
Aus der Tiefen rufe ich, Herr, zu dir
3. カンタータ BWV180 装いせよ、おお愛する魂よ
Schmüke dich, o liebe Seele
4. モテット BWV225 新しい歌を主に向かって歌え
Singet dem Herrn ein neues lied


《プログラム・ノート》...斎藤成八郎 (東京スコラ・カントールム)
◇はじめにご挨拶

本日は、諸事ご多端の折にもかかわらずご来聴下さり、まことにありがとうございました。
今回の演奏会は、東京スコラ・カントールムにとっては、青木洋也先生を指導者に迎えて以来、先生の指揮による最初のコンサートであります。
この度、このような機会を与えられ、日本聾話学校へのチャリティーコンサートとして開催させていただけることは、まことに光栄、且つ恵まれたこと存じ、日本聾話学校様、青山学院様はじめ関係各位のご理解とご協力に対し、厚く感謝を申し上げます。

当合唱団の過去の歩みを振り返るならば、黒岩英臣先生の指揮による第1回の演奏会、10年前、花井哲郎先生が指揮に立った31回演奏会という節目の演奏会では、バッハのモテット1番が採り上げられました。今回はそれに倣ったというよりも、合唱団の大きな節目を経験したこともあり、むしろ自然発生的に青木洋也先生による新しいスタートをこの曲ですることにしたわけであります。
合唱団の歴史を作るには、団員の幅広い参加による個々人の多くのエネルギーが必要であり、時機に応じて再集中、再構成の努力は不可欠です。私達は、この機会を捉えて、原点に帰り、皆で歌を楽しむと同時に、これも共通の基本認識であるキリスト教の精神についての理解を深めながら歌うことの意義を柱として、このプログラムを構成しました。

「大いなる祝福への目覚め」という標題の意味は、現在の幸いは、今までの蓄積を土台に新構築されたもの、それも以前から備えられた神の御心によってこそ我々の現在があるという感謝と賛美を表したもので、祝福には神の選びが先行し、知らずしてしている活動の只中で、それに気がつくことが数々であることの意味を含んでいるつもりです。先ず名曲との出会い、協力する仲間との出会い、創造を共にする多くの人の協力と努力によって美しいものが出来上がるコーラス、それは一人の力で出来るものではない。ここまで一人ひとりを結びつける自分を超えた共通の何かがある。さらに遡れば、作曲者が創作精神を促された力、背景にまでも至り、それらへの共感などによって実現したものだと思います。そういう意識は、曲を演奏することに限らず、合唱グループとしての仲間形成のために大切なことという意識を新たにしたいという気持ちを表しています。
バッハは、キリスト教の教義を深く理解した作曲家である以上に、音楽による説教者と言われるくらい、教義を音で的確に表現しています。この演奏会では、その説教者によって、われわれの現在を祝福として捉え、さらにそれを普遍化して、神への感謝の応答としての「新しい歌」の意味を考え、それがもたらされる信仰的筋道を聖書に照らしながら、辿ってみたいと思うのです。

末筆ながら、ここまで多くの方々の賛同と励ましをいただいて歩んでまいりましたこと、特にこのコンサートを期に解散することになりました後援会には、発足当時より長期に亘り絶大な支えをいただいたことを忘れることは出来ません。あらためて感謝申し上げます。



◇カンタータBWV196(主は私たちをみ心に留めたもう)
....原詩 詩編115編12〜15

このカンタータは、バッハと最初の妻バルバラとの結婚式の司式をした牧師とバルバラの叔母の結婚式(1708年6月25日に行われた)のために捧げられたといわれています。この慶事に際し、神への賛美と感謝と、牧師の新家庭への祝福を求める祈りは、旧約聖書に記されるイスラエルの民への神の祝福と結び付けられることによって、一つの家庭の慶事から、教会の民、さらに世界的な広がりでの神と人との関係の真理へと拡大され、深い意味を持つに至ります。
結婚は新しい命との新しい結合によって生まれる新しい人生、それは大きな祝典の時であります。新約聖書では、しばしば信徒はキリストの花嫁になぞらえられます。キリストによって与えられる神との和解、罪の赦しは、神と御子キリスト、キリストと人が一つとなる新しい人生の出発です。
人は、幸せの絶頂で、人生をよくぞここまでとの感謝とともに道程を振り返ります。様々な隘路や試練を乗り越えて来られたのは、偶然以上の見えない摂理によるとしか思えない感慨を持って、自己の歴史を振り返る人は多いと思います。新しい家庭の誕生と末永き繁栄を、信仰の父祖アブラハム以来約束された祝福の民の系図として、アロンの家イスラエルへの神の祝福になぞらえるのは、そのような聖書的意味においてです。祝福の民は、キリストを通して、世界の教会の民とされました。

我々は今の時を吟味するに、この演奏会は新しい出発ですが、27年間の歩みを顧みて、神の恵み、摂理が我々にはじめから用意されており、祝福を頂いて来たからこそ、この歩みが続いてきたのだと思えるのです。その間の変遷は決して順調とはいえない様々な出来事が、合唱団としても、また各個人としても起こりました。それらを超えて新たなスタートを迎える今、神の御心のなせる業と考えざるを得ません。これを思う時、われわれの演奏会のスタートとして196番は相応しく思うのです。



◇カンタータBWV131(深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます)
....原詩 詩編130編1〜6

この曲は、1707年に、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストとして、ミュールハウゼンの街で大火災が起きた直後、1707年6月に同市の聖ブラジウス教会オルガニストに赴任したバッハが、悔い改めと復興を願う礼拝のために作曲したといわれています。傷心の民を励まし、希望を与えるための歌詞、詩編130編は、それにふさわしいメッセージです。

新約聖書では、深き淵は天国の対極にある底知れぬところ、悪霊や悪の化身が閉じ込められているところなどとされています。その意味からして、天国が神の支配の満ちるところであるのと対極にあるものとされ、新約聖書の黙示録では、地の底、そこから罪の化身の獣類などが上がってきて神と戦います。深き淵は、旧約聖書でも悪の坩堝として、神の光が届かない罪の暗闇というようなところといえましょう。詩編130編の詩人は、そのような中で神を呼んで、助けと赦しを請うのです(1曲シンフォニアとコーラス)。罪の本質は神からの離反ですが、人は心にそういう部分を持っている。しかし、たとえ人が神から姿を隠したとしても、神は、着物の中まで見通される。人は神の前では裸の存在で、神の怒りが下されれば「荒れ野の風に吹き飛ばされる籾殻のように」散らされる運命です(エレミヤ13:23)。人は皆このような闇を持つがゆえに、本質的に絶対的正義の前に、恐れ、後ろめたく生きているのです。この心の暗闇を持つ重荷に耐え切れず、救いを求めて神に声を上げ、恐れおののきつつ、神の赦しを嘆願します(1曲コラール、詩編130編の3、4節)。人はすべてありのままでは神の監視の目を避けられず、神に罪を数え上げられたら、その厳しい裁きに耐えられない(2曲アリアのデュエットとコラール)。恐れおののきつつ歌うバスと対照的にソプラノは、バルトロメウス・リングバルトのコラール旋律で、十字架による罪の赦しが歌われます。

ミュールハウゼンの火災は、何かの罪が原因で起こされたのかもしれませんが、本質的にはその過ちが問題なのではなく、問題は困難な状況に負けて神から離反すること、絶望することです。祝福は神のもとにあり、神から出る。神は我々を祝福の対象として求めている。このことが始めに示されているのに、困難に心を奪われ、本来の自分を失ってしまう人間の弱さがあります。詩人は再び立ち上がるために、神の名を何度となく呼び続け、切実に働きを待ち望みます(3曲のコーラス)。

このように、選ばれること、求めて立ち上がること、そして信じて従うことがあって祝福は成立するのです。神のもとに祝福があることを知っているのは、既に選ばれていることであると思います。後は信じて、求めること、待つこと、夜警は朝が確実に来ることを知っていますが、その確実に来ることを、今か今かと待ち望むのです(4曲のデュエット)。
このカンタータは第3曲を中心にバッハが良く用いるシンメントリー構造をなしています。3曲で御言葉に希望を抱きつつじっと待つことを中心にして、その前後2曲、4曲のソロの歌詞は、信仰的な変化をします。2曲において罪を覚えつつ恐れおののきを含んだ魂は、3曲を経て4曲では、罪のままながら、血によって罪から清められるとの信仰にいたり、光明を確信しつつ待つに至ります。このようにバッハはこの曲において、御言葉を聴くことに中心を置いたとみられ、深い信仰的意味を感じるのです。



◇カンタータBWV180(装いせよ、おお愛する魂よ)
....原詩 作者不詳(J. フランク同名コラールによる)

このプログラムでは、BWV131の深い淵より主を呼ぶ声に対し、その主の応答として、このカンタータを取り上げています。
装いせよとは、どういうことを云っているのでしょうか。その答えはこの歌詞の筋道に従って明らかです。それは神に対し無垢な心で神の御名を呼び求め、神の招きに応じること、その心に神は働いて、招かれるにふさわしい輝きを与えてくださる。
神は、選んだ民を、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す(ゼカリヤ13:9)。精錬は、無垢な心へと向けて行われるのです。その只中でこそ神の名を呼ぶものに、神は「彼こそわたしの民」といい、彼は「主こそわたしの神」と答えるであろうと記しています。

1曲から3曲までは伝道者の呼びかけと見ることが出来ます。
叫び求める魂の声を聴かれた神が、その魂に向かって、暗いところから光へと出て来るように招く。呼び求めるあなたを、主が客人として招待する(1曲コーラス)との呼びかけがあります。その呼びかけに目を覚ましなさい。言葉足らずとも、神の招待を受け容れて今すぐに心の門を開きなさい(2曲アリア)。
3曲から魂自身が告白しつつ歌います。神の聖なる食卓は、比類のない至福の宝。なんと涙と共にこの食卓を渇望したことか(3曲レチタティーヴォとコラール)。私の魂は備えが十分でなく、畏れ多いものです。しかし、神は貧しい信仰心に働きかけて、霊によって、魂に語りかけて、救い主を知らせ、その方の大きな愛に気づかせてくださる(4曲レチタティーヴォ)。

5曲からは、自分の至らなさに目を伏せるのではなく、決断と賛美に到達します。主は私の忠誠を見て弱い信仰を拒まない(5曲アリア)。その愛を私は無駄にしない、どうぞあなたの愛のうちにおいて私の魂に火をともし、あなたの愛を忘れず、従うものとしてください(6曲レチタティーヴォ)。生命のパンであるイエスよ、心を正して食卓に預からせてください。あなたの愛を味わい、地上のみでなく天でも客人としていただけるようにしてください(7曲コラール)。それぞれの曲は自由に羅列されて、歌詞の大意はこのような流れで歌われます。
主の食卓に加わるためには、まずそれを求め、主催者の招待に無垢な心で、喜んで応じることが大事です。渇望する食卓に招かれた喜びは、何にも勝るもの、人の闇のすべてを赦された喜びで覆うことが出来る、まさに最高の喜びなのです。1曲のコーラスにおいて、その喜びの心を8分の12拍子のリズムで表しています。喜びを踊りで表す場面は、ダビデ王を連想させます。ダビデ王は、「この私を選んで主の民の指導者として立ててくださった主の御前で」(サムエル記下6:21)跳ね踊り、神に従順を示しました。主に迎えられた人生は、まさに祝祭なのです。



◇モテットBWV225(新しい歌を主に向かって歌え)
....原詩 詩篇149編1〜3、150編1〜2、6

新しい歌は、このようにして神に祝福されたことを喜ぶ心から迸り出る、新しい生命の歌です。その喜びは、一人だけのものではなく、民の喜び、共同体の喜びです。したがって新しい歌は、集会の歌として、民がこぞって歌います。神の祝福は、民一人ひとりに向かって働き、神を賛美する民の心の一致が、その民の真の平和をもたらすからです。
バッハはこのモテットを葬儀用または結婚用に作曲したといわれています。どちらであっても神のなせる業。死であったとしても、それは、埃や草花のように移ろい枯れてゆくこの世の務めの終わりであって、同時に神の霊が支配する永遠の都への出発であり、その意味で祭儀とされています。

1曲の詩編149編1〜3節では、singet dem Herrn(新しい歌を主に向けて歌え)の歌詞によるモノフォニックな声部を伴って、導入部から、集まった会衆の交唱によるイスラエルの民への呼びかけ、さらにその声の中にフーガが加わり、フーガによる賛美の声は益々強くなり、最後には太鼓と竪琴を加えて真の支配者をほめたたえようという、規模の大きい、多彩な形式を伴った曲です。
2曲のアリアとコラールの交唱の部分が中間部となり、神と人との存在の真理を歌います。コラールパートは、創造物のはかない存在を哀れんで、慈しみを賜る神の本質を、またアリアのパートは、コラールに対し、より細かい動きで、人が神に頼って生きることが幸いなこと、神よ、私たちを顧みてくださいと切実感をもって祈りの歌を歌います。
3曲は詩編150編2〜5節による賛歌です。1 choro、2 choro の交唱で始まり、やがて両者は一つになり、生けるすべてのものは主をたたえよ、ハレルヤと高らかに賛美を唱えます。
1曲と3曲は、動きが器楽的で歌うのになかなか困難な曲です。誰かの葬儀用であれば、作曲に時間がなく、練習も出来ないので、楽器を伴わせたとも言われていますが、この困難な動きを楽器が助ける意味もあるともいわれます。しかし、なぜ充分な準備が出来ない状況下に、こういう難曲をという疑問が起きます。最近では、音楽学生の練習用に作られたという研究もあるそうです(小笹和彦氏:バッハ前半生のカンタータ・モテット)。

新しい歌は、新しくされた人達の歌う歌です。多種多様な人がいる、それぞれにこの世に散らされて生命を営んでいる人たちが、集って一つの歌を声を揃えて歌う。何に向けて歌うのか。その対象が一つ、喜びが一つ、一つの中心によって結び合わされているところに意味があるのです。東京スコラ・カントールムの新たなスタートの歌として、その意味が集団の中に現実として働くことを願うのであります。

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