東京スコラ・カントールム第49回定期・慈善演奏会
ルネサンス期イギリスの聖堂の響き
...イートン・クワイアブックのポリフォニーから国教会アンセムまで


(2007/11/3、指揮:青木洋也、東京山手教会)



《曲目》
チューダー時代のアンセムより
1. 主よ、あなたの優しい慈しみをもって / ジョン・ヒルトン
Lord, for Thy Tender Mercy’s Sake / John Hilton (15??-1608)
2. 天よ喜べ / ウィリアム・バード
Laetentur Coeli / William Byrd (1543-1623)
3. 全能にしてとこしえにいます神よ / オーランド・ギボンズ
Almighty and Everlasting God / Orlando Gibbons (1583-1625)
4. おお、光から生まれた光 / トマス・タリス
O Nata Lux / Thomas Tallis (c.1505-1585)
5. アヴェ・マリア / ロバート・パーソンズ
Ave Maria / Robert Parsons (c.1530-1570)
6. これは洗礼者ヨハネの証し(コンソート付き合唱) / オーランド・ギボンズ
This is the Record of John (w/ Recorder and Voice) / Orlando Gibbons
リコーダーコンソート(ウィリアム・バード)
7. 4声のファンタジア 第1番
Fantasia a 4 I / William Byrd
8. セレンガー・ラウンド
Sellenger’s Round
9. おやすみ、わたしの可愛いいとし子よ(アルト・ソロ付き)
Lullaby, My Sweet Little Baby
10. パヴァーヌ、ガリアルド
Pavane, Galiardo
イートン・クワイアブックより
11. スターバト マーテル(悲しみの聖母) / ジョン・ブラウン
Stabat Mater / John Browne (mid 15th Century)
12. マニフィカト(マリアの賛歌) / ロバート・フェアファクス
Magnificat / Robert Fayrfax (147? - 1521)



演奏に寄せて...青木洋也 (東京スコラ・カントールム指揮者)
マルティン・ルターが九十五箇条の提題をヴェッテンベルク城内の教会の窓に掲げたのは1517年10月31日のことであった。ちょうど490年前のことである。彼は単純に教会の免罪符の販売と教皇の権力に疑問を持ち、キリスト教徒は教会の規則よりも聖書が伝える福音の教えに従うべきでないだろうかと、この提題で疑問を投げかけたに過ぎなかった。ところがこのことが結果的にはキリスト教を二分するような、ルター宗教改革といわれている大きな事件に発展した。他方大陸におけるこの改革運動の影響を受けずに独自の道を歩むことになった国がある。それがイングランドである。

そもそもイングランドは宗教改革以前から、カトリック教会の傘下にありながらも独自の伝統を守り、礼拝で歌う聖歌はローマ教会公認のグレゴリオ聖歌ではなくセーラム聖歌(ソールズベリー聖歌)を用いてきた。イングランドの教会音楽にとって、16世紀は動乱と混乱の時代であった。詳細はプログラムノートごらんいただければと思う。その政治的・宗教的な度重なる変化を経た結果、この時代の教会音楽を知るための資料の多くが失われてしまい、残存するする資料は少ないが、その資料の中にイングランド教会音楽にとって重要なものである3つのクワイアブック(聖歌隊用曲集)がある。1520年頃にエドワーズ・ヒゴンスによって写譜されたと考えられている『ランベス・クワイアブック Lambeth Choir book』と『カイウス・クワイアブック Caius Choir book』、そして本日取り上げる『イートン・クワイアブック Eaton Choir book』である。

イートン・クワイアブックは、1490年頃から1502年にかけてイートン・カレッジの聖歌隊のために写譜されたといわれている3冊からなる大型の楽譜であり、3つのクワイアブックの中でも特に有名である。これら3つのクワイアブックに含まれた作品の多くは、大陸の音楽伝統とは一味違う、イングランド独自の様式によって作曲されている。つまり大陸では4声体のミサ曲やモテットが標準だったのに対して、これらのクワイアブックにおいては5〜6声体の作品を数多く見ることが出来る。またたとえ模倣(対位法)の手法が用いられたとしても極めて控えめであり、大陸で見ることの出来る模倣とは違い、各声部が自由に独自の動きをすることが多い。メリスマや複雑なリズムが多用され言葉を聞き取ることは大変難しいが、多声部による荘重な音楽によって偉大なる神への賛美を歌う。

英国国教会のために、新しい教会音楽を最初に手がけた世代を代表とする作曲家はトマス・タリス Thomas Tallis(1505頃-1585)、クリストファー・タイとジョン・シェパードである。彼らの手によってサーヴィスとアンセムという新しい分野が生み出された。これは主にエドワード六世時代のものであるが、メアリ一世の統治となり、カトリック教会が復活すると彼らは一転してラテン語によるミサ曲やモテットを作曲したのである。更にエリザベス一世の時代になると、度重なる宗教紛争による対立を緩和する政治的政策の影響で、タリスをはじめとする多くの作曲家は英語による作品とラテン語による作品を同時に書き始めた。本日は、両言語による作品を取り上げるが、ひとつのシラブルに一つの音符で書かれているものが多く、イートン・クワイアブックとは全く対照的で、言葉の一つ一つが会衆に理解できるように作曲されている。

本日の演奏では、もうひとつ重要なジャンルの作品を取り上げる。それはコンソート音楽である。コンソートとは16〜17世紀頃に作曲された音楽を演奏する小編成の器楽合奏のことをいう。楽器編成は3〜6声部、あるいはそれ以上の声部に分かれているものまで様々で、歌詞が付いていて声楽で演奏できる作品も数多く残されている。コンソート音楽の中でも同属の楽器(リコーダー属のみ、ヴィオール属のみなど)のみで演奏するアンサンブルはホール・コンソート whole consortと呼ばれ、いろいろな楽器のアンサンブルはブロークン・コンソート broken consortと呼ばれている。17世紀のイギリスでは、アマチュア演奏家がコンソート音楽を盛んに演奏していたため、作曲家も様々な楽器で演奏できるよう多くの作品を作曲し、楽譜を出版していたと言われている。本日はリコーダーのみのコンソート、コンソート・ソング、そして合唱付きのコンソートを演奏する。



ルネサンス期イギリスの音楽 ―様式、ことば、社会的背景―
...岩 次郎 (東京スコラ・カントールム)


♪イギリスの教会音楽―前史
イギリスにキリスト教の種がまかれたのは、ユリウス・カエサルがブリタニアの地に上陸(BC 55年)してから一世紀余を経たころと推定されています。この第一世代のキリスト教はケルト文化と融合しました。
ケルト・キリスト教を土台とする信仰はアイルランドからスコットランド、そして北部イングランドに広がったようです。AD 563年には、アイルランドの修道者コルンバがスコットランドにアイオナ修道院を建てました。
一方、ベネディクト会の修道院が、グレゴリウス一世の派遣したアウグスティヌスにより597年、カンタベリーに建てられています。アウグスティヌス(オーガスティン)は初代カンタベリー大司教となったのです。その後、7世紀半ばにはこれらの教会はローマ・カトリックに統一されます。この頃にはローマ典礼がイギリスにも伝わり、ローマ風の単旋律聖歌も歌われたことでしょう。
そして1066年、ノルマンディ公ウイリアムの侵冠により、ノルマンディ地方(フランス)の文化がイギリスに根付きます。侵冠後1071年まで五年間続いた戦いで、イギリス土着の貴族たちは討伐されてしまい、土着の貴族に取って代わってノルマン人が貴族となり、大司教や修道院長にも大陸の人間が任ぜられました。ノルマン人貴族たちに従ってきた騎士たち、補給を担った商人たちもイギリスの地に住み着き、活躍するようになったのです。これ以後、イギリス上流階層の間ではフランス語が日常語となり、ほぼ三世紀にわたってこれが続きます。この三世紀の間にイギリスは社会的二重言語の国になったと言われています。「イギリスの法律は全て英語で書かれるべきこと」が正式に決定されたのは1731年、ノルマンディ公ウイリアムの侵冠以来、実に665年後のことでした。

日本ではあまり知られていないことですが、ノルマン・コンクエスト以来1204年までイギリス王は同時にノルマンディの王でもあり、貴族たちの多くもイギリスとフランスにそれぞれの領地を持っていました。ウィリアム征服王の三代後の王ヘンリー二世は妻の持参領を合わせるとフランス全土の2/3を支配するほどでした。そして彼もその跡継ぎのリチャード一世もイギリスよりも多くの年月をフランスで過ごしたのです。リチャードの死後、弟のジョンが王位に就きましたが、自らの愚かな行いでフランスの領地の殆どを失い、貴族たちは英仏いずれかの領地を捨てねばならぬことになりました。この結果、イギリスに残った王と貴族たちにはイギリス人というアイデンティティが生じ始めました。

さて、11世紀になると、それまでは修道院中心だったキリスト教文化が、教区を統括する司教座聖堂を中心に各地で発達するようになり、教会音楽も急激に発達したようです。単旋律聖歌に言葉や音楽を付加する、Tropeと呼ばれる形式の音楽が作られるようになりました。(二声部のtropes 150余を集めて作られた曲集がウインチェスターの修道院で発見されているそうです)。
その頃からイギリスの教会音楽は、一部の人々のための閉鎖された世界であった修道院から外の世界に出て、教区ごとに大衆に向かって開かれたものとなり、大衆の息吹を取り込んで発展してゆく歴史が生まれました。ヨーク、リンカーン、ウースター、ヘレフォード、ソルズベリー、カンタベリーなど、主教座が置かれた地方ごとに、典礼の独自な様式が生まれ育ち、後の優れた合唱音楽の基礎が育まれていったのです。


♪イギリスの音楽と大陸の音楽
ノルマンの侵冠以来、初期にはおそらく一方的に大陸の影響を受けていたイギリスの合唱音楽は、こうして段々に大陸諸国と影響し合いながら、変遷のときを重ねていったようです。
ポリフォニー音楽がようやく形を整えようとする頃イギリスに現れ、イギリスのみならずヨーロッパ全土の音楽に大きな影響を与えた人がいました。ダンスターブル(c.1390-1453)です。国王ヘンリー五世の弟・ベッドフォード公付の音楽家であったダンスターブルは、摂政としてフランスに滞在した主君ジョンと共に大陸に渡り、1422年から13年ほどの間、フランスを中心に各地の都市を訪れて音楽家たちと交流しました。今日までに発見されたダンスターブルの作品の大部分は大陸にあったものであり、中でもイタリアのトレント、モデナそしてボローニャで19世紀末に発見されたものは、大陸の音楽家に及ぼした彼の影響を考察する上で重要なものとされています。
デュファイ、オケゲム、ジョスカン・デ・プレ等フランドル楽派に与えたダンスターブルおよび同時代のイギリス人リオネル・パワー等の影響は、後にチューダー朝の音楽家たちへのフランドル楽派の影響となってイギリスに帰ってきます。


♪国民意識形成の胎動、近代英語の成立
ダンスターブルの大陸滞在はジャンヌ・ダルク(1412-1431)の活躍した頃に重なります。1339年イングランドの国民軍の勝利で始まった英仏間の百年戦争は、ずっとフランスの地で、イギリスの優位で進められていましたが、1429年、ジャンヌ・ダルクの出現によりフランスが反撃する転機が訪れ、1453年、カスティヨンにおけるフランスの勝利で終結したのでした。
この戦争の百年間はイギリス人の国民意識形成と文化的自立を促すことになりました。1362年には議会の開会式が英語で行われ、裁判所用語として英語が採用されました。1380年にはジョン・ウィクリフによる初の英語聖書が、そして、1387年にはイギリス国民文学の始まりともいうべき、チョーサーのカンタベリー物語が世に出ました。ダンスターブル等の音楽の美しさも、イギリスの国民文化のこうした高まりの一環であった、と考えることもできるのでしょう。
合唱音楽と関わりの深い発音でも、百年戦争の後半には大きな変化が英語にありました。「大母音推移」です。チョーサーのカンタベリー物語は綴りから見ると現代の英語からさほど遠くありませんが、発音はまるでドイツ語を聞いているかのごとく響くのです。私がクリスマス前後によく聴くCDに、“クリスマスキャロル―中世の響き”があります。これもドイツ語に大変近い響きです。このような発音上の特徴は大母音推移と呼ばれる現象の結果、15世紀末には現在われわれが聞く英語の発音と殆ど変わらないものになったのです。

イギリスの話し言葉の共通語は16世紀になって確立しました。書き言葉は15世紀中頃の印刷術導入により初めて共通語成立への道を歩み始め、シェークスピア(1564-1616)の諸著作や欽定訳聖書(1611年)の出版を通じてやっと普及しました。
大母音推移は15世紀中頃、印刷術の導入と同じ時期に進みました。話し言葉の母音の変化が書き言葉の共通化と同時進行したのです。そこで綴りと発音の間の乖離が生じました。
支配階級・知識階級が英語を知らず、文書は全てフランス語かラテン語、というのが15世紀までの状況。それまでの英語は無文字・無学の庶民がしゃべる言葉であり「方言が多く、統一感がない」ものだったとされています。

百年戦争に続いて今度はイギリス国内で戦争が始まります。ランカスター家とヨーク家との間でイングランド王位を巡って闘われたバラ戦争です。1455年に始まったこの戦争はランカスター家のヘンリー七世の勝利で1485年に終結し、チューダー朝が生まれました。王位継承権を巡るこの貴族間戦争では継承権者たちが次々に消し去られたので、新王朝の基礎は堅固でした。一方、民衆の生活はさほど乱されなかったので、商工業は発達を続けました。バラ戦争後は商工業と共に、イギリス独自の文化も発展を続け、やがて16世紀中葉に始まるイギリス・ルネサンスの花を咲かせます。
ここに述べた現象を理解しようするときに、私たち日本人が留意すべき大事なことがあります。それは「イギリスの国民意識の高まり、国民文化の発達」は、イギリス独自の歴史を背景としてこそ、その真の姿がわかるのであり、日本近代の歴史などを基盤とする類推からは決して理解できるものではないということです。
紀元前数世紀にわたるゲルマン文化の流入、BC55年のカエサルの侵攻以来五世紀ほどに及んだラテン文化の流入と普及、そして11世紀以降のノルマンディ文化の浸透という、諸文化の重なり合いを消化した上で、16世紀の「イギリス的なるもの」が生まれている、という状況は、近世・近代日本史の中に類似の状況を求めることは出来ません。日本史の中に多少とも類似のものを探すならば、それは古代。渡来人がもたらした大陸文化、とりわけ仏教、漢字、律令制度などを消化した後の平安朝(8世紀末〜12世紀末)文化によって、「日本的なるもの」が生まれた、その頃の状況ではないでしょうか。


♪宗教改革とルネサンスが同時に到来した…
イギリスのルネサンスは大陸に150年から200年遅れて始まり、宗教改革と同時期に進行しました。
バラ戦争に勝利を収めたヘンリー七世の死により、その子八世が1509年に18歳で即位して、死に至るまでの38年間イギリス王位にいました。エラスムス(1466-1536)、トマス・モア(1478-1535)、マルティン・ルター(1483-1546)、ジャン・カルヴァン(1509-1562)等と同時代を生きたヘンリー八世が1534年ローマ教皇と手を切り、英国国教会の創始者としてイギリスの宗教改革に名を残すことになったのは単に偶然のいたずらであるようにも見えます。国教会の教義の新教化を進めたのは、その子エドワード六世。さらに教理と典礼を整備して、名実共に英国国教会を確立したのはヘンリー八世の二女、エドワードの姉、エリザベス一世でした。(エドワードとエリザベスの間にあったメアリー一世による荒波のような五年間のカトリック返りの期間については後述します。)
1558年から1603年にいたるエリザベス一世の45年の治世はイギリス・ルネサンスの最盛期でした。宗教改革と人間復興の嵐が過ぎた後のこの45年間は文学と音楽の隆昌、経済力と軍事力の興隆、そして国民意識の著しい高揚を見た時代でした。
エリザベスは父・ヘンリー八世→弟・エドワード六世→姉・メアリー一世と続いた、嵐が吹き荒れるような宗教的・社会的動揺を自分自身が経験して後に即位した故に、温和な社会を生み出すことこそを自分の使命、と思い定めていたようです。彼女の治世では宗教政策は「寛容」なものであったのです。国教会の典礼も組織もカトリックから受け継いだものを少なからず残す一方、先鋭的なプロテスタントにも寛容でした。
こうした文化的寛容性には、新大陸やアジア・太平洋の異文化に接して衝撃を受けた、イギリスを含むヨーロッパの諸民族の「新時代の心」の反映、という面もあったのかも知れませんが…。
エリザベスは王室礼拝堂、セントジョージ、ウインザーそしてウェストミンスターの諸寺院の音楽グループの水準向上に熱心で、これらのグループの財政は女王の個人的金庫から賄われました。各地の大聖堂や教会で優れた音楽が捧げられるように専門の成人および少年の聖歌隊員を維持すべきことを彼女は1559年に命じています。エリザベスが音楽の保護者・愛好者としてその富と権力を十分に使ったこともこの時代のイギリス合唱音楽の隆盛の大きな原因だったのでしょう。

フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸したのは1549年、すなわちエドワード六世の治世3年目。ザビエルらイエズス会の人々はやがて日本で神学校を興し、安土や九州・有馬の学校にはオルガンやバイオリンがおかれました。長崎には印刷所が作られ、教理書、神学書だけでなく、イソップ物語なども日本語で印刷されました。信長が安土の神学校を訪れた際に、神学生らがビオラなどを美しく合奏して聞かせた話は、今ではかなり良く知られた逸話です。1582年に派遣された天正遣欧使節がポルトガルからスペインを経て、ローマに至り、教皇グレゴリウス13世に謁見したことなどは、当時のイギリスの朝野にも伝わったことでしょう。


♪教会音楽と世俗音楽
この時代にはE. スペンサー、F. ベーコン、シェークスピア等、大文筆家、大劇作家が活躍し、優れた音楽家がイギリスに輩出しました。この時期の合唱曲は教会と世俗の二大範疇に分けられますがリュートやバイオリンや合唱に合わせる独唱も重要な音楽形式でした。
フェアファクス、タイ、タリス、バード、ギボンズ、ダウランド等、この当時の音楽家たちは詩人であって作曲家、そしてオルガンを奏し、聖歌隊を指揮する、という風に多種の才能を発揮しました。1580年代も後半に入ると、イタリアのマドリガルがイギリスで流行ります。トマス・モーリィ(1557-1603)はイギリス・マドリガルの第一人者でした。若者らしく新しい流行に敏感に反応したのでしょう。
教会音楽家は楽しいマドリガルも書き、マドリガル作者は教会音楽にも顕著な貢献をしました。当時の音楽家を教会か世俗かに区分けしようとするならば、彼がいずれに重点を置いていたか、何れの作品が多いかということを目安にする他ないようです。
異種のものの交流は多くの場合豊かな実りをもたらすものです。民族、動物、植物、そして異文化の触れ合い、学際研究…。イギリス・ルネサンスの教会音楽と世俗音楽の間にもそれがありました。世俗音楽はグレゴリオ聖歌などの単旋律聖歌とポリフォニーの伝統を踏まえた教会音楽から技法、論理性、力強さ、押さえの利いた感情表現などを学び取り、一方で教会音楽は世俗曲の技巧からリズム感、言葉の柔軟な扱い、独立した伴奏をつけた独唱の技法などを学びとったのです。


♪チューダー・アンセム誕生の胎動
ヘンリー八世は在位(1509-1547)の25年目(1534)に国王至上法(首長令)を発布してローマ教会から離脱し、自らをイギリス国教会の長としました。ヘンリーはラテン語、スペイン語そしてフランス語に通じ、自ら作曲するほど音楽にも通じていました。また最初の王妃を離婚してエリザベス一世の母となる女性と再婚するに際してローマ教皇クレメンス七世と対立して首長令を発するようになる前は、ルターの宗教改革を批判する著作を著した功績で教皇から「信仰の擁護者」の称号を授かるほどの篤信のカトリック信徒でした。
英国教会成立時、ヘンリー八世の王室付き司祭にトマス・スターキーという人がおり、「典礼は国語で執行されるべきだ」という考えを持っていましたが、王は当初それほどまでの改革を許しませんでした。しかし1536年には「誰もが見、かつ読めるように」各教会にはラテン語と英語の二種類の聖書が置かれるようになりました。1538年の勅令はイギリスの全教会に英語聖書を置くように、と指示しています。

アンセムという用語は中世にアンティフォンから転訛したもの。カトリック教会のモテットに対応する合唱教会音楽です。その歌詞は自由に選ばれ、音楽にも特有の形式はありません。

国教会設立の頃、その音楽に様々の影響を与えたのがカンタベリー大司教、トマス・クランマー(1489-1556)です。クランマーはヘンリー八世の離婚・再婚のゴタゴタで王の立場を擁護して認められ、1533年に栄誉あるカンタベリーの大司教に任ぜられたのでした。エドワード六世時代に祈祷書や42信仰箇条を制定して国教会の基礎の一石も置きましたが、メアリー一世のカトリック時代に火刑に処せられました。
このクランマーの時代こそはイギリスの教会がローマのしがらみを離れて独立するための胎動のときであり、また混乱のときでもありました。
クランマーの教会音楽への影響の第一は彼が主張した、「可能な限り一つの音節ごとに一つの音符」です。きらびやかなメリスマ(一つの音節に沢山の音符が当てられる)を排除し、典礼中の歌を英語の詞で、誰もが明瞭に理解できる歌い方で歌う事を主張するものです。ラテン語のプレインチャント(単旋律聖歌)の曲に英語の詞を巧みに付け、そのために典礼歌が急速に民衆に普及したそうです。
典礼歌の英語化は飢饉や外国との戦争にも助けられました。1544年の大凶作に際してヘンリー八世は「祈祷の道行き(procession with prayers)」を全国で行うように命じました。これは英語で祈られたのです。イングランドがフランスとスコットランドを敵とする戦争に悩まされていた同年6月、王は大司教が連祷(litany)を「我らの母国語である英語で」唱えることを許しました。クランマーの英語プレインチャントはこんなときに生まれました。一方、英語を用いたカトリックのミサも1545年にタヴァナーによって書かれているそうです。


♪イートン・クワイアブックのお蔵入り
「会衆皆が理解し、参加すること」が、典礼に関し、また音楽に関して、宗教改革者らが意図したことでした。エドワードが即位した1547年には、「荘厳ミサにおける福音書と使徒書簡の朗読は英語で行われること」を命ずる勅令が厳しく実行されるようになりつつありました。1548年にリンカーン大聖堂の主任司祭宛に送られた勅令はこう言っています。「以後、我等の主のほか、如何なる聖人のためにも、また聖母のためにもアンセムを歌い、または唱えてはならない。またラテン語を使ってはならない。キリスト教の教義に照らして最善のものを選び、それらを英語に直し、一つの音綴に一つの平易で明瞭な音符を当てよ。これらを歌い、これら以外のものを歌ってはならない。」
いつの世でも、急激な改革は波風を立たせるものです。1536年から1540年にかけて僧院が解散させられたときには、これに抵抗した何人かの修道院長が絞首台に上り、音楽関係の貴重な書籍や楽譜のコレクションの内の少なからぬものが散逸し、多くの聖歌隊の学校が閉鎖されました。(今回東京スコラ・カントールムが用いるイートン・クワイアブックもこの頃にイートン校の図書館の奥にしまわれたもの)。解散の命令に平和裡に従った最後の大修道院がウォルサム・アベイで、トマス・タリス(今回歌う“O Nata Lux”の作曲者)はここの音楽監督でした。ウェストミンスター大修道院は1540年に大聖堂(Collegiate church)に衣替えしました。ここでは院長は主任司祭となりました。このとき、ウエストミンスターには12人の聖歌隊員、10人の少年合唱団員、クワイアマスター、福音書朗読者そして書簡朗読者がいました。聖歌隊は小さかったのです。
エドワード六世はイギリスの王位に上った唯一のピューリタンでした。少年王(後にマーク・トウェインが傑作『王子と乞食』の主人公としたのがエドワードであると言われています)はカルヴァンと文通してその指導を受けていました。大陸からプロテスタントの学者を招き、クランマーの助けを得て国教会のカルビニズム化を図りました。カルビン派の詩篇歌も導入されました。教会堂の中から聖像を除去する法令が出され、聖職者が公然と妻帯を許されるようになり、そしてカトリック教義に固執する司教は投獄されました。


♪チューダー朝初期の音楽家を巡る環境
エドワードが在位6年後、わずか15歳で死去した後、イギリス王座に就いたのはエドワードと後のエリザベス一世の異母姉、38歳のメアリー一世でした。イギリス王座最初の女王です。熱心なカトリックであったメアリーは戴冠の翌年、1554年にローマ教会との再一致を実現しました。
彼女はプロテスタントに固執する聖職者を投獄し、クランマーを含む286人を火刑に処しました。こうしたことがBloody Maryの名の起こりです。メアリー一世による追放や投獄に遭遇しなかった聖職者や教会音楽家たちも苦労の多い年月を過ごしたことでしょう。五年余の在位の後1558年にメアリーは卵巣腫瘍で死去。彼女の命日11月17日は圧制から開放された日としてその後200年にわたって祝われたということです。
メアリー一世が戴冠したとき、第一順位の王位継承者となった20歳のエリザベスは身を守るためにカトリックに改宗しました。しかし執拗な猜疑心に苛まれたメアリーはエリザベスをロンドン塔に三ヶ月閉じ込め、塔から開放した後はこの若く、賢明で、美しい異母妹がロンドンにとどまることを許さず、ロンドン北方30kmのハットフィールドの地に住まわせました。
メアリーの死後、25歳のエリザベスは貴族たちと議会の両院に望まれて女王となり、彼女が緩やかに進めた穏健な改革を国民の誰もが喜びました。荒々しい迫害は過去のものとなったのです。彼女は議会と協調してイギリス的教会―カトリックとプロテスタントの独特な融合―を創り上げました。エリザベスの宮廷では新教の世であったにも拘らず、タリス、バード、モーリィ等カトリックの音楽家たちも王室礼拝堂(Chapel Royal)の名誉ある職(Gentleman)を与えられました。
チューダー朝の作曲家たちの多くがカトリックの環境に生まれ、多くの者が王室礼拝堂などで少年聖歌隊員の日々を過ごしてカトリックの典礼を己の血肉と化していたことは大事なことでしょう。彼らは青壮年期に改革の嵐を体験して一再ならず己の信仰と音楽について深い内省の時を持ったに違いありません。
国教会の教理と典礼の混乱はヘンリー八世がローマ教会と手を切ったときに始まり、1549年(エドワード六世)、1559年(エリザベス一世)そして1662年(チャールズ二世)の3回の教式統一令の制定を経て130年後にようやく解決を見たのです。この間にあってエリザベス時代の音楽家たちはラテン典礼とプロテスタント典礼の双方のために作曲しています。
エリザベスは宗教的中庸の道をとりました。礼拝では色彩豊かな儀式を求め、司祭たちには古来の式服を、聖歌隊員たちにはローブを着せ、会堂のしつらえを古式通りに調えさせる一方、エドワード六世が制定しメアリーが廃した祈祷書を復活させて、新教に戻る姿勢を見せました。また一方で、急進派のプロテスタントたちが詩篇歌以外の音楽を認めようとしなかった時代に、彼女は熱心に教会音楽の向上を図りました。


♪ラテン語と英語、そして華麗から簡素の美へ
14世紀のウイクリフ以来、二世紀に亘って段々に熟し、様々の出来事を契機として支持者を増して行ったのがイギリスの宗教改革です。思想と形式の緩慢な変化と、教理と典礼の長期にわたる混乱は教会音楽の変化をも緩やかなものとし、また良い伝統を選択的に維持するのに寄与しました。すでに記したように、英語を用いたカトリック典礼のためのミサが早くも1545年にタヴァナーによって書かれたのに対し、ラテン語を用いた新しいミサはそれから50年近くも後にバードによって書かれています。
エリザベスの治世には多くの作曲家がラテン語と英語いずれもの作品を残しましたが、こういうわけで、ラテン語のものがより早い時代に書かれたとは言えないのです。タイ、タリスその他の人々の場合には、国教会の初代大司教クランマーの新教的影響下に多くの作品を送り出した後に、だいぶ時を経てからラテン語の曲を作っています。
この間、音楽形式は、15世紀後半以降の複雑なリズムと華麗なメリスマが特徴的な「天にある神と天使らに捧げる」ものから、簡素なリズムと殆どメリスマを用いないメロディで歌詞を明晰に響かせる構成が特徴の「会衆の心に訴えて祈りを共にしてもらう」ものに変化しました。宗教改革後のイギリス宗教音楽形成に対するクランマーの影響の最たるものは簡潔への志向にあり、これがエリザベス治世の音楽の良さを生み出すのに貢献しました。メリスマはより簡潔に、また少なくなりましたが、消えてなくなることはありませんでした。結果として、編成は華美に流れることなく洗練の度を増し、透明さを保ちながら自由に編まれたのです。

東京スコラ・カントールムのこの度の演奏会ではルネサンス期イギリスの聖堂に響いた音楽の、上述のような個性の違いをもお楽しみいただければ幸いです。

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