Trans Andes3, Salar de UYUNI and LaPaz /アンデス越え3、ウユニ塩湖、ラパス (2004.03.22-2004.04.15) サンペドロ・デ・アタカマで中一日を過ごした後、いよいよボリビア宝石の道へ向かうため準備を入念に行う。ウユニの町まで約3〜4日、必要な食料や燃料を補充しておく。平均で標高が4,000m近くなり道も相当悪く燃費が落ちると聞いていたので、ペットボトルに6リットルほどのガソリンを予備で持つことにした。バイクも各所を点検し、増し締めやエアフィルターの清掃などを済ませておく。準備を整えると腹ごしらえにレストランで昼食をとったが、店の前に停めておいたバイクが目にとまったのか、ドイツ人、英国人、アルゼンチン人のライダーの集団が声をかけてきた。彼らは近くのキャンプ場に今しがた入ったばかりで、横江がこれから出発するところだと伝えると残念そうに「GoodLuck!」と言ってくれた。 ボリビアの通貨の両替をしにバス会社へ行き、外に出てみるとなんとシート下から燃料がぼたぼたと漏れている。青くなってシートを開けてみると、燃料タンクの蓋にあたるプラスチックパーツに亀裂が入りまくり、燃料が滲み出していた。南米各所の厳しいダート走行のツケがきていた。これではとても宝石の道など越えられない。止むを得ず、先ほどレストランで会ったライダーたちの泊まっているキャンプ場へ移動した。ちょうど彼らも整備をしているところで、彼らを助けていた地元在住のスイス人メカニック、ニコライと出会うことができた。ニコライは燃料蓋のプラスチックパーツを外し、応急処置としてパテで埋めてくれる作業を引き受けてくれた。 そのキャンプ場で一緒になったライダーたちは実は2つのグループで、ドイツ人のミルコと英国人のボブがひと組で、あとはアルゼンチン人ライダーのチームだった。その日は彼らとアサドパーティをして過ごした。翌日、アルゼンチン人ライダーたちは日帰りで宝石の道の途中ラグーナ・コロラドまで行くと言って出発した。横江のほうもニコライが修理を終えたパーツを取り付け、問題がないことを確認して出発することができた。 サンペドロ・デ・アタカマからわずか40kmほどで2,000mも高度を上げる。もうすっかり高山病の気配はない。ボリビア国境もスムーズに通過して、宝石の道へと入ってゆく。道は砂利と砂まじりのダートで、なるほど相当走りにくい。平均時速20〜30kmで1日200km前後進めるかどうかだ。走り出してすぐにラグーナ・ベルデが見えてきた。リンカンカブール山の麓に白く輝く眩しいほどの湖だ。ウユニ塩湖までのこの宝石の道は、アンデス山中に点在する美しい湖をつなぐルートで、アンデスの風にさざめく湖面が宝石のように輝くということで「宝石の道」と呼ぶらしい。ラグーナ・ベルデを過ぎ、しばらく高原地帯のダートを走っていると、今朝先に出たアルゼンチン人ライダーたちが戻ってきた。ラグーナ・コロラドはどうだった?と聞くと、「ラグーナ・コロラドなんてとんでもない。道が悪すぎて途中で引き返してきた。」という。地元南米のライダーがきついと言うからには、相当しんどいのだろう。どいうらさんからラグーナ・コロラドの先はもっと道がひどくなる、と聞いていたので、いっそう気を引き締める。 ラグーナ・コロラドまでの途中にラグーナ・サラダという湖がある。宝石の道初日の停泊地はここだ。ここには湖岸に温泉が湧いているところがあり、その横でテントを張ってキャンプにした。湯温は少しぬるめで浅いが、高山の低い気温の中では快適だ。日が沈み、湯煙の中で満天の星空を眺める。今回の旅でこれ以上ないといった最高の夜だった。 夜が明けると一転、地獄がやってきた。 朝、起きてのんびり温泉につかっていると、ジープツアーの集団が次々やってくる。彼らがわいわいとやっている横でのんびりと朝食をとり、ゆるい時間を過ごしていた。エンジンをかけようとすると、電子制御の中枢部分付近で異音がしてエンジンがかからない。電装系の問題が生じればお手上げだ。接触不良ではないかと思い、ばらして確認してみるが分からない。助けを求めようと思ったが、午前中賑やかだったツアーはすでにいなくなり、誰も通らない。町はおろか歩ける距離に人はいない。冷たい風が吹きすさむ中、10時間近く誰かが通りかかるのを待っていた。。 夕方になってやっと観光で来ていたイタリア人の車が通った。彼らを捕まえて事情を話し、サンペドロ・デ・アタカマまで戻って救援を依頼することにする。バイクはそのままそこに放置し、荷物は近くの無人の小屋に隠した。彼らの車で国境まで戻り、国境管理事務所へ着くと「バイクを放置なんて、朝には無くなるぞ」と言われる。彼らがベストだという案は、今日中にバイクを国境まで運び、明朝ここを通る物資輸送のトラックに乗せてサンペドロ・デ・アタカマまで戻るという案だ。イタリア人たちもそれがいいということで、彼らと別れてボリビアの国境警備隊とともにランドクルーザに乗り、深夜の山道をラグーナ・サラダまで戻った。そもそもランドクルーザに横江のバイクが乗るのか、という疑問はあったが、いくつかのパーツを外して横倒しに突っ込むとなんとか後部座席・荷台に入った。隠しておいた荷物を拾い、国境管理事務所の家屋まで戻る。その日はそこに泊めてもらえることになり、簡易ベッドを用意してもらって眠った。 翌朝、昨日寒風にさらされていたせいか風邪を引いたようだ。火は使えたので、非常用の日本食をこしらえて、輸送トラックが来るのを待つ。この家屋にはトイレがなく、どこで用を足せばいいのか聞くと、「100m行くとチリ領だからそこでしろ」と言う。噂どおりボリビアとチリは仲が悪いらしい。国境警備隊の人々は親切で温かかった。昼ごろになって輸送トラックが到着し、サンペドロ・デ・アタカマへバイクを運ぶ。サンペドロ・デ・アタカマにはまだドイツ人ライダーのミルコが残っていて、彼を通じてニコライに再度ヘルプを頼んで原因究明をする。いろいろ試したところ、なんとバッテリーが死んでいた。電子制御の異音からてっきりコンピュータ周辺が壊れたかと思い込んでいたが、もっと基本的なことだった。いずれにしろ新品のバッテリーが必要だ。 ミルコの相棒のボブは横江と同じモデルのBMWに乗っているのだが、エンジン部分の故障で今チリ北部の大都市アントファガスタにいる。そこにBMWのディーラがあると聞いていたので、バッテリーを買いにバスでアントファガスタへ向かった。途中、カラマで売っていないか、いくつかの店に聞いてみたがチリでは同じものは扱っていないらしい。アントファガスタでボブと合流し、彼が修理を依頼しているディーラに行った。在庫はなかったため、サンティアゴのディーラから輸送してもらうことになった。チリではバッテリーは危険物で航空輸送できないため、陸送で2日かかる。ボブのトラブルはもっと深刻で、ドイツ本国からパーツを輸送依頼中で数週間かかるという状態だった。アントファガスタでは何もすることがないので、ボブと2人「暇だ、暇だ」といいつつ昼間からビールを飲んで過ごした。 バッテリーが到着するとボブと別れ、サンペドロ・デ・アタカマに戻る。ボブの修理が長期化しているのを受けて、ミルコもまたウユニ塩湖を経てボリビアの首都ラパスまで移動するところだった。10日後にはミルコの彼女がドイツからラパス入りするので、ラパスまでミルコと同行することにする。出発直前に宝石の道を下ってきた日本人ライダードリーマーヨシさんに会った。道中、6回ほど転倒したらしい。しんどそうだ。 再び国境を越えて、宝石の道へ。相変わらずひどい道で、ふと後ろを見るとなるほどミルコがこけている。彼はホンダのアフリカツインに乗っているのだが、けっこう重いらしく一人では起こすのが大変らしい。一緒に起こして、また走り出す。バッテリーが死んだラグーナ・サラダを経て、その日はラグーナ・コロラドにある宿に停泊した。周辺は細かい砂利が深く、走行がひどく困難である。翌朝、ラグーナ・コロラドのフラミンゴの群れを見つつ、高原地帯へ入ってゆく。この高原地帯はいくぶんか走りやすかった。途中、美しいラグーナ(湖)と奇岩群を越えてチグアナ塩湖へと、厳しいガレ場を下ってゆく。この辺りから天候が崩れ始め、チグアナ塩湖上を通過するときには雷雨になった。雨季の終わりのこの地帯は、泥沼化していて4輪のジープならともかく、バイクでの走行は困難極まりない。路面はつるつるとすべり、泥がホイールにこびりつき動きが止まる。先行していたミルコがまた泥ですべって転倒している。これ以上はもう動けない。雷雨がひどくなる中、来た道を戻るか相談する。あの悪路をまた戻ることを考えると気が遠くなる。すでに宝石の道は半分以上来ている。 近くにチリのカラマとボリビアのウユニを結ぶ鉄道が通っていた。週の半ばに一便だけ列車が通る。その日は火曜だったが、列車が来ないことを祈り、バイクを鉄路に乗せてチグアナの軍施設まで走行することにした。鉄路は1mほど高いところにあるので、2人がかりでバイクを押し上げる。泥にまみれながら、なんとか乗せられた。もうウユニ塩湖は後回しにして、ウユニの町へ直行することを考えたが、軍施設まで行っていろいろと情報を聞くと当初の予定通りウユニ塩湖へ向かったほうが良さそうだった。次の停泊地サンファンまでは山沿いの塩湖を迂回するルートをとり、ずいぶんと遠回りをしつつもサンファンに辿りついた。 3日目、泥を落としてウユニ塩湖へ向かう。一転して今日は快晴だ。小さな村や軍施設が点在しているせいか、道はそれほど悪くない。2時間ほど走ると、真っ白に輝く塩の大地ウユニ塩湖が姿を現した。岸の端から端まででも100km以上、塩の総量20億トンの塩の塊だ。ここまで通過したいくつかの塩湖は、塩まじりの中途半端な塩湖だったがウユニは違った。地平線まで見渡す限り、塩である。塩湖南岸は塩が水を含んでいて、走行が可能か怪しかったが、湖上を走り出してすぐに乾いた塩だけの世界に変わった。硬く締まった塩の湖上は、バイクはおろかジープでもびくともしない。障害物は一切なく、本当に目をつむったままでも1時間は走行できる。地平線まで白一色の世界が他にあるだろうか。ミルコとふたり、塩の湖上で狂喜してはしゃぎまわる。 ウユニ塩湖の中ほどにあるインカワシ(魚の島)に寄り、ウユニの町へ進んだ。町へ着くと真っ先にバイクの塩洗浄。ウェア類もすべて塩抜きを行った。ウユニの町で宝石の道の激走の疲れを癒し、次の世界最高所の町ポトシへと向かう。 ポトシは鉱山の麓に広がる世界最高所の町である。標高は4,000mを越える。鉱山労働者の町で、活気づく町の雑踏が不思議な心地良さを誘う。サンペドロ・デ・アタカマ、ウユニと観光客しかいないような町が続いたため、ポトシの飾らない町の雰囲気はほっとする。ここでは鉱山ツアーに参加してみた。珍しく観光なぞをしてみる。鉱夫への土産として酒とコカの葉を買わされ、坑道へ。現役の坑道なので、鉱物を掘って運ぶ労働者が行き来する中を進んでいく。ここでは実際に壁に穴を開けてダイナマイトを設置して、爆破させるところまで見せてくれた。狭い坑道でダイナマイトが破裂する瞬間は、本当に心臓が吹っ飛ぶ思いをする。それ以外の時間は、鉱夫たちと買ってきた酒をまわして飲んだくれていただけだった。長時間坑道で働く彼らは、酒とコカの葉なしではやっていられないらしい。大変な重労働である。 午後は一人でポトシ郊外の温泉に行ってみた。情報不足で湯には入れなかったが、湧出する温泉をいくつか見た。翌朝、次の町スクレへと出発するが早朝から停電で給油ができない。横江は前日に給油してしまっていたので問題なかったが、ミルコがしていなかったので電気が復旧するのを待った。給油所の前で道を行く車を眺めていると、「○○教習所」「箱根温泉旅館△△」「□□幼稚園」といった日本の中古車が往来している。日本の中古車をそのままに使っているのは、ウラジオストック以来久しぶりだ。予定通り昼に電気が復旧して給油を済ませる。近くにポトシ名物「石のスープ」を食わせるレストランがあったので寄ってみた。スパイスの効いたスープに焼けた石を放り込んであり、面白い。味もかなりいける。ボリビアの食事はまずいまずいと聞いていたが、チリ・アルゼンチンよりだいぶましのように思える。 ポトシからスクレまでは舗装がされており、快適なワインディングロードを快走。条例で町の建物を白く塗らなければならいという、白い美しい町スクレに難なく到着した。美しい町並みを見ていると、ボリビアが南米最貧国だというのが信じられない。スクレの町は一泊だけして、サンタクルスへ向かった。ラパスに直行するミルコと途中までは一緒に行き、幹線に出たところで別れた。深い森と渓谷を行くそのルートは道が悪く、振動が厳しい。振動でネジがとんだり、ヘッドライトの固定部分がゆるんだりと、あちこち消耗が目立つ。ミルコと別れてからは全線舗装だと思っていたが、そこは旧道で壊れた舗装とダートの道だった。旧道のわりには交通量が多く、大型車の巻き上げる砂埃がひどい。しばらくすると雨になり、今度は水を含んで泥だらけに。道路が舗装されていることを前提に同日中にサンタクルス入りするつもりだったが、これでは到底無理である。途中、宿をとり翌日サンタクルスへ到着する。 サンタクルスへ近づくと、気候が亜熱帯となる。ここ1週間はずっと標高4,000m付近の涼しい高所にいたので、暑さが体にこたえる。大都市サンタクルスへ着くと、まずはけんの店に行った。店のオーナーのけんさんはかつて同じようにバイクで旅をしていたライダーで、ひょんなことからサンタクルスでラーメン屋を営むことになった人だ。昼にラーメンを、夜はビールに焼き鳥で久しぶりに日本の食事を堪能した。鳥皮の焼き鳥が絶品だった。けんさんの紹介でサンタクルス近郊のコロニア・オキナワへ行ってみることにする。戦後沖縄から移住してきた人が暮らす、日系人の村だ。遠い南米のボリビアにあって、沖縄の雰囲気を色濃く残している。農協で働く田辺さんは「旅が終わったらセニョーラ(彼女)を連れて、ここに来て牛を飼って暮らすといいさ」と言ってきかない。この日、横江は34歳になった。 サンタクルスを出る前に、またけんさんのところで昼飯を食う。サンタクルスからラパスへ向かう道は新道と旧道があって、全線舗装されているのが新道のほうらしい。ところが3ヶ月前に川を渡る橋が落ちてしまったらしい。それで道の悪い旧道の交通量が多かったのだ。川は木船で渡れると聞いたので、新道を進んだ。亜熱帯のジャングルを行くルートを再びアンデスへ向かう。山岳地帯へ入る手前で、トレーラーが数キロに渡って停車している。対向車線を進むと、今度は道幅いっぱいにトレーラーが斜めに停車してあり、運転手は車体の下にハンモックを吊り下げ寝ている。なるほど、完全に身動きできないわけだ。バイク1台なんとか通れる路肩を進み、川に出た。見事に橋が切れて、落下している。道路を下りて、深さ50cm幅10数mの川を何本か渡り、大きな河岸に着いた。わりと丈夫そうな木船が乗用車を渡している。渡ったところでトレーラーで塞がれたあの道をどう行くのか疑問だったが、とりあえず自分が渡ることが先決だったので船渡しのおじさんに乗せてもらうようにお願いする。 無事川を渡ると標高をぐいぐいと上げていく。密林を抜け、また高原地帯に出ると気温が低くなってきた。コチャバンバで一晩過ごそうかと思ったが、この町はなんだか好きになれなかったので、食事だけして通過する。そのまま首都ラパスへ向かった。山あいの小さな村を途中で見かけたが、おとぎ話に出てくるような素朴さで悪くない。ラパス手前で夜を過ごし、首都ラパスへと到着する。 首都ラパスは標高3,650m、すり鉢状の盆地に広がる世界最高所の首都だ。周囲は5〜6,000m級の高山に囲まれている。町がすり鉢状なので、どこへ行っても坂道で歩いていると息がすぐに切れる。先に到着しているミルコたちの宿に書き置きを残し、昼をとっていると道路わきに見覚えのあるアフリカツインがいる。ミルコとそこで再会した。その日は夕食を共にする。ボブはまだアントファガスタで足止めらしい。ラパスからはペルーのプーノへ抜ける予定だったが、どうも途中のチチカカ湖南岸の町で道路封鎖があり、通れないらしい。解除の見込みがないため、仕方なくチチカカ湖北岸からペルー入りするルートをとった。高台からチチカカ湖を見渡す景観のいいルートで、途中までは道も舗装されていた。国境付近は悪路でしんどかったが、明るいうちにボリビア側の国境の村プエルト・アコスタに到着。このルートはバスが通れない山道のため、旅行者はほとんど訪れることはない。宿の少女たちが珍しがって「日本語話してー」と寄ってくる。 一夜明けて国境へ向かう。きついガレ場を越えて進むと、国境らしき小屋がいくつかあったが完全に閉まっている。不安に思いつつ、もう少し先に進んで歩いていた地元のおばちゃんに「ここってもしかしてペルー?」と聞くと、そうだと言う。なんと国境が閉まっていた。アコスタの町に戻り、人に聞くとおそらくセマナ・サンタ(聖週間)だから休みなのだろうという。さすがに1週間もここにいるわけにいかないし、手持ちのボリビア通貨も底をついていたのでラパスへ戻ることにした。まだチチカカ湖南岸の道路封鎖は解除されてないらしく、もう一度チリのアリカに抜けてパンアメリカン経由でペルー入りすることにした。 ラパスからアリカへの道は、これが散々苦しめられたボリビアの道かと驚きを隠せないほどのきれいな舗装路である。このルートはボリビア側のサハマ国立公園、チリ側のラウカ国立公園を通過する南米でも有数と思われる美しく快適な道だった。前回と違い、今回は天候も良くきれいどころの話ではない。南米をオンロードバイクで旅するライダー、ダートに疲れたライダーは必ず通るべき道であろうと思う。チリ国境の手前で、また温泉に立ち寄ってみる。チリ側に入り、アリカへ向かう砂漠の渓谷を走っていると、反対側からボブが来た。やっとパーツが届き、修理が終わったらしい。再会を祝し、いつの日か日本でまた会うことを約束して別れた。(ボブはこの先も数年間にわたり旅を続け、2年後くらいに日本を通過する予定。) 日は暮れてしまったが、再びアリカに到着。ボリビアから来ると、チリの町は物資が豊富で近代的な印象を持ってしまう。ボリビアの旅は最高だったが、トラブル続きでどうにも時間を費やしてしまった。現在、4月中旬。まだチリにいる。アメリカは遠い。 気合を入れ直して、「大北上」を開始する。 |
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