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浅野琢也の雑記帳34 2020年 7月26日〜10月29日

あさのたくやのざっきちょう TakuyaAsano Web 令和2年〜


2020年10月29日

『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』(2020年) 外崎春雄監督作品を観た。
テレビアニメを欠かさず続けて見ていなかったので話の流れが、分から
なかったらどうしようと少し不安だったが劇場版だけでも楽しめた。
沢山の墓石の場面で映画が始まった。そして夜汽車に駆け込む場面に
なった。今回の鬼は、人を眠らせて夢を見せる。死んだ家族や恋人など
幸せだった記憶の夢を見せる。眠っている間に深層心理の中にある魂の
核を破壊して殺す。夢の世界の記憶で登場人物の生い立ちがわかる。
戦闘は、列車の中が中心で二百人の乗客を守って戦っていた。
列車は、乗客が座っているし、眠らされているから大勢の群衆を登場させ
動かさないで映画を作れるので予算の配分で、夢の中の世界などの場面に
力を入れられたと感じた。
汽車と融合した鬼を倒したら上弦の鬼が現れて鬼殺隊の柱である煉獄杏寿郎が
戦いで命を、落とすラストが泣ける。闘いで、後輩を守り抜き、後進に道を
譲る。そしてラストで死んだ母親に生き方を褒められてニッコリ息絶えた。
大ヒットしたのは、新型コロナで、働き方や家族関係も意識と生活様式を
見つめ直さないといけない時期でもあり、持続可能性を考えるのに大正時代
の社会は、温故知新の機会に出来そうだ。昔の日本では、丁稚奉公と職人に
弟子入りして暖簾を分けてもらうみたいに人を育てる時代の懐かしさを感じた
のかも知れない。鬼滅の刃の時代は、日清日露戦争やロシア革命が起こったり
した頃で大正デモクラシーの手前みたいな感じがした。
平成や令和は、効率と生産性を追い求めて高学歴で即戦力になる人間を、
短い時間の研修で使いつぶす持続性の無い現代にグローバル化にも加わり
社会を振り返り失ったもを考え直して新型コロナの後が、どう変わるかを
考える人も多く興味を持ちやすく参考にしやすいのかも知れない。
核家族化して、生涯独身の、おひとり様も増えたので、家族や組織のあり
かたも考えてみる時期なのかも知れない。
映画では、家族の絆も美化されているが、昔は、口減らしや家を継げる
のは長男のみという家族関係でないので親や兄弟の関係が悪くないのも見て
いて懐かしさを感じた。昔も足手まといになれば姥捨て山や子殺しも、あっ
たと思うが、このアニメでは、竈門炭十郎が鬼になった妹の竈門禰豆子を
背中の箱に背負って戦っていた。善逸は禰豆子に恋をしているみたいだ、
伊之助はイノシシの被り物に上半身裸で顔は、分からないかった。
大正時代の少女の体型でも禰豆子は、箱に入れて背負える程に、すごく小柄
だと思った。列車の屋根に止まって戦いの様子を見ていたカラスが煉獄の死に
涙を流して毀滅隊に戦闘の結果を報告に行く場面も良かった。
オーディーンのカラスみたいな役割のカラスだった。
戦闘シーンなどアニメとしてのクオリティーも高く、楽しめる映画だった。
家族関係と鬼滅隊という組織は、働き方について、考える機会を与えてくれた。
鬼の出る世界は、不慮の事故と不治の病と永遠の命と言う極端な事が起こる
世界観だが、鬼はゾンビとちがい鬼になっても強くなれば出世出来るし意識
も意思もある。人を食らうのも強くなり鬼同士でも闘いに勝てば序列の上に
上がれる。努力が報われるかも知れない組織みたいだ。
大正時代なら病気や怪我で助からない事が多かったと思う。鬼になった竈門
禰豆子の治療法を探す為の闘いも口にに竹の筒を加えさせて他の人に噛みつ
かない為で、誰もが口にマスクをして新型コロナに感染させない感染しない
生活と通じる物があるのかも知れない。誰が保菌しているか見分けずらいし
誰がまともかわからない国になってきた、自分の身を自分で守るのに、難し
さを感じる。親や教師や宗教の聖職者までもが子供を虐待してニュースに
なる時代に人を頼るのは、難しいと感じる。映画は、現在我々の生きづらさ
を、向上心を持った鬼や鬼滅隊が戦う場面で見えない恐怖との戦いを見て
共感を感じるタイミングなのかも知れない。複雑な要因で大ヒットしたと
感じた。時代によって、映画も小説もお笑いも共感されたり拒否されたり
する。持続性と普遍性があれば名作として時代を超えて残る。人間には、
寿命がある。今までの歴史から近未来を予測して乗り切る努力をしている。
それでも失敗を繰り返してしまう。そんな事を考えさせられる映画だった。
派手な戦闘シーンを楽しむと同時に、それぞれの関係性を考え鑑賞すると
楽しめる映画だった。



2020年10月25日

『愛情物語』(1956年)ジョージ・シドニー監督作品を観た。
エディ・デューチンという実在のピアニストの生涯を映画化した
作品だ。監督のジョージ・シドニーは、錨を上げて (1945)や
アニーよ銃をとれ (1950)やショウ・ボート (1951)などの作品が
有名だ。大学を卒業して薬剤師の資格を取ったエディーは、仕立て屋
の両親の希望で田舎に戻り薬局を開くより学生時代のクラブ活動で、
ピアノを弾いて才能を認めてくれたセントラル・パーク・カジノの
オーケストラの指揮者ライスマンの楽団に誘われたと思い採用して
訪ねる。一度は、断られるが資産家の姪マージョリイ・オルリックス
の口添えで楽団に入る事が出来る。そして成功してレコードも出せる。
そしてスポーツカーを買ってパーティーのゲストとして招待されたと
思いパーティーに参加すると演奏の依頼だと知る。マージョリイも
バーティーに招待されていて二人の仲は、近づく。そしてエディーの
両親に前で婚約して結婚する。二人の会話の中にアルジャーの小説と
言う言葉が出てくるので調べたら「ボロ着から富へ」と例えられる。
アメリカンドリームは、努力・勇気・決断で富と成功を実現させる
小説が多くてアメリカの文化的・社会的理想像の歴史と言われている
事が分った。アメリカの若者は、未来への希望を持てたらしい。
アメリカの中流階級で大学に行かせてもらえる親がいる家庭という事
ではあるみたいだ。愛情物語のエディーと資産家のマージョーリィー
も生きがいとして仕事を選べていた。マージョリィーはインテリアの
仕事をしていたりエディーも楽団を結成する事が出来て成功していた。
仕事も結婚も順調で息子のピーターが産まれてエディーは、ラジオで
アメリカ中に演奏が放送される程になる。クリスマスの放送が終わり
エディーは、すぐにマージョリィーの病院に、駆け付けるがマージョ
リィーの両親は、悲しそうに病室の前の椅子に座っている。
間に合わなかったのかも思ったが、最後を話をして手に持っていた金の
鍵が床に落ちる場面が印象的だ。苦しまないで静かに息を引き取る。
クリスマスの夜だった。
資産家のマージョリィーの両親が息子のピターを育ててくれる。エディー
は、南米に演奏旅行に出かける。ピーターと過ごす時間は、かなり少ない。
そんな時に、第二次世界大戦が起こり、海軍の駆逐艦の士官になる。
音楽の慰問を頼まれても前線で戦う事を希望していた。
ミンダナオ島で瓦礫になった家のビアノを弾くと現地の子供が懐いて
くる。戦争が終わり帰国して楽団を再結成して活躍する。
ピーターが懐いているチキータという女性がいる。
チキータにピーターが、心を開かないのは、エディーがピーターと過ご
せた時間が短い事だと諭される。
エディーは、ピーターとチキータも楽団に参加させて一緒に過ごすよう
になる。ピーターは、ピアノが上達する。
そしてチキータは、イギリスに帰国しようとする。エディーは、自分と
ピーターを見捨てないでほしい。妻を自分の命より愛していた。しかし
青春の恋は、一度きり。それにすがって生きて来た。子供は大きくなり
両親は、年老いていく。とプロポーズする。
仕事が順調で、上手くいってるときに手の感覚異常で病院に行くと余命
一年だと知らされる。映画では、病名は不明だが白血病らしい。
病名がハッキリすると現在は、治せるという方に意識が行ってしまうので
ハッキリさせない方が想像させる方が普遍的に楽しめるのかも知れない。
息子のピーターに病気で余命の無い事を伝えてピーターとエディーが
二台のピアノで演奏する。途中でエディーがカレッジリングをピーター
の指に嵌める。エディーがビアノから離れてもピーターがビアノを弾いて
いるから入れ替わっても気付かれないと言ってエディーが消えても
ピーターが演奏を続けている場面で映画は、終わった。映画なので
病院で臨終の場面とかを見せないで綺麗に終わらせられるが現実は、結構
大変だと思う。
愛情物語は、執事のいるような資産家の家で仕事も順調なのでフィクション
みたいだけどモデルになった人がいる事に驚かされる。
戦争からも無事に帰還するがマージョリィーもエディーも病気になって
ピーターが残るけど資産家の祖父も祖母も生きている。
同じ時代の音楽家を主人公にしたグレンミラー物語という映画もあったが
慰問先に飛行機で移動している時に死んでしまう終わり方だった気がする。
思い出した。音楽をやっているとファンの女性と問題を、起こしそうな気
がするが、音楽と家族に対して真摯に向き合う姿勢が良かった。
時代背景が第二次世界大戦なので、日本軍は、飢えと伝染病で亡くなって
しまった。ペニシリンや結核のストレブトマイシンが普及したのが戦後に
なってからだったと思う。若い気に鑑賞した時に、ストーリーが記憶に残ら
なかったのは、マージョリイは、凄い資産家だしエディーの親も中流よりは、
豊なので、アメリカの、お金持ちの生活に目が行ってしまったのだと思った。
音楽家の映画なので、曲は、記憶に残っていた。お金持ちで仕事も順調だけど
病気で母親と父親を亡くした息子のピーターが可哀そうだった。
同じ時代に作られた映画なのでエディ・デューチンとグレン・ミラーを比較すると
前線で戦っていたエディーが戦争すら帰還できて慰問をしていたグレン・ミラーが
戦争で亡くなったので、予測が出来ないが人間万事塞翁が馬なのかも知れないと
感じた。グレン・ミラーは、トロンボーンを質屋に入れる程に貧乏だった。
両方を見比べるのも面白いと思う。資産と愛情のバランスが良くて妬まれない
平均的な家庭が人並に第二次世界大戦後に増えたが2020年になって格差が拡大して
しまったみたいだ。中間層が減り過ぎると不平等感が社会に悪影響を与えてしまう。
愛情物語を子供の頃に見たときは、アメリカの豊かさに目が行ってしまい登場人物
は、夢の国の住民みたいに見えていたが、年数が経つと家族や家庭に興味が変わった
と感じた。アメリカの社会も変わってしまったみたいだ。アルジャーの小説みたいに
アメリカン・ドリームを目指すのは、若く健康で志があっても格差の拡大した現在で
は、無謀な事になったのかも知れない。戦後は、裸一貫から努力してホップ・ステップ
ジャンプと出世を目指せた。どん底から這い上がる苦労話を自慢する人がいた。
『健康だけが取柄だよ』と言う人もいたが、病気になると助からない事が多かった。
健康で働けるか病気になると亡くなってしまうかの時代で、愛情物語みたいな資産家
でも子供を残して亡くなっている。日本では、病人が医療費を支払う事が出来ずに
お医者さんが、経営困難で自殺する事態があったらしい。セツルメント運動や企業の
福利厚生の意識が高まって初診料を払えば医療が受けられる時代になった。第二次世界
大戦の後で国民皆保険制度が機能していた事もあったと思う。
失敗したり身体を壊したりした時の社会保障制度を国家が担っていたアメリカでは、
企業の健康保険に負担を求めるようになりマイケル・ムーア監督の『シッコ』みたいに
なった。イギリスはケン・ローチ監督の『私はタニエル・ブレイク』みたいに福祉の
ハードルが高く行き届かない。日本は『万引き家族』韓国は『半地下の家族』が
現実に近い。今年は、新型コロナの影響で、世界が、これほど大変で、誰もが生命や
財産の危機を感じ生存が危ぶまれている時なので、新しい時代を見据えて夢や憧れに
向かう道筋を見つけるのが難しい時代みたいだ。将来を見通すには、現状を踏まえて
向かうべき方向を決めて向かうことが大切だと思う。未来は、誰にも解らないので
過去を懐かしみつつ昔の映画も鑑賞して、新しい時代を想像したいと思う。
持続可能な地球環境は大切だが、健康に働き続ける為には、安定安心して生活が出来て
学習機会も得られて今日より明日が、より良くなる事で希望を持てると思う。
心身ともに健康を維持し続けるのは大変だ。不安定になると精神を病んで労災になる
人が増加したみたいだ。以前の労災は、危険な作業で事故が起こり怪我をしたという
場合が多かった。病気の原因が有害な作業環境だったり公害病が問題になるのは、
昭和の後半だったと思う。幼い時に両親を無くしたピーターの境遇を考えると
『愛情物語』の美しい音楽は、悲しげな感じがした。ピーターが、その後どんな成長を
したのか気になった。親が生きていると期待をかけられて重荷になる子供がいる。
期待通りに出来れば褒められて伸びる子供もいれば、押しつぶされる子供もいる。
母親のマージョリーの死に続き、息子のピーターとの親子関係の時間も作れずチキータに
ピーターを委ねて。エディは、余命1年で、エディとチキータは、先の短い幸せを選ぶ。
そしてピーターにカレッジリングを渡し別れの挨拶をして終わるのはハッピーエンドで
無いが一生懸命に生きて音楽をピーターの残して映画は終わった。
残された息子ピーターとチキータに未来を引き継ぐ事は出来たがエディーはピーターの
その後を見られない。エディーは、思い残す事が無いように引き継ぎが出来てハッピー
エンドだと思うべきかも分からない。戦中と戦後は、子や孫と過ごす事が出来なかった人が
多かった。未来は、知らないままの方が良い場合もあるのかも知れない。人生は、良い時も
悪い時もあれば悪い時もある。映画は、物語の何処を切り取り編集したり美化したり誇張
したりでハッピーエンドにもバットエンドにも作れそうだ。人間の記憶も辛い事を忘れて
昔は良かったとなったり過去にひどい目あって忘れられない人の中には、PTSDで苦しむ事も
あり人間の記憶は難しい。実際に経験できなかった事も映画を観て知る事で気付く事もある
と思う。戦争の時にエディーは、薬剤師だけど医療でなく軍艦で戦闘していた。
色々な事を出来たエディーは、スゴいと思うが天は二物を与えずというが沢山の才能を
与えられてもエディとマージョリイは、人生が短かいと感じた。二人の愛情は、濃かった
し残した音楽と引き継いでくれるビーターとチキータもいてピーターの祖父・祖母は、
健在だ。映画の感想は、同じ人が何度か見ても鑑賞した時の年齢や時代や環境で変わる
と思う。子供の時に鑑賞した時は、エディーとマージョリィーの年齢は上だった。
二人の年齢より年上になってから見直すしたら子供の目線から大人の目線に変わっていた。
映画の音楽の記憶は、変わる事が無いまま頭に残っていた。



2020年10月14日

『エデンの東』(1955年)エリア・カザン監督作品を観た。
『怒りの葡萄』でノーベル文学賞を取ったジョン・スタイン
ベックの小説が原作になっている。主演は、ジェームズ・ディーン
だ。若くして自動車事故で亡くなったジェームズ・ディーンが出て
いる。『ジャイアンツ』(1956年)の一年前に公開された映画だ。
時代は1917年で第一次世界大戦の直前だ。カリフォルニア州サリナス
に住んでいるトラスク家の次男のケイレブ(ジェームズ・ディーン)
愛称はキャルは、サリナスから汽車を無賃乗車して、モントレーの
港町で酒場を経営している中年女性ケートを尾行していた。
産みの母親がケートらしい。父親から母親は、死んだと教えられて
いる。父親のアダムは、レタスを冷凍保存して新鮮な野菜が収穫出来ない
冬に出荷しようと氷を使った冷蔵室を倉庫にしていた。
マストドンがシベリアの永久凍土から冷凍された状態で発見されて肉が
腐っていなかった話から考え付いたらしい。キャルは、保存の出来る穀物
の方が儲かると言うが父親のアダムは、金儲けの為でなく人の役に立つ事を
して残したいと聞き入れられない。キャルは、冷蔵保存用の氷を倉庫から
外に滑らせて砕いて犯行する。父のアダムから聖書の一説を引用して叱られ
る。その引用の中で、自分のことを知りたいので、母のことを詳しく知ら
りたいと思い母のことを父に問う。父のアダムは母は死んだという。
キャルは、信じられずケートの店に行って、直接聞こうととするが追い返され
る。その後で、キャルは、父親のアダムの古くからの友人の保安官のサム・
クーパーに、誰にも見せないで秘密にしていたキャルの両親が結婚した時の
写真を見せてもらう事が出来る。キャルは、ケートが自分の母親だと確信する
事が出来る。キャルは「父から愛されていないのではないか」と悩んでする事を
長男のアロンと交際しているアブラに打ち明けると、アブラも似た事で悩くで
いたことを知り、二人の気持ちが近づいていく。
父親のアダムが冷凍保存していたレタスが貨物列車で東部の市場に出荷される。
新鮮な野菜は、高く売れると考えていたが、輸送の途中で雪崩で汽車が通行不能
になってしまう。貨物車の内で冷蔵の氷が溶けてしまい野菜が傷んで売れなく
なって大損害してしまう。キャルは、父親の損害を取り戻そうと、先物取引の
相場に詳しいウィル・ハミルトンに教えを請う。戦争が起こると穀物や豆が
高騰すると教えられるが、投資する金額がキャルには、大きすぎる。
キャルは、母親のケートに、資金の協力を求める。一度は断られるが、ケートが
父親と別れた理由が、真面目で信心深い父から自由になりたかった事や、アダムが
インディアンとの戦いの傷だと言っていた傷がケートが家を出るときにケートに
撃たれた傷だということや、ケートもキャルと同じようにアダムから聖書を引用て
叱責して清廉にしろと、押し付けられていた事が別れた理由だと聞かされる。
そして話を聞いた後で、資金を提供してくれる事が出来る。
戦争が始まり第一次世界大戦になっていく、戦争による特需でキャルは、投資で
利益を上げる。しかし父のアーロンは、戦争に反対しているとキャルに言う。
同じ町に住んでいるドイツ系移民のグスタフ・アルブレヒト(靴屋)は戦争の敵国から
の移民だと戦禍の煽りで店のガラスを投石で割られてしまう。
祭りの日に、キャルは兄のアロンと待ち合わせしているアブラと出会う。
アブラは、兄のアーロンと待ち合わせの時間より、早く来ていた。キャルとアブラは、
時間があるので二人で観覧車に乗る。キャルは、アブラに兄のアーロンと交際して
いると違和感を感じると言われる。母親のいないアーロンが、母親を自分に求める
のは違っていると打ち明けられる。キャルとアブラは、観覧車の中で唇を重ねたキスする。
観覧車の下で、靴屋のグスタフ・アルブレヒトが反ドイツ感情の強い人々に小突かれて、
その場にいた兄のアーロンが巻き込まれ。キャルは、兄のアーロンを助けようと
騒ぎの中へと飛び込んで乱闘になる。保安官のサム・クーパーがその場を収め騒ぎは
静まったが、キャルは乱闘に巻き込まれたアーロンを助たが、アブラが近くにいたので、
アーロンは、キャルがアブラに、いい所を見せたかったと思いこみ兄弟で殴り合いを
する。キャル自身も兄のアーロンを助けたい気持ちと殺したい気持ちがあると悩んでた。
母親のケートの資金協力もあり大豆の取引でキャルは、利益を得たお金が父アダムの
損失額を補填できる金額になる。キャルは、父アダムの誕生日に相場で得た利益を
プレゼントするが、戦争を利用して大金を得たことに腹を立ててアダムは、金を受け取らず
キャルを叱責する。
兄のアーロンは、アブラと婚約した事を告げてプレゼントにする。アダムは、アーロンと
アブラの婚約の知らせみたいな清らかなものが欲しかったと言う。キャルは、大声で泣き
「父さんが憎い」と叫び出て行く。
カインとアベルの穀物と羊の肉の話に絡めている部分だ。殺生を伴う肉と農作物で
肉を喜ぶのか疑問に感じる人が多いと思うが、戦争で上がった穀物の相場で儲けた
金にすると解りやすいかも知れない。農作物が農奴によって得た物なのかも知れない
と深読みする事が出来た。映画では、キャルが白人の経営する農場に豆の成長の様子を
見に通っている場面があった。
アダムの仕打ちで、嘆き悲しむキャルをアブラが慰めているのを見たアーロンは怒る。
そしてアブラに、もうキャルのところに行くなと厳しい口調で言う。その事からキャルは、
父アダムへの憎しみが、兄への憎しみに変わってしまう。カインとアベルの殺人の動機も
父親に納得出来る評価を得られず、評価した父親と戦うのではなく兄弟の関係が悪くなり
殺人が起こる。
キュルは、兄が嫌っている、ケートの酒場にアーロンを、連れていき兄アーロンに
ケートが母親だと対面させる。ショックを受けたアーロンを、母のケートと二人にさせて
キャルは、帰宅してしまう。家に帰ると父アダムに兄アーロンの行方を聞かれるが、
「知らない、僕は兄さんの番人じゃない」と言い返し更に、母親のケートが家を出て行った
父アダムが隠していた理由を知っていると言って、父アダムに出て行って母さんみたいに
自分で事業をはじめると言う。父さんは、仕方なく許すだけで俺や母さんに対して愛が無い
という。父と子の争いの場面で『12人の怒れる男たち』の結末を思い出してしまった。
兄のアーロンは、最も軽蔑する女が自分の母であったことを知って激しいショックを受け、
自暴自棄になって、いきなり志願してその夜の列車で出兵してしまう。
父のアダムは、アーロンが出兵の為に汽車で遠くに行くと知らせを受けて駅に行く。
出兵する若者達を乗せた列車の窓からアーロンは、頭でガラスを割って顔を出し父アダムを笑い、
列車は動き出す。頭をぶつけたぐらいで簡単に割れるガラスだった。
アダムは、息子のアーロンに知られたくなかった事を、知られ軽蔑の対象になり笑われたことは
アダムにとっては、ものすごくショックで、列車が出た直後に脳出血で倒れ、そのまま寝たきり
の重病人となる。身体が麻痺して寝たきりの状態で看護婦が付きっきりになる。キャルは自分が
兄と父にやったことで起きた事に良心の呵責を感じて苦しむ。皆が見舞いに来る中で保安官の
サムがキャルに「アダムとイヴの子カインは、嫉妬の余りその弟アベルを殺す。やがてカインは
立ち去りて、エデンの東・ノドの地に住みにけり」と旧約聖書の一節を語って、取りあえず
キヤルは、アダムのいる、家から出て行った方がいいと諭す。キャルも自分が去らねばならないと
決意をする。キャルは、病床のアダムに許しを乞うが、アダムはもはや虚ろな目で何の反応も
示さない。キャルは絶望の淵に立つことになった。看護婦は、タブラに長い事は、無いと言う。
アブラは、戦場に行ったアーロンよりキャルが好きだと気づき、ベットに寝たきりのアダムの
傍で一人必死に、キャルが父アダムの愛を求めていたことを話て、アブラはアダムからキャルに
何か頼み事をして、キャルの承認欲求を満たしてほしい、でないとキャルは、一生、自己肯定感を
持てないままダメになってしまうと訴える。
絶望してアダムの部屋に入りたがらないキャルを説得して父のベッドで再び許しを請うように
促す。アダムは、苦手な看護婦を辞めさせてくれとキャルに頼む。そして看護婦に「GO OUT(出て行け)」
とキャルが叫んだ直後、アダムの目が訴えかけるようになり、キャルがアダムの口元に耳を寄せる。
微かな声で「代わりの看護婦は要らない。お前が付き添ってくれ」と告げるアダム。やっと確かな
言葉で父に認められたキャルは、アブラは涙を流す。そしてキャルは父アダムのベッドの傍らに座る。
そして映画は終わる。長くは無いので家を出て行かずに父親を看取る事が出来たと思える終わり方だ
った。スタインベックの小説は、信仰より家族が円満に助け合う事の方を優先させるべきだと気付か
せてくれる。宗教は、家族・コミュニティーや大きくは国家の対話や交流をも円滑にするものだが、
こじれると宗教戦争になったりもする。
エデンの東は、宗教の信仰と家族の円満のバランスの大切さを教えてくれる。DV・モラハラ・聖書
を覚えている事で、自分は正しいと考えを押し付けるのは、教育虐待だし母親が逃げ出す程に嫌わ
れる行動で家庭を破壊している。現在なら毒親は、介護施設に入れられて誰も面会に来ないで孤立
していく末路もありそうだ。兄のアーロンは、アベルみたいに弟に殺される話と重ねて考えると
戦地から生きて帰還する事は、出来なかったと思う。重い内容なので、苦手な部分を忘れてしまうので
何回か鑑賞しないと話の流れが思い出せない。十代の時に鑑賞した事があるが冷蔵レタスの場面しか
記憶に残っていなかった。
昔のアニメのポパイというセーラーマンがホウレン草の缶詰を食べると
力が出る話を、思い出したり、現代なら電器冷蔵庫や冷蔵や冷凍も出来て交通インフラが整備されて
いるので氷を入れて冷やす冷蔵庫の時代から電子レンジも普及して食品の保存も進化したと思った。
ホウレン草は、ゆでて冷凍食品になって売っている。そんな部分に目が行ってしまうがカインと
アベルの話は、日本の海彦と山彦と父親の部分を除くと共通する感じを受けた。
他にも日本には、毛利元就の「三本の矢」の教えや「三人寄れば文殊の知恵」という諺がある。
キリスト教にも「もしひとりなら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる、三つ撚りの糸は
簡単には切れない」という例えが 伝道者の書4:12にあるらしい。
子供を比較して愛玩子と搾取子みたいな差別をされると大人になってからも精神的なダメージを
受けやすいらしい。家庭の中の格差と国家規模の不平等による格差の拡大が大きくなると精神を
病んでしまう人が増えるらしい。昔は、他の家庭と比較が出来ず気付かなかった不平等が明確に
なり遠いい外国の国と自分の母国と比較するより映画やドラマを見て憧れる状態から、実際に行っ
たりも出来て、ネットで興味や疑問を持つと調べる事が容易になり比較する情報が手に入れやすく
なってと感じる。世界規模で続いている新型コロナの状況も知る事が出来ると公衆衛生や医療の
制度など健康な時には、自分は大丈夫という意識で正しい予防をしないと、感染症を終息させる
のは、大変みたいだ。世界規模のスポーツの大会や文化芸術の交流が出来てオリンピックも安心
安全に開催できるのかも知れない。
エデンの東は、第一次世界大戦の話なので第二次世界大戦と戦争を意識してしまうがスペイン風邪
の世界的流行もあった。新型コロナで感染症が注目される今だから過去の伝染病の歴史を知る機会
になった。自然災害や大規模事故も起こっていて、色々な事がありすぎると忘れてしまうが意外に、
一難去ってまた一難が続くのかも知れない。その間に良い事も悪い事もあるのが人生らしい。



2020年10月01日

『奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ』(2014年)マリー=カスティーユ・
マンシオン=シャール監督作品を観た。ムスリムの母親と娘が卒業証明書
を発行してもらいに学校に来たがスカーフを外さないと手続きが出来ない
と言われている。フランスの貧困層が暮らすパリ郊外の公立高校が舞台の
実話を元に作られた映画だ。フランスは、驚くほど多民族が住む国になって
いた。
そして宗教・文化・思想・家庭環境など、すべて違う生徒達が在籍している。
肌の色も多様な29の異なる民族や人種が同じ教室で机を並べて勉強している。
フランスは驚くほど多民族化している。その為に自分の
政教分離の目的のために、政治的・宗教的な印となる服装を学校内ですることを
禁止している。十字架のペンダントやイスラム教徒のスカーフなどは、禁止され
ている。
高校の歴史の授業で美術史を専攻しているのには驚いた。日本だと世界史と日本史
で年号の暗記が多くて時間の流れが途切れるような覚え方だった。
絵や彫刻の視覚的情報から歴史を学ぶと解りやすいと感じた。
服装史から絵の年代を知るのは、映画の交通手段や通信手段から、大雑把な時代考証
が出来るみたいに高校から美術史を学んでいるみたいだ。
美術史の授業で宗教画に異教徒を地獄に描いてる理由が、宗教戦争の時代背景が
あり敵は、地獄に行くという意図が含まれている事を教えられる。
風刺週刊紙シャルリー・エブドの事件は、歴史を学んで冷静に時代背景を考えられる
教養をフランスで暮らす人が身に着けていれば、防げたりかも知れない。
宗教に対して規制が厳しすぎて、過激な行動が起こるのか分からないが、知らないから
恐れたり嫌悪感を抱く事があるので相手の宗教を知る事で、相手の使っている物差し
を知る事には、なると思った。
生徒達は、自己主張が強くて学級崩壊みたいに見えるが、日本みたいに黙って座って
いて授業に参加しないで何も身に付けないで卒業していくのと引きこもって学校に
すら行かない状態とかを想像した。生徒がバラバラに見えるが日本みたいに小さな
集団を作って陰湿な虐めをするのとは違うみたいだ。個人を大切にする国柄と
組織や集団を優先させる国柄の違いがあるのかも知れない。
民主主義は、時代によって変わる。多数決の時もあれば、ギリシヤのアテネでは、
くじ引きも取り入れていたらしい。
クラスでコンクールでホロコーストの事を調べて発表する事になる。
生徒と中に、手に彫られた数字を資料として集めてきた。ゲゲン先生は、数字の中に深い
意味が込められていると言った。
アンネ・フランクの日記は、最初は個人の日記として書かれていたが、アンネがラジオで
起こっている事を歴史の資料として残すべきだと言う放送を聞いて目的に変化があった
と言う事を知った。
ガス室の写真は、残っていないがパスカル・ クロシュの絵には、髪の毛と衣服が描かれ
ていた。ショア(ヘブライ語で絶滅)記念館で見た写真と絵が同じ構図になっており死体に
髪と服を加える事で、殺される前に剥ぎ取られた個人のアイデンティティーを加えたのでは
ないかと意見を言った生徒がいた。名前を番号にされて髪を刈られ服を奪われたら人は、
アイデンティティーも奪われると感じるのは、若者らしいと思った。
コンクールで「ブーヘンヴァルトの誓い」を朗読して優勝する。
授賞式で、「声を失うと人は滅びる」というポール・エリュアールの詩が引用された。
次の年もゲゲン先生は、新しい生徒の担任をする為に同じ事を言っているが教員の年数
が20年から21年になっていた。
疑問を持ったら調べる事で気が付き学ぶ事に繋がる。美術史や神学を学ぶと哲学
も関連して学びたくなる。ジャン・カルヴァンの予定説も映画に登場していた。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、アブラハムの宗教だが争いが続いている。
カインとアベルの話を思い出してしまう。キリスト教でも十字架にキリストが
付いているのがカトリックで付いていないのがプロテスタントだとか微妙な違いが
あるらしい。人間は、微妙な違いが違和感になって揉めるのかも知れない。
最近ムスリムに改宗した生徒がモスクに来ていなかったと言われてジェラバ(モロッコ)
を内側に来ているのを皮肉られたりしていた。同じ宗教だと民族衣装にも宗教をアピール
していると感じてしまうみたいだ。
ホロコーストを生き延びて「ブーヘンヴァルトの誓い」で、収容所の話を、してくれた
ユダヤ人の老人に、生き延びられたのは信仰の力みたいな質問をした生徒に自分は、
無神論たから神は信じないが人間は信じると答えた。
ユダヤ人を調べているグループとロマ族(ジプシー)を調べているグループがあり
富裕層のユダヤ人と貧困層のロマ族の比較までは、詳しく行われていなかった。
サブタイトルの「受け継ぐ者たちへ」は、戦争体験という意味みたいで、日本でも被爆の
体験を語る人が高齢で亡くなっていくので、語り継ぐ人が必要だとニュースで見たが
文章や写真に加えて映像で残す事も出来ると思った。過去の歴史の中に、人類の過ち
があれば、過ちを繰り返さない事がより良い未来につながる。所得格差や生活習慣や
宗教や文化が異なる人様々な人が同じ教室で学ぶと様々な文化も出会う。互いを尊重
して共通認識を持って共感しあえる物事を研究する中で判り合える事は、大切だ。
そして、良い結果を出して達成する事は、将来の自己肯定感を育める。成し遂げる
のは、大変だが、映画のクラスは、全員が青春の時に良い体験をして思い出を作れた
と思った。ゲゲン先生も長い教師生活で、思い出に残る教室になったと思う。
フランソワ・トリュフォー監督の『思春期』というフランス映画の時代と住んでいる
人が変わっていると感じた。これだけ様々な民族や宗教の人が暮らすようになると
相手を理解する為に様々な宗教の知識を知っていないと食べられる肉の種類なども
注意しないといけない。カレーライスの肉は、ヒンドウー教は牛を食べないし
イスラム教とユダヤ教は豚肉を食べないので鶏肉や羊の肉が無難みたいだがビーガン
もいるから同じ教室で学ぶにも気を使いそうだ。ホロコーストを研究する中で「選別」
によって障碍者・皮膚病の人まで含まれていて、落ちこぼれで「バカロレア」に進学
できないクラスの生徒達は、グループ学習で優勝してチームとして協力する事の大切さ
を学んだが「受験」という選別や固定した格差による貧富の差を是正しないと黄色い
ベスト運動が起るフランス社会の変化にも注目していくたい。様々なコンクールや大会
が新型コロナで中止や延期になった。新型コロナで機会を失った学生も多いと思う。
学生限定のコンクールや大会で機会を失っても社会人になっても挑戦する機会を求めて
ほしいと思う。若いうちは登竜門ととしての大会やコンクールで、賞を取ろうと実績を
積み上げていたら功労賞を貰ったり賞でも、こちらの章を貰える事もある。
何かをする機会をチャンスにするには、自ら求めて普段から備えると良い。
チャンスは、待ってはくれない。予定して準備しても今年は、新型コロナの影響が
大きかった。様々な試行錯誤の中からより良い将来に繋がる物は、新しい生活様式と
して残り未来に向かってほしいと思う。



『グレート・ワルツ』(1938年)ジュリアン・デュヴィヴィエ
監督作品を観た。ヨハン・シュトラウスが「美しき青きドナウ」
を作曲する話だ。ウィーンの銀行員として雇われたが仕事中に
楽譜を書いていて半日で解雇される。パン屋の妻がいて銀行に
勤めは、良い仕事なのにと言われるが音楽の方が良い仕事だと
人を集めてオーケストラを作りカジノを借りてコンサートを開く
事で上流階級のオペラ歌手が曲を聞いて宮殿に招待する。
一般庶民だったヨハン・シュトラウスが当時は、低俗な曲だった
ワルツを高尚な音楽として高めていき第二の国家にまで昇華させ
上流階級にのぼっていく流れだった。
元々は農民の音楽だったのでワルツが低俗な音楽だと思われていた
とは知らなかった。日本だと田植え歌みたい感じらしい。ウィーンで、
民衆が革命活動を行っていてヨハン・シュトラウスが協力していた
のは、知らなかった。オペラ歌手のカラ・ドナーが自由の女神と
呼ばれていたりヨハン・シュトラウスが革命の為に行進曲を作って
いたとか知らなかったし映画なので脚色や誇張されたり美化さて
いそうな感じがする。大体は、この映画みたいだと思うが、興味を
持って気になった部分は、ウィキペディア等でヨハン・シュトラウスの
事を調べて比較した方が詳しく解かり確認にもなる。映画は、雰囲気を
知るのに鑑賞するのが良さそうだ。ウィーンの森を通って逃げていると
羊飼いの角笛を聞いてウィーンの森の物語を作曲してしまう。
NHKの連続テレビ小説のエールを見ているような話の流れで驚いてしまう。
ヨハン・シュトラウスはバイオリン奏者だと知らなかった。ジュリアン・
デュヴィヴィエ監督は、『舞踏会の手帳』や『にんじん』が代表作だ。
映画を観て史実に興味を持って比較して確認する機会になった。
時代は1804年〜1849年なので間にフランス革命があった。レコードが
発明されていない時代なので楽譜を印刷する音楽出版と契約していて
曲が後世に残ったみたいだ。グーテンベルクの活版印刷の発明が1445年頃
なのでレコードでなくて楽譜の印刷物が店頭に並ぶ場面で曲がヒットして
いると分かった。オルゴールも、1800年頃に作られたみたいだが、長い
曲は、譜面で残さないと正確に後世に残せなかったと思った。
オルゴールは、音の数を弁で表すのでオルガンから来ているのかも知れない
とも思った。知らない事が多いので新しく知る事は、面白い。
若い時にインターネットが有れば物知りになれたと思う。古い映画でも
興味が有ったり漠然と名前と代表作品を知っているだけで、深く掘り下げ
ないのは、勿体ないと思い鑑賞出来てよかった。



2020年09月22日

『ピノキオ』(2013年)アンナ・ジャスティス監督作品を観た。
実写とCGアニメを組み合わせた映画で、ピノキオは、1940年に
ディズニーのアニメで作られている。実写は2002年にライフ・
イズ・ビューティフルのロベルト・ベニーニが監督・主演まで
こなした作品も作られている。作品が有名なので、原作は、誰
か覚えていなかった。小説は、ピノッキオの冒険でカルロ・コッ
ローディだと知った。今回の映画は、女神様か妖精が、あまり
登場しないので、タカツムリが出てこなかった。ピノキオを導く
コオロギが、女性で子供に目を配る母親みたい感じがした。
コオロギは、ピノキオが作られる前から松の木に住んでいて
導いてくれる流れになっていた。ゼベットじいさんは、妻を
亡くした初老の男で、ビノキオを作る。母親みたいなコオロギと
父親のゼペットで、幼少期の養育をして人間の少年に成長させる
事が出来たという流れみたいだ。同じ年の子供達が人形から人間
に変わったピノキオに驚かないので、ピノキオの精神的な成長の
物語として視点を変えると解りやすかった。片親の父子家庭の
子育ての物語として鑑賞するように作られていると感じた。
貧しいながら村の人とも交流していたり人形使いは、人情深かった。
ワンダーランドでロバに変えられるが、子供を、ぶつ親もいないと
言う誘い文句は、暴力がツシケとして、行われていた時代の子供に
は、魅力的に聞こえたと感じた。
金貨を騙し取るキツネとネコは、人間が演じていた。金のなる木
や奇跡の原っぱとか、ネーミングが、火打石の音に疑問を持つと
カチカチ山だと納得させる感じがした。クジラに飲み込まれて
吐き出されると海岸に打ち上げられてピノキオが人間の子供に
なっている。そしてコオロギの家が作られてエンドロールになった。
亡くなった妻の遺品の銅の鎖のペンダントで皮膚が黒くなると
ゼペットが話していたのを覚えていて、キツネとネコにペンダント
には、毒が塗られていて、毒で皮膚が黒くなると知恵と機転で
取り返す所は、この映画の独自の脚色で面白かった。
大作みたいに豊富な予算でCGアニメを駆使した作品では無かったが
鑑賞して良かったと思った。イタリアの小説は、愛の学校物語クオレ
の「母をだずねて三千里」や黒い兄弟の「ロミオの青い空」が有名
だ。子供が安心して生きられて未来に希望を持てる社会構造になって
ほしい。新型コロナで工場労働みたいな労働集約型の働き方から
ネットを使ったリモートワークが取り入れられて、ライフスタイルが
変化して消費する物や事も激変しそうだ。落ち着かないとビジョナリー
(visionary)(先見の明や将来を見通した展望が見えてこない。
ピノキオのコオロギにアドバイスしてほしいとも思ったが、自分で
探して調べるのが良いみたいだ。キツネやネコに騙されると困る。
空想も出来ないような次の未来は、意外と早く訪れそうだ。適応が
出来るか分からないが興味を持ち続けて近未来を迎えたいと思う。



『アシュラ』(2012年)さとうけいいち監督作品を観た。
子供の頃にジョージ秋山の漫画を読んだ事がある。すっかり
忘れていたがアニメ化されていた。内容が衝撃的すぎて忘れて
いた程だ。自分の片腕を、切ってアシュラに食べさせた、お坊
さんの場面と木を運んでいると道路が傷むという地頭の息子と
人を殺して食べて生き延びたアシュラが言葉を覚えて人間として
生きられるようになって、お坊さんになって仏像を彫っている
ラストを確認できた。母親が空腹で赤ん坊のアシュラを丸焼きに
して食べようとする場面は、記憶が消えていた。1970年代に読んで
から発禁処分になっていた漫画がアニメ化されていた。発禁に
なった事にも気が付かず50年が経っていた。アシュラの時代は
応仁の乱の頃で15世紀の中頃だ。飢饉と戦乱の時代で食糧が無く
農作物を作るより人間を殺して食べる方が早いという考えが怖か
った。一方で農耕から狩猟に先祖返りした生き方かも知れない
とも感じた。大怪我で死にそうになっていたアシュラの手当てを
して食事を与え匿っていた女性によって言葉を覚える。その女性
が餓死しそうになるり地頭の馬を殺して餓死しそうな女性に渡すが
アシュラの持ってきた肉を人肉だと思い食べないで餓死してしまう。
アシュラは女性の死と僧侶が自分の手を与えお経を教えられた事で、
人として生きる事を選ぶというストーリーだ。アシュラの母親が
何故、妊娠したかは、分からないが結婚して好きな人と家庭を
持っていたとは思えない感じがした。荒廃した世の中で野党に
レイプされてアシュラを産んだような印象を受けた。アシュラを
産んだ母親より瀕死のアシュラの命を助けて餓死した女性に母親を
感じていたのかも知れないし自分の片腕を食べさせた僧侶に父親を
感じていたのかも知れない。漫画が発禁になってから約40年後に
アニメ化された衝撃的な作品だった。戦争や災害や飢饉で犠牲に
なるのは、どの時代も女や子供みたいだ。斧を持って戦うアシュラの
動きは、セル画なら枚数を沢山使ったと思われる程に品質が高かった。
1970年代のテレビアニメでは、出来なかった動きを劇場版で実現した
という感じだった。ジョージ秋山は、2020年5月に亡くなったので
アニメが配信されたのかも知れない。残酷でグロテスクな描写があり
発禁になった漫画だけにテレビで放送するのは無理な内容だがネット
配信で鑑賞できて良かった。



2020年09月17日

『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)江崎実生監督作品を観た。
相良徹という船乗りとダンサーの北沢秋子が神戸の教会で結婚の
約束をして待ち合わせる。女性が花屋を見つけタクシーを止めて
花を買いに車から降りた途端に交通事故にあって四年間行方不明に
なる。事故で、子供が産めない身体になってしまい「男の子が三人、
女の子が二人」産む約束を守れないと自ら身を引いていた。
『めぐり逢い (1957年)』みたい出だしたが、相良徹は、船乗りを
辞めて横浜でキャバレーのマスターになっていた。犯罪者を海外に
逃亡させる仕事を裏でやっている。この流れは『カサブランカ』
みたいだ。ヤクザから足を洗うには、海外に逃げるしかないカッ
プルに逃亡の手助けを頼まれる。払える金が無いらしい。その後
で、会社を計画倒産させた指名手配中の男が、逃亡の手助けを
頼みに来るが、知り合いの刑事に引き渡してしまう。ヤクザと
揉めた時に手にフォークを刺したがヤクザが拳銃を出そうとした
が居合わせた刑事に逮捕する理由をいくらでも付けられると言われ
その場は。収まる。外国航路の船乗りは、一ドル360円の時代には、
お金持ちみたい感じがした。「ひみつのアッ子ちゃん」のお父さんの
職業が外国航路の船長という設定の時代だった。船乗りを辞めてから
大きなキャバレーのマスターになる事も出来そうだと感じたと思う。
ヤクザから足を、洗う為に海外に逃亡する二人の逃亡を手伝ったり
ラストは、モーターボートで、大きな船に向かう所で終わる。
少し『お熱いのがお好き』のラストみたい感じがした。この時代に
英語を話せる日本人は、珍しかった。石原裕次郎は『華麗なる飛行
機野郎』にも出演していて英語を話していた。日本では、豊さに向
かってガムシャラに働いていた時代だ。社会保険で医療費は、数百円
の初診料のみで、入院してもお金がかからなかった。福利厚生が充実
しているから殆どがモーレツに働いていた。船乗りは、難しく複雑な
スキルが必要だけど、底辺には、港湾労働者や工場労働者みたいに
力仕事やベルトコンベアで正確に連続して生産する仕事が沢山あった。
最近は、リモートワークという言葉を耳にするが灯台や踏切が自動化
され病院の受付やスーパーのレジがセルフになり人の手が省略されて
いく生活から人情や人との交流が減っていくのは、淋しいと思う。
恋愛映画は、愛憎劇の部分や人と人との出会いによって物語が産まれる。
これからの仕事や生活は、どう変わっていくのか知りたいと思う。
未来は、夜霧の向こうで見えない状態だと思う。映画のモーターボート
が夜の海に出向して大きな船に合流する場面で、外国に逃亡して暮らす
事なんて当時の日本人には、あまり想像出来ない程、情報が少なかった
と思われる。知らない事は、それぞれが自分で考えて想像するしかない。
アニメの「タイガーマスク」の最終回は、伊達直人が飛行機で外国に
行ってしまって終わった。昔の恋人を逃がしたり、政治亡命に関わったり
様々な要素が集まった映画だった。他の映画から影響を受けたり与えたり
して作られている事が分かる人には解かる映画だった。海外旅行も外国人
も非日常だった時代は、映画から海外の事を知るしかなかった。
インターネットが普及した世界なんて想像出来なかった。映画が始まった
場面に船舶電話が登場したが、当時は先端の通信方法だったと思い出した。



『セント・マーティンの小径』(1938年)ティム・ウィーラン監督作品を観た。
ビビアン・リーが『風と共に去りぬ』の前に出ていた映画で白黒映画だ。
ロンドンのセント・マーティンという通りには、大劇場がありる。その通り
には、ストリート・アーティスト(大道芸人)が集まり日銭を稼いでいた。
詩の朗読をしていた。チャールズの投げ銭を盗んだ、リバティと言う女が
別の男のタバコ入れを盗んだ事から追いかけると空き家に忍び込んでダンス
の練習をしていた。リバティーの才能に気が付き、リバティーを警察に突き
出さないで自分の部屋に連れて自分のベットを使わせて住まわせる。
チャールズは、若いころ海軍で裁縫が出来るようになっていてスカートを
仕立てたりもしていた。詩の朗読の前は、人形を使った腹話術をしていた。
リバティはチャールズの大道芸仲間と、ストリートで歌を歌い、ダンスも
するが、大道芸では、将来が見通せないと飛び出してしまう。リバティーは
孤児院の出身で身寄りが無いみたいだ。
銀の煙草ケースを、盗んだことがキッカケで知り合った作曲家に気に入られ
る。リバティは、大劇場に出演出来ることになる。そしてチャールズ達の所
を出ていく。そして舞台で成功してハリウッドからも話が来るようになる。
自分より、かなり若いリバティに恋をして、プロポーズまでしたチャールズは
リバティに断られて絶望して、大道芸をやめて1人で、別の仕事を探すと言って
仲間と住んでいた家も出てしまう。リバティの方は、大スターになりる。
作曲家プレンティスに、ハリウッドに行く前に結婚してと言うが、プレンティスは
「第二のチャールズになりたくない」とリバティとの結婚を断る。
落ちぶれたチャールズは、ファンたちに取り囲まれれているリバティーに声を掛けて
側に行こうとするが、大声に警察が寄ってきてリバティのそばに行こうとして、
警察に暴行罪と言われて、取り押さえられて裁判で、4か月の禁固刑になり刑務所に
入れられる。出所して、視力障碍者のフリをして、小銭を恵んでもらう程に落ちぶれ
たチャールズは、人混みでリバティに再会する。見かねたリバティーは、舞台で小さな
役があるとオーディションを受けさせられるが、自分は、大道芸人だとオーディション
を途中で棄権して去っていく。
リバティは、泣きながらチャールズの後を追うが、リバティーとチャールズの、劇場の
内と大道芸の外に分かれた二人は、互いの場所が違う事を受け入れた。
リバティを劇場に帰らせたチャールズは、大道芸人の仲間のところへ帰って元に戻り
詩の朗読をする。そして映画が終わった。
引き際の美しさは、チャップリンの映画みたいだった。作曲家がハーモニカで作曲の
メロディーを伝える場面は、連続テレビ小説の「エール」みたいだった。最初は猫で
大道芸の仲間の犬が懐いて、付いてくる場面は、『アーティスト』を思い出した。
リバティが、見捨てたチャールズを本気で心配して、追いかけるシーンは良かった。
男を、踏み台にする女だけど、リバティはラストで、人間らしい情を感じさせて
くれる。しかしチャールズは、自分の元の場所に戻っていく。チャールズは、サーカス
で、産まれて芸を、覚えたと裁判の場面で詩を朗読する場面と、殴ってもいないのに
罪を認めて弁解もしないで刑務所に入るあたりは、諦めが良すぎる気もした。
太った中年のおじさんと若いビビアン・リーの年齢の差が大きい恋が印象的だった。
リバティ役のヴィヴィアン・リーは、「風と共に去りぬ」が代表作だが、
「哀愁」や「欲望という名の電車」も観たが、今回、初めて鑑賞した「セント・
マーティンの小径」は、『アーティスト(2011年)』の元ネタになったのかも知れ
ないと思った。出世街道という言葉があるがストリートから出世するのは逆境を
乗り越える難しさがあるみたいだ。イギリスの芸術大学にセントラル・セント・マーチンズ
という学校がある。歴史のある大学だが元は通りの名前なのかも知れない。
サビル・ロウやベイカーストリートとかボンドストリートみたい感じを受ける。
昔の映画を、機会があれば鑑賞しているが現在に作られる作品に影響を与えていると
感じた。映像は時代考証の資料にもなっている。生きるのに必死で自分が生きてきた
歴史も忘れてしまう事が多いが歌や映画から過去を思い出す事もあるし、その時に
気付かなかった事に、過去を知る事で流れが解かり気付きを与えてくれる事もある。
そんな事を、考えさせてくれる映画だった。



2020年09月09日

『糸』(2020年)瀬々敬久監督作品を観た。
平成元年生まれの13歳のサッカー好きの少年
高橋漣と竹原直樹が自転車で、北海道の美瑛の
花火大会に向かっている場面から映画が始まる。
花火大会で派手に自転車で転んだ事から園田葵と
出会う。葵は、腕に包帯を巻いていた。漣は、
転んで肘を擦りむいていた。葵が絆創膏を張って
くれて二人の出会いになる。
サッカーの試合の日に、葵がお弁当を作って来て
くる。星の模様のサッカーボールみたいにご飯が
丸く海苔が付いていた。弁当箱を結んでいた紅白の
紐をミサンガにして手首に結ぶ。そして「葵ちゃんが
好きだ」と試合の帰りに告白して、翌日に美瑛の丘で
待ち合わせの約束をする。
漣は、サッカーで世界を目指すと話し葵は、普通に
暮らしたいと話す。そして、次の日、葵は美瑛の丘に
現れなかった。漣は、葵の家に行くが、家族で、
引っ越して行方が判らなくなっていた。虐待と貧困を
心配して葵に食事を与えていた近所の老婆が教えてくれる。
葵の友達の後藤弓に札幌の引っ越し先を聞き出して
ススキノまで行き葵を、探し出した。葵は、母親の
恋人から虐待を受けて顔に、殴られた跡を隠すために
眼帯をしていた。漣は葵を守ると言い函館からフェリーで
青森のリンゴ農家の親戚の所に行こうと言って、列車で
函館の近くまで行く。無人になっているキャンプ場の
ロッジに一晩泊まって、翌朝に警察に発見されて、
二人は保護されて引き離されてしまう。葵は、母親に
顔の怪我は、転んだと言わされる。そして、葵は母親に
連れられ東京に引っ越してしまう。一瞬、『僕だけが
いない街』を思い出してしまった。二十年前なら児童
虐待が、うやむやにされていたみたいだ。
その為に、蓮と葵は、音信不通になって8年の年月が経つ、
漣は友人の竹原直樹と弓の結婚式に出席するために
初めて上京する。新婦の弓が、偶然に渋谷で葵と再会
して結婚式に招待していたので、漣と葵は、再会
するが、葵が大学生になったとしか聞くことが出来ず、葵は、
途中で帰ってしまう。漣は、葵を追いかけるが交際相手の
車で去って行ってしまう。葵は、東京で、年齢をこまかして
キャバクラで働いているとき水島ファンドの社長に、助けて
くれる人がいないから働かざるえないと見抜かれて水島大介に
大学に行くように援助を受けて交際していた。
漣は再会に失望して北海道に戻る。
美瑛のチーズ工房で働いている漣は、東京から帰ってから
落ち込んでいる様子を、工房の先輩の桐野香が気にかけて
くれたことがきっかけになって、交際を始めて、結婚を考え
る。そして漣は香と入籍する手続きの為に、美瑛の町役場に
行く。そこで、偶然に葵と再会する。葵は、母親の事で役所から
知らせが来たので様子を見に来ていた。美瑛で、消息がつかめず
漣に、誰か親戚はいないかと聞かれて、葵は函館に伯父が住んで
いることを思い出す。そして漣と一緒に車で、行った函館の
伯父が、母親の遺骨を持っていることを知る。
リーマンショックの影響を受けて水島ファンドは、破綻する。
姿を消した水島を釣りの道具が持ち出されていたので沖縄の海
にいると思い葵は、水島を探して沖縄までやって来て、見つける。
そして葵は、「今度は私があなたの面倒を見る」と水島に言うが
水島は、葵に、まとまった金を残して消えてしまう。
数年前にキャバクラで働いた、高木玲子と出会い友人となる。
水島ともこの店で出会い、学費や生活の面倒を見てもらっていたが、
リーマンショックの影響で水島の事業は破綻し、沖縄に逃げてしまう。
葵は水島を追いかけて沖縄までやって来て、
「今度は私があなたの面倒を見る」と水島に言う。しかし、
水島は突然、葵の前から消える。
水島が消えて沖縄に知人もなく、他に居場所が、なくなった葵の所に
キャバクラで知り合った玲子から、シンガポールに誘われて、シンガポール
のネイルサロンで働き始める。所が、お客が玲子に注文通りでないと殴りつけて
警察沙汰になり、店の経営者は、被害者の玲子を解雇してしまう。
葵も、玲子をかばい店を辞めて、二人でベットメイキングなどのキツい仕事を
してネイリストの派遣会社を起業する。葵と玲子と共同経営者になり「AOI & REI」
という会社は業績を伸ばし七周年を迎える事が出来る。順調に行くと思って
いたら、玲子が会社の金を不動産に投資して騙されて、銀行からも多額の
借金をしており、葵は、水島から貰った金で銀行に返済して会社を畳む。
銀行に返済して空になった水島ファンドの社名の入った封筒をシンガポールの
ゴミ箱に捨てて、会社を畳むのにも行動を共にしてくれた冴島亮太にも少ないが
退職金を渡して日本に戻り札幌のネイルサロンに雇われて働いている。
店長に弁当を買いに行かされているから新人扱いみたいだ。そこにシンガポールで
会社を畳んで別れた冴島亮太がエステサロンを起業して葵と仕事がしたいと誘いに
札幌に迎えに来る。
葵がシンガポールでネイリストの会社を企業して畳んだ約七年の間、漣は、
「チーズ国際コンクール」に応募し続けていたが落選が続いていた。
漣と香は、結婚して、妊娠を告げられると同時に、癌になったとも知らされる。
香の両親は子供を諦めて癌の治療を勧めるが、香は出産を優先して、癌の治療と
出産を決断する。そして女の子を無事に出産して結と名前が付けられる。
その後3年間は、香のガンは再発しなかった。結も3歳まで無事に成長して、
家族で幸せに暮らしていた。母親の香は娘の結に偉い人にならなくても良いから
「泣いている人や悲しんでる人がいたら、抱きしめてあげられる人になってね」と
言って聞かせる。
それから香の癌が再発して、香は亡くなってしまう。漣は、香が亡くなった後も
香の両親の所に娘の結を連れてチーズを届けに来ている。
その後、漣の作ったフロマージュ・フレというチーズが、東京のミシュラン三つ星
レストランのシェフに認められる。漣は、東京のホテルでのチーズの発表に為に
上京して8年間も応募し続けた「チーズ国際コンクール」では選ばれず、娘の結が
美味しさを気づかせてくれた失敗作したと思われたチーズが認められたと考えていた。
新宿の中央公園の遊歩道と歩道の下を歩く二人が交差する場面では、互いは再会せず
葵は、シンガポールのエステサロンに冴島亮太から誘われている。
スマホを見るとニュースで自分が子供の頃に食事をさせて貰っていた家が、子供食堂
の草分けだと紹介されている放送を目にする。そして、かつて自分が住んでいた家の
近くの子供食堂を訪ねる。帰る場所も無いと思っていたけど食堂の食事が母親の手料理
みたいな懐かしい味になっている事に気付いて涙を流すと、漣の娘の結が、泣いている
人を抱きしめてあげられる人になりなさいと母親に言われたとハグする。
葵は、函館で平成が終わるカウントダウンにフェリーに乗りに行く。漣は、娘の結から
子供食堂のおばちゃんが、お帰りなさいと言っていたと聞いて葵だと気づいて函館に
車で探しに行く。漣は、フェリーが出航していき葵を見つけられなかったと思って
ガッカリしていると葵が漣の手を握る。そしてエンドロールになり漣と葵が再婚して
結と香の両親やチーズ工房の仲間達が結婚を祝ってくれる映像も流れて終わる。
経糸と横糸が織物になるのにシャトルが必要で娘の結が縁を結んでくれたると言う
流れになっていた。紅白のミサンガが切れてから新しい糸が繋がるまで平成から
令和になり、東京で結婚した二人は、離婚しても3.11で連絡を取り合い寄りを戻して
いた。カラオケで「ファイト!」(中島みゆき)を歌い普通に暮らすのが大変な時代
だと酔って神様は、贅沢な願いでない普通に暮らす事も許してくれないと嘆く。
大変な平成が終わったという話だった。令和になって新型コロナで世界中が大変な
状態の時に公開された映画で、携帯電話からスマートフォンを使うようになっても
映画や小説の出会いのキッカケや、人と人のすれ違いは、手紙・電報・電話から
インターネットの時代になってもタイミングによって起こると感じる映画だった。
葵の母親は、亡くなっていて漣の整備工場をやっているハズの両親は、エンドロールの
結婚式にも映画のストーリーの中にも登場していないのが少し気になった。
シンガポールでエステサロンに誘ってくれた元の部下は、葵にシンガポールに来て貰う
事が出来ず1人で帰ったみたいだ。人との縁は、状況とタイミングが大きく影響しながら
遠回りしても糸の撚りのように繋がっていくという事らしい。
漣と葵が結ばれるのには、結が必要で「三つ撚りの」という意味が込められているの
かも知れない。「もしひとりなら打ち負かされても ふたりなら立ち向かえる 三つ撚りの
糸は簡単には切れない」とキリスト教の伝道者の書4:12に書かれているらしく三本の矢の
例えみたいだと思い出した。瀬々敬久監督は、『感染列島』『菊とギロチン』『64-ロクヨン-
前編/後編』など様々なジャンルの作品を撮っているので深い意味が込められていそうで
興味深く鑑賞できた。葵と水島は、同類らしく子供の時に受けた虐待の夢に苦しめられて
いたみたいだ。だから葵を援助して援助を続けられなくなると葵に支えられるのを辞退し
お金を残してくれていた。水島なりの誠意と引き際の美学なのかも知れない。
初見なので今回、気づいたのは、このぐらいでウルッと涙が滲む映画だった。
次に鑑賞する機会があれば、別の発見もありそえな気がする。



『ガス燈』(1940年)ソロルド・ディキンソン監督作品を観た。
イングリッド・バーグマンとシャルル・ボワイエが出ている
戦前に作られた映画だ。ロンドンに何年も空き家になってい
た部屋に、夫婦が引っ越してくる。近所の主婦が、近所付き合い
をしようと挨拶をする。引っ越してきた夫婦の妻は、めったに
外出させてもらえない。ベテランのメイドと若いメイドが働い
ている。この部屋は、かつて殺人事件があった部屋だった。
夫は、妻に母の形見のブローチを紛失した事から自分の懐中
時計を盗んだと、言いがかりを付けて妻が、無意識に失敗したり
盗癖があると、不安にして、精神が変になったと思い込ませよう
としていた。この目的は、過去に、この部屋で起こった殺人事件
の時に、戴冠式に使われる宝石が行方不明になっていて、妻の
叔母が舞台女優で、宝石を身に着けた事があり遺品の中に混入
しているかも知れないので、後で判るが海外に別の妻がいて
重婚だった。近所の主婦の息子が刑事で不審な行動をする夫に
疑問を持ち夜間のパトロールの制服警察官も汚れた格好で路地
から夜間に現れたのを見たという。夜中に屋根裏部屋で宝石を
探しているので、誰もいない天井から音がすると言っても信じて
もらえず幻聴が聞こえると不安になっていく。妻は自分の精神が
異常になったと思い込まされて、不安に苛まれる。
しかし刑事が謎を、暴いて宝石は、服にアクセサリーとして
目立つ様に縫い付けられてた。刑事は、子供の時に女優の叔母の
ファンで、手袋を片方貰っていた。そして重婚していた夫が
偽名で結婚していて殺人事件の犯人でもあったと逮捕する。
ガス燈というタイトルは、部屋の照明がガスで別の部屋で
照明に使うと明かりが暗くなるから、人がいない屋根裏で遺品を
探している音と関連して気づく事が出来たというヒントになった。
現在ならカサンドラ症候群のパートナーが精神に悪い影響を与える
など解ってきているみたいだ。
ガス燈が家庭の照明に使われていた映画は、『80日間世界一周』と
『メリーポピンズ』だ。電球は、ガス燈の後に使われたみたいだ。
屋敷に閉じ込められている時間が長いので製作費は少なく済ます事
が出来そうだ。一度、音楽会に出席するので、大勢が登場する場面
もあるが予算を節約できそうだ。
1970年代後半以降に「ガスライティング」が心理的虐待を表す用語
になったらしい。現在なら認知症やクレプトマニアになっても原因
を調べて治療するので、精神病でも自傷や他傷行為をするような
深刻な状態でないと感じた。パートナーが結婚した後でモラハラや
DVを、行う事がニュースになり子供が出来ると児童虐待まで起こる
事がある。家族でも、それぞれが独立した人間だ。お互いに、相手に
対して敬意と思いやりを持って家庭という場を共同生活を円滑に行う
場だと意識する時代だと感じた。心理的虐待が続くと脳の形まで変形
したり脳内の伝達物質や血流に異常が起こり現在は、検査で可視化が
出来る事も出来るみたいだ。認知症の中に稀に自分の失敗まで他責して
しまう人がいるらしい、深く関わらず医療に繋げる必要がある。
問題行動のある人が家庭や学校や職場や施設の場合だと距離を取ったり、
逃げ場を作れない。居場所が無く、身の置き場が無いとすごく辛いと
思う。この映画では、偽名の相手と結婚したのは、疑問を感じる。
交際期間があったり見合いで結婚する場合は、仲人や互いの友人が必要
だと思う。身元を調べないで結婚して夫婦になる事が危険だと感じさ
せてくれた。妊娠したから結婚でなくて不幸な子供が作られず良かった
と思ったら『シャレード』という映画を、思い出した。殺された夫の
身元が不明で、男の子がいる女性だった。シャレードでは、遺産が希少
で高額な切手に変わって換金可能になっていた。この映画の影響で切手の
収集が流行したのかも知れない。結婚する時は、両家の両親や兄弟に加えて
友人知人から祝福されてから結婚する事は、大切だと感じた。
男女の性欲より生活を共にするパートナーであり1人の人間には、生きて
来たら人間関係があり大勢の関わりが出来るのが普通だと思う。
新婚旅行で相手の欠点がハッキリして帰国して離婚する成田離婚という
言葉を思い出した。人間関係は、難しい。乗り物から時代背景や年代を
知るみたいに照明機器からも時代が判る。通信手段も手紙や電報から
電話と変わっている。警察電話は、アンタッチャブルに登場していた。
警察無線は、俺たちに明日はないで、刑務所から出てきたら無線が装備
されていたというセリフがあったと思う。街並みや建物みたいな大きな
物から小さな設備や道具など映画を鑑賞する事で気が付く機会は、ある
が殆どを見落としていそうだ。オペラ座の怪人 (2004年)のシャンデリア
は、ガスの照明から修理されてオークションに出品される時に電器の照明
にリメイクされて時代に合わせてリメイクされていたような気がする。
映画は、目にする情報量が多く物語を理解するため字幕を読んで映像から
も情報を得て鑑賞するのは大変だ。大変だから鑑賞後に達成感を感じる。
自分が行った事も無いしかも産まれる前の時代を知るのに映画は役に
立つ事もあるかも知れない。ロウソクからガス燈やランプから電球・蛍光灯
そしてLED照明と照明も変化するが、時代によって道徳や法律という形の無い
社会通念も変わる。家庭の中でも家庭内暴力や児童虐待は、犯罪になった。
映画は、時代背景と世界観を知るとより楽しめる。子供の時に鑑賞して理解
出来なかった事が年を取り経験を重ねると気が付く事もあるし、大人になって
固定概念が強いと気付かずに見逃す事を、子供の素直な目だと発見できる事も
あるみたいだ。子供が大人になって刑事になって事件を解決する流れは、
この『ガス燈』の物語の流れを楽しく見せてくれた。



2020年08月20日

『明日は咲こう花咲こう』(1965年)江崎実生監督作品を観た。
吉永小百合が主演している日活の青春映画だった。
東京で保健婦になった小日山ひろ子は、週刊誌の記者の恋人の
浜野新樹にボンネットバスしか走っていない姫虎村に保健婦と
して赴任する。バスを降りて荷物をボロボロの服を着た子供に
持っていかれる。出迎えに観光派と合併派の両方が迎えに来て
自分達の方へ引き込もうとしているみたいだ。村でオートバイ
に乗っている青年で村長の息子の今朝雄に荷物を運んでもらい
置ちつく。
僻地で村に水道が無くて川で洗濯と炊事用の水を汲み飲料水に
するような衛生状態の悪い村だ。小学校が一つと村の診療所が
一つあり村役場もあるが、住民は、公衆衛生の意識が低くて
井戸も無い村だった。電気と電話は、通っているが駅が無い
からかなり僻地だ。白黒テレビがある家のテレビに村から東京に
出て歌手になった青年が映っていた。出産の時に、産婆に払う
金が勿体ないと保健婦に手伝わせていたらしい。出産の場合には、
保健婦は、産婆の資格が無いので産婆を呼ぶが、前の保健婦は、
無料で手伝ってくれたから無料で手伝ってほしいと無理を言われる。
診療所に医者もいるが昔の診療所では、血液検査とかレントゲン
とかの設備も無いみたいだ。診療所の有賀医師は、消極的だ。
昔は、医者に診てもらうのは、死にそうなってから死亡診断書を
書いてもらって火葬にするような時代だった。病気になっても
コンコリ教という宗教で治ると思って暮らしている。診療所に
医者が居ても検査や治療の設備が脆弱みたいだ。
村長の率いる観光派と、助役の率いる合併派で対立している。
小学校の教師が、住人の所に行けるように自転車をくれる。
村人の健康を守るために走り回る。最初に荷物を運ぼうとした
ボロボロの子供は、タクミという孤児なので村の資産家が交代で
育てているらしい。
村に小日山ひろ子の様子を見に来た記者の浜野新樹は、ひろ子に村を
離れるように勧めるが、小日山ひろ子は、村で頑張ると決意していた。
そんな中で、小日山ひろ子に、孤児のタクミが、なついてきた。
コンコリ教の票をめあてしている合併派の助役の籔本は、小日山ひろ子の
保健婦の病気の予防が邪魔だと、コンコリ教の教祖と小日山ひろ子の
やる気を無くさせようと産児制限の講習会を開くようにする。
避妊の方法を、若い新人の保健婦に大勢の村人の前で話させるのは、
大変だ。暗幕でスライド式の幻灯機で写真を映して説明いないといけない。
村の男達は、照れ隠しの為かヤジを飛ばす。情熱で難関を突破する。
この時に姫虎村出身で人気歌手になった三田明が、赤いオーブンカーで
帰って来る。村人は、講習会の会場から外に出ていきサインを貰う。
真面目な講習会より歌手に興味が移ってしまう。
村人達の無知で、意識の低さに、むしゃくしゃする。以前から誘われて
いた保健婦学院の同窓会に参加しに行って湖でレクリエーションを楽しんで
いた。そこに、姫虎村から電報が届く。姫虎村で孤児のタクミが病気になった
という知らせだった。急いで帰った小日山ひろ子に、医師の有賀も、村長も、
助役の籔本らも、責任を逃れるために、赤痢が出たと発表しないように
胃腸カタルだと事実を伏せようとするが、村の子供達が腹痛で診療所に
運ばれてくる状態になる。
赤痢が蔓延しないように医師の有賀を説得して、病気の伝染を防ぐために
小学校を救護所にして隔離をして生水を飲まないように村人に伝えるが、
村人は、伝染病の危険に気が付かない。
役場に設置してある電話交換機を壊して村から電話が、かけられないように
してしまい、応援を頼めない状態になってしまう。
歌手の三田明が自動車で、応援を頼みに宮野市に向かうと村長の息子今朝雄も
オートバイで向かう。宮野市から救急車や急援隊が到着して、村人達は、
保健婦の小日山ひろ子の活躍を知る。村は、この事で、予防の大切さを知り
明るさを取り戻した頃、小日山ひろ子が、助産活動をしたという違法行為で
免職の書類が届き、姫虎村を去る事になる。バスから別の保健婦が降りてくる。
入れ替わりにバスに乗り込む小日山ひろ子を見送る、大勢の村人の中、孤児の
タクミが、ひろ子のバスを追っかけて走っていた。
派閥争いで、出産の時に産婆を呼んだりしているのに冤罪で免職されて去って
行く姿に複雑な感じを受けた。若いから別の所で、やり直しが出来るという
感じて身を引いて恋人のいる東京に戻ったのかも知れない。
村には、駐在さんもいるのに電話が不通になって応援を呼ぶときに駐在所に無線
の設備が設置されていなかったのか気になった。バスが来ても舗装されていない
道路で水道も下水も設置されていない。やっと井戸が作られたという事だ。
東京オリンピックの前は、日本の僻地は、こんな感じだったのかも知れない。
『明日は咲こう花咲こう』というタイトルは、若いから花を咲かす時期は、まだ先
ですよという意味を含んだ青春映画みたいな感じがした。
日本の経済発展も、これから本格的になっていく時代に作られた映画だった。
怪しい宗教団体の教祖を演じていた伊藤雄之助は、勝新太郎の『とむらい師たち』
でも宗教団体の教祖の役を演じていた。マルサの女2の宗教団体の館長役は三國
連太郎が演じていたが、この役は、個性的でないと難しい役だと感じた、
宗教は、シャーマニズムで祈祷で病気を治すと昔は、信者を集めていたが西洋医学
では、キリスト教の教会が病院や学校を運営している事があった。
病気になった子供達を、代用のニセ医療で、手遅れにしてしまう迷信深い親が
昔は、いたが現在は、ネグレクトと子供が亡くなったら保護責任者遺棄で逮捕
されたり信仰で病気が治ると言うのは、医師法に抵触して逮捕される。
それだけ、被害が多かったから法律で規制されたのだと思う。おかげで公衆衛生と
予防医学が浸透したのは、保健婦さんの努力だが伝染病の予防や治療が確立され
たら保険所の数が1990年の半分に減ってしまって新型コロナの時に、人員も
足りず検査のハードルが高くなっていた。感染症の病院と病床も減らしてしまい
感染者は、減らない。この映画が作られた時代は、国民皆保険が整備されはじめ
た直前なので学校検診で子供を病気から守るようになった時代だ。
戦前は、目の感染症のトラコーマの予防が目的で目が悪くなると戦争の時に兵隊に
しても弾が命中しなくなるとかで保健室が作られたらしい。現在では、特別支援学校
に行く子供もインクルーシブ教育で普通学級に受け入れたりする事があるみたいだ。
昔は、特殊学級で分離されていたけど虚弱児と知的障害児を一緒にしてケアより
隔離が目的だったのかも知れない。孤児は、児童相談所の案件だけど村では、
医師も学校の先生も自分の専門以外の分野と連携していないと感じた。
子供達に明日があって将来に花を咲かすまで育つ事が出来るようにするのは、
行政や大人の務めだ。子供が、すこやかで健康に成長てし教育を受けさせられる。
たんぽぽの様な子供と蘭の様な子供では、養育環境を同じに出来ない。
育てられない家庭は、産児制限も必要だと感じた。映画が公開された1965年は、
東京タワーが完成してテレビが普及しだして電器釜や洗濯機が売られるように
なり家事の負担が減ってきた頃だ。東京オリンピックが開催されて全てが進化して
いく時代だった。大量生産・大量消費・そして使い捨て時代に向かって便利に
なっていった。豊な時代になり生活も終身雇用で安定して専業主婦が増えて
ベビーブームも起こった。世界的には、東西冷戦で資本主義と社会主義に生きる
、どちらの国民が豊で幸福なのか、ニュースで知る事が難しく互いがより良い
社会を作る為に努力していたみたいだ。先が見えないけど希望がある。
仕事も長く続けると出世して安定した地位と老後が待っていると誰もが疑わな
かった。『明日は咲こう花咲こう』花が咲くと果実が実り収穫の季節になり
ハッピーエンドで終われる。この映画が作られた時代は、職場で上司や先輩が
仕事を教えて後輩を育る事で、仕事の効率が良くなり生産性が上がり自分は
更に出世していけるという終身雇用制のロールモデルがレールみたいに敷か
れていた。中には、レールを自分から外れて脱サラして起業する人もいたが、
独立して自営業になっても稼ぐ事が可能だった、経済力も付いて子供も増えて
生活にゆとりが出来てレジャーブームも起こった。
経済発展の流れに乗って夢と希望を想像できた時代に作られた映画だと懐か
しんで鑑賞すると昔と現在を比較して深く考えられた。現在に生きる若者や
親の世代は、実りある人生も花が咲くかも難しい環境で生きている。
地球は、温暖化し疫病の新型コロナに派遣社員に技能実習生で不安定な雇用
情勢で何度かのリストラや倒産むや合併する企業に勤めていた世代を見て
夢を持ったり希望を抱けるか疑問だ。世界規模で持続可能な社会を雇用の場
でも自然環境にも配慮して作っていかないと世界規模で生きづらくなりそうだ。
まずは、削減した保健所や医療が新型コロナでも機能できるようになってから
考えたい。アフターコロナやウィズコロナの社会の姿をイメージ出来ないのが
辛い。感染予防で保健所の保健婦さんも疲弊していると思う。医療従事者も
無症状感染者の可能性を考えて感染予防の対策で手間が増え時間と手間も増えて
いる。通常の業務だけでもギリギリの人員と体制でやりくりしている所に新型
コロナの対応が一気に増えたと思う。8月10日に日活のアクションスターから
石原プロを率いてきた渡哲也が亡くなっていた。吉永小百合さんとは『愛と死を
みつめて』に出演していたらしい。骨肉腫で余命短い大学生の話だった。
日活も青春映画からロマンボルノを作っていたがテレビの普及で無くなり
一つの時代が、また忘れられていく寂しさを感じる。最近「生きづらい」と
いう言葉を聞く事が増えた。その前は「自分探し」だった。植物も環境が整わ
ないと発芽しない。人類にとって花が咲き実りを予定できるように地球規模で
向かうべき方向を考えてほしい。その答えを見極めたいと思う。



2020年08月15日

『あゝ同期の桜』(1967年)中島貞夫監督作品を観た。
同期の桜の音楽と学徒出陣の場面から映画が始まった。
文化系学生の徴兵猶予が撤廃されて戦場に送られる為
に訓練を受ける。当時の大学生は、かなりのエリート
なので、親も、社会的地位が高い。現在の大学生より
はるかに大学進学率は、少なかった。戦後ですら中学
を卒業して金の卵と呼ばれていた程だから恵まれてい
ないと大学に進学しようと考える事も出来なかったと
思う。基礎学力が高いから短い訓練で飛行機の操縦が
出来ると戦場に駆り出されて、神風特攻隊で散ってい
った。予備士官で階級は、少尉みたいだ。空中戦で戦
う事が出来る程の練度を得られない状態で空母に体当
たり出来たのは少ない。映画の終わりに四か月後に戦
争が終わったとテロップが出て何とも言えない気分に
なった。劇中のセリフで明治維新から80年で日本の若
者が生きる事を諦める時代になるとは思わなかったと
いう言葉が戦後75年に生きる人に、どう伝わるかが
気になった。良く子供は、親を選べないと言われるが
産まれた時代によって人生は、変わってしまう。戦争
が無い変わりに競争が激しくて結婚や出産を諦める人
も増えたのかも知れない。核家族化して会社が国が担
う福利厚生を企業に頼りすぎて、終身雇用が崩壊して
今の不安定な雇用情勢になり家族を作って、死亡・
離婚・失業の三つで崩壊する危険が増しているような
感じがしてしまう。日本の会社は、リストラと成果主
義に、派遣の雇い止め、いつの間にか「協力集団」で
若手を育成する企業は減ってプロジェクトでエキスパ
ートを集める映画のスタッフやキャストみたいに不安
定になったみたいだ。昔は、撮影所でも雇用がしっか
りしていた。派遣会社が芸能プロダクションみたいに
派遣する人の福利厚生の面倒を見ないから不安定にな
る。しかもグローバル化で海外に移住したりする日本
人と海外から移住したい外国人が増えている。
ライフスタイルと働き方もリモートワークまで加わっ
た。第二次世界大戦の後に社会の価値観が変わり戦後
派の考え方を、アプレゲールと言っていたが、新型コ
ロナの前と後で、価値観が変わりそうな気がする。
紙で配達される新聞を読んでいた世代とスマートフォン
を使う世代でも価値観が異なりそうだ。地球の何処に
居ても生きられる程の語学力や技術を持っていても
新技術が出来れば役に立たなくなる。持続可能な社会で
普遍的な知識と技術を見つけるのは難しそうだ。目に
見えない感染症に神経を使い、予測出来ない将来で何を
目指すと良いのか判らない。戦争で何の為に生まれた
のかを考える為に哲学を勉強して戦後を生きるのに
役立てた人がテレビで話していたが、自分で考えて判断
する目安を何か持つ事も大切そうだと思った。家族や恋人
とか友人を大切にする事で自分自身を大切にする事が
出来るのかも知れない。同期の桜も戦友や国や家族に
思いを馳せて散っていったと感じた。今の若者は、大学
まで出ても奨学金の返済がのしかかり、学徒出陣した若者
みたいにエリートコースを歩めずレールが見えないので
家庭を作る事のハードルが高いと感じていそうだ。
奨学金の借金に縛られず富裕層同士で結婚したら両方の
親から孫に援助をすると思うが格差の固定した社会に
なってしまいそうだ。日本では、昭和に226事件があり
格差が原因みたいだった。第二次世界大戦で、焼け野原
から加工貿易で復興したが、安い人件費と機械化で大量
生産と大量消費になり人件費の安い国内の地方から海外に
移転し技能実習生を呼び込むようになった。新型コロナで
世界規模での人の往来が制限されて世界中に分散された
部品などのサプライチェーンで加工された部品の流通や
食料の輸入など以前から問題が指摘されていたが、どう
変化するのか分からない。同期の桜は、同じ学年の学生
だという産まれた時期で人生が左右された。人生は、運
とタイミングが大きいと感じた。大変な時代の大変な時期
で精一杯生きて散った人に報いるには、平和で未来を描け
る時代を持続させる努力を続ける事だと感じた。



2020年08月08日

『君死に給うことなかれ』(1954年)丸山誠治監督作品を観た。
時代は、第二次世界大戦の末期の東京の病院から始まった。
病院に犬が入り込んでいる。看護師が追い払おうとすると母親の
見舞いに犬を連れてくる許可を取っている藤森亘(わたる)が
現れる。美人は、動物に冷たいというセリフがあり、
母親を見舞う。病院で母親の看護をしている看護婦の堀久美子と
出会い、二人は、恋心を抱いていく。亘の友人の陸軍中尉の
小島も見舞いに来ている。小島は前線に行く事になり自分が好き
な、おはぎなどの食べ物を作って貰い戦地に向かう。
戦地に向かう前に、妹の礼子の今後を心配して、亘に礼子を嫁に
してくれるよう頼む。それを知った傷心の
堀久美子は病院を辞めて故郷の広島に帰る為に東京駅から汽車に
乗る。藤森亘は、堀久美子を追って汽車に乗り込んで、新橋から
電報を打つ。汽車が空襲で止まり避難する。機銃で撃たれるが
弾は、当たらずに済む。そこで堀久美子に求婚をして、結婚の
約束をする。そして汽車に乗ろうとすると藤森亘に召集の知らせ
が電報で届く。汽車で移動している所に電報が届くのに驚いた。
藤森亘は、招集の電報で堀久美子と別れて引き返す。堀久美子は、
広島の実家に向かう。広島に原爆が落とされて終戦になる。
テロップで5年が経ったと表示される。堀久美子は広島で被爆し
て顔が火傷のケロイドが残る。マスクで隠せるみたいたが夏に
マスクするのは辛そうだ。体調も優れないみたいだが、目立たない
ように孤児院なのか乳児院なのか分からないが看護師なので働いて
いた。その施設の院長に勧められて、かつて自分が勤めていた東京の
病院で被爆治療を受けるために上京する。
検査を受けて、脾臓が腫れていて白血病になる可能性がある事を知る。
しかも病院で雑誌の取材をしている陸軍中尉の小島の妹の礼子と
再会して、礼子と藤森亘が婚約していることも知る。
藤森亘は、空襲と徴兵で離れ離れになってから戦後になっても堀久美子を
捜していたが、広島の原爆で行方がわからなくなり死んでいると諦めて
いた。東京の病院で見かけたが堀久美子が姿を、見られたくないと逃げて
しまい声をかける事も出来なかった。礼子は藤森亘が愛しているのは久美子
だと察して藤森亘に堀久美子の勤め先を教える。藤森亘は、汽車で堀久美子
が勤めている乳児院を訪ねるが堀久美子は、退職した後だった。住み込みで
働いていたので退職と同時に住んでいる住所も変わっていた。
どうしても会いたいという藤森亘の熱意に負けて乳児院の院長は、信州の
病院に移った事を教える。藤森亘は、信州の病院に堀久美子を訪ねて、
やっと再会するが、堀久美子は、顔にケロイドの傷が残り見られたくない。
しかも被爆しているので、関わると互いが不幸になると思い悩み湖で入水
自殺をしようとする。藤森亘の予感で救助されて、こんなに自分を思って
くれる藤森亘の愛情に堀久美子は、生きる希望を感じる。映画は、ここで
終わる。出会いと、すれ違いや時代に翻弄されても、追いかける若い男女の
恋愛物語だが、戦争の悲惨さを殆ど省略しても観客が想像できる戦争後の
傷跡が残っている時代に作られた映画だった。映画は、DVD化されていない
ので、あまり知られていないが、タイトルは与謝野晶子「君死にたまふこと
なかれ」という事もあり鑑賞した。哀愁・君の名は・めぐり逢い・みたいに
出会いと、別れと、すれ違いを上手く使った映画だった。
キャラクターが何をしている人なのか詳しく設定されていないので感情移入
して観る映画として作られていないが戦後すぐに作られた映画なので似た
経験をした人が、周囲に居る時代なので、それぞれの体験や身近な人から
経験した話を聞いていると思われるので個々の人にキャラクターの設定を
しない事で似た境遇の人とオーバーラップして鑑賞してもらう事を想定して
作ったのかも知れないと感じた。藤森亘は、背広にネクタイなので何の仕事
をしている人なのかも判らないが陸軍中尉の友人がいる程なのと徴兵が遅い
ので徴兵が後になるような要職に就いているように感じた。
皆が新型コロナでマスクを着用して猛暑を過ごしている時代に顔の傷を
隠す為のマスクをしたヒロインも自然に見えるかも知れない。都市伝説の
口裂け女も、この映画から影響を受けていそうだ。湖の入水自殺も綺麗な
状態で死にたいという女心を表現しているのかも知れない。最近は、綺麗に
身を引きたいという女心は、流行らないが終戦後に作られた映画には、良く
取り入れられていた。最近、被爆認定で「黒い雨」訴訟で手帳の認定が
認められる流れになったみたいだ。病気の原因が被爆でも生きていないと
認定は、勝ち取れない。高齢になるまで生き延びたから勝ち取れたと思う。
被害者が泣き寝入りした20世紀から21世紀は、原因究明や原因の解析が
正確になり被害者が泣き寝入りしないで保障を受けられる流れが出来て
ほしいと思う。昔は病気は、業病という意識があったが21世紀には、意識が
変わってほしい。外見が悲惨になるので天刑病と呼ばれていた伝染病まで
あった事が悲惨だった。事件・事故なら自己責任より原因究明すると思う。
公害や被爆も労災もDVや虐待も外に原因がある。犯罪被害者ですら健康被害が
残ると社会的偏見も加わる事もあり、生きづらい社会になってしまう。
かなり難しい理想だが、誰もが『君死に給うことなかれ』と大切にされる
世の中になってほしい。



2020年07月26日

『雨に唄えば』(1952年) ジーン・ケリー スタンリー・ドーネン
監督作品を観た。感想を書いていると思ったていたら書いていなか
った。スタントマンから人気俳優になっていくドンと大女優リナ・
ラモントと駆け出しの女優キャシーが映画のトーキーでポジンョン
が入れ替わっていくストーリーの流れと他社の『ジャズシンガー』
のヒットでトーキーになりセリフが重要になる流れと、リナの声を
キャシーが吹替えていたが公になってしまう流れ。リメイクする
「闘う騎士」をミュージカルに変える事を思いついたドンと コズモ
とキャシーが、深夜の午前一時半になり日付が変わっていたので
「グッド・モーニング」を歌う場面で、この曲も名曲だった事に
気が付いた。衣装の種類が多くカラフルで配色も綺麗だがウエストの
絞りが緩く見えてシルエットのバランスが気なった。衣装合わせで
調整するとスッキリと見えたと思うが1952年の流行は、トラペーズ
やIライン・Hライン・Aラインとシルエットが変化した影響も受けて
いたのかも知れない。70年以上前の映画だが時代背景は、ジャズ・
シンガーが公開された1927年の流行を再現したシルエットにした方が
スッキリ見えたと感じた。アールデコとアールヌーボを影響を残して
プリンセス・ラインをベースに出来たら「ズタ袋みたい」という評価
を受けないで済んだと思えた。ダンスは、踊るので衣装のシルエット
やディテールを観察しずらい早い動きもあるり記憶に残らない事が
多い。衣装のシルエットは、プリント生地やカラフルな配色の印象が
強いと観察する余裕が無かったりする。日本では、まだ立体裁断が
一般的でなかった。映画は、時代設定と制作年の流行とのバランスを
取るのは難しい。
雨の中で歌って踊る場面と舞台でカーテンが上がって後ろで吹き替えて
いるキャシーが観客に見える場面は、印象的で記憶に残っていた。
劇中に登場するレインコートは、生ゴムをコーティングした素材だと
思う。1927年に塩化ビニールのレインコートは、開発されていない
かったかも知れない。21世紀になると超撥水で蓮の葉やハリセンボンの
形状を応用した素材が開発された。水を弾くと同時に水圧が強い時にも
使えるか機会があれば試してみたい。
名作映画でも時代背景やストーリーに違和感を感じる部分は、物語や
音楽に気を取られてしまい記憶に残らないみたいだが、名場面や印象的な
部分は、覚えるみたいだ。もっと理解力・注意力・記憶力があれば
初見で覚えている部分が多いが、その時々の体調に左右されてしまう。
それでも同じ映画を何回か見ると、知識不足で気づかずに見落として
いた部分の、知識が増えていて気が付く事もある。新しい物が好きで
見たことがある映画より見たことの無い新作映画を観る事を、優先し
ていたがコロナ禍で映画館に新作を見に行けないので再度、鑑賞する
機会が出来た。




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