政治経済
紛争後平和再建期の経済政策

(1999年度経済政策学会報告)


紛争後平和再建(

PCPB)期における経済政策 

                    首藤信彦

開発の普遍性と特殊性

冷戦期には、開発は単にその実現を目指すだけでなく、その達成の度合いが、対立する陣営とイデオロギーに勝利しつつある指標として重視された。そのような目に見える成果を獲得するために、援助競争と表現されたように、アメリカとヨーロッパ先進国を中心とする自由主義圏そしてそれに対抗するソ連と社会主義圏は発展途上国への巨額の援助を行い、自己の陣営の拡大に努め、かくして、普遍的開発は、冷戦期においては「国際政治としての開発」としての意味が付加された。

 冷戦を一言で表現すれば、それは核戦争の恐怖の下での安定ということになろう。人類を何度も消滅できるほどの核弾頭とその輸送手段を抱えて、アメリカとソ連は、どんな局地的な紛争もやがては両陣営が核ミサイルを投げ合う核戦争に発展する可能性があったため、地域ごとの主導権を暗黙の内に認め、地域の安定をたもつために積極介入した。そしてそのような直接介入を回避するためにも、極端な貧困や低開発が紛争を引き起こさないように、また自由主義・資本主義陣営では、何よりも社会主義に魅力を感じさせないように開発を進める必要があったのである。この時期、普遍的開発の概念にも、時代が生み出した特殊概念が浸透し、開発概念に歴史的な進化という考えを追加した。その典型をW.W.ロストウの「経済成長の諸段階」に見ることができる。この時期、開発は、西洋文明を構成するさまざまな価値観と結びつき、経済的豊かさをその中心概念とするようになった。しかし、ここでは、たとえ開発が進み成長が続いても、非西洋の国家、12億もの人口を抱えた中国が大衆消費社会に到達することなどは期待されてもいなかったのである。

 開発は地域に住む人々の意思ではなく、国家の開発戦略として考えられた。人間や小集団の開発を論じたのは、皮肉なことに、経済学ではなく、組織の効率を高める必要に迫られた経営学であった。組織開発(OD:Organization Development)や人的資源開発(Human Resources Development)として発展した研究や政策提言は、今日、国家以外の開発を考える際に非常に参考になる内容を持っている

 ここで、執拗に開発にこめられた意味を分析しているのは、国家や西洋文明そして経済主義の価値が相対化している冷戦後世界において、われわれはどのような開発を考えなければならないかが、いまだ明確となっていないためである。

冷戦後世界と開発:総決算、カオスと複雑系の開発

このように、冷戦後世界における開発は、以前の冷戦期のものとは異なった状況環境(context)において、しかも新たに多様な要素とその相互関係が追加されている状況の中で実現されなければならない。現在われわれが直面する問題は、単に冷戦構造がもたらした構造的な歪みや、冷戦期に発生し、開発を阻害している要因だけでなく、冷戦構造の誕生により、それが凍結したさまざまな冷戦期以前の問題や植民地時代・帝国主義時代を通じて形成された構造的なゆがみから生じている問題をも解決しなければならない。アフリカの開発が難しいのは、なによりも、奴隷狩りから、植民地支配、冷戦構造期の体制間競争そして最近のグローバル市場支配まで、問題が歴史的に蓄積されているからに他ならない。そこから生み出される紛争の局面や特性も多様である。現在世界における開発は、何よりも紛争を前提条件に入れて考えなければならないが、そのような紛争においてすら、地域ごとの初期条件の違いを明確に認識してかからなければならないのである。誰も紛争を積極的に止めようとしないものであるから、紛争は激化し、永続化し、広域化し、さらに放置される。現代の開発は単に地域的に偶発的に発生する紛争ではなく、そのような「奔放な紛争」における開発であることを肝に銘じておく必要がある。先進世界の直接の利害関係が無いために放置されていく紛争の範囲も広がりつつある。連日のように報道された92年のソマリアの惨状は、ほんの数名のアメリカ軍人の死者の発生によって、国連PKOが撤退すると同時に報道されなくなり、われわれの認識域から姿を消した。しかし、それ以降もソマリアの紛争の状況は好転したわけではない。南スーダンにおいても、中央アジアやアフリカ各地においても、しかりである。カシミールの帰属をめぐるインド・パキスタン両国の絶え間ない武力紛争は、両国が核兵器の実験を現実化させたことによって、ようやく世界の注目を集めることができた。

 このように、放置された紛争、認識されていない紛争、そして奔放な紛争が、開発を必要とする地域に常態化しつつあるのが世界の現状である。開発と紛争という視点においては、紛争を開発におけるノイズ・レベルで把握するのではなく、むしろ紛争状態の存在を前提として、そこでの開発を考えなければならない。

 アフリカを例にとれば、南アフリカのマンデラ政権誕生やザイールの崩壊に典型的に見られるように、現在起こっていることは、「アフリカのビッグ・バン」に他ならない。支配と非支配階層の逆転、植民地時代と帝国主義時代に確立した国境線の変更すなわち、宗主国のパワーバランスの結果として成立した国境から、民族や諸勢力のパワーを基盤とする国境、さらに国家の範囲の変更が行なわれている。そこでは冷戦が育てた指導者の失墜、フランス語圏市場から英語圏市場への転換、それにともなう法体系、経済制度の改変など、これまでとは全く異なる社会システムが社会を管理することになる。

 ユーゴスラビアの解体も同様な状況環境(context)で把握することが出来る。ソ連に代表される中央集権的な社会主義政権の計画経済に対するオルタナティブとして、ユーゴの自主労組による運営や、個人が銀行口座を持ったり、外資導入を認めたりするような自由主義的要素を持った混合経済などが、西側にも高く評価され、そしてユーゴスラビアをチャンネルとして西側は社会主義圏に向けて広報活動を行なった。しかしながら、冷戦構造の崩壊とともに、そのようなユーゴの仲介的役割は価値を失い、それどころか、全面的に崩壊した旧社会主義圏と異なって、社会主義的システムを残しながら生き延びているユーゴスラビアが、残存する社会主義の砦として、攻撃の対象となり、さまざまな破壊工作が行なわれて、故チトー大統領の死後も分裂することなく生き延びたユーゴスラビアは短期間で分解されてしまった。

 そして今、インドネシアがそのような状況環境(context)において、国家としてのあり方を問われている。98年のスハルト政権崩壊までは、インドネシアの問題は東チモールの独立をめぐる騒擾であると把握されていたが、現在では西はアチェ特別州から、カリマンタン、スラヴェシ、イリアンジャヤ諸島の分離独立や連邦制への移行をも視野にいれた大規模な変動が予想されるまでにいたっている。

 このよう巨大な歴史の転換点のエネルギーに、個々のそして地域ごとの開発計画がどれだけ影響を受けるのか、その分析はいまだに端緒すら行なわれていない。

 開発にも、紛争にも、これまでとは異質な新しい要素が流れ込んできている。例えば、グローバル経済の浸透は止めようがない。集権的・閉鎖的・保護主義的な社会主義的システムが崩壊し、分権的小政府・市場経済・民営化・貿易と投資の自由化への変容、短期間に行なわれる巨額な資金移動や生産のグローバル化、WTOに見られる貿易自由化の促進、大量流通システムによる製品・農産品の流入などグローバル経済に特徴的な要素が大規模かつ急激に発展途上国の開発に浸透してきている。ここでは、これまでの小規模で緩慢ではあるが、地域レベルでの開発を進めようとするプログラムに深刻で本質的な影響を受ける。

 紛争においても、新しい要素が付け加わっている。例えば社会主義圏が崩壊し、ワルシャワ機構に帰属していた東ドイツやポーランドやハンガリーなどの東欧諸国がNATOに組み込まれるにしたがって、これまで正規装備兵器として配備され、同時に第三次世界大戦を予想して備蓄された膨大な軍備が、すべて廃棄物として破壊され、そして同時に大量に世界中に流れ出していると指摘されている。地域紛争はこのような流出小火器の蔓延によって、一層激化していくことが予定されている。

 ほとんど知られていないが、94年のルワンダ虐殺では、フツ・ツチ両民族の紛争だけでなく、さまざまな新しい要素が紛争を増幅し、虐殺を加速した。例えばカトリックにおける教義の変容などもその例である。植民地時代を通じて、ルワンダではカトリックがツチ系旧支配層と結びついて布教を行なっていた。ところが第二次世界大戦後は、植民地解放や独立運動とともに、やがてカトリックにおける一種の宗教改革である「解放の神学」を信奉する若い世代の司祭がルワンダに布教に赴くようになり、彼らはこれまで差別され虐げられてきた多数派のフツ系住民に、圧制者(この場合は、旧ツチ系支配階層)と闘い、権力を掌握することこそ神の道と説いた。この教義がフツ系住民に民族意識を高揚させ、ツチ系住民への反感を高め、94年の虐殺時にはツチ系住民を教会におびき出して抹殺するという行動に導いたと分析されている。

 現代メディアも紛争に新たな要素を付加している。ルワンダ虐殺では、「自由ミルコリン(千の丘)放送」という政党主導のラジオ局がフツ系住民に虐殺荷担を煽った、として非難されている。そこで放送された内容は、従来の政府や与党の公式見解やプロパガンダではなく、ルーシュ・リンボーに代表されるようなアメリカの扇情的なトークラジオの手法が使用されたと言われている。そこでは特に青年層の感情に訴え、ツチ系住民に対する憎悪の刷りこみ効果を狙った放送が行なわれた。

 現代の開発は、このように短期間で、圧倒的な量で進入してくるノイズやネガティブな新要素から、どのように本来のプログラムと対象地域を守るかをも考慮にいれておかなればならない。

 冷戦時代には、紛争は大なり小なり、基本的には社会主義対資本主義のような単純なイデオロギーに基づく紛争であった。しかしながら、冷戦後世界においては、宗教や民族・地域・歴史・科学技術などさまざまな要素に基づく紛争、二極対立構造ではなく、多極間のさまざまなパワーバランスが絡む紛争などが多くなる。すなわち、紛争は当該紛争の争点だけでなく、さまざまな要素・地域間の関係などが複雑に絡み合い、紛争は直接の関係者間だけでは解決できないのである。このように、現代の紛争は複雑系(complexity)における紛争であることを理解する必要がある。紛争を単純化して、把握し、問題解決を図るのではなく、複雑な紛争を包括的に複雑なまま理解し、関係する複数の要素とその関係全体を解決の方向に導く努力が必要となる。

 冷戦後世界における紛争は、このような複雑な問題を単純な要素に還元するのではなく、複雑に絡み合った諸要素の複合体として、その全体(whole)とそこでの諸要素の動態的な変化を把握しなければならない。

3.紛争停止から開発までの間のmissing link

 第二次世界大戦の末期に基本的な骨子が成立した国連の平和維持活動は単純な軍事行動を想定しており、平和維持活動を規定する憲章6章にも7章にも、軍事活動や武力紛争停止後に平和を回復するためにどのような手段が必要かなどは一切述べられれていない、というより想定されていない。さらにまた地域紛争の蔓延と共に必要性が生まれ、多用された国連平和維持活動(PKO)の基本的な考え方もあくまで武力紛争の停止であって、紛争停止から通常・正常の国家ないし地域に復帰するためにどれだけの資源と時間が費やされるか、それを保証する制度はどのように構築すべきかについては、ほとんど考慮されなかった。

 さらに紛争停止を求める国連の行為によってどれだけの損害が発生するかなどについても理解がなかった。例えば憲章7章に規定される経済制裁が好例である。1990年代で多用された制裁、例えば湾岸戦争以降のイラクに対する経済制裁、ハイチの軍事政権にたいする経済制裁、ボスニア問題に対処するためのユーゴスラビアに対する制裁などはいずれも対象地域のインフラや基礎的な経済基盤に深刻な影響を与え、対象国はいまだに正常な状態へ回復していない。

 このように、紛争停止のための一時的措置(stopgap)から、対象国なり対象地域が正常の状況に回復するためには、長期にわたる努力と特別な資源の注入が必要であるが、この部分が従来の開発の視点には欠落していた。

 このような状況は、開発に関係する国際機関、UNDPや世銀グループでもそれが実行する開発計画に深刻な影響を与えている。紛争が止んで難民が帰ってきても、多数の地雷が村落や田畑に敷設されていれば、農業に従事することも出来ず、結局は国際援助機関の援助に依存して国内避難民化状態が永続するか、あるいは都市部に流入してスラムを形成するしかないであろう。

 さらにこのような状況が続けば、農業に基礎を置く社会が回復し、開発への道を進めないことは明らかであり、開発プロジェクトへの世銀融資は永遠に回収できないことになる。そこで、世銀グループではPost Conflict Unit(PCU)を創設し、国連平和維持活動などで、紛争が停止し、国民再融和や平和再建活動が効を奏して通常の経済・社会活動が確立し、世銀に開発プロジェクト融資を求めるようになるまでの間を、地雷除去や兵士の動員解除まで、さまざまな紛争後平和再建(PCPB)活動に関与し、Post Conflict Fundを通じて融資を行なうようになった。

 開発を阻害する要素は、従来考えられていたよりもはるかに広範囲で多様なものであることが次第に理解されるようになった。現時点ですでに問題が表面化し、何らかの対応が始まっている分野だけでも、次のようなものがある。しかし、それも新たな紛争が始まるたびに、新たな課題が出現している。

 紛争地においては、何よりも安全に対する脅威のレベルを減少させないかぎり、平和再建も開発も行なうことが出来ない。地雷やUXO(不発弾など)が大量に埋設放置されている地域は、耕地としても産業用地としても利用できず、人々の移動すら十分に行ないえない。

 さらに、小火器が蔓延し、武装勢力がその組織を温存している地域では、住民側も自衛のために武装せざるを得ず、武装のレベルはかなり高い。動員解除が成功し、武装勢力が農民や市民として新たな生活を確立しないかぎり、少年兵時代からジャングルでの戦闘以外の経験を持たないゲリラなどは、結局、銃を使用する仕事に戻って行かざるを得ない。そのような流民化した武装勢力を犯罪組織が吸収して、犯罪組織の巨大化と政治組織化が各地で見られる。

 紛争地では、なによりも正義を回復する必要がある。虐殺や民族浄化が行なわれた地域では、殺戮を恐れて逃亡し、紛争後に帰還した難民・避難民と、その地域に踏みとどまった者との間の紛争、殺戮に荷担しながら、紛争後の体制にもぐりこんだ者とその被害者の家族など、新たな紛争の火種は尽きず、そのためにこそ中立公正な裁判制度や犯罪者をとりしまる警察の役割が重要である。しかし、皮肉なことに元警官や元公務員として治安維持の技術を持っている者の多くは、旧体制の手足として殺戮に参加したもの、言うなれば犯罪者である可能性が高い、またそのような者を法律の専門知識を持って裁く、裁判官や判事の多くは殺戮の混乱の中で、人々の憎悪を買い、殺害されたり、国外へ逃亡する者が多く、さらにまた裁判所などが破壊されたりして、正義の回復が極端に遅れ、それが民衆の間でのリンチや新たな社会紛争の源となる場合が多い。

 紛争後社会には、ともかく、そうした正式のガバナンスを回復するまでの緊急措置として、さまざまな便宜的な制度を構築する必要がある。例えば、ルワンダでは虐殺と内戦で無法状態になった社会に、法的秩序を便宜的に維持するために警察官にある種の裁判官機能をはたさせることが考えられ、ヨーロッパの法律専門家を中心とするNGO(Reseau de Citoyen)が警察官に研修を行なった。

 略奪と異なり、経済システムは公式・非公式チャネルが長期間かかって全体システムを作りあげているのであるから、紛争がひとたび激化して、そのシステムが大規模に破壊されると、紛争が停止したと言っても、その機能回復どころか機能自体を単独で再生させることすら難しい。

 紛争地では橋梁から、田畑の用水路までが破壊され、放置されている場合が多く。トラクターなどの農機具も手入れしないままに数ヶ月放置されれば粗大ゴミと変わらない。さらに、農民がひとたび先祖伝来の土地を離れれば、そこには短期間の内に、近隣の農民や別な地域で避難民化したり、これまで難民として海外生活を余儀なくされていた人々が流入し、その土地を占拠することになる。そうなると、帰還した難民と、現実に土地を占拠している農民との間で土地所有権をめぐって新たな紛争が発生することになる。地雷埋設地域では、地雷除去後の土地が一部の資本家や有力軍人の手に落ち、農民には戻ってこなかった。

 絶対的貧困状況にある人々の中にさらに避難民(IDP)が流れ込んでこれば、状況と社会関係を緊張させることは明らかであろう。

このような、農業など通常の経済活動が出来ない状況では、農民は環境破壊のもととなろうが、木を切って売らなければならないし、麻薬取引や木材・宝石など武装集団・犯罪集団の活動を支える戦争経済(War Economy ) に荷担していかざるを得ない。

 何よりも、緊急かつ包括的な難民・避難民対策を実施する必要がある。これまでの難民の定義は、あくまで人口の一部の人々が短期間、国境を超えて避難するとういう程度のものであって、一国の大多数の人々が一部は難民、一部は国内にとどまって避難民化するような状況、そしてそれが何年も続くような状況は想定されていなかった。

 またひとたび住民が土地を離れれば、新たな人口が流入し、難民帰還が困難となったり、難民となった人々が精神的なトラウマを抱えて、過去の生き生きとした生活に戻れないとか、鉄条網に囲まれたキャンプの中で生きる力と意志を失って行くとか、元の土地にもどっても、新たな生活を始める基礎資源と基礎条件が無いとか、難民問題はいまだにほとんどその本質も把握されておらず、したがって、包括的な対策もなされていない。

 

4.開発を阻害する環境的要素

 国連の平和維持組織が展開し、住民の殺戮や武力紛争が停止した地域は、一見すると平和再建過程にあるようであるが、実際は、紛争諸勢力が武力を温存しながら、状況を監視している状況であって、表面的な平和再建活動や開発活動などとは裏腹に、水面下では厳しい緊張状態が続いている。この時期に、動員解除、経済活動の活性化などの手段が効を奏しなければ、結局は経済が破綻し、不満を抱えた住民は再度、紛争を引き起こして行く。国際社会の経済制裁のような手段が、一般住民特に中流階級を窮乏化させ、民族主義急進派などに力が集中する結果をもたらす。

 また、当該地域が平和再建の努力を払っていても、周辺地域が不安定化したり、ならず者国家化したり、して戦争経済や麻薬・武器の密輸が常態化すると、社会の安定を保つのは非常に難しい。

 さらに、レアメタルのような希少資源の存在、水資源をめぐる競争や、資源が特定地域に偏っているような場合は、外部勢力がその地域の分離独立を図り、武装勢力に荷担したり、武器・資金を提供するような場合は、紛争の再発は避けられ無い。

 ハンチントン教授の「文明の衝突」ではないが、冷戦後世界において、民族や宗教勢力が国家と同等あるいはそれ以上のアクターとして国際政治に登場していることは否定できない。ボスニアでも、ルワンダでも宗教的要素が紛争要因の一つであった。紛争地あるいは潜在的紛争地では、国民再融和や民族融和ではなく、むしろ民族差別化教育が行なわれ、自己の帰属する民族の選民意識向上を図っている。また経済的、社会的に苦境に立たされた側は民族的な旗の下に終結する傾向があり、それを政治が利用することになる。このような状況では、開発への希望や明るい将来展望ではなく、民族存亡の危機が宣伝され、国際派や現代派は次第にその立場を失って行く。

 同様に、若者が将来に希望を持たない状況が生まれる。世代を超えてキャンプに押し込められているパレスチナの若者だけでなく、アルジェリアのように近代化が一定の成果をもたらした国でも、現実に若者の失業率が高く、将来に希望を持てない世代は、現世利益や開発の夢やぶれ、次第に「変わらない価値」として原理主義的な宗教やその運動にのめりこんでいくのである。

 紛争と開発のテーマには、現代社会の生み出した新しい要素も多く関係するようになってきている。地域紛争はそれぞれの当事者が世界各地にコミュニティを持っており、それらがE−mailやfaxなどで、緊密に連絡をとりながら各国政府へのロビイングを続けている。それが、当該国の国益や外交施策と結びつけば、そのようなロビイングは大きな力を発揮する。

 またグローバル経済の進行によって、開発はその津波のような影響を無視することができなくなってきている。紛争後における平和再建にはなによりも経済回復が重要であるが、そのような脆弱な経済システムは、現代のグローバル化した経済システムにさらされることになる。同様に、アフリカなど一部の紛争地は貴重な将来市場であり、その権益を巡って、アメリカんどが特定のグループと結びつき、これまでの社会・経済システムを否定する形で開発支援を行なう事態が見られる。

 そして紛争地では例外無くHIVの流行が見られる。それは兵士や民兵によるレイプであり、大量の若者が活動する紛争における売春などのセックス産業の隆盛、紛争と社会混乱によるエイズ教育や保健衛生体制の脆弱化などによって、どうしてもHIVの流行が避けられないためである。しかしその結果はすさまじい否定的な影響を開発と平和再建にもたらす。HIV問題を、同性愛者や麻薬の問題だけでなく、開発や紛争問題と絡めて正面から取り組む時代にきている。

 

紛争からの回復システム

 紛争要素は単独ではなく、すべてが複雑な因果関係を持って絡み合っている。さらに紛争解決手段もまた、その当初には予想もされなかった因果関係を生み出している。

 例えば、1991年にブルンジで行なわれた選挙は、無血クーデターで政権を取ったツチ系のブヨヤ大統領が実行したアフリカ初の民主選挙とでも言うべきものであったが、結果は人口の多数を占めるフツ系の大統領が選出された、この結果に不満を持ったツチ系軍部がクーデターを起こし、その後遺症が結果的に94年のルワンダ虐殺を誘導していった一因となった。

 長年、デュバリエ腐敗政権で混乱が続いたハイチで、解放の神学を奉じるアリスティド司祭が選挙で大統領に選出されると、軍部および警察がクーデターによりアリスティド大統領を追放した。国際社会は同大統領を復帰させるべく、軍部指導者のデファクト政権に揺さぶりをかけるために、経済制裁を実行したが、しかし、このことが逆に経済を疲弊させ、軍部や一部の資本化が密輸によって巨利を獲得し、その一方で石油が入手困難になったため、人々は木を切り倒して燃料としたが、このことが表土流出を招き、ハイチの環境は急速に劣化した。

 民族紛争で揺れるルワンダに、IFMは構造改革を要求し、民営化や公務員の削減などによって、経済の自由化・近代化のインセンティブとしようと図ったが、フツ系の指導層は、自分たちの権益が失われることを恐れ、ツチ系住民への圧力と搾取を強め、民族対立を加速させた。

このように、先進社会で良いように考えられた、あるいはそこで受け入れられやすい政策は、多くの場合、きわめて単純で現実の複雑な条件を理解せず、結果的に逆効果を生む場合もある。 

 冷戦後世界において国家のアクターとしての能力が低下しつつあることは事実だが、国家を中心とする世界像があまりに長期間、支配的であったため、国家以外の紛争解決システムを見つけることは非常に難しい。国連はそのような国家の限界を補完するはずであったが、現実には国家の意思を乗り越えるものではなかった。国連がそれなりの行動を採ったのは、国連自体というよりは、アメリカやヨーロッパなどの強国がリーダーシップをとったからであった。

 ヨーロッパでは都市国家の伝統からか、都市などの自治体が積極的に平和再建や人権活動に乗り出してきている。世界の紛争地の現場で、アムステルダムとかブレーメンなどと都市名の入ったT-シャツを着た若者が活躍している情景は心を打つものがある。

 衰退する国家の影響力に代わって、地域の役割は着実に増大している。ハイチの選挙監視では、国連よりも地域組織であるOAS(米州機構)が主導的役割を演じた。

 NGOあるいはCSO(Civil Society Organization)の役割については、賛否両論がある。大規模な援助活動から地道な平和教育まで、さまざまなNGOが活動しているが、その多くは、冷戦構造期の言うなれば国家がしっかりしていた時代のNGOであって、国家が溶解するような状況で、国家機能を代替しなければならないような冷戦後の状況には、理念的にも、ソフト・ハードそして資源面で対応できていない。その課題はきわめて大きい。

 NGOの限界を打ち破ったのが、国際地雷廃絶キャンペーンとカナダ政府主導のオタワプロセスであった。これまで遅々として進まなかったジュネーブのCCW(通常特定兵器削減条約)交渉の頭越しに、カナダ政府を音頭を取ってオタワに地雷廃絶に同意する国家の代表とNGOとを終結させ、そこの場での合意を軸に賛同者を雪だるま式に増大させ、当初否定的であったアメリカや日本までも巻き込んで合意の輪を広げ、結果的に国連に寄託して99年5月に発効までこぎつけた。

 ここで重要なのは、NGOが安全保障という本来は国家の中核的なそして排他的な分野に参入してきたことである。同じに、NGOの持つ決定的な弱点すなわち国際政治の舞台で、自己の主張を正式に伝える場と権限を持っていないという点が、小国家/NGO連帯によって突破されたことである。一見、オタワプロセスはノーベル平和賞をとったICBLの成功例のように見えるが、ここでの本当の役者はカナダ、ベルギー、ノルウェーといった、人口も経済力も必ずしも強大でない脇役国家であり、それらが、先鋭的なイシューを持つNGOと連帯して、国際政治に大きな力を発揮したことこそ注目されなければならない。

 冷戦後の地域紛争そして紛争後平和再建には、国民再融和・民主化・経済自立支援などが極めて重要であり、この分野こそNGOがその活動を活発化しなければならない分野である。同じに、国家はNGOと協力しなければ、この分野を十分にカバーすることが出来ない。

 また予防外交・紛争予防にも取り組む必要がある。予防外交分野のNGOとしてはインターナショナル・アラート(International Alert)などにより始められ、当初は円卓会議開催や早期警報などがその主要なスコープと考えられていたが、次第にこの分野のNGOも早期行動へなど、何らかの行動を伴うようになってきている。そのためには、従来のNGOが抱えていた児童問題、女性問題、人権問題、医療、教育問題などの分野だけでなく、より専門的な人的資源例えば軍事知識・経済知識・経営学の知識など、包括的な政策策定と実施に必要な資源を結集させる必要が出てきている。

 

 冷戦後世界における紛争と開発の関係については、研究すらまだ始まったばかりであり、現実の活動はいまだにアドホックな試行錯誤の段階にある。しかし、これまでのドグマ的な発想ではなく、新思考をもって問題を把握し、現場でそれを実験し、失敗例そして成功例の評価結果を、理論と政策にフィードバックしていくことが重要である。地雷除去における社会影響調査が必要なことと同様に、紛争後平和再建における政策はさまざまな要素を包括的に含み、それらの要素間の関連性を認識したうえで策定されなければならない。たとえば、紛争停止後の地域には何よりも紛争諸派の引き離し、動員解除、そして紛争当事者だけでなく住民間にも拡散している小火器の回収が必要となる。

 この点に関してはすでに国連においても、97年に国家が関与したねずみ講により国家崩壊を起こしたアルバニアにおいて、UNDPにより小火器回収プログラムが開始されているが、それも基本的には小火器に一定の金額を提示して買い戻す(buy-back)プログラムに過ぎず、小火器所有者に武器を手放す積極的なインセンティブとなっていない。結果的にbuy-back プログラムでは、使用不能になった銃や程度の悪い武器のみが提出され、紛争に使用可能な武器は隠蔽され、温存されることになる。

 歴史上,成功した武器放棄回収プログラムを見ると、そこにはより人々の心理面を把握した政策が加味されていることがわかる。たとえば明治維新の廃刀令による刀剣の放棄がある。そこでは、法律の施行と同時に、人々に武器を所持しているのが時代遅れで、文明開化に遅れるのだ、という意識の高揚が行われた。このような心理キャンペーンとの併用が、地域によっては四人に一人と言われる武士層から武器を取り上げることに成功したのである。

 現代の小火器廃棄プログラムいや紛争後平和再建のすべてのプログラムにこのような、キャンペーンをも含み、さまざまな社会・心理プログラムが組み込まれていなければならない。

 このように、紛争後平和再建時における政策は、制度的な対応から人々の精神・心理に対してのプログラムまで包括的である必要がある。残念ながら、現実の政策は、きわめて幼稚な水準にとどまっており、今後の改善が期待される。

 

 

参考文献

 

Hagen,E.,

The Economics of Development Richard D.Irwin Inc. 1968

Maclelland, E.C.,

The Achieving Society Free Press, 1959

Rostow,W.W.

Stages of Economic Growth Cambridge University Press, 1960

Boutros Boutros-Ghali

An Agenda for Peace 1992, supplement 1995

RWANDA ,Death, Despair and Defiance African Rights ed. 1995

Suto,N.

Prevailing Economic Sanctions in the Post-Cold War Era and Their Impact on Human Security in Matsumae,T. and Chen,L.C, eds.

Tokai University Press, 1995

Loescher,G

Beyond Charity Oxford University Press, 1993

The World Bank

Post-Conflict Reconstruction, 1998

Meyer, W.H.

Human Rights and International Political Economy in Third World Nations Praeger, 1998

Bhardwaj, R.C. and Vijayakrishnan, K.,

Democracy and Development Ashgate, 1998

Rubin,B.R

Cases and Strategies for Preventive Action,Center for Preventive Action, 1998

Carroll,T.F.

Intermediary NGOs KUMARIAN Press, 1992

Walzer,M.,

Just and Unjust Wars Basic Books, 1977

Harris,P. and Reilly ,B. eds.”Democracy and Deep-Rooted Conflict

HIDEA, 1999

首藤信彦「冷戦後世界と自治体の役割」(財)かながわ学術研究交流財団、1996年

 

 

教育・研究へ戻る