危機管理・海外安全・防災
季刊インターリスク」1999年12月

新次元に入った海外安全対策(仮題)

      東海大学教授 首藤信彦

1 カオス化する冷戦後世界と海外安全

最近、二件の海外安全事例が新聞各紙の一面をカラー写真で飾った。一つは8月23日に発生したキルギスでの日本人鉱山技術者拉致事件がようやく解決し、人質となっていた4名の喜びに満ちた写真であり、もう一つは、10月22日にインドネシア海域で海賊に襲撃され、18日間漂流の後に救助された日本人船長ら17名のものであった。この二件の事例が表現するものこそ、「カオス化する冷戦後世界」における海外安全対策の困難さに他ならない。

このような事件の蔓延は、世界では、もはや国家の治安が及ばない地域や対象が拡大しているということである。キルギスタンで発生した今回の事件は、隣国ウズベキスタン政府打倒を目指すイスラム武装勢力「ウズベキスタン」が、キルギスタン政府の猛攻によりタジキスタンに逃亡して領内に立てこもり、3国から複数の交渉者が出て、しかも最終的にはおそらくアフガニスタン領内で解放合意が成立した(おそらくタリバンの影響下で)という、真の当事者、治安責任者は一体誰なのかも明確でないという現代の政治がらみのテロ事件の典型のような事件であった。

この事件で人質解放に身代金が支払われたか否かが問題となったが、おろかな疑問というほかない。何らかの対価が得られずに、自分の勢力が抹消されるような危険を武装勢力が冒すはずはないからである。

インドネシアでの海賊襲撃事件では、アルミニウム塊を満載した8千トン近い大型貨物船がスマトラのクアラタンジュン港を出港後、水先案内人下船後わずかの時間後に海賊に襲撃されたという。今回のケースは、これまでも指摘されてきたインドネシア海域の治安状況の悪化というより、航路や積荷に関する情報流出など、港湾当局関係者の関与すら疑われて不思議ではない状況であろう。  

このように、現代の海外安全問題はこれまでのような、基本的には安全で平和な場所に勃発する意図せざる事件というより、「カオス化する冷戦後世界」という危険を基調とする環境で、別な言い方をすると、無法地帯が拡大し国家の治安能力が低下している状況の中で、どのようにビジネスを成立させるか...という次元の異なる問題となってきているのである。

2.メガリスクとしての海外安全問題

 冷戦構造崩壊が国家の力を弱体化させていることは理解されているが、同じトレンドが現実に海外安全問題に及んでいる。たとえばインドネシアである。東南アジアで共産主義勢力が浸透するのを阻止する役割を担っていたスハルト政権は98年5月の騒動であっけなく崩壊した。さらに、東チモールでの独立の賛否をめぐる住民投票では、投票後の騒擾に見られるように、インドネシア軍も警察も暴動を傍観し、積極的に治安維持に努める行為には出てこなかった。要するに、本来、主権国家が守らなければならない治安維持機能を放棄したことに等しい。

インドネシアでは今年6月に初めての民主選挙が行われ、暴動の発生を恐れて多くの外国人駐在員や華僑系ビジネスマンそしてその家族がインドネシアを脱出し、日本人学校も一時休校するなど日本人社会も緊張したが、その一方で、インドネシアのドル箱とも言うべきバリ島のような観光地では暴動は発生するはずがないとして、これまでどおり日本よりも多数の観光客が押し寄せていた。しかし、そのバリで、この10月の大統領選出に際し、バリ出身の闘争民主党指導者メガワティ女史が敗れると、大暴動が発生し、多くの日本人客が出国できなくなるという事態が出現した。インドネシアのように、日本がODAだけでも3兆円を超える債権を持ち、民間企業の投資を加えると9兆円とも言われるほどの国が、今後、アチェやイリヤンジャヤの独立運動、経済低迷と極端な貧困など問題が山積し、人々の不満が鬱積しているような状況で、日本企業や日本人派遣員とその家族が直面する潜在リスクは、ビジネスリスクと複合化して巨大なものとなろう。

インドネシアそして中国といった発展途上国だけでなく、多数の日本人がしかも各地に拡散して生活し活動しているような大国に関しては、これまでとは次元の異なる安全対策準備(投資といっても過言ではない)をしなければならないのである。万一アメリカのバブル経済が崩壊して、急激な景気後退が起これば、日本企業および派遣員に対して反発や脅威が加わる可能性も否定できないのである。

3.海外安全問題の拡大と対応の困難さ

 海外安全の対象である危険要素の現状を簡単に言えば、広域化・高度化・複雑化ということになろう。現在の海外安全事例の中には、金銭目当ての日本人家庭や特定の個人をターゲットとしたきわめて高度な攻撃が行われるものもある。地域によっては、日本人に対する憎悪の高まりなど、複雑な社会背景を持つものもある。キルギスタンの事例に見られるごとく、イスラム原理主義の中央アジアへの浸透のように、世界史規模の環境変化が事件の背景にある場合もある。

襲撃や誘拐などの事件が金目当ての犯罪者ではなく、何らかの政治勢力であった場合、警察の突入などの強硬手段や報復行為自体が将来のさらなる報復テロの芽となる場合もある。昨年の在ナイロビ米大使館爆破事件では、アメリカはスーダンにおける工場施設や事件の首謀者といわれるビン・ラーディンが居住するアフガニスタンに対して巡航ミサイルで攻撃したが、これに対する復讐テロはいまだに行われていないが、ビン・ラーディン側は必ず報復していると言明しており、予断はゆるされない。世界にはこのような紛争の在庫が集積しているのである。

広域化も、単に地域的な問題ではなく、戦争から地震災害などの自然災害、そして個人の家族の心理・精神問題まで多様なテーマの拡大が問題となっている。また一度発生すれば、海外安全問題の特質として、どの局面で問題が発生しようとも、その影響は企業にとって致命的なものとなるのである。ビジネスマンがテロの攻撃にあったり、誘拐されれば、企業側は企業イメージや業務の停滞そして対応費用によってダメージを受けるが、同様に、派遣社員のセクハラや現地不適応からの妻子の自殺などによっても、同様の深刻で広範な影響を受けるのである。

 特に、これまで、派遣員や家族をとりまく社会環境や、海外での社会生活にしのびこむ総合的な安全問題については、海外安全対策はなおざりにされてきたが、今後は単に住宅の防犯などではなく、コミュニティ関係、職場安全、セクハラ対策、夫婦双方が働く場合のリスク(たとえばメーカーに勤務する夫が担当している増資の情報を証券会社に勤める妻が利用すればインサイダー取引とみなされかねない)など、広範な安全対策を講じる必要がある。 

4.海外安全対策の課題

何よりも情報収集と分析が重要である。たとえば前述のキルギスでJICA派遣鉱山技術者4名が武装グループに拉致された事件も、この地域は古くからフェルガナ峡谷問題としてかなり知られた地域であり、ソビエト崩壊後、チェチェンやグルジア・アルメニアなどと同様に名だたる紛争地であった。このような地域に、安全教育や対策などほとんどなされていない日本人鉱山技術者が無防備に等しい状態で派遣され、結局は武装勢力に拉致されるという醜態をまねいた。外務省/JICAの言い分としては、秋野筑波大教授が射殺されたタジキスタン、紛争が多発するウズベキスタンと異なって、キルギスタンではこれまで深刻な事件は発生していなかったということであろうが、一見平穏で安全に見えるキルギスタンも、両紛争地に挟まれ、しかも事件が発生した地域はまさにウズベキスタン・タジキスタンと目と鼻の先の地域であった。 

企業各社の安全対策やマニュアル添付の危険度マップなどを見ると、危険度が国ごとに評価されているが、そここそまさに冷戦時代の産物であり、冷戦後のカオス化した世界では、危険度は国ベースでなく、地域ベースで計りなおさなければならない。情報収集と分析でむつかしいのは、この分野がかなり個人の資質そして訓練と長年の経験とを必要とすることである。事件後、外務省でも地域の危険情報収集のため、現地治安当局に勤務経験をもつ者を雇用したり、通信機器を前線配備したり、JICAに地域安全アドバイザーを置くなどの対応を言明しているが、日本には候補となる人物を抽出すべき母集団もなく、適切な訓練プログラムもないので、実際の効果は疑わしい。

 むしろ重要なのは、派遣側が素人を送ることの限界を十分に認識していることである。企業派遣は当然、業務に精通した人物が行くことになるが、そのような人物が安全対策のセンスや能力に優れていることは稀である。情報や連絡が途絶えた環境下でも危険を察知して、独自行動が取れる人物を派遣しないかぎり、企業側としては派遣を見合わせるか、徹底した安全対策を講じるしかないであろう。

 現代の安全対策に忘れてならないのは、事件が発生した場合の対策や解決努力はすべて公開劇場(オープンシアター)で行われるという現実に対する認識である。ペルー日本大使公邸占拠事件で見られたように、周囲を報道陣で囲まれた中での解決努力、キルギス事件のように、複数の交渉人が勝手にマスコミに状況を話す状況での対応など、事件発生後はすべての解決対応を公開の場で説明していく能力が求められる。無論、その背後ではさまざまな手段や交渉が秘密裏に行われなければならないわけで、このような複雑な情報管理とプレゼンテーションなど安全対策は高度化する必要がある。

5.求められる新次元での海外安全対策

日本企業に求められるのは次のような基本施策である。

1 物心両面での事前準備(プリペアドネス)

何が起ころうが、いかなる事態にすぐ行動を起こせるソフト・ハード面での準備体制が必要である。

2 状況判断(コンテクスチュアル)分析

この国は安全だとか、この政権は信頼できるとか、このホテルは防犯がしっかりしている、というような表面的・公式的な分析ではなく、実際にどうか、過去の状況とは変化していないか、最近起こった事件と関連は生じないか、など状況変化・危機要素変容に対応した分析

3 説明責任(アカウンタビリティ)

事件の背景、それまでに自社が採ってきた安全対策、現状と今後の対策など、第三者にきちんと説明できる能力の育成

4 派遣者の危険地域への派遣同(5 意(インフォームド・コンセント)

海外はもはや国内業務の延長ではない。現地の安全情報、安全対策の説明だけでなく、危険の高い地域への赴任の意味や、万一の場合にとることができる独自行動など、明確に説明し、派遣者の理解を確認することが必要である。

海外安全対策はいまだに、何か事件が発生するたびに対策の必要性が叫ばれ、事件の沈静化とともに忘れ去られる悪循環を繰り返してきた。もはやこのような場当たり的で後追いの対策では、カオス化する世界でのビジネスを続けることは不可能である。すでに十数年前から多国籍企業では、利益の3%から10%ちかくを安全対策にむけていることを考えると、日本企業の対策と派遣者への支援体制はあまりに貧弱としか言いようがない。また紛争やテロなどだけでなく、トルコや台湾の地震、アメリカのトルネード被害などの自然災害や、目前にせまった2000年問題など、家庭での安全対策までを含む広範な安全対策が急務である。

 

                  <<了>>

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