あさのたくやのざっきちょう TakuyaAsano Web 令和2年〜
『ハリーの災難』(1955年)アルフレッド・ヒッチコック監督作品を観た。
美しい自然の景色で映画が始まり少年が森で男の死体を発見して知らせに
家に戻る。近くで狩りをしていた船長がウサギを撃った流れ弾で死んで
しまったのかも知れないと悩む。のどかな町で住人同士は、知り合いだ。
そして何故か皆が通りかかる森なので関わってしまう。死体があると
面倒なので埋めてしまおうとするが結局、掘り出して医者に検死して
もらうと心臓麻痺で病死していたので事件でないという結末だった。
死体を勝手に動かすと現在では、犯罪になるが昔は、緩かったみたいだ。
保安官助手の母親の店に電話があって住人が集まっていて、近代美術の
画家が絵を並べてもらっている。突然に絵が高額で売れてしまう。現金
でなく地域の住人が欲しい物と交換になるがレジスターに狩りの服一式
とかダブルベットとかを、それそれが希望するが翌日に揃えると取引に
応じる方はスゴい。服のサイズか希望の物の色や仕様などアバウトすぎて
選んで揃えるのが大変そうだと思った。死体から靴を盗んだルンペンの
男は、靴を履いておらず足に布を巻いている状態だけど革靴は足に
フィツトするサイズで無いと歩きずらい。サイズの合う靴を探すのは
実際には、大変だと思う。靴の場合は、服のサイズ直しみたいに出来
ない。死体を前を本を読みながら気づかずに通り過ぎる町の医者は、
現在なら歩きスマホで注意されそうだ。お笑い番組のコントみたい
感じだった。履いていた革靴とハリーの顔をスケッチブックに描いて
ハラハラすした。最初に見つけた子供が、同じ状態になった死体を
見つけて母親に知らせるラストでハリーの災難は終わった。
子供には、心臓マヒで死んでいた人だと教えられる。大人達が事故を
心配して死体を埋めたりした事も知らないままだと思う。
コメディータッチに人を死を表現したのは、元気に散歩してピンコロで
看病や介護を必要としない死に方みたいだ。ものすごく愛されていたり
好かれたり嫌われたり恨まれたりもせず。結婚した相手もドライで
長年連れ添ったり深く愛し合ったりという関係でなさそうに見えた。
あまり感情を移入しないで弔える微妙なバランスだった。発見した子供の
トラウマにもならないで済みそうだった。映画の中の会話に古い街道で
幽霊馬車が出るとち言っていたら知っている人が歩いているだけだった。
遺体を埋めたり掘り出したりする場面は、話の流れとスコップを持って
いる場面で分かる演出になっている。『幽霊列車』 (1978)岡本喜八監督
の駅で乗った人間が1人消えて俳句仲間が死人が出たら村の評判が悪く
なるから皆で埋めて隠そうとする話で偶然に死んでしまったので殺人
みたい残酷な事件でなかったというオチに近いと思った。
ハリーは、病死で気の毒だったが関わった人達も災難だったような
話だった。昔は、検死して死因をハッキリさせる技術が今みたいに
正確でなかったから突然死は、死因の特定が大変みたいだ。
推理小説で最初に死体を見つけると第一発見者で疑われるから通報
しないで次の人に通報してもらって見なかった事にした方が面倒事に
巻き込まれないとちいうノリがあったみたいだ。怨恨が動機のサスペ
ンスよりは、気軽に疲れないで鑑賞できる映画だった。
『閉鎖病棟−それぞれの朝−』(2019年)平山秀幸監督作品を観た。
いきなり絞首刑の執行場面から始まって執行後に蘇生してしまい
精神病院を、たらい回しにされている。殺人事件で死刑判決になる
事件は、寝たきりの母親がいて妻の所に役場の男性が仕事で来ている
うちに妻と肉体関係を持ってしまっていた。その不貞行為の場所に
帰ってきてショックで家族と間男を刺し殺して死刑判決を受ける。
執行は、何度も出来ないみたいだ。命を取り留めたが車椅子になり
身体と精神に障害が残ってしまう。そして何年も精神病院に閉じ込め
られている。作業療法の一環なのか陶芸をして精神を安定させる為に
小屋がある。
精神病院の入院患者の背景は、悲惨で気の毒で複雑だ。月に一泊の
外出許可を貰って家族の所に変えると言って出かける初老の女性は、
身寄りが無くビジネスホテルみたいな所に一泊して病院に戻って来る
のが楽しみで周囲の患者に孤独を知られないように気を使っていたが
一泊の外出に出かけて海の側で死亡して骨になって病院に戻って来る。
他の患者は、衝撃を受けていた。殆どの患者は、思いやりや周囲に気を
使って生きているが、凶暴性のある粗暴で、病院のスタッフや入院患者
から嫌われている若い男が、親から性的虐待を受けて自閉症で入院して
いる若い女性を陶芸の小屋で殴って強姦して少女は、被害を言葉で伝え
られず、現場を目撃して写真を写した別の男と知的障害があり職員に
報告できない。唯一の信頼できる車椅子の梶木秀丸にカメラのデータを
見せる。秀丸は、起こった事態を知り陶芸小屋のナイフを持って少女を
強姦した粗暴な男が因縁を付けて襲ってくるように仕向けて襲って来た
所を刺して殺してしまう。そして再度、逮捕されて裁判になる。
病院の職員や暴行強姦された少女が法廷で証言してくれるが刑務所に
行れられ車椅子から自力で立ち上がる。この場面で映画が終わりエンド
ロールになった。立ち上がる場面で終わらせる事で希望を感じさせて
いると思った。裁判の場面はあったが、結果は分からないままだった。
閉鎖病棟の患者は、外出許可の時に甘いお菓子を買って来たり気づかい
や思いやりがある人が殆どだ。昔の児童相談所は、不良少年を相手に
していたとかで虚弱児や被虐待児(虐待の被害)をケアするのが苦手で
傷を大きくしたらしい。ライオンの檻にウサギを入れたらいけないと
感じた。
実際の病院なら患者同士の争いを避けるため凶暴な患者は、暴れたり
職員を手こずらせると薬で落ち着かせたりクワイエットルームみたいな
個室に入れられると思う。病院の管理責任が問われそうだけど精神院の
場合は、手間の割に手厚い治療が出来る程の予算が出ないみたいだ。
映画のロケに使った病院は、老朽化していた。新型コロナにも注意が
必要な集団生活を支える医療従事者や病院で働く人には、頭が下がる。
精神の患者さんの中には、家族や近隣に迷惑をかけて隔離される人も
いると思う。学校の集団生活に馴染めず家族に当たり散らすとか部屋に
引きこもったり様々みたいだ。世間から蔑まされながらも懸命に
生きようとしても偏見に耐え切れず爆発する人もいるかも知れない。
子供の時に、親から普通に愛されて正しい養育と安全で適切な生活の
場所があれば良いのだが、扶養能力の無い男女は、避妊もいい加減で
望まない妊娠や出産から乳幼児の殺人や児童虐待を起こしてしまう。
核家族化と転勤を繰り返す親に育てられると住み続けられず学校を
転校して人間関係を維持するのが難しいまま関係障害を抱える人も
いる。人間関係が作れないと仕事や恋愛が上手く出来ない。性欲を
抑えられず相手と肉体関係を持っても産み育てる事まで考えていない。
子供部屋に知育玩具と本と学習机を揃えると学力に向上がみられる
らしい。都会に住んでいると大学進学や就職試験を受ける時の交通費
や大学に親元から通える事で進学しやすい。しかし都会で、庭付きの
一戸建てにマイカーのある住まいを得るのは難しい。
何かを始めるのにキッカケと環境は大切だ。
絵を描く環境と場所・書を極める環境と場所・音楽を奏でる
練習場所があり発表の場に参加できて理解と評価を得られる。
精神疾患は、安心安全に生活が保障されない身体的・精神的傷
が心にダメージを与えて子供の場合は、脳の形まで変化させてしまう。
大人になっても仕事を失ったり家族や家庭を予期せぬ事で失う事が
ある。社会の変化に対応できないまま精神を病んでしまう事は、誰に
でも起こり得る。長時間残業で自殺する事件もあり労災認定される
事もある。家庭・学校・職場・社会が安心で安全で安定する事で
精神衛生と感染症予防に力を入れないと外国で起こっているデモみたい
事が日本にも起こると困る。人間はお互い助け合うことで生き延びて
きた。共同生活すると高齢になったり怪我をしたりする仲間がいる。
病気や障害のある人に寄り添う気持ちを持たなければ、人類は、
共同体を維持できず滅亡していたかも知れない。自分が死ぬとき周囲の
人を道連れにする人が稀にいる。精神を病んで刑務所で黄色い帽子で
周囲に襲い掛かる危険があると警戒されていた人が大きな事件を
起こし衝撃を受けた。親に恵まれない子供は、多く「子供の貧困」が
増えている。それに家庭の虐待や学校でのいじめが加わると正常で
健康に成長するのが難しそうだ。「他人のイヤがる事をしない」と
いう事より「他人の手を煩わせないと生きられない」精神の病気では
相手が腫れ物に触るように無理して合わせてくれる事を期待するから
余裕が無い状態だと関われない。
感染予防に気を使い更に精神疾患の患者を相手にする医療関係者に
は頭が下がる。以前に観た「クワイエットルームへようこそ」という
映画に感染症対策も加えたら想像を超える程に大変だと想像できる。
風邪をひいたら人に移すと治ると言っていた人が昔いた。
『閉鎖病棟−それぞれの朝−』は、重たく救いようのないテーマの
映画だが新型コロナの後の社会のありかたを深く考えさせてくれた。
社会的に弱い状態に皺寄せすると結果的に社会全体の脅威になるかも
知れない。いつのまにか減っていた保健所や児童相談所を増やすとか
して病気や怪我、そして精神衛生や公衆衛生を手厚くして伝染病の
感染を抑えられる体制に余裕を持てるようになってほしいと感じた。
困った子供は家庭で困っている子供の可能性が高いと聞いた事がある。
理解不能な凶暴なキャラクターでも幼少期からのストリーが加わるとと
生い立ちによって感情移入が出来きる事もあるので印象が変わるかも
知れない気もする。
『イエスタデイ』(2019年)ダニー・ボイル監督作品を観た。
ホームセンターでパートをしながらシンガーソングライター
をやっているジャック・マリクと中学校の教員をしながら
マネージャーを、やってくれているエリーが音楽フェスに参加する
事が出来るようにしたがフェスでは、小さなテントで、観客は、
少ない。音楽でメジャーになるという夢が叶わないと判断した
ジャックは、エリーにその話をして自転車で帰宅する途中に、
世界規模のブラックアウトという12秒間の大停電でバスに
跳ねられてしまう。前歯が2本折れたが幸い怪我は軽く障害も
残らず退院できる。事故の衝撃でギターが壊れたからエリー達から
代わりの、新しいギターをプレゼントされる。ジャックは、退院祝い
に来ている友人たちの前で、新しいギターでビートルズのイエスタデイを
演奏する。ところがエリーや友人たちは、その曲を知らない。初めて
聞いたかの様に反応する。変だと感じてジャックは、友人たちに
意識不明になって異世界とかパラレルワールドに転送されたと思わせる
ジョークを仕掛けらたかも知れないと思うが、パソコンでグーグル検索
でビートルズをいくら調べてもカブトムシとかは検索結果に出るが
ビートルスは出てこない。そしてアルファベット順に整理してある
自分のレコードのコレクションを探す。この場面は、アナログ世代の
共感を得られる作りだ。そしてコカコーラが存在しない世界でペプシコーラが
存在していた。ソーダ水最初に考えだされた物が存在しない世界は、ものすごく
世界に影響を与えて想像するのは難しい。バック・トゥ・ザ・フューチャー
みたいに社会構造まで激変しそうだ。『素晴らしき哉、人生』は、1人の人が
産まれなかっただけで世界はすごく変わった。イエスタディは、仕事も友人や
仲間や家族に変化が無かったが微妙に違った。ビートルズが結成されなかった
世界では音楽の歴史が、すっかり変化すると思うが他の有名なアーティストは、
存在していた。人との人との出会いによって起こる変化で歴史は、積み重ね
られている。本との出会いや映画との出会い。恩師との出会い。様々だ。
世界が微妙に違う状況だと知りジャックは、バーでレット・イット・ビーを
演奏する。その曲を聞いて感動した小さな録音スタジオを、やっている
ギャビンが、無料でCDにしてバイト先で買い物客のオマケに配布すると
地元の小さなテレビ番組に出演する事が出来る。ビートルズのイン・マイ・
ライフを演奏するとジャックのスマホに、有名なシンガーソングライターの
エド・シーランから電話かかってくる。冗談だと思ったジャックの家に、
エド・シーラン本人が訪ねて来る。そしてエド・シーランのツアーに
参加してほしいと誘われる。エドのプライベート・ジェットでモスクワへ行き、
ステージを成功させると、ジャックの才能に気づいたエド・シーランの
マネージャーのデボラは、ジヤックをロサンゼルスに呼び寄せる。
ロサンゼルスに連れて来られたジャックは、自分の記憶に残っている
ビートルズの曲を歌いレコード(CD)化する事になるがスッキリしない。
アルバムを作る為にビートルズの曲の中で歌詞を思い出せない曲があり
歌に登場しているリバプールに行き場所を訪問して、思い出そうとする。
ジャックは、アニメの聖地巡礼みたい感じだがビートルズが存在しなかった
世界では、リバプールは田舎の漁師町みたいだ。アビイ・ロードとか
ストロベリー・フィールド、ペニー・レインとかエレノア・リグビーの墓や
教会に行き歌詞を思い出していく。ジャックの友人ロッキーは、リバプール
に来たことがあると言っていた。リバプールに滞在していいる時にジャックを
訪ねてエリーと再会して同じ部屋で一夜を過ごせそうな雰囲気になるが、
一夜だけの関係になるのは嫌だとエリーはホテルの部屋から自分の部屋ら帰る。
次の朝、目覚めたジャックは、エリーにプロポーズしようと、駅に向かった
エリーを追いかけるが電車が出た後だと落胆する。しかしスマホに電話すると
駅のカフェで軽食を取っていて近くにいた。何とか話をしようとするがデボラ
から電話で、ロサンゼルス行きの飛行機に乗り込み会議に来るよう言われ、
エリーに思いを伝える事が出来ないままで、ロサンゼルスに行った。
ロサンゼルスでステージに立つジャックが、大きなステージにエリーや家族や友人
たちを呼ぶ。そしてビートルズのヘルプを、発表してショーは大成功する。
ステージの後で、ジロャックは黄色い潜水艇の模型を持った人を目にする。
バックステージに2人の男女が話をしたいと言ってくる。ジロャックは会って
話をするとリズと言う女性は、ジャックみたいにビートルズの記憶が残っているが
音楽が出来ないので歌を再現して広めてくれたジャックに感謝すると同時に
メモを渡してくれる。そこを訪ねると78歳になったジョン・レノンがいた。
ジョン・レノンは、家庭を持ち家族に囲まれて幸せに生きていた。音楽の道を
選ばず別の人生を生き続けていた。オノ・ヨーコと結婚したかは、判らなかった。
でもニューョークのダコタアパートで狂った男に射殺される事件は、起こらな
かったみたいだ。有名人になると今で言うとストーカーに殺されたりする事件が
増えたみたいだ。日本では、地下アイドルが殺される事件があったり手の届く
アイドルとスターという手の届かない芸能人の差が曖昧になった事も影響して
いるみたいだ。昔は、ファンレターを郵便で送ったが最近は、ネットでツイッター
で気軽にコメントできるので失礼で馴れ馴れしい事を書く人もいる。ローズマリーの
赤ちゃんと言う映画のロケに使われジョン・レノンが射殺されたダコタアパートの
の前を歩いた事があるので感慨深く鑑賞した。
ジャックは、ジョン・レノンに幸福な人生か聞きジョン・レノンは後悔している
ことは無いとジャックに言う。ミュージンャンにならなかった事を後悔していない
みたいだ。人が何かを目指す時にキッカケや目標を見つける出会いを得る。
ジョン・レノンと話しをしたジャックは、エド・シーランのショーに出演して、
エリーをバックステージに呼び寄せて大勢の前で、エリーに愛の告白をする。
更にステージで大勢の観客の前で今まで発表した曲は、ビートルズと言うバンドの
曲であり、今まで発表した曲は、無料で配信すると宣言してエリーと共にステージ
から去っていく。マスコミや、ジャックを売り出して儲ける予定のデボラは、激怒
するが逃げて、エリーと故郷に戻る。そしてジャックは、エリーと結婚して子供も
授かり、音楽教師に戻り学校で子供達にビートルズの曲を教えている。という
ラストだった。エリーがボルデモートを倒したハリーポッターみたいと言うと
ジャックは、ハリーポッターの記憶を持っていないというエンディングだった。
別のエンディングもありハリーポッターが産まれていないバージョンでエリーだけが
ハリーポッターを知っているパターンも特典映像に含まれていた。
ネバーエンディング・ストーリーのミヒャエル・エンデが居なければ魔法の教室という
短編小説がハリーポッターのインスピレーションになっいたとしたら影響があったか
無かったか気になる。アイデアを思いついたら資料を調べられる環境として一冊の本が
人生を左右したり映画から影響を受けたりはしそうだ。今日を生きていると沢山の
情報を見聞きしている。注意一秒怪我一生とも言うから瞬間を大切に過ごしたい。
コカコーラと紙巻タバコが無い世界でペプシが存在したり不思議な世界だった。
グーグルで検索できるのは今っぽいしアメリカのタクシーもプリウスに変わっていて
今の時代を感じた。映画が公開されたのが新型コロナでバンデミックが起こる前でも
あり大勢の観客がライブ会場に集まる場面などイエスタディーとトゥデイとトゥモロー
で世界が大きく変わる事があると深く感じた。人との出会いや一日一日を、より大切に
生きようと思わせてくれた。新型コロナの感染予防は過度のストレスがかかる。こんな
時こそ冷静な平常心を維持する事が大切だ。これからはマスクや手洗いなどエチケットや
マナーを丁寧に行い安全・安心に生きる必要が続きそうだ。握手やハグどころかお釣りの
受け渡しにも気を遣わないといけない。又、ボヘミアン・ラプソティーやイエスタディー
みたいに大勢の観客の熱気を感じる映画が作られる世界に戻ってほしい。
スポーツ観戦も応援する観衆のコミニュケーションが出来る方が楽しいと思う。
ダニー・ボイル監督は『スラムドッグ$ミリオネア』の監督でもあり良くできた映画だ
った。別の目標を見つけて別の人生を歩んでいたら、どんな人生になるか考えるが
人間は、誰でも人生は一度きりだ。沢山の映画を観て別の人生を生きた気分になる
のも良いと思う。映画の無い時代は、童話や小説を読んだが字を読むのは、集中力と
理解力が必要だ。昔はネットで検索できず知りたい事を調べるのは大変だった。
現在の若い世代は、ポケットにスマホを入れていて百科事典を持ち歩いている以上の
知識を得られる。ライフスタイルも価値観も大きく変化するかも知れない。
大変な状況の時代だが上手に活用してより良い未来にしてほしいと願う。ジャックの
場合は、ミュージシャンを目指して支えてくれる両親がいて、安定を求めたら教師に
なる事が出来て家族を持てる学歴や環境があった。奨学金が借金にならない国でもある。
日本の教師は、昔と違い不安定になった。子供が目指す職業の順位が下がっている。
若者の中には、支えてくれる余裕のある両親がいない人もいる。夢に向かってチャレンジ
して挫折した時に安定を求める時がある。その時にも受け入れて支えてくれる社会に
向かってほしいとも感じた。若者が冒険できる社会でないと変化が必要な時に対応が
難しいと感じる。最近のイギリスを舞台にした映画は『わたしは、ダニエル・ブレイク』や
『おみおくりの作法』といった重いテーマが多いのでイエスタディは、鑑賞した後で
深く考えすぎないで良かった。グローバル化した世界が新型コロナによって医療や福祉や
社会保障を拡充して公衆衛生に力を入れないと経済活動を安心して続けられない節目に
なったと思える。賑わいと活気ある世界に戻る為に感染拡大防止策は世界中で取り組まない
といけない。イエスタディは、昨日の事のような生活が突然変わったので心に響いた。
『予期せぬ出来事』(1963年)アンソニー・アスキス監督作品を観た。
英題は、THe VIPsでこの時代には馴染みない言葉だった。
オープニングで主な登場達の華やかな生活の場面が流れる。中には
没落貴族で屋敷の維持の為に地味に働いている高齢の婦人もいる。
エリザベス・テーラーとリチャード・バートンが離婚寸前の夫婦役で
出ている。夫と別れて若い恋人とニューヨークに行って一緒になろうと
する。金品で妻を自分の物みたいに扱っていたから金の無い若い男の
優しさに惑わされるが、夫が孤独になり自分を必要としていると気づ
いて2人で、やり直す決心をして飛行機に乗らず家に帰る所で終わる。
2人は、元の鞘に収まる。夫と若い男の会話に「施しは殺人だ。魂を
殺す。」というセリフがあり高い物よりも真心や気持ちがこもっている
事が大切だという事を気づかせてくれる。これが話の流れだが今の時期
に見ると考え過ぎてしまった。
映画が始まると赤い絨毯が轢かれるタイミングでVIPのタイトルが出る。
ロンドンのヒースロー空港だと思うが国際線で移動する人達の中で
特別扱いのVIPルームで、それぞれの身の上話や飛行機に乗る目的
が分かるように場面が変わる。登場する幾つかの人間模様が垣間見ら
れるので、それぞれの登場人物に興味を持って見られる。
VIPラウンジの客で映画製作者マックス・ブーダ(オーソン・ウェ
ルズ)と女優グロリア・グリッティ(エルザ・マルティネリ)は、
節税のため、今日中に英国を離れようとしていた。女優のグロリアと
プロデューサーのマックス・ブーダは、結婚して節税しようとしている。
現在ならセクハラとパワハラのダブルでTooMeeになりそうだ。
実業家で済界人のポール・アンドロス(リチャード・バートン)は妻の
フランセス(エリザベス・テイラー)を見送りに来たが見届けられずに
帰っていった。フランセスは離婚する決意を持っている。
マングラム・トラクターの社長のレス・マングラム(ロッド・テイラー)は
年若く意気盛んな実業家だが、巨大自動車メーカーに吸収合併されそうだ
だった。その買収の経過は秘書のミス・ミード(マギー・スミス)が。
よく知っている。その大事な時に、信じていた友人が会社の株を売りに
出している知らせを受ける。彼は即座に株の買い戻しを命じた。
絶望的な状況だとショックを受ける。実業家のポール・アンドロスが
妻と別れるように間男に小切手を切るが金で話が着かず小切手を破った時に
近くで話を耳にしたミス・ミードがマングラム・トラクターを助けてほしい
と言う。「偶然ロビーに居合わせた女に頼まれて驚かれるかも」と切り出され
ポールは、マングラム・トラクターを買収から救う。最後には、妻を取り戻す
事も出来る。ポールは、合同モーターズのマングムトラクターの買収の経緯を
知っていた。いきなりマングラムの社長秘書に頼まれたのには驚いたが、力に
なって投資する事にする金額が、くれてやろうとして断られ破った小切手と
ほぼ同額だ。ニューヨークの銀行からポールの銀行が融資する事に即決した
が、小切手の期日が間に合って助かる。買収出来なかった合同モーターズの
事は、映画に出てこないので感情移入は出来ない。ミードに会社を助けられ
たとマングラムは喜んでニューョークに電話する。マングムは若い経営者で
秘書のミードは、姉みたいな年の独身女性だ。飛行機でアメリカに戻ってから
どうなるか2人の関係が変わるか気になる。
ブライトン公爵夫人(マーガレット・ラザフォード)は飛行機に乗るのが
初めてなのでの飛行機に酔わないか心配している。文化財の屋敷を維持管理
するのに大変な思いをしている。偶然に屋敷を映画のロケに使いたいと言う
話になりブライトン公爵夫人に話すと自分の屋敷だと言ったので確認して
ロケの契約が決まる。映画のロケ地になり撮影期間の建物の使用料で維持費
が助かると喜ぶ。英国貴族でも屋敷の維持に苦労しているみたいだ。
VIPラウンジに居た映画製作者マックス・ブーダとは、偶然の出会いだ。
実業家で済界人のポール・アンドロスは、秘書が話をして偶然に出資して
くれる人がVIPラウンジに居た。予期せぬ出来事になっても良い結果に
なる。飛行機は、一日遅れるが予期せぬ出来事も偶然の出会いを活かして
人生万事塞翁が馬みたいに物語が進んでハッピーエンドで終わった。
エンディングにも赤い絨毯が登場した。カーテンで無く絨毯を使う演出も
当時は、斬新だったと感じた。物語が終わり空港のVIP担当は、次のお客
さんを迎える準備をしてる。また人間ドラマが繰り返されると感じさせる
終わりかたも良かった。
『500ページの夢の束』(2017年)ベン・リューイン監督作品を観た。
アンドレイ・タルコフスキー監督の『僕の村は戦場だった』で
印象的に感じた目のクローズアップみたい場面と宇宙空間を光が
旅する映像にナレーションが入る。宇宙空間を連想して「光は
目的地に着くまで何百光年も旅をする。孤独な旅は続く出会いを求めて、
でも永遠に着かず家も見つからなかったら?宇宙は広大で時間は
あまりに長いそして簡単に行方を見失いやすい」という場面から
始まった。それから精神に障害のある人のグループホームでの生活の
場面になる。挨拶に笛を吹いてコミニュケーションを取るのは
スタートレックの場面で「ボースンズ、ホイッスル(号笛)」
を使う場面があったのかも知れない。ピカードの笛かも知れない。
自閉症の少女とコミニュケーションを取るツールみたいだ。
日本の特撮ならマグマ大使を呼ぶ笛や犬笛といった所みたいだ。
自分で考え判断し行動する事が苦手みたいだ。自立支援施設で
シナモンのパン・シナボンを売る仕事をしている。指示を忘れない
ようにメモして暮らしている。信号を渡るのも信号の色を教えられ
たら、その通りにしか出来ない。赤は危険で黄色は注意で青は安全で
何のために決まっているのか規則が作られた理由まで考えるイマジ
ネーションが無いみたいで相手の気持ちを察したり自分の意思を伝え
たりが出来ないみたいだ。誰にでも意思や欲求はあるが、相手に伝えら
れなけば希望通りにならない。幼少の頃は言語化できないから相手の
同意を得る為に意思疎通して理解を得るように努力する。いきなり
要求して思い通りにならない。そこで癇癪を起こされると周囲は困惑
する。幼少の頃は、親が察して失敗をカバーするので問題にならない
が成人して言語で伝えられないと社会生活が出来ない。そして周囲の
人が異常に気が付くみたいだ。スタートレックの船には異星人のクルーが
乗っていて宇宙規模で多様性ががある。同じ船のクルー達はダイバー
シティー環境で生活している。スターウォーズより前から続いている
シリーズでアメリカは世界中の人が移民になり住んでいるから共感が
得られたのだと思う。姉妹の面倒を見ていた母親が死んで姉が結婚して
赤ん坊を産んだので赤ん坊の安全の為に施設で暮らす事になる。
幼少期のビデオを見ている場面があり親や姉は手の付けようがなかった
印象を受けた。そんな状態でも好きな事を見つけて集中てきたのが唯一、
スタートレックだ。しかもパソコンを使って脚本を500ページも
考えてストーリーにしてプリントする事も出来ていた。日常生活に
支障があるが頭を別の所に使い特殊な事に使う事があるみたいだ。
家を売って施設で暮らす事になった理由は、お金が無くなったから
なので脚本のコンクールで賞金を貰い買い戻せば元の暮らしが出来る
と思い込んでいるみたいだ。姉の家族と暮らすと赤ん坊に危害を加える
心配を恐れられている事には、気が付いていないみたいだ。
周りの人が事故や事件にならないように気を使って、安全を確認して
くれてている。自分の行動の後を予見出来ないと病院や施設でしか暮ら
す事が出来なくなる。今まで暮らした家からペットの犬を連れて施設
に入る事になるがスタートレックの放送は見られている。テレビは
見ているが録画したりDVDで見たりは出来ないみたいだ。日本の
児童養護施設なら犬飼えずテレビも自由に見られない。ビデオゲーム
だってテレビが共有で出来ない。テレビでスタートレックの脚本コン
クールを事を知るが周囲の人は、コンテストに出す為の脚本だとか
締め切りは何時までとかに興味を持たない。普段から意思疎通をして
いないので気づかれない。郵送では、間に合わなくなり施設を抜け
出してバスでロサンゼルスに向かう。失踪して施設の人が捜索願いを
出しす。そして他人事から保護義務がある事で当事者になる。
そこで心当たりを考えてロサンゼルスに向かった事に気づく。
パラマウントに脚本を持ち込む為に自分で目的地に向かう。バスに乗る
事が出来たがトラブルに何度も巻き込まれる。まるで初めてのお使いを
見ている気分になる映画だ。精神障害は人によって、日常生活を見守り
サポートを受ける事が必要な人がいる。その場合は、助言してくれる人に
よって運命まで左右されそうだ。言葉で上手く伝えられず相手に伝わら
ないと相手に怒りをぶつける事がある。ケアする側に洞察力がないと
関わる事が難しい。インクルーシブ教育で一般学級に入れると、先生の
目が届かず、お世話係になる子が疲弊する事もあるらしい。周囲は腫物に
触るように関わりたがらないと思う。そして24歳になったみたいだ。
応募する脚本は書けたが、締め切り直前に書き上げた為に郵便局が休み
なので発送すらできずに長距離をバスに乗って直接持参する。
日本なら祝祭日も開いている窓口のある集配局から速達で発送するなど
方法がある。アメリカの郵便は解らないが施設を抜け出して1人でバスに
乗って旅をして事故に巻き込まれグリンゴン語を話せるスタートレック
好きの警察に保護されなければ死んでいたかも知れない。施設の人は、
スターウォーズとスタートレックの違いが分からずカークって誰とか
スポックって何かも解らない。ダースベイターやスカイウォーカーを
知らないと映画を観ていない人だと思われる。脚本は落選して参加あり
がとうの手紙で満足して映画は終わり一件落着だった。
異質の光が何万光年も移動しても居場所に辿り着けない。カークと
スポックの2人がエンタープライズを失い遭難して死ぬ瞬間にスポックが
人間の感情を獲得するという脚本のラストまで痛い。架空のキャクターを
感情移入して小説や漫画を読み映画やドラマを観て楽しむ時に主人公や
悪役に脇役の誰に強く共感出来るかは、人それぞれだ。
ロサンゼルス行のバスの乗り方が分からずバス停の場所を事前に調べず
違うバス停でロスアンゼルスに行きますが?と聞いて殆どの運転手は、
行きませんとしか言わず、運よく1人の運転手が正しい乗り場とバス停を
教えてくれる。バスの乗るにはチケットを買わないといけなくてチケット
は往復か片道かと聞かれて往復を買う。バスに乗れたと思ったらペット禁止で
犬を乗せている事が犬のトイレで発覚して運転手に途中で降ろされる。
干ばつで閉鎖されている近くの町に赤ん坊を抱いた女がいる。彼氏の車に
同乗させると安心させてペットボトルに水を汲みに離れた隙にサイフから金を
抜き取った。更にアイポッドまで、むしり取って車で逃げてしまう。誘拐されて
殺されなかったのが不幸中の幸いだ。その町で困っていると親切な高齢者に
助けられ、老人ホームのバスに乗ることができるが、バスの運転手が事故を
起こし病院で意識が戻る。脚本を届けるため病院を脱出する。脳震盪で、
気絶しただけで怪我は、無かったようだ。捜索願いが出ていたので施設の人が
病院に迎えに行くが犬を置いて抜け出した後だった。病院を抜け出す時に
脚本がバラバラになり100ページ程を拾えない。足りない部分を書き始める。
バスに乗ってロスアンゼルスに向かおうとするが、サイフから金を抜き取られて
いて小銭しかないためバスのチケットを変えない。何とバス荷台に潜り込んで
ロサンゼルスに着く事は出来る。パトカーの警官が捜索願の写真を見て保護しよ
うとするが逃げて隠れる。警官がスタートレックマニアでグリンゴン語で話しか
けると会話が成立してパラマウントに行く事が出来る。スタジオでは郵送が原則
だと言われるがポストに投函して帰る。脚本を投函して達成感を感じて満足できて
自信を持つ事が出来る。施設に戻ってから、丁寧に不採用の通知が届くが、
落選した事で落ち込まなかった。赤ん坊の姪と初めて対面できる。
重い物語だと感じた。異質な光は永遠に居場所が無いのは、気の毒だ。
姉が取られたアイポットを買ってあげると言ってくれて施設の生活に戻る
が異質の光の終着点が「死ぬ瞬間に人間の感情を獲得する」と結びついて
何とも言えない気分になった。長い距離を移動して大変な経験をして周囲に
迷惑をかけたけどグリンゴン語でコミニュケーションが出来た経験は、一生の
宝になると思う。グリンゴン語で会話する事で安心させた警官判断は、
「相手の一番安心できるところで関係性を作る」特別支援教育の基本が出来ていた。
誰もが穏やかに過ごしせる居場所と社会システムは、障害のある人だけでなく
健康な人が老いたり疲れたりしても生きられる社会だと思う。誰もが生きづらさを
感じるのは間違った方向に向かっていると感じている状態なのかも知れない。
住み慣れた家から施設で暮らす事になり元の生活に戻れないラストは、居場所を
探して辿り着けない光で表現されていた。ベン・リューイン監督の映画は観かたに
よっては重くて深く考えさせられる。難しい問題提起を含んだ映画だった。
長い時の流れの間に人類の英知で解決すると希望を持ちたい。沢山の言葉を
翻訳するポケトークみたいスマホが普及するかも知れないから少しづつ社会構造も
変わる。グリンゴン語の翻訳機能もマニア向けに付けられそうだと明るい未来も
空想したいと思った。人間の精神的ケアをAIが出来るかは、まだ無理そうだ。
人間の孤独を埋めるのには、テクノロジーが進化しても人間の心が必要だと思う。
微妙な心の変化や感情が伝わる人間同士の交流やふれあいや賑わいは、
モニター越しでは、体感した感じが薄れる。グローバルなレベルで日常生活が
一変している。目より口元から感情を読み取る事が習慣の国もある。マスクを
外せるように、しっかり収束させて世界規模で元の生活習慣に戻ってほしい。
最近は映画を観ていてマスクが不要だった時代の会食や会話で新型コロナが
感染しそだと気にしてしまう。個人では三密を避けて手洗いするぐらいしか
できない。ニュースを見ていたらタイではエレベーターのボタンが足でペダルを
踏むとか工夫している。医療の研究や治療に予防に関わる人に希望を託し慎重に
行動しようと思う。
『深夜の告白』(1944年)ビリー・ワイルダー監督作品を観た。
第二次世界大戦の最中に作られているが日本では1953年に公開
された映画だ。車で保険会社のビルに乗り付けてテープレコーダー
に吹き込んでいる男の話から物語が始った。マイクというより軍艦の
伝声管みたいな形に見える。1944年だとテープレコーダーに声を
吹き込む事が珍しいと映画に引き込まれたと思う。
そして何が起こったか白黒の映画で見せる演出だ。保険のセールス
マンの男だが自分の部屋を持っている。トップセールスマンなので
地位が高そうだ。社内連絡用のテープレコーダーに「ネフからキースへ、
これは告白だ。これは事故でなく殺人だ」と吹き込んでいる。
要件だけでなく情景まで映画なので再現されている。ラジオドラマを
吹き込むみたいに難易度が高そうだと思うが映画が始まったと引き
込まれていく。保険会社に事故でトラックが燃えたと支払いを求める
男が来ていてキースが不正請求だと問い詰めて請求放棄書を書かせて
いた。そしてウォルター・ネフに誰にでも保険を売るなと言う。
バートン・キースは、保険の調査担当者だ。漫画のマスター・キートンに
調査を依頼するような立場の人みたいだ。
ウォルター・ネフは、数か月前に自動車保険の更新契約のためにディート
リチスンの家を訪ねる。ディートリチスンは留守で夫人のフィリスと会う。
すると夫人のフィリスが部屋に訪ねてきて保険の事を聞いてくる。
フィリスは、石油会社の経営者の妻なので危険な現場の視察に行く事のある
夫に保険を掛けておきたいという話を切り出す。アンクレットが印象的だ。
フィリスに何度も会っていると保険のセールスマンと客の関係だが不倫の
関係になってしまう。夫と前の妻と死に別れたのでマージは、後妻になったが
夫には娘のローラがいる。生命保険の受取人がローラなので気に入らないらし
い。夫は再婚後に買い物や外出するたびに小言を言うので不満が溜まっている
から5万ドルの保険をかけて殺したいと言い出す。殺人は発覚して絞首刑に
なると諫めるが今のまま生きるくらいなら死んだほうがマシという。
そして保険金殺人の計画にネフは協力する事になる。生命保険に入れる為に
入れる為に雇用主は労災保険の対象にならないと傷害保険に入れる。
ディートリチスンにサインを二枚書いてもらい生命保険も契約させる。
ネフは経験から、いきなり高額の生命保険に入ると保険金目的の自殺を疑われ
自殺は免責事項になる事を知っている。足を怪我して松葉杖をついたディート
リチスンは、スタンフォード大学の同窓会に汽車で行く予定がある。
ネフは、会社に保険の算定表を置き忘れて同僚に電話を掛ける口実を作ってから
自家用車で部屋に戻り駐車場の管理者に洗車を頼み部屋に居たというアリバイを
作る。そして同僚に市外電話を掛けて通話記録を残す。更に電話のベルと呼び鈴
に紙を挟み込み外出中に電話や訪問があると判るように細工までして念を入れて
ディートリチスンと同じ色のスーツに帽子で駐車場の管理者に見られないように
部屋を出てフィリスの車の後部座席に隠れる。
フィリスが運転しており足を怪我したディートリチスンが前の座席に乗り込むと
駅に向かって車が走り出す。そしてフィリスが脇道に入るとネフがディートリチ
スンを殺してしまう。殺す場面は見えなかったが汽車から落ちて事故死したと
思わせる計画なので撲殺だと思う。車の後部座席にディートリクスンを押し込ん
でネフとフィリスは、足にギブスを付けて松葉杖をついて汽車に乗った事を赤帽や
車掌に印象付けている。ネフは顔を見られないように帽子を被り松葉杖をついて
なりすます。そして汽車の最後尾の観覧席に行くと先客がいた。ウォルター・ネフ
は、葉巻を探している。先に観覧席に居た男に何か忘れたのかいと聞かれる。
松葉杖を見て足を怪我しているので、自分も腕を折った時にギブスで痒かったとか、
どこに行くのか聞く。パロアルトと答えるとスタンフォード大と聞かれる。
オレゴンから来たと言う男にタバコを勧められるが、自分の席に葉巻を置いて
きたという。男は、松葉杖を付いているいるので代わりに葉巻を取りに行って
くれる。第一声が何か忘れたのかいと聞いているので葉巻を取りに言ってくれる
のも違和感が少なく見えた。1944年の映画なので汽車に乗ると一等・二等と
別れていて乗客同士で会話する時代だった。日本でも対座した座席なので向かい
合わせに座った人に話相手になってもらい旅のヒマ潰しができた。
汽車には、灰皿が付いていてタバコやキャラメルや冷凍みかんの車内販売もあった。
コミニュケーション・ツールに昔は、タバコを一本とかキャラメル一個あげて
仲良くなった。現在でも大阪では高齢の女性は、飴ちゃんを持っているらしい。
駅弁は、駅のホームに駅弁売りがいて窓から買う時代だった。オレゴンの男が
展望席から中入るとウォルター・ネフは、汽車から飛び降りる。
葉巻を持って戻って来た男は、居ないと驚くと想像させる。
フィリスは、打ち合わせ通りにライトを三回点滅させる。車から殺害したディート
リチスンを線路に投げ出して事故死に見せかけてフィリスが運転する車で帰ろうと
するがエンジンのスタータが回るが掛からないのでバッテリーが上がりそうだと
ドキッとする。するとエンジンが掛かる。そして計画が成功してネフは部屋に戻り
スーツを着替えてから真中に腹が空いたと駐車場の管理者に声を掛けて歩いて出
かける。今の時代なら近くのコンビニに行く感じだ。そして犯行時間は、部屋から
出ていないアリバイを作る。殺害計画は成功して、ディートリチスンは過失の事故
死と認められたが、キースは、傷害保険に入っているのに請求が無い事を怪しんで
調査を始める。保険会社の社長も入って2ヵ月で倍額特約が付いている事もあり
怪しんでいる。キースは、時速25キロの汽車から飛び降りて自殺しようとする人は、
いないと言うが保険金殺人の可能性を考える。警察の検死は、誤って列車から転落し
たとなっているが保険金を警察が払う訳でないとキースは言う。
ディートリチスンの娘ローラとの恋人ニノが疑われ、ローラの行動が
監視されて、ウォルターはディートリチスン家に近づけなくなる。
電話の盗聴にも注意して石鹸が入りましたと連絡を、取ってスーパーで
フィリスと合流して会うように気を使っている。
ウォルターは、フィリスと会えないのでローラに様子を聞くために近づく
ローラは、父親の死に不信感を持っていて母親が肺炎で死んだ時の看護師
がフィリスで寒い時に母親が寝ている部屋の窓を開けて寒くして肺炎を悪化
させて4日後に母親は死んだという。フィリスがローラの恋人と会っていて
汽車で父親が死んだのは、フィリスと恋人のニノが犯人だと思いローラは、
恋人ニノと別れてしまう。そしてフィリスと暮らすのをやめて一人暮らし
しているとウォルターに言う。ウォルターは次第にフィリスに不安を感じ、
ある夜に一緒に終点の墓場までというフィリスにローラやニノの話をして
ウォルターは自分は、利用されただけだ、保険金を手に入れてニノと一緒に
なるかも知れないと言う。フィリスは、椅子のクッションの下に隠していた
拳銃でウォルターに向けて撃つが急所を外す。ウォルターは抱きついてきた
フィリスを拳銃で二発撃って殺してしまう。
家を出て少し歩くとニノが訪ねてきたので声をかけて5ペンスやるから今
すぐローラに電話した方が良いと引き返らせる。
そして怪我を負ったまま保険会社に行って自分が犯した事を吹き込む。
長々と吹き込んでいると朝の4時30分になりキースが会社に来る。
いつも、こんなに朝早く出社するのかと聞くとウォルターが怪我をして
血を流していたと連絡があったから来た。キースに救急車を呼ぶと言われ
ガス室で死刑になるから国境を越えて逃げ延びると部屋を出る所で倒れる。
警察と救急が駆け付ける音が聞こえて映画は、終わった。
ビリー・ワイルダー監督はサスペンス映画もヒッチコック並みに上手だと
関心した。ビリー・ワイルダーとレイモンド・チャンドラーの共同脚本だ。
探偵フィリップ・マーロウのレイモンド・チャンドラーは『さらば愛しき
女よ』にアルフレッド・ヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』の原作者だ。
この映画が作られた戦争中にアメリカは、公衆衛生が行き届いていて生命
保険に入る余裕があった。戦後は日本も公衆衛生に力を入れる為に母子手帳
や学校に保健室を作るなど保健所が整備されていたが結核の予防やワクチン
を学校で予防接種する事で感染症が減ると縮小されてしまい現在の新型コロナ
に対応するにはマンパワーが足りないみたいだ。昔は、日本から海外旅行に
行くには、予防接種を済ませた証明書が必要だった。戦後に子供がアメリカ
兵にシラミを駆除する薬で消毒される程だった事を昔に見た写真で思い出す。
戦後の動乱期に日本には、戦災孤児や栄養失調の虚弱児がいたり浮浪児まで
いた状態で多くが貧しかったのでアメリカやヨーロッパに憧れた。
この映画が出来た時代にはアメリカにテレビがまだ無いが日本は、自動車が
普及していないのに対してアメリカでは自動車が普及していて豊かな国だと
憧れた。社会保障制度も充実していて福利厚生が日本より行き届いていた。
日本は、アメリカに憧れて見習い加工貿易で経済成長していた。
ソビエトよりも国民が暮らしやすいように社会保障を充実させて社会主義の
国にならないように政治が経済とバランスを取ってより良い国にしようと
頑張っていたと感じる。ベルリンの壁の後になると新自由主義が現れて
グローバル化して国家から多国籍企業を優先するようになったみたいだ。
さらにECからEUになりヨーロッパは一つになって超大国に対抗するよう
になった。イギリスは、EUから離脱したが、新型コロナで世界中が大変な
状況になったので、この先どう変化するか予測できない。サスペンス映画を
観て我々が生きている今もサスペンスの様な気になるが昔の映画なので時代
背景も違うので楽しめた。新作は観られないが過去の名作を今の時代に観ても
楽しめる。日本は、年を取ると時代劇を好む人が多い気がするがアメリカ人
の殆どが、西部劇を好むとは限らない。アメリカは、多様性がある国だが
白人がビジネスマンとしてトップを占めていると感じた。日本は、単一民族
だった時代なので気にならないかったのかも知れない。最近は、何処の国の
映画を観ても多民族化していると感じる。観光地に行くと住んでいる人の
営みも、それぞれの国らしい事を望んでしまうが建物は維持されても住んで
いる人が入れ替わっていると感じる。国と多国籍企業の役割が逆転して
コロナを経験した世界は、何処に向かうのかを見極めたい。昔の映画を観て
関心するのは、インターネットが無い時代に小説を書いたりするには記憶した
知識と作品ににする知恵の両方が無ければならなかった。それで教養が必要
だとされていたがインターネットを使える現代は、知識はネットで調べる事
が出来て知恵も動画から得られる。AIも普及すると人間は、良識や見識を
向上させてAIが用意した選択肢からより良い答えを選択する事になるのか
も知れない。ビックデータをサンプリングする方向性を示す役割で導き出さ
れる答えも変わるかも知れないので調整役になったり求められる役割も変わ
りそうだ。基礎が出来ていないと判断が出来ない。普通を知らなければ選べ
ない。しかし普通や平均は時代で変わる。昔、バットン大戦車軍団という
戦争映画で武官の時代から行政官の時代になると言うセリフがあった。
戦争回避も調整役が必要なのかも知れない。「愛と青春の日々」や「灰色の
長い線」には教官が軍曹で士官学校を卒業すると軍曹の上官になる場面が
ある。軍艦には艦長は変わるが船に選任伍長がいて取り仕切る役割がある。
軍隊の普通は、軍曹や伍長なのかも知れない。そして難しい判断や高度な
調整は士官や艦長が行うのかも知れない。映画でしか見る機会が無いので
良く分からないが、そんな感じがした事を思い出した。普通や中流が消えて
格差が大きくなり世界中に感染症が拡大する程に公衆衛生が担保されない
時代になり世界史に残りそうだ。何故かサスペンス映画を観て考え過ぎる
のか考えるとトライ&エラーが許されない重い犯罪で犯人側が主人公だと
いう事だと気づかされた。これが探偵物や刑事トラマだと感想が違ってく
ると思う。それだけ緊張して今を乗り切らないといけない時期たからかも
知れない。平穏無事で無病息災で、つつがない日常が懐かしい。
生命保険や損害保険の会社が、新型コロナウイルスで、どう影響を受ける
かにも注目したい。
『ドクトル・ジバゴ』(1965年)デヴィッド・リーン監督作品を観た。
第二次世界大戦後のソビエト連邦でロシア革命で両親と離れ離れに
なった少女トーニャを探して腹違いの弟ユーリ・ジバコの娘に両親の
事を語り始める所から映画は、両親の幼少期から亡くなるまでの話が
長編映画の始りになっていた。ソビエトの将軍で兄のイエブグラフ・
ジバゴの話で物語は続く。ドクトル・ジバコの幼少期に両親が亡くなり
親戚に引き取られて育つ。ユーリは遺産分けでバラライカという楽器を
受け取る。青年になったユーリ・ジバコはモスクワの医大で細菌を
顕微鏡で見てる場面がバスツールやロベルト・コッホみたいにだ。
教授は顕微鏡を覗いているユーリに「綺麗か」「細菌も美しさを求める」
と言う場面も今の時期に観ると印象的に見えた。そして研究者になるか
開業医になるかと聞く。医学生の時すでに詩人として、フランスの
新聞記事にも詩が載せられ詩集も出し名声も得ている。
映画のラーラーのテーマになっているラーラは17歳の少女で、母親の
アメリアは洋裁店を営んでいる。ラーラはボリシェヴィキの青年で
パーシャという恋人がいる。
貴族のパーティーに、母親のアメリアが出席する予定だったが、
アメリアが熱を出してしてしまい、ラーラが母親の代理で、パトロンで
弁護士のコマロフスキーと出席する。ダンスを踊る二人と対照的に
パーティ会場の外からインターナショナルが聴こえてくる。
そして革命のデモが起こりラーラの恋人、パーシャが参加していた。
ロシアの騎馬隊がデモ隊を蹴散らしデモの会場の近くに住んでいた
ユーリは、驚いて家の前に様子を見に出てくる。
人が倒れているので手当てをしようとするが、憲兵に家に入らないと
逮捕すると命令され家に戻る。
何年か経ち、第一次世界大戦が勃発する。ラーラはパーシャと結婚した。
軍隊に志願して前線に向かったまま戻らない夫のパーシャを探す為に、
ラーラは看護婦になり前線で夫を探していた。そこで軍医のユーリと
再会する。ふたりで負傷兵の治療にあたった。負傷者が全員退院する。
ラーラに淡い恋心を感じたユーリだったが、ラーラは夫がいると二人は
別れる。その後でロシア革命が起こる。戦場で樽に乗って命令している
指揮官を兵士が射殺する。撃たれた指揮官が乗っていた樽の蓋が重さで
割れて指揮官が中に落ちる。樽には水が入っている。水に血液が混ざる。
良く考えられた場面だ。ユーリ・シバコがモスクワに帰ると、ロシア革命で、
一軒家だった家は共同住宅になり、配当制で食料や薪が足りず凍える。
患者を診察すると栄養失調で餓死寸前だ。革命が成功しても食料が
上手く配給されていれば起こらない病気だ。あげくに、家の家財道具
まで勝手に没収されそうになる。そこに、腹違いの兄、イエブグラフが
来て止める。兄は共産党員になっているので権力があるみたいだ。
長年会っていない兄との初対面をユーリは喜んだ。兄のユーリは
党員になるように誘うがユーリは、ロシア共産党を評価はしても、
入党を拒否した。兄のイエブグラフは弟のユーリの詩が批判されて
いるが個人の幸福に偏っているとも言って、ユーリをガッカリさせる。
そして兄のイエブグラフは一家の別荘があるベリキノに疎開する事を
勧める。妻のトーニャも賛成し、疎開のために一家で汽車に乗り込む。
その汽車の中でストレリニコフという、赤軍の将軍が民衆を苦しめて
いると聞くが、ストレリニコフはラーラの夫のパーシャだった。
汽車が停車中している時に、ユーリは、将軍の汽車に近づいて不信に
思われて事情聴取される。ユーリはパーシャと出会ったクリスマスの
パーティーで起こった騎馬隊がデモ隊を蹴散らした時の事を覚えて
いたが、パーシャは、妻のラーラがベリキノから遠くない、ユリア
ティン住んでいると話す。ユーリ一家は、ベリキノの別荘に着くが
革命政府に接収されて閉じられている。近くの小屋を直して農作業で
自給自足に近い生活を送る。春になりユリティアンに図書館がある
事を知り行くとラーラと再会する。そして愛し合ってしまいラーラは
妊娠する。ユーリは妻トーニャに悪いと思いラーラと別れることに
する。ラーラもユーリと別れる事に同意する。その前にラーラの
出産の為の薬を買いに出かけてラーラの所に戻る途中でパルチザンに
軍医として従軍しろとユーリは命令され別れを告げる間も与えられず
戦場に連れていかれる。ユーリは、身の危険を感じ脱出して雪の平原を
歩いてユリティアンに戻る。線路の所で妻のトーニャと子供と父親と
出会うが三人は、雪の中に隠れるように消えてしまう。幻なのか疑問
に感じる場面だった。ユーリを、迎えてラーラは介抱した。
妻トーニャと家族はユーリがパルチザンに拉致されている間にモスクワに
移っていた。妻トーニャは、ラーラにユーリのバラライカを託していた。
モスクワから、トーニャ達はフランスに国外追放された。
ラーラとベリキノの別荘に身を潜めていたが、突然、コマロフスキーが
尋ねて来た。ラーラの母親のパトロンの弁護士は司法大臣になってた。
コマロフスキーは、ユーリの詩集から言動や思想が反革命的で、ラーラは
ストレリニコフの妻ということで、監視してストレリニコフが頼ってくる
時に捕えようとしていた。コマロフスキーは国外脱出を勧めるが、二人は、
残り僅かな未来をベリキノの閉ざされている別荘で過ごす事にする。
幼少の時に、形見分けのバラライカを貰った部屋や使っていた机も、そのまま
残っていた。その机でユーリは、ラーラへの愛を詩に書いた。
しかし、二人の時間は長く続かなかった。再びコマロフスキーが尋ねて来て
ラーラに知られないようにユーリにストレリニコフが失脚して処刑されたこと
を教える。ストレリニコフの白軍が消滅して処刑さりたらラーラを泳がせて
パーシャが最後に頼ってくる妻では無くなり、ソ連にとってラーラは、ただの
邪魔者でしかなくなった。そして、その影響でラーラが無事に済まない事も話し、
た上でソ連からの国外脱出を強く勧める。ユーリは脱出を受け入れる。ラーラと
娘に支度させてソリに乗せる。ラーラは悲しそうだ。ソリの座席が足りず、
ユーリは馬ソリに乗らないで、あとから別の馬ソリ追いかけると話して、
バラライカをラーラに渡す。
ソリを見送るユーリ。ユーリは家に戻り二階に駆け上がり霜が付いて、
見えない窓ガラスを割り、大雪原に消えていくラーラを見送る。
汽車が出発する時にユーリは現れなかった。「彼はあなたに助けられよう
なんて思わないわ」とラーラは言うがコマロフスキーは「奴は馬鹿だ」と
言って諦めさせた。ラーラを国外に逃がした後で、ユーリは、モスクワに
戻り、共産党員の兄イエブグラフの人脈で医者の仕事に就いた。路面電車
に乗っていると偶然に電車の窓ごしに、街を歩いているラーラを見つける。
呼ぼうとするが、大きな声が出ず、走って追いかけると持病の心臓病が
悪化して心臓麻痺で道路に倒れてしまう、ラーラに気付かないで歩いていく、
ユーリは死んでしい、ユーリの埋葬の時にラーラはユーリの兄イエブグラフと
出会う。ラーラは疎開先で生き別れてしまったユーリとラーラの間に生まれた
子供を捜した。二人は懸命に捜索したが、ラーラは強制収容所に連行され、
亡くなった。ソビエトの将軍で兄のイエブグラフ・ジバゴから両親の生涯を
聞いたトーニャは涙を流した。そして「父とは、戦火の中ではぐれた」と言う
トーニャにイエブグラフは「それは実の父ではなく、コマロフスキーだ。
だから手を放してしまった。親なら絶対に離さない」と言う。そして、
トーニャに今後の面倒を見たいと言う。そこへ、ダムの操作をしている
トーニャの恋人が迎えに来た。二人を見送るイエブグラフは、トーニャの背中の
バラライカが気づく。ダムの事務所からイエブグラフが、「トーニャ、バラライカ
が弾けるのか?」と聞き恋人が「えぇ、プロ顔負けです」と答える。
「誰かに教わったのか?」「いいえ、誰にも」「遺伝だな」と会話をして2人は
帰っていく。イエブグラフ・シバコは、2人を見送る。ラーラは、ユーリ・シバコ
との娘にトーニャと名前を付けていた。トーニャからユーリのバラライカを
託されたからなのかも知れない。ユーリ・ジバコは娘の名前を知る前にラーラ
を見かけて走って心臓麻痺で亡くなっている。外のダムには美しい虹が架かっていた。
ユーリ・ジバコは、ドクターになったけど開業や研究でなく二度も戦争に駆り出されて
軍医になって最後は勤務医で終わったけど詩人として作品を残したという事だった。
兄のイエブグラフ・ジバゴは、戦争が終わって社会主義の大国ソビエトで安定した
人生を歩んでいけると2人を見送って映画は終わるが若い2人が何十年かのちに
ペレストロイカやベルリンの壁が崩壊して、その2年後にソビエト連邦がロシアに
変わった時にも生きてると仮定すると2人は、何を思ったかも気になる。
水力発電所のダムは、国の工業力を感じさせ看護師や医師は科学技術で将軍は軍事
力・そして広大な国土は、コルホーズ・ソフホーズで農業力を感じさせられた。
産まれた場所から移動や移住したり転勤や進学で引っ越したりすると地縁や社縁は
薄れる。趣味の縁とか家族や親せきの血縁も核家族で薄れた。社会主義国家や
資本主義の中で終身雇用で社縁もリストラが起こり消えてしまいそうだ。
人間関係を築くのは、難しい。転校を繰り返すと学縁も築くのは難しい。
電話が無くて手紙や電報で連絡を取り合っていた時代からインターネットをスマホ
で使える時代にテレワークで学習や勤務する、これから先の社会での人間関係の
構築がどう変わるか興味が尽きない。ユーリ・ジバコは医者という職業の縁で
看護師のラーラとの縁が深まった。ラーラの娘トーニャも看護師になっていた。
「友遠方より来る・・」人間関係は大切だ。一期一会を大切にすべきなのは時代が
変わっても大切にしたい。精神に疾患があって関係障害がある人と遭遇すると粘着
される。礼儀正しくない人や親しくないのに馴れ馴れしいと感じる人は精神を病ん
でいる事が多いみたいだ。高校を卒業するまでは、ホームタウンで安定して暮らせ
る方が良いのかも知れない。戦争や革命に病気や事故から離婚で家庭崩壊した子供
は、心が不安定になる。ユーリのパリに国外追放された子供の事やユーリの将軍に
なった兄は、家庭を築けたのか革命や党に人生を捧げてたのかも興味がある。
小説を読んでいないので分からないが機会があれば調べようと思う。
レ・ミゼラブルのジャベールに興味を持って調べたら母親は娼婦で監獄で産まれて
警察官として厳しく生きて自殺した事がわかった。様々な登場人物にも人生の物語
がある。アニメのワンピースみたいに主要の登場人物の幼少期からのエピソードを
知ると感情移入が出来る。こんな時期だから疑問を持ち興味を持てたと思う。
1972年にマンガになり1979年から1980年に大ヒットした日本のアニメ『ベルサイユの
ばら』の最終回でロザリーがオスカルとアンドレの思い出とマリー・アントワネット
の最後を衛兵隊で生き残ったアランに伝えに行く場面も似た感じだったと思い出した。
アントワネットが処刑される日、白いはらの造花で渡され革命の最中に死んでしまった
オスカルは何色のばらが好きだったか分らないと白いばらの造花を渡す場面とバララ
イカのラストは雰囲気が似ていたと思いだした。
ドクトル・ジバコの原作になった小説は、ノーベル文学賞を取っている。
ソ連の作家ボリス・パステルナークの作品で「戦争と革命の最中でも、人間は愛を
失わない」というテーマだった。映画でもアカデミー賞を五部門受賞した名作だ。
格差が拡大しすぎると戦争・革命・疫病で社会がリセットされて復興を繰り返す
とい本を読んでみたが難しかった。人類の歴史で時代が変わる時に繰り返されて
いたらしい。ユーリは、目標にしていた開業医にも研究も出来ず軍医に駆り出さ
れて最後は、病院の勤務医で生涯を終えたが詩人として出した本を読んで評価し
てくれる人も大勢葬儀に参列した。でも妻のトーニャはフランスに亡命して子供
とも別れ離れで会えないままだ。ラーラにも声を掛けられずラーラの最後は
強制収容所だった。戦争や革命で人間の尊厳は簡単に失われる。
ハッピーエンドとは言えないが、兄がユーリの生涯をストーリテラーになり
ユーリの娘のトーニャに、亡くなったユーリとラーラという両親の生きた
時代や生涯を伝えて自分の役割を果たしたという事だった。ユーリは時代に
翻弄されながら不器用に人生を終えたがイエブグラフ・シバコや弁護士から
司法大臣になったコマロフスキーは、要領よく革命の時代を乗り切ったと思う。
ラーラの夫は軍隊を指揮いて民衆に対して虐殺や恐怖で支配しようとして処刑された。
それぞれに大義や事情はある。巨大なソビエトの大地は人間の個々の事情に
関係なく広大な雪原が続いている。ラストのダムの虹は、バラライカを背負って
帰っていくトーニャと恋人の前途に希望があるように見えた。誰もが産まれる
時代や親を選べない。恵まれている仕事や身分や地位ですら戦争や革命で翻弄される。
テクノロジーでビジネスモデルが変われば、産業構造も社会システムも変わる。
置かれた土地で花を咲かせ実りを迎えられるかのタイミングは分からないが
良い時もあれば悪い時もある。親は子供が産まれて恵まれて愛情を注いで
幸福な時期にベーシックトラストを得られて逆境にあっても自己肯定感を
持って自己復元できるメンタルを育める時に産むのが良いと思う。
日本の第一次ベビーブームや第二次ベビーブームは養育の環境が良くなると
思えたのかも知れない。激動の時代は、不幸になる人が大多数の中でドサクサ
で良い思いをする人もいるかも知れない。大変な時代に生きて歴史に残る人が
幸福かとうか分からないが先行きが見えないと将来設計のしようがない。
偉人の伝記は、ぶざまで不遇な時の話より短い栄光の時にスポットライトが
当たるように記憶に残こる。嫌なことを忘れる事が出来るから人間は精神の
バランスが取れるとか認知バイアスをかけて考えるとか色々と頭の中で
考えるみたいだが高齢になると、昔は良かったと誰もが言う。良い時期が
あり美化して記憶しているのかも知れない。悪い思い出ばかりだと、過去は
語らずという人も稀にいるらしい。
デヴィッド・リーン監督は『戦場にかける橋』『アラビアのロレンス』といった
大作で有名だ。インターミッションが入る長い映画だ。子供の時に観てから
50年経って見直すと分からなかったままだった事も理解できて面白かった。
最近は、インターミッションを入れる長編映画から続編やエピソートとして
何作品もシリーズ化されるので見ごたえがあった。
総合芸術の映画を観て理解するのは歴史背景や社会情勢や当時のテクノロジー
に政治背景など多岐に渡る事を知らないと楽しみが半減するかも知れない。
映画やドラマ人は、時代考証して作られている。その部分にも注意して見ると
楽しめる。40年ぷりに鑑賞してやっと理解が出来た部分があった。
ソビエトはユーラシア大陸をシベリア鉄道が運航している。戦艦ポチュムキンで
革命が始ったイメージが出来ていたがドクトルジバコの樽の場面を見て同時多発的
に様々な場所で革命が起こる方が現実的な感じがした。革命で倒されるロマノフ家
の側の視点だと『アナスタシア』もある。様々な時代の映画が作られ大きな変化は、
それぞれ時代考証されているが別の作品だと同じ時代背景でも視点が違い多角的に
観る事で視野を広げたり見識は深まったり広がったりすると感じた。歴史に残る
のは勝者の記録が多いが色々と観ると断片的な歴史も頭の中で繋がる。
勉強だと覚えないが娯楽として観る映画なら楽しみながら覚える事もあるかも
知れない。新作の映画やアニメの公開や制作が出来ないので古い映画やドラマに
アニメの再放送が増えたのでビデオが普及していない時代の作品を観る機会になった。
ブラック・ラグーンというアニメにバラライカというキャラが出てくるが、この映画
からも影響を受けているのかも知れないと思った。
新型コロナの収束後の世界の変化は分からない。落ち着いたら、どんな物語のマンガ
や小説やアニメや映画が作られるか耐えて待とうと思う。
グローバル化で格差が拡大し一部の富裕層と多くの貧困層が増えて、中間層は減り、
世の中が、すさみんで、変な犯罪は増え、モラルや環境が破壊され伝統の維持は難しく
なり、人間同士の絆や縁は細くなった世界が、どう変化するか思い浮かべられない。
今は、様子を見るしかなさそうだ。明日世界が滅ぶと言われても畑を耕し種を撒くには
雪解けを待たないといけない。
『復活の日』(1980年)深作欣二監督作品を観た。
1964年に小松左京が発表したSF小説を映画化した作品だ。
『日本沈没』は、東西冷戦とベトナム戦争の影響で世界中が不安を
感じる時に、不安から気を反らすのにサイエンス・フィクションは
現実から目を反らすのに良い娯楽だ。
1963年にケネディー大統領の暗殺事件が起こった1年後の小説で
キューバ危機とかもあり核戦争の危機が高まった時代でもあった。
SFは、起こりそうで、有り得ないバランス感の面白さが大切だ。
『復活の日』は、細菌兵器が研究所から流出して南極観測隊の基地
以外の地球上の人類が滅亡してしまう話だった。南極で生き残った
人達で世界政府を作り人類を復活させる話だった。
無線で世界に呼び掛けても殆どの人類が死んでいてニューメキシコから
の電波を南極基地の無線機で受信するが少年は無線機のPTTスイッチ
を放して受信する無線機の使い方が解らない。そして父親の拳銃で自殺
してしまう。様子を聞いて何も出来ない事に落胆する場面とソ連の
原子力潜水艦が南極に寄港の許可を求めるが艦内に感染者がいる、
南極政府は拒否するが上陸を強行するため攻撃しそうになり近くにいた
英国の原子力潜水艦ネレイド号が無線で状況を把握してミサイルでソ連の
潜水艦を撃沈する。イギリスのネレイド号に感染者がいないので、上陸が
許可される。南極観測隊で作った政府にはソ連の軍人や学者もいた。
潜水艦の中に感染者が出て強引に上陸して感染が拡大するのを別の船が
攻撃して防ぐなど、船は感染症が起こる三密状態なので起こりそうだ。
1980年代になって、STDのHIVが現れて衝撃的だったが血液で感染する
らしく握手やキス程度での感染はしなかった。世界中で殆どの伝染病を
抑え込んだ20世紀はワクチンや抗生物質で殆どの伝染病の脅威が減った。
中世に投石機で籠城している敵の城の井戸に動物の死骸を投げ込み水を
飲むと伝染病で戦えなくしたと何かの本で読んだ気がする。
関東大震災の時に井戸に毒を入れられたというデマが流れたりした。
災害の時は、情報を鵜呑みにしないで確認したり疑わしい事は、調べる
手間を惜しまない方が良い。水害は、避難のスピードが大切だ。
地震は予測が難しいのとインパクトが大きいので、『日本沈没』が当時は、
大ヒットした。『復活の日』は、小松左京は日本沈没の印象が強く深作欣二
監督は仁義なき闘いのイメージが強くて復活の日は見落としていた。
南極で生き残った世界各国の人が少ない女性隊員を大切にして子孫を残す
事で人間という種を残す話で多少は、地球上に生き残った人がいたみたい
感じの話だ。東西冷戦の時なので、長距離核ミサイルが自動的に発射されて
南極に生き残っている人も死にそうになり核ミサイルの発射を止めに行く人が
いたり自分が生き残るより助けたい命の為に行動する事で人類を復活させ
るための行動を取る人がいたりする。深作欣二監督の作品では、
『仁義なき戦い』や『バトル・ロワイヤル』という知らない世界を
見せてくれて怖い物見たさを満足させてくれる作品が有名だが細菌兵器
と核戦争をテーマにした作品もあった事がわかり鑑賞することが出来た。
放射能や細菌やウィルスは目に見えない。日本の江戸時代には微生物を
見る顕微鏡がない時代には、空想で病気を虫の絵で可視化して説明して
いた。後は、悪霊を原因にして祈祷師がいたりした。未知の物を可視化
して怪獣や宇宙人が登場するSFもあり様々だがウィルスを見るのは
電子顕微鏡が必要でやっかいだ。マイナス4度で繁殖する低温細菌とか
300度でも生きているクマムシとか最近まで知らなかった。
「新型コロナウイルス肺炎」のグローバル・パンデミックで、数十年前
にHIVという性感染症に驚いたが唾液での感染はしなくて血液で感染
すると知った。唾液の飛沫で感染する可能性のある新型コロナウィルスが
現実に登場した衝撃は、大きい。映画の復活の日は、決死隊が歩い
て核爆弾のスイッチを止めに行くというムチャなストーリーでも世界が
壊滅やクジでメンバーを決めるとかの場面に違和感を感はじたが南極で
産まれた子供達が成長して子孫を増やしてくれる事に希望と未来を願い
映画をみた。自分が助からない事になっても利他的行動を取れる人間は、
スゴいと感じた。合理的利己主義で良い人を演じる人は、本性が出る
所だ。最近の邦画に『感染列島』という作品もある。日本が殆ど壊滅する
話だが地球規模の感染でないのと細菌がエビの養殖の土壌汚染とコウモリ
の体内で変化したという原因だった。グローバル化した現在だと地球規模
になる。『復活の日』は、衝撃的だった。子孫を産み育てて種を残す営み
は、生きられる環境が続くかどうかで異なる。戦前の政治家で生物学者の
山本宣治は、養育可能かどうかで避妊の大切さを啓蒙していた。子供が
産まれても生きられる環境や社会構造を用意出来て将来の希望や前途が
あると思う。復活の日では、感染が落ち着いて核戦争で生存できる環境
が破壊さけるのを防いで地球上に生きられる環境を残す事が出来たから
子供が成長して殆ど絶滅した人類が少しつづ増えて人類の滅亡を免れる
という話だった。地球を一本の木に例えると古い葉が落ち葉になり新しい
葉が育つ、ゆずり葉みたいな移り変わりなのかも知れない。
まだ女性は子供を産む役割が当然という男性中心の考えの世界で数少ない
女性を人類の資源と表現していたのは強引な気がしたが親世代より子供の
世代がより幸福に生きられれば子孫は繁栄し不幸になりそうだと少子化で
現象していきそうな気がする。貧乏人の子沢山では、虐待が起こりそうだ。
猫の多頭崩壊を予防するみたいに去勢しないでも理性的な人間は、パートナー
と協力して避妊が出来るので育てられない数を作らない事が出来る。
それでも離婚や家計の変化で養育が困難になる事もあるから誰もが不安だ。
原爆・水爆・中性子爆弾と様々な実験が行われた時代に書かれたパニック
小説だから極限状態の行動も極端になる。身近な不安や不満を地球滅亡と
いうより大きな脅威で気をそらすのにパニック映画は、大不況の時にヒット
するみたいだ。今が大変だから死後の世界に希望を託す感じに近そうだ。
1960年代に、世界規模のパンデミックを東西冷戦の時代に小説にした
小松左京は、スゴい想像力だと思った。放射能や細菌は見えないし地震の
予測は難しい時代で天気予報は外れた時代だ。映画にした深作欣二監督も
スゴいと思った。21世紀になって観客が、やっと追いついたのかも知れ
ない。伝染病は、1980年に性感染症のHIVみたいにマスクを使わないで
も感染しないイメージだと油断していた。早く前途ある若者が三密やマスクを
気にせず、以前のように学校に通い集えるように落ち着いてほしい。
格差が大きすぎる社会では、サスティブナブルと言われる持続可能性が
少ないので人類が生存し続けられなくなるらしい。
気候変動や大気汚染に新たな感染症の危険を考える機会になったが社会
の生活様式がどう変化するのか見極めたいと思う。ウイルスに対して安全
で確実なワクチンが開発されて世界中に普及して元に戻らないとオリンピ
ックどころではない。働き方改革どころかテレワークとか変化が大きくて
先の予定が立てられないのは困る。移動や物流への影響も大きい。イベント
関係は、予定が立てられないと開催の準備も出来ない。今を乗り切ってから
でないと考えられないのは辛い。物理的に接近できないとネットを介した
通信機器でコミニュケーションを取るようになり精神的にも神経を使う事も
ある。様々な生活様式の変化も起こりそうだ。早く感染の無が手軽で簡単に
判る検査や予防方法を確立してほしい。今は、マスクに手洗いと体温を計り
味覚や嗅覚の変化に注意する事ぐらいしか出来ないが出来る事は続ける。
困難な状況でも受け入れ、無事に過ごし打開策が見つかる事に希望を待ちたい。
日本沈没は日本だけが危機だったが『復活の日』は地球規模で現在の状況を
大げさに考えると共通点に気が付く事ができた。今回の新型コロナは、
地震や水害と違い建物やライフラインのインフラは、維持されている。
避難所に行かないでも済んでいる。殆ど身動きの取れない自粛は長丁場に
なりそうだが部屋で過ごす事も出来ている。この機会に古い映画を観直したり
積んだまま忘れている本に目を通すのも良いかも知れない。
感染が収束した後の、ビジネスモデルやライフスタイルは以前とは、様々な面
が変わるかも知れない。予測が出来ない時は、過去を調べて未来に備えるしか
思いつかない。お役人の前例が無いと判断が出来ない状態に共感しそうだ。
今を、やり過ごして収束した後の世の中の変化が小さい事を願いながら慣れる
ように努力する準備をしたい。新型コロナは免疫が得られるかもハッキリしない
未知の感染症なので前みたいに人が集まる事が出来るのかも分からない。
最近の家庭科で「私たちはなぜ服は着るのか」を習うと服を着る4つの目的は
「防護性・機能性・象徴性・審美性」で服の起源は、魔除け・羞恥・防護・
魔除けなどの説がある。暑さ寒さや身体を怪我から守る事に加えて放射能や
ウィルスの防護が必要になったら、大げさに想像すると人と会うのが宇宙空間や
水中で行動するぐらい大がかりになり着用した服の処理が放射能やバイオマーク
の扱いになったら困る。マスクと手洗いをしても距離を取らないと密集したぐらい
で集団感染する可能性がある程に感染力が強く陽性か陰性か症状が出ない人がいる
という状態では、先が予測できない。宴会や会食も集団行動や大量輸送も出来ない
日常は、経験した事がない。生活様式が変わってしまい元に戻るのに時間がかかる
のは手間がかかり困る。今までの日常生活に戻れるように簡単に予防できるワクチンや
薬が出来る事に希望と期待を込めて収束を待つしか出来ない。保育園児に手洗いや
マスクをしてもらうのはムリがあり家族や保育士さんとは濃厚接触になってしまう。
軍隊・刑務所・施設・学校など集団行動や集団生活は三密になってしまう。
今までの伝染病は陽性の患者さんを見つけられて隔離できれば感染の防止が出来
ていたが症状が無くて保菌している人は、検査の対象にならない。
検査した時は陰性だとしても数時間後に人と接触してから感染したら陽性になる
訳で体温計で体温を計るみたいに簡単に検査出来ない。血糖値を計るみたいに
自分で毎日検査できれば対策が楽だと思う。リトマス紙みたいに唾液を付けると
色が変わるとか手軽に検査が出来ればと思う。妊娠検査薬より安く手軽に検査が
出来るとか製薬メーカーに期待したい。ニュースで37.5度以上の発熱が4日続く
事をPCR検査の目安にしていたが全身の倦怠感や息苦しさを基準にして発熱が
続くという条件を外すと基準を変えるらしく微熱でも市中を不安を抱えて外出を
する人は、感染の早期発見につながり感染が収束に向かうと期待したい。
マスクやフェイスカバーに医療用ガウンで装備して診療するのは手間と負担が
大きい。誰が感染して保菌しているかハッキリすれば必要に応じて装備できる。
急激な需要も落ち着くと期待したい。今まで作られた映画やアニメが当たり前に
楽しめる事を願う。学園生活や部活をテーマにするのに皆がマスクしていたは
興覚めしそうだ。自粛は5月31日まで伸びてしまったがスムーズに収束して
大変だったと思えるように安心して安全な日常を取り戻す為に注意して過ごし
たい。映画やケームは、非日常を安心してバーチャルに楽しむものだと思う。
そして、問題解決の参考にも出来ると観ておいて良かったと思えると得したと
思えるかも知れない。オリンピックやIRの事を考えるのは、三密でも安心で
安全な状態を取り戻した後で良いと感じる。今のままでの密集した公共空間は
全員がマスク着用が続き解除されるには時間がかかりそうだ。
映画館が閉まっているので劇場公開からDVD化やオンライン配信まで90日以上の
期間を空けるというルールがあるらしいが劇場公開を省略して新作アニメの
『泣きたい私は猫をかぶる』が2020年6月18日よりNetflixで配信予定になったり
変化が起こりだしたみたいだ。普段の生活で真夏にマスクを付けるのは大変そうで
ナガネも曇りそうだ。中には、泣きたくなる前に予防に努めたい。自粛をして無事
に収束するように行動したいと思う。映画館が閉まっているゴールデンウィークと
子供が自粛で自由に外で遊べない子供の日は残念に感じる。外食みテイクアウトが
増えるとプラスチック容器のコミが増える。バランスの取れた社会システムを持続
する事の難しさを感じる。プラごみ削減に7月からレジ袋が有料化される。
より良い明日を迎えるには、それぞれが出来る範囲で節制が必要なのかも知れない。
『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実〜』(2020年)
豊島圭介監督作品を観た。第二次世界大戦の後も朝鮮戦争
からベトナム戦争へとアメリカは、戦争を続けていた。
日本は、基地を提供する事で軍隊を持たないで平和憲法を
守ろうとしていたが警察予備隊が自衛隊になり安全保障
条約で戦争の支援をする事になると反対運動が起こった。
全学連とか全共闘が角材や投石して暴れていて大学は、
小学生の目には恐ろしい所みたいに見えた。白黒テレビの
向こうではベトナム戦争のニュースや東西冷戦で鉄のカーテン
で知る事が出来ない所で何がが起こっていた。ソビエトが
科学力競争で「地球は青かった」とアメリカに差を付けると
「小さな一歩だが人類にとっては大きな一歩だ」と月の石を
1970年の万博に展示した。その1年前の1969年(昭和44年)
5月13日に東京大学駒場キャンパス900番教室で右翼の三島由紀夫
と東大の全共闘の討論会が行われた。その時の映像をTBSが
撮影して保存していた。この討論会の1年後に三島由紀夫は
自衛隊の市ヶ谷で割腹自殺した。スタンドカラーに打ち合わせが
ダブルの制服を着た縦の会は、異様に見えた。全共闘のヘルメット
にタオル姿を、「大掃除の手伝いみたい」と比喩する三島由紀夫の
表現力は流石だと感心した。
全共闘の人は、討論会の参加費を「東大動物園特別陳列品 近代ゴリラ
(学名 ミシマントロプス)飼育料100円」
と風刺画を張っていた。三島由紀夫は、その風刺に腹を立てずに
相反する相手の主張を真摯に聞いて丁寧に回答していた。
東大の学生に大人の対応をしていて立派だと感じた。
日本と欧米の文化の違いは、命が罪だと考えない所だ。だから美しく
散れるみたい話は、『11・25自決の日三島由紀夫と若者たち』(2012年)
若松孝二監督作品で知った。
役者さんが演技してかなり正確に再現しても本物を白黒テレビでも
見た事がある世代が、カラーで当時、起こっていた事を、また見る
機会があると、ベトナム戦争が世界に与えた衝撃は大きく反戦運動
も世界中に広まったと感じる。海外の事は新聞やテレビでしか知る
事の出来ない時代だった。アメリカ・イギリス・フランス・イタリア
は、映画や音楽で知る事が出来た。ソビエトは、惑星ソラリスとか
戦艦ポチョムキンでおぼろげにイメージしていた。よど号のハイジ
ャックやあさま山荘事件など子供の頃には、良くわからないから
怖かった。理解出来ないと昔は、キチガイみたいと言っていたが
三島由紀夫が全共闘との討論会で左翼が新宿で過激なデモをしていて
1970年の前には、精神疾患は、キチガイと言われていたので、
話が通じない相手にバカとかキチガイと使われていた。その時代の
映像なので、キチガイは治療が必要で警察が力で抑え込むのは、
違うなどと対話をしていた、右翼や左翼の、どちらも日本の文化と
主権国家としての独立を願っているみたいな事もわかった。
統合失調の青年が金閣寺に放火した話が三島由紀夫の作品の中にあり
執筆する為に取材や研究をしているから詳しいハズだ。
事件が戦後の混乱期なので『白昼の死角』の光クラブ事件みたいに
アプレゲール犯罪と言われていた。「戦争を知らない子供達」という
歌が流行ったり、「もはや戦後では無い」という言葉を耳にする
時代背景があった。討論会では、諸君の熱情は信じる。という話で
終わった。右翼や左翼の違いはあっても「言動」が大切だと感じた。
東大の全共闘と三島由紀夫の討論は、見ごたえがあった。緊張感と
現場の空気感や語彙力が伝わってきた。
三島由紀夫と東大全共闘の討論会をテレビ局でTBSだけが撮影していた。
そのフィルムが発見されてドキュメンタリーとして観ることができた。
そして、その討論会で司会をしていた人の話を聞くこともできた。
その後の学校では学生運動の流れで制服が自由化され下駄ばきで
腰に手ぬぐいをぶら下げた登校が流行り、やたら「自由」という言葉
が残った。自由が、民営化になり不安定な社会になると、学校で制服が
採用され最近では、ブラック校則という言葉が登場した。権利と義務の
バランスは難しい。三島由紀夫と同じ時代には、寺山修二もいたが話に
登場しなかった。三島由紀夫が「明日のジョー」を読んでいて切腹の
前にマンガを出版社から受け取った話も無かった。この討論会が有った
事は知らなかったのでドキュメンタリーに使えるフィルムを見られて
面白かった。現在はインターネットもあるのでビラを撒いたりして
共闘して暴力沙汰まで起こす時代では無いと思う。大学進学も日本
だけでなくなった。グローバル化は、優秀な若者が海外に移住する
選択肢も出来上がった。海外からも若者が日本に働きに来る時代に
なった。野球も国内のプロ野球よりアメリカでメジャーリーグの
選手を目指す人とハードルが高くなった。活躍の場を日本以外に
選べると、日本の将来に冷めた感情を持つかも知れない。
三島由紀夫は戦前に生まれて終戦を経験し、日本社会の変化に葛藤を
感じ、『憂国』という二・二六事件をモチーフにした作品も残して
いるので全共闘と二・二六事件を考えて、自分で「盾の会」を作り
死をもって憲法改正を訴えたのかも知れない。
「盾の会」のメンバーは、前の明きがダブルでスタンドカラーの制服
を着ていて制服を無くす左翼の学生とは、真逆に見えた。
自衛隊で肉体を鍛えて戦える身体を作ったり内面と外面に美を求め
独自の美学に沿った人生の幕引きだったが生きていれば時間が社会を
変える。現在の日本に三島由紀夫が生きていたら何と言うか興味がある。
三島由紀夫の作品は、難しいので予想が出来ない。討論会での三島由紀夫
は、相手の話に、しっかり耳を傾けて真摯に答えていた。
討論会だが全共闘側の代表も三島由紀夫も「相手の想いを汲み取る」
力があり互いの意見の違いと共通点を理解して和やかに終わった。
その1年後に盾の会が市ヶ谷で憲法改正の蜂起をする演説をして切腹した。
警察の機動隊が過激派のデモを鎮圧し自衛隊が治安出動しなかった事で
日本の体制がアメリカ軍の協力に自衛隊が使われ独立した軍隊に戻る
可能性が無いと感じたのかは解らない。
何故か、偉大な文豪に自殺が多いのか分からない。才能を使い切った
とも思えないし成功していて生きづらさを抱えているようにも見えない。
先が見えすぎるのも先が見えないのも困る。未来を予測して好奇心を
持てず興味を無くしてしまうのかも知れない。過去の自分の作品より
次に発表する作品は良くないといけないとスポーツの自己記録を向上
させるプレッシャーがあるのかも知れない。小説など独自の世界を
構築してリリカル(神話)やファンタジー(幻想小説)みたいな剣と魔法の
世界みたいライトノベルや架空戦記みたいなジャンルより純文学は
敷居が高い。沢山の作品があっても、なかなか読む機会を作れないから
映画や記録映像のドキュメンタリーを見て少しは知る事が出来ると
思いながら観ても表面しか分からない。でもスゴイ事が起こっていた
事を思い出す事は出来た。三島由紀夫が割腹自殺する直前の市ヶ谷の
演説は、自衛隊員が集められ体育座りをしている姿をテレビで見た時の
記憶は「清聴」と言っていたのを覚えている。
昔のテレビでは漢字が連想できないと伝わりずらかった。静かに聞いて
ほしいという事なのだが伝わったていたのか疑問に残っていた。
小学生の時に、「せいちょう」と聞いて成長の事なのかサスペンスの
松本清張を事なのか考えていた。
当時アニメの歌には、歌詞としてテロップが入っていたが現在みたいに
リアルタイムで画面に文字を入れるのは、テレビでは無理だったみたいだ。
最近は、日本語字幕が付くDVDもあるので言葉を漢字にしてくれるので
分かりやすいが1970年には、洋画にだけ字幕がついていても翻訳している
から大変だろうと思っていた。万博の前の大学生は、難しい言葉を使って
ビラを撒いていた。大衆に訴え変えけるには。難しい言葉ではなく
イソップ童話みたいに簡単に伝えるようにするとマルクスが何かに書いて
いたみたいだ。そうすれば、違う反応が得られたのかも知れない。
終戦で日本の伝統や文化がアメリカナイズされペニシリンや結核の薬が
日本にも入ってきて文明が進み水道やアスファルトで舗装された道路や
航空機の開発が規制された時期があり自動車や新幹線の技術が向上して
家電製品も普及して便利で豊になったが左翼も右翼も何かしっくりと
こない国だと感じていたのかも知れない。そのまま50年が経って日本
という国家より巨大なグローバル企業が世界の中心に変わった。
インターネットの時代になりGAFAM(ガーファム)が力を持った。
ベルリンの壁が無くなったのは、衛星放送を東側の国の人が見て西側の
事を知るようになった事も影響していたらしい。
東西冷戦の時代は、鉄のカーテンで相手が何をしているのか見えないから
怖かった。断片的な情報は、長い時間と歴史で忘れ去られるか明確に
されると思う。今年は、新型コロナウィルスという感染が広がりやすく
見えない恐怖が世界に広がっている。早く安全で効果のある薬や簡単で
判りやすいワクチンなどの予防方法を完成させてほしい。それから
ポストコロナやアフターコロナの社会の変化を知りたいと思う。
その為にも今は、感染しないように注意して症状が無くても自分が感染して
いる可能性も考えて慎重に行動して収まるのを待つ事が必要だ。
収束してから何が起こったのか検証される。東西冷戦や学生運動の事も
50年経って何となく分かってきた。三島由紀夫は自決してしまったが
全共闘の人も盾の会の人も生きていて取材に応じてくれていた。
それを見られる事も価値があったと思った。当時の学生運動は、第二次世界
大戦で大学生は、徴兵を猶予されていて中学を出て軍隊に入る少年兵もいた
事や学徒出陣を知っている世代が多い中で朝鮮戦争やベトナム戦争が続き
自分たちの身に起こる問題として危機感が強かったのかも知れないと今の
時代になって、やっと考えられるようになった。しかし映画を見て考えても
分からなかった。性善説と性悪説の違いがキリスト教文化圏と日本の違い
だとしたら、ショーペンハウアー「人間のもっとも大きな罪は 彼が生まれた
ということにあるのだから。」と真逆な考えみたいにも感じる。
大学生は、教養の為に哲学書で「デカンショ」(デカルト・カント・ショーペン
ハウエル)を読んでいたみたいだ。紙媒体の本なので深く掘り下げられるが
辞書で調べるのはネットで検索してしらべるより遥かに手間がかかった。
スマートフォンでネット検索できる現代では、フェイクやデマを信じてしまい
深く掘り下げて考える人と良く読まないで勘違いしたまま知っていると思い込み
ファクトチェックやメリテラシーをしない人もいる。左翼の全共闘や右翼の
盾の会のどちらが正解なのか50年経っても解らないが正解を求めるより
時代の変化や社会情勢の変化に技術革新によって考えは変えるしかない。
様々なイデオロギーが生まれ、どのような過程を経て現代に至ったのかを
知る節目として過去を検証するのに映像が残っていて良かったと思った。
人間が考える事だから、振り子みたいに考えも揺れるのかも知れない。
愛国心とグローバリズムも揺れる。全共闘の世代は、海外留学どころか
海外旅行に行く事は、夢の又夢だと思う。だから自分の国を良い方向に
向かわせたいという意識が強く、左翼も右翼も問題意識を持っていたから
学生運動にエネルギーを使ったのだと思える。故郷から都会に出るもたいに
海外に行けない時代だ。今の若者は、外資系企業への就職も選択肢に入れ
海外勤務の可能性もある。日本国内の政治に関心が薄れるかも知れない。
だが海外留学や海外勤務の経験がある人は、日本人としてのアイデンティ
ティーを意識して関心が強くなるらしい。国家と民族から宗教や思想に
文化や文明の違いなど共感できたり違いを感じたりするのは、同じ家族
でも性別や年齢や生きた時代で異なる。映像は時の流れを記録してくれ
るので、その時代を生きた人は、記憶を呼び覚ましてくれる。後世の人は、
映像を見て共感や経験の共有に近い感情を持ってくれるかも知れない。
テクノロジーの進化は、使い方で格差や考えを拡げたり縮めたりできる。
広い視野と掘り下げて知ろうとする探求心のバランスが必要みたいだ。
新型コロナの影響で新作の映画やドラマなどが作れずテレビ局に保存されて
いる記録映像をドキュメンタリーにして放送しているので過去を検証する
機会にしたいと思う。この時期は、歴史から学ぶ機会にしたい。
共感やカオスをダイバーシティー化する時代に理解できるようになるのに
は、何故、学生運動が起こり内ゲバが起こって現代に至ったのか色々な
映画を見てパズルのピースを合わせるみたいに見えてくると思う。
伝統や文化も文明によって生活習慣に変化をもたらすが新型コロナの影響
や収束後の変化は、私には予測すらできないが自分なりに考えてみたいと
思う。自粛が終わり新型コロナの後の世界に起こるライフスタイルの激変と
産業構造の変化が起こりそうだ。不確定要素が多く一度感染して回復すれば
生涯にわたり免疫(終生免疫)を獲得できるのかすら解からない。再感染や
再発した人がいるとか無症状のまま感染を拡げる人がいるかも知れないとか
休眠・無症状状態で体内にとどまり、ヘルペスのような慢性感染症になるのか
も分からない。そのため症状が無くても咳エチケットや手洗いや密集・密生・
密閉を減らし、収束後の世界を見たい。その為にも乗り切るように心掛けたい。
時間が経てば答えが分かると期待したい。大勢が集まる社会から個々が適度な
距離を取って共存する社会に生活様式が変化するかも知れない。
世界規模に大勢が移動するとウィルスが拡散するのが早い。グローバル化で
良い物も悪い物も移動する。この教訓で世界規模の変化が起こりそうだが
予測も想像もつかない。注意しながら解決する時を待つしかない。
3月25日に観てから感想を書くのに時間がかかった。この映画が劇場で観ら
れた映画だ。映画館も自粛で閉まっている。ゴールデンウィークが連休が明け
ても、更に自粛が延長されるかも知れない。新作は劇場公開が延期されて見ら
れない。無事に収束してほしい。平穏無事で無病息災で安心して、落ち着いたら
映画を鑑賞したいと願う。全共闘の時代の「学費減額運動」と現在の学生は、
日本は教育への公的支出の割合がOECD加盟国で最下位だと署名を集めて文部科学省
に提出していた。全共闘の時代は、戦争に巻き込まれて死んでしまうかも知れない
という不穏な空気があったのかも知れない。現在は、感染リスクがある中で
署名を集めるのは、大変な手間だったと感心した。若い人は、将来に可能性と
希望を持って乗り切って目標を叶えてほしい。
浅野琢也への メール |
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