April,1994


.  週末が待ち切れずに金曜日の夜に車を引き取りに行った。Tipo105.21、Alfa Romeo 2000 GTVeloce。色は赤で左ハンドル。1972年イタリア生まれ。Giulia coupe sistersで一番大きい心臓を持つその車は、細く小さな体には似つかわしくない野太く低いアイドル音を発していた。幾度も塗装し直されやや厚化粧ぎみではあったが、麗しいボディは月夜に照らされ妖しく輝いて...はおらず春雨にうたれ錆の不安でいっぱいにさせられた。

車検証の初年度登録は昭和47年となっているが、2000は確か1971年からつくられたので生産され程なく彼の地を後にしたようだ。当時のディーラーもの(良く言われる*伊藤忠モノ)は殆ど右ハンドルだったと聞くし、プレートも貼ってあり識別できるのだがこの車には無く、しかも左ハンドルなのでどこかの業者が並行で入れた物だろうか。いずれにせよよく20数年厳しい日本の環境を耐えてきたものだと感心することしきり、だったが4年近く経って自分の車のコンディションを熟知している今、当時自分は青かったんだということを思い知らされている。

さて友人達とドライブへと連れ立つわけだが雨ということもあって葉山あたりでお茶して帰ろう、ということになった。幾度か試乗していたので(とは言ってもお店の周りをちょっと乗っただけだが)初めてでは無いにしろ天気も天気なので思う存分と言うわけにはいかなかったが、それでもalfa twincam+Weberの咆哮を楽しんだ。自分で自分の話に水を差すようだが、考えていた程軽く吹けあがるエンジンではないし、2000は決して高回転型ではない、と感じた。しかしそれは同じGiulia sistersの1300や1600と較べて、とのことであって当時の水準からしてみれば 遥かに良く回る(はず)。ましてやちょっといじってやったら...2000の4発はつい最近まで腰下が殆ど変わらずに使用されていた点を鑑みるに、理にかなった良いエンジンなのだろう。

 というようなたわいもない話を門外漢の素人たちがひとしきり交わした後、夜更け近く我々は神の祝福というより洗礼のような雨の中帰途についた。雨と言えば当然ワイパーを使うわけだが、Giuliaは所謂「お見合い式」の動き方をし、off-1-2と2speedとなっている。この「お見合い式」が曲者で、電圧の変化や風圧などの要因で2本のワイパーのタイミングが狂うとフロントウインドーの真ん中辺でお見合いだけには飽き足らずに、がっちり抱き合い離れなくなってしまう。当のワイパー達は幸せかもしれないが、豪雨の第3京浜上で抱き合われてしまうとドライバーにとっては悲劇以外の何ものでも無い。お見合いをして折り合いが悪いくせに抱き合い、人に見せつける、とは人を喰った話である。alfaのエンブレムの人喰い蛇のせいだろうか。

*当時を良く知る方に聞いたところ、2000GTVは当初殆ど左ハンドルが入ってきたそうです。

雨に降られた次の日の虫干し。

.  雨=錆びる、ということで屋根付きの車庫を契約した。労せず家から30秒という物件を見つけたが、'72生まれのGiuliaに負けるとも劣らない、それはそれは素敵な古めかしい家屋の1階を改造したものだった。と書けば「車の整備に疲れたらちょっと手を休め、たばこに火を」だとか 「傍に置いたコーヒーテーブルの上のグラスに写る愛車の姿が」というような使い古されたフレーズが泉のように湧き出てくるが、しかし現実はそう甘くはなく寧ろ厳しい。

 古い木造2階建ての、元は寿司屋だった1階の引き戸をぶち抜いただけの、幅は間口一間(180cm!)しかないうなぎの寝床に、勿論コーヒーテーブルを置くスペースはあろうはずは無く(ドアすら開けるのに苦労した)、万が一たばこの火の不始末でもあったならそれこそ延焼で商店街を壊滅させうることは容易に想像できたので、たばこも吸えなかった。だいいち電気も無い暗闇の車庫の中で、一人でたばこを吸っている姿を他人が見たらなんと思うだろうか。なお、愛車の一部が写り込むものだけは確かに存在していた。元寿司屋であることを主張する、「〜寿司さん江」と入った大きな鏡がそこにはあり、毎日忠実に愛車のごくごく一部だけを写していた。

 こうして世田ヶ谷線沿線のうら寂れた商店街の真ん中の、元・寿司屋におおよそ似つかわしく無いイタリア生まれの小粋なスポーツカーは、車庫の2軒となりの八百屋のおやじの嫌そうな顔を気にしつつも無事、新しい生活をスタートさせた。


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