めちゃめちゃ久々の更新。別に更新してられない程忙しかった訳でもなくて、単になまくらなまくらしてただけ。これ、今週初の日記なのだ。<木曜日にして
閑話休題。我がアパートのシャワーのヘッドは老朽化しててひびが入っていた。そこから水が漏れ出すのが何とも気になってて、一度シャワーヘッドを取り外してみることにした。はめ直せば水漏れが直るだろうと思ったので。しかしくりくりねじって取ってみると、こりゃはめ直したところでどーにもならんことが発覚し退散。も一度くりくりはめなおすと……入らん。やばい、壊したか?と思いあせって無理やりはめ込むと、
ぱき シャワーヘッドはぱっくりと割れ、再起不能となりけり。取り付けることすら出来ない。鳴呼、大家さんごめんなさいと思いつつ時間が時間だったのでそのままばっくれることにする。<おいおい。
シャワーからシャワーヘッドがなくなりゃただの
馬ホース。しかしこれがなかなか都合がいい。『ひょうたんから駒』とはこのことか(使い方合ってる?)。普段シャワーを浴びるように上向きに固定すると、あらま。ホースの先から出る水は見事な放物線を描いて私のカラダを刺激する。うたせ湯 これまた気持ちいいなり。
掃除をしていたら、1冊の雑誌が出てきた。CREA(去年あたりから内容が軽〜くなってしまったので最近は買ってない)の95年12月号。『気がつけば転機』が特集の号である。
その中にこんなのがあった。
年頃の女性に対するまわりの雑音。田舎ほど、彼氏がいないことにヘタな同情をされてしまう。自分自身、彼氏がいないことに淋しさを感じている時は、特にこの同情が胸にささり、ストレスがたまる。(26歳・通信)……私はこの彼女の苛立ちが少しだけだが共感できた。<特に前半部分
◆いるんだな……こういう人。
この図式、今の世の中どこかしら存在する。更にそれが発展して『淋しい人=かわいそうな人=オンナとしての魅力を感じない人』とまで発展させてしまっている人もしばし、いる。
なんていうか、オンナの価値や幸せっつーもんがすべてそれに左右されるみたいに考えてる。それってなんだかなーっと思う。うまくいえないが。
んなわけで、オトコのいるかいないか(または付き合っている男によって)で自分の価値観を振り回されているオンナにはいくら美人であっても魅力を感じない。同性として。
あ、でもイロコイゴトに関して誰がどんな思想(?)を持っていても別に構わないし、そんなもん他人がとやかく言うものではないと思う。要は、その考えでもって自分がココロから幸せになれればそれでいいんだし。
ただ、それを『強要する』とでもいうかその物差しで他人まで計ろうするのはちと話が違う。嫌だと言うか何というか『ほっといてくれよ』という気分になる。
◆あの時の出来事
そんなわけで話は学生時代にさかのぼる。<といってもつい最近の事(笑)
私の所属していたゼミに凹さん(仮名)という人がいた。彼女は30代前半の独身女性なのだが、前述のような考え方にどっぷりと浸かっていた。
そんでもって自らを『凹自身』と称しているほど他人のイロコイザタが大好きである。
こともあろうにうちのゼミで彼氏なし子だったのは私と彼女だけだった。そんなわけで彼女は私にことあるごとに『彼氏いないもん=淋しいヒト』という視線をむけられ、彼女自身と同類項扱いされていた。
例えば、『(友達のラブラブ話を聞いた後で)一緒にがんばろね〜』とか、
『(ゼミで「性(SEXのほう)」の話が上がった時)うちらには関係無い話だもん。ね〜ひらひら。』とか。
こっちにしてみればいい迷惑である。あんたと一緒にすんなやい。ほっといてくれよってなもんだ。触れられた手を払い除ける……そんな感情が沸き起こる。
極めつけはこれである。
卒論に追われていた私はその日学校に泊まった。実験なんかがある訳でなし、家で書こうと思えば書けたのだが、いかんせんわが家は寒い(その頃訳あってストーブが使えなかった)。キーボード打つ手がかじかんで仕事にならなかったので泊まることにしたのである。
その日うちのゼミで泊まったのは私ともう一人いた。そのもう一人は男性である。
卒論があまりに進んでなかったのでその日はほぼ貫徹でパソコンに向かっていた。
翌日、私は例の彼女にニヤニヤしながらこう言われた。
『昨日、泊まったんだって』 彼女がこの後どういう事を聞かんとしているのか何となく察しがついたので、適当に『……えぇ。まぁ。』と生返事。そのあと、
『ってことは、ベッドは一緒だったの?』 案の定……である。
当たりめ〜だ、ばーか。徹夜明けの卒論疲れで気ぃ立っとるんじゃい……とでも言ってやりたかった。それぐらい不快だった。こちとら真剣に卒論やるために泊まったっつーのに。
しかし、とりたててぎゃあぎゃあ言うのもあまりにあほくさかったので、適当になんか返しておいた(何て言ったか覚えていないがとにかく生返事)。
◆何が嫌なのか?
……と結構辛辣に書いてしまったが、彼女を嫌っているとか、個人攻撃をするつもりは毛頭ない。
彼女の昔臭い恋愛観をごり押しされていることに苛立っている。ただでさえ知人にプライベートな部分に口出しされることが好きでないのに。そこでは私のそういうものに対する価値観は頭から否定される、それがまた苛々させる……言ってみればそれだけのことなのだ。
こんなこと笑ってすませれば済むこと……でも、人間の我慢には限度っつーものがある。
彼女の私に対するそれは明らかにその一線を超えている。
◆成長
別の時にこんなことを言っていたのを思い出す。
『これ位の歳になると、そーゆーことに関してさばけてくるからさぁ、茶化したりするんだよね。』
ちがうちがう、さばけてるんじゃない。その逆だっつーの。
勘違いも甚だしい。ったく。
どこかしらこだわってるから何かにつけてそのテの話になるんだろーが。そんなのカッコ悪い。他人のイロコイザタを根掘り葉掘り聞き出さんとする様は自分の恋愛経験の乏しさを露呈しているようなもんだ。<ちょっと聞く位なら楽しい(?)けど
年下の私がここまで言っていいのか分からないが、なんだか彼女の恋愛観は十代ぐらいのまま止まってしまっているような気がする。
中学生ぐらいだったかな。友達と話を合わせるために、無理やり『好きな男の子』を作って(本気で好きになる時もあったけど)きゃあきゃあと騒いでいた。ひとつ『可愛い女の子像』なんかがあって、皆がそれを目指さんとしてて。そんでもって『カレシ』がいる事が一つのステータスになっていた。そ、あの感覚。
◆じゃ、自分はどうなのか。
いわゆる『好きな人』は現在はいない。ときどき『あ、この子かっこいい』なんて思うことはあるけれどそれはそれだけで。だからってとりたてて『彼氏募集中』の看板を掲げて躍起になってる訳でも逆に『オトコなんて、けっ』と思っている訳でもない。ただ、好きになったら好きになったで好きになるし、そういう関係にもなるんだろうけど、そういうもんである。その時はその時だ。
『恋愛の9割はタイミング』。私の持論だ。いっくら好きになって周りがどんなにお膳立てしても、うまく行かないときはうまく行かない。それどころか周りが変に騒ぎたててしまったばっかりに、ダメになってしまったような事も結構あった。また『なんかようわからんけど付き合うことになった』ってのもある。『長すぎた春』とでも言おうかラブラブだったカップルでもそれが合わなかったばっかりに別れたというのもよく聞く話だし。
ひとりでいる。そりゃ『淋しい』時もある。しかし、『ひとりだからこそできること』ってのも多く存在する。さすがに徹夜のマージャンはしないが、朝まで平気で飲んでたり、男の子の家に遊びに行く。自分の好きな服を着る。髪形をする。好きな時に好きな映画をみて、ふらっと一人旅に出る。夜ひとりで飲みに出歩く……こういうこと、たまにならいいがそうそう許してくれないもんだろう。(もちろん個人差はあるけど……)
ありがたいことに他に夢中になれるものも(今は)あるし。
自分に無理してまでその時間を削るつもりはない。
好きになるときゃ、好きになる。
その間は楽しむもの楽しんで、自分を磨く時間に当てればいい。
『機が熟すまで待つ』そんな心境だ。
◆余裕
最後にこの手の事に限らず、例の彼女はかなり強迫的なモノの考え方をする人だった。
一言、「余裕がない」とでもいうか。彼女のそういう部分を批判するつもりはない。しかし彼女自身がそういう考え方を持つがゆえに自らを苦しめてしまっているのもこれまた事実である。
例えば、一般に彼女ぐらいの年代の女性は家庭に入っているか、いわゆるキャリアウーマンでバリバリと仕事をこなしている人が多いことになっている。そのどちらにも属していないことにコンプレックスを抱いていた(これは彼女が自分の口からはっきり言ったこと)彼女。別にそのどちらかに自分を押し込める必要は全然ないのに……。
そういうしがらみを自ら解き放ったとき、彼女は言うところの『いい恋』、既存の価値観に囚われないものの見方・生き方が出来るようになる……ような気がする。
彼女以外にもしばし、30代ぐらいの女性と知り合う機会がある。
オンナはそれ位の年代になると恐いことに個性やそれまでの生き様、考え方が雰囲気ににじみ出てくる。
更に恐いことには外見が言うところの「若いとき」程は際立たなくなる分そういったものがよく見えるようになる。時々、はぁ〜とため息が出そうなほど素敵な女性にお目にかかる。そういう人はどこかしら内包された『余裕』の様なものがあるように感じる。う〜ん、うまく言えないけど。
ただ、今思うこととして、十年後の私はそんな『余裕』のあるオンナでありたい。
今、怒り心頭に達している。
見ず知らずの人に部屋を覗かれたのだ。
といっても隣のビルから双眼鏡を使ってとか、部屋にカメラをつけられたとかそんな高度なワザにしてやられたのではなくて……部屋の入り口から正々堂々とやられたのである。
◆真昼の出来事
私はトイレ風呂共同の物件に住んでいるが、トイレは私の部屋のむかいにある。
徒歩3歩の距離だ。急いでる時にはホントありがたい。
トイレから出たら、私の部屋を覗いている男の人とその後ろからいぶかしそうにそやつを見るうちの大家さんがいた。
大家さんがいたことから、最初は『ガスでも漏れとったんかい?』と思った。
しかし、そやつは主の私に気付くとへらへらしながらこうのたまった。
『今、ここの奥の友達の部屋にテレビ運んでで、、、ここのアパート、日曜日には人、誰もいないいんだな〜て思って。いらっしゃったんですね。ははは、、』
な〜にがははは、、、だ。バカ。ここのアパートに人がいようがいよまいがあんたには関係の無いことだろうが。
そんなの覗いてた理由にならない。
いたらどーだっつーのか。居なかったらよかったんかい。そんなんで主もいない部屋、勝手に覗くかってーの。常識なさ過ぎ。
人を馬鹿にしているにもほどがあると思った。ったく。
とにかく不気味だ。私はそやつを睨みながらバタンとドアを締め、厳重に鍵をかった。
◆何故にそこまで怒るのか
怒りはふつふつと沸き上がる。あの時、もっとヒステリックに怒鳴ってやればよかった、とすら思った。
部屋を覗かれたぐらいでそこまで怒るのは大人げない、、と思われるかもしれない。
覗かれたことそのものに対して怒りを感じているわけではない。問題は『何故、彼が部屋を覗いていたか?』その理由にある。
『友達の部屋と間違えた』とか『トイレだと思ってあけちゃった』と言うのならまぁ、しょうがないし話も分かる。
だが今回はちがう。明らかに『故意』である。『人、おらんのかな?どれどれ……』っちゅー好奇心からの行動なのだ。。
それが許せない。
確かにここまで怒っている理由の一つとして、人間が住む部屋じゃなかったってのもある。
最近だらけてたので、めちゃめちゃにちらかってるし。
ついさっき起きたばかりだったので、布団は敷っぱなしだったし。
しかしきれいだったからどうだっていう問題ではない。どっちにせよ同じように怒りを感じていただろう。
◆生活するということ
仮にもそこで『人が生活している』のである。
一人暮しをしたことのある人間なら特によく分かるのかもしれないが(えっ、わがんねって?)、生活を営んでいる場所には
『とてもとても人様には見せられない(恥ずかしい)姿』 とか、 『他人には絶対知られたくない生態(!?)』 なんてのがある。そりゃ確かに部屋に友人を呼ぶときだってあるがそこで生活している私は仮の姿である。とでもいうかある程度(まっとうな)生活をしている姿を『演じて』いるものである。個人差があると思うが。
己の好奇心を満たすが為に無防備な生活を覗かれてたまるかい。動物園の動物じゃないんだから。
人が生活しているってそういうもんである。
◆しかし……
そういう生活に関する考え方は非常に個人差があるところだと思う。
私の友人にも遊びに行くといつでも構わず部屋に上げてくれる様な人がいれば、知り合いの余りいない所に好んで住み、相当親しい人でない限り住所すらも知られるのが嫌という人もいる。
覗いていた彼は、そういうことに関してわりかしオープンな人だったのかもしれない。
しかしそれが我慢ならないっていう人だっているということも知ってもらいたい。でないと気分を害される人が増えるだけだ。
もっとも私はプライバシーとか、防犯とかそんなにぎゃあぎゃあ言うような神経質な人間ではないのだが(そういう人間だったらこういう物件には最初から住んでない)。
とりあえず今出来ることとして、今後トイレや新聞をとりに行く時でも鍵だけはかおうと思う。
今日はちとムフフ。な話題です。
かねてからの研究課題であった…………のかどうか知りませんが、
『寝る時、ブラジャーははずすものなのか?つけるものなのか?』
について発表したいと思います。
◆実測データ(!?)
はずす派:つける派=8:2 言ってみれば女の子の10人中8人がノーブラで寝ているっちゅーコトです。
この数字は私が今まで10年近くにわたってなにげな〜く質問して聞いてきた経験上の数字なんですが、結構信ぴょう性があると確信してます。
ただし、あなたの気になる彼女がどちらに属するのか、そんなもん私が知る由もありません(当り前か)。機会を伺ってさわるより他に確かめる術(すべ)はないでしょう。
ちなみに、つけて寝るかはずして寝るかということと乳腺の発育状態との相関関係についてはまだ検証されておりません(たぶん)。研究の余地アリ?
◆言い分
まずは『つける派』から。
『下着なのだからつけてて当然』 『なんとなく、、、お風呂上がりにつけてそのまま。』 『寝るときにわざわざはずすのなんて面倒くさい。』 『つけてた方が安心。寝やすい。』 『カタチが崩れそうでイヤ』 などなど……
以上より、『つける派』の彼女たちにとってブラジャーは『日常』のもの、『なくてはならない』ものであると思われます。
ブラジャーが他の衣類と大きく異なる点として『ある程度の年齢にならないと着ない』ことが挙げられます。つまりつけ始めた年齢が他の衣類に比べて遅れをとっているのです。しかし、つける派の彼女たちにとっては他の衣類同レベルにまで達していると言えるのではないでしょうか。
極端なことを言うと、つまりばんつを履いて寝るのと同じことというわけです。もっとも、だいぶ前に『脱パンツ健康法』なんてのがはやったりもしたので、『パンツを履いて寝る』というのはあながち当然のことではないのかもしれませんが。
また少数意見ですが、『つけてないと寒い(!?)』なんて言ってた人もいます。う〜ん、、ちと納得。
これに対して『はずす派』に彼女たちはまずこう言います。
『つけて寝ると苦しい。窮屈。寝づらい。』
彼女たちの言い分のほとんどはこの一言に集約されるでしょう。続いて、
『何で寝てる時までそんなもんつけてなきゃなんないの』 『身体を締め付けないほうが健康にはいい』 などなど……
なるほど。はっきりいってブラジャーはつけてて楽なもんじゃありません。
そのため常日頃からつけるものではなくて、表に出る時にだけ、つまり『よそいき』のためのものと位置付けられているのでしょう。そして『つけないでいられるならなるべくつけたくないもの』だということです。そういう彼女たちにとってのブラジャーは『必然』ではなく『義務』ということになります。
ちなみに温泉や旅行に行った際『はずす派』の彼女たちを観察していると(するなよ…)、朝方起き出して、服に着替えがてらのそのそとつけている姿が見受けられます。
◆要は……
習慣なのです。単にどっちが寝やすいか。そしてどっちが自分にとって『ラク』なのか。それだけのことなんだと思います。
最後に、かつて私の友人で、
『彼が家に泊まりに来た日、いつもの通り寝る時にブラジャーをつけてたら、『なんでつけてんだよ!!』って怒り出してすねてしまった。』
と憤慨していた人がいました。
……まぁ、彼の気持ちは分からなくもないけど(なんでやねん)、もっと寛容になりましょうや。
4月21日(火) (笑)再考
ヒト様の日記を読んでいる時、よく目にするものとして『(笑)』という表記がある。よく文末とかについているアレ。
他にもバリエーションとして(怒)、(涙)、(泣)などがある。中には(号泣)とか(爆笑)なんてのもある。時々、以下にも無理があって『おいおい、それはちと苦しかないか…』というのもお見受けしたりもするが。
もともとは雑誌とかに使われていたんだろうけど、今や市民権を得ている。あれっていったい何なんだろうか。
◆誰の(笑)か?
仮に(笑)と言う表現が用いられてたとしよう。
ヤクルトの野村監督とサッチーこと野村沙知代の顔はうりふたつだと思う。別に血がつながってるわけではないのに。『似たもの夫婦』ってこういうのを言うんだろうか(笑)。
ちと強烈な例えでしたが……。
ここで、あくまで笑っている(笑っちゃう気分な)主体は書き手本人である。
…………と一応私は解してるのだが、いかがだろうか?
考えすぎなのかもしれないが、私はこのテの表現を自分で使おうとする時、何でだろう、何となく読み手にその感情を強要してしまう様な気がして、あまり好きではない。『おい、笑えよ。こら』って感じで。それでもたまーーーに使うけど。
私がこの(笑)を使うのは、普段使っている笑いの感情表現の仕方にマンネリを感じたときである。つまり、自分の語彙力のなさを痛感したときですな。はい。
誤解しないで頂きたいが、その表現が好んで使われれいる文章を読んで、『コイツ、語彙力足んないな……けっ』などと判断しているわけではない。(笑)系を好んで使う人の中には、惚れ惚れしちゃいそうなほどいい文を書かれる人もいる。あ、嫌味でも皮肉でもなく本当に。
また、読んでて嫌になるとか、強要されててムカつくとか、、、そういう感情がおこるわけでもない。
他の人がその表現を使っていることに関しては別に何とも思わない。
むしろその表記(と内容)につられて笑うこともある。もちろんこれらの表現を実に多く用いている人も、別にそういう意味で(感情を強要しようとして)使っているのではないとは思うが、それでも自分から好んで使おうとは思わない。ただそれだけ。イメージ的な問題で、なんとなく。
単に嗜好の問題なのだ。
◆普段使っているもの
私が好んで使う感情の表現として、擬態語、擬音語その他をそのまま用いるというのがある。
今日、あんぱんを買ったのに中にあんが入ってなかった。ぶぅ。
こんな感じで。横綱級の使用頻度のものとして、ふぅ、ぶぅ、くぅ、が挙げられる。あとは、ふんっ、うふ、うるうる、どきどき、うわ〜、ったく、といったところだろうか。これらは別に『ひらひらオリジナル』というわけでもなく、(笑)などと同様よそ様の日記でもひっじょ〜に多く用いられている表現である。
何でこれらを使うのか。単に私がひらがな好きということもあるが、これだとその時の感情に近い形で、できるだけリアルに表現できるからだ。もちろんその気持ちはその時の私だけのものなので、人がこれをみて笑ってくれようが怒ってくれようが構わないわけで。
上の文だとぶぅたれてるのはあくまでわたしで、その時の感情は『ぶぅ』としかいいようがない。それをただ伝えたい(書いておきたい)だけなのだ。あと文章にどこかしらリズムがつく気がするし……。
他にもきっとそういった感情をリアルに表現できる言葉の用い方はもっとあると思う。ただ私が知らない(気付かない)だけで。はは。
しかし、実際に日記を書いている時にはここまで考えていないのが現状である。ただ、その時の感情と文章のリズムに任せて……といった具合で。ま、そんなもんである。
4月23日(水) 模様替え一考
ホームに続いてこのページも模様替えをした。ホームページとして落ち着くまではデザインなんぞコロコロ変えない方がいいと言われているにもかかわらず変えた理由は以下のとおりである。
以前のデザインについてとりたてて不満があった訳ではないが、ひとつ言うならば1の『読みにくい』と言うことが挙げられる。ホームにしても日記にしても。特に日記が読みにくいというのは文字を打っているこっちとしても目が疲れてしんどい。2は今回の理由の最たるものなので、後で。3は……言うまでもない。飽きっぽいんで、私。
ちなみに以前はこちらから素材を頂戴しておりましたが、今回は大半をこちらから頂戴しました。誠にありがとうございます。(ここだけですます調)
◆探して思ったこと
素材をかき集めるのと同時に他の人のページをみて、ちょっと研究したりもした。それで痛感したのが、『ホームと各ページの統一感』と『同じページの中での統一感』がいかにセンスの良いものを作るのに重要かということである。
特に手をかけてると言う訳でもなさそうだけどすんごくセンスのいいサイトがある。それと相対して『あ〜頑張ってんな〜』って分かってもその頑張りが空回りしてるというか頑張りすぎてるが故にページ全体のバランスを欠いてしまって単なる悪趣味になってるものも結構ある。
素材を集めている時にあれもこれもとダウンロードしたものの、結局使ったのはほんの一部である。どれもこれもひとつひとつは可愛いし素敵だ。しかしそれらをトータルで見るとおもちゃ箱の様な状態になっているのである。ひとこと、雰囲気やタッチなどなど統制がとれていない。好きだ、好きだといって欲ばって使うとろくなページになんないよってのを物語っている。芳香も混ぜたら臭いのと一緒で。
何事も『狙って中途半端にはずすんだったら、最初から狙わない方がましである』というのが私の持論である。凝りすぎてちぐはぐになるんだったら何も手を加えないほうがいいと思う。うん。
また、全体のセンスはすごくいいのだけど、ほんの微妙な文字の色やイメージの雰囲気の違いなどでせっかくの良さが半減しているページもあったりなんぞして、、、おしい。う〜ん、画竜点睛を欠くっていうか。
そして、実際に素材を集めていて思ったのが同じ系統のサイトから自分の欲しいものを揃えようとしたとき最後の一個がどうしてもそろわないのである。
子どもの頃、同じキャラクターの筆箱とその中身を揃えようとして、消しゴムが一個、定規が一個どうしてもどうしても揃わなくて悔しい思いをした。そ、あの感覚。
例えば、今回ので言うと、ここの背景は本当ならホームで使われてるのの色ちがいにしたかった。しかし他の色は微妙に色味が強くて、切り替えのところの陰のトーンも暗いのでそうすると日記の左側がどうしても読みにくくなるのである。
それで、このチェック色の背景に落ち着いた。気に入ってる。
◆テキスト
芸がないなと思いつつも、黒のテキストで書いている。
確かに読みやすいんだけど、なんだかちょっとこの『黒』って色そのものがきつい感じがして、せっかくの柔らかい雰囲気を殺してしまっている様な気がする。もちっと茶系の色を使ったほうがいいかなとは思うが、あえて黒のままで見切り発車することにした。
なぜなら茶はちゃでもどういう色合いの茶色が一番しっくりくるのか、そのバランスがいまいちつかみきれていないのである。
服とか選ぶ時でもそうなんだけど、色を合わせるのってほんと難しい。同じ茶系どうしでもほんの微妙なトーンの違いで合う・合わないがはっきりと分かれる。
見れたもんじゃない茶色を使うんだったらこのままでいいや、、と思ったのである。無難だし面倒くさいし。
背景を設定したら自動的に一番あったテキストの色を選んでくれたらいいのにと思う。ぶつぶつ。
あとフォントも今日は試験的に少し大きめ。でも最近の私の日記はちょっくら長めなのでこれは少しつらいですな。(ブラウザによっても変わるだろうし……)
4月24日(金) 個人差……じゃ片付けられないもの
日記の趣向を変えてから一週間ほど経つ。
これまでの日記を眺めてみるとその結論として個人差、好みの問題、バランスの問題、として片付けてしまっているものがほとんどだ。
自分がそう考えている事には変わりはないんだけど、このテの結論は無難で、文章としてはあまり面白くないってのも事実だ。
だって、当り前のことじゃないか……としか思わないのだ。それだったら現実的じゃなくとも極論ぶちあげた方がよっぽど読み応えがある。まぁ、でもこれあくまで日記なんだしそこまで自分に無理をする必要もなかろう……とも思っている。そういうこった。
そう言いながらも個人差やバランスの問題では片付けられない、どうしても譲れない部分ってのもやっぱりある。それは、
好きな人の食べ物の好み である。
それこそ好みの問題ちゃうんかい、、、と思うかもしれない。単に人の食べ物の好みだったらそういえる。それこそ個人の好き好きだ。しかし、『好きな人(彼でも友人でも)の』となったら話は別だ、、、と私は思う。
◆昔のはなし
私がまだうら若きティーンエイジャーだった頃、好きな人が出来た。
その彼はとにかく甘いものが苦手だった。甘党の私からすればそれこそ『人生の半分を棒にふっている』としか思えない、信じられない話である。
しかしまだ付き合っている訳ではなかったので食べ物じゃない別のものをあげることは気がひけた。そのため、その年のバレンタインの課題は、
『いかに甘くないチョコレート菓子を作るか?』 の一点に集約された。
これがまた苦労したのである。
食べ物の嗜好がそこそこ似ている人であれば、自分が『おいしい』と思ったものでまずはずすことはない。ところがそれが出来ない。
別の好きな食べ物をあげるということも考えられたが、事前情報として『好きな食べ物=肉のアブラ』ぐらいしか把握していなかった。……まさかそんなもんプレゼントする訳にゃいかん。
結局、努力の結晶として『極力甘さを抑えたアーモンドココアクッキー』なるものを作りだし戦いに挑んだのだが…………その苦労も空しく見事に玉砕したのである。ぐす。
◆『だからどうした』
別に一緒に食事をしたり何か作ってあげる時は他の好きなものにすればいいとか、そんなの人の好き好きだし食べ物の好き嫌いなんてどうなるものでもないのだからそれぐらい大目にみてやれよと思うかもしれない。
どうなるものでもないから大目に見ることが出来ないのだ。
確かに音楽の好みとが服の好みであればそれこそ好みの問題で片付く。
しかし食べ物となると話は違ってくる。最初のうちはその嗜好の違いがかえって目新しく映るのかもしれないが、一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、この好みの違いは実に大きな隔たりとなって迫ってくるだろう。
更にそれが具体的な一品(EX.きゅうり、メロン)であればそれ程でもないが(それさえ除ければ済むので)、根本的な部分で食べ物の嗜好が合わないとなると致命的である。
例えば、あっさりさらさら和食党の人間とこってり濃い目の洋食好きが長〜いこと一緒に生活していくのはちと苦しいんじゃないか、とすら思う。
なんて言ったらいいのだろう、、、食べることって人間の一番の基本とでも言うか、いうなれば本能のレベルの問題である。だから無理が出来るものではないし、合わせたところで長く続くものでもない。相手にも無理強いをしたくない。
将来、結婚した旦那様に、甘いもの、納豆、酒嫌いの三拍子が揃ってた日にゃそれだけで三くだり半を突きつけるだろう。たぶん。
女友達は別にして、男性でかつて私の付き合ってきた人は、どういう訳か甘いものが苦手な人がほとんどだった(幸い、それが理由で別れに至ったことはないが…)。だからこそ言える。
付き合ってて食べ物の好みが合わないのは本当に辛い。
自分の大好物が相手の嫌いなものだったらなおさらだ。
その美味しさを一緒に享受することができないのである。
くどいようだが相手に自分の好きなものを強要する気はない。(だって自分がされたら嫌だもん。)
だからこそ自分の好きなものが相手の好きな食べ物(もしくは食べられるもの)であることに超したことはないのである。
4月28日(火) 日記者が一度は通る道
日記猿人の投票ランキングに参加し始めてから一ヵ月ぐらいなのだろうか…。
いわば私は新参モノ。『若葉マーク』の日記者である。あ、でも自分より番号の大きい方もぼちぼち出てきてるから、そんないつまでもわかばわかば言ってられないけど。
で、いろいろな方の日記を拝見するためにあちこち散策して気がついたのだが、猿人に参加して少し日が経った頃(慣れてきた頃)に、
『得票数の多い日記について分析』 してる人って結構多い。やっぱり参加するからにはたくさんの人に見てもらいたいし投票してもらいたいと思うのは自然なことのようで、いわゆる人気日記と自分の日記とはどこが違うのだろう……なんて思うのだろう。
そんなわけで、私もこの登竜門(!?)をくぐってみようと思う。
◆いきなりですが……
結論からすると、
『Web日記はひとつのお店である』 と言ったところだろうか。
ほそぼそとお店(日記)を始めて、最初は閑古鳥…だけども徐々にたびたび来てくれる『常連さん』が出てくる。それでも少しでも内容が面白くなくなったり、雰囲気がまずくなったりすると、ああっという間にお客さんは離れていく。
入ってみて自分の趣味にあったり面白いものが置いてあれば『いきつけ』になるだろうし、いつになっても色あせて埃のかぶったものしかなかったらあんまり覗く気もしなくなる。そうならないためには店主に地道な努力が要求される。
そんな所が一軒のお店のように思えるのである。
事実、得票数の多い日記の得票状況をちらりと見てみると、案外常連さん的な人の存在が大きいことに気付く。中には毎日のように投票している人もいて……うらやましい限りである。
一度訪れてくれるだけでも嬉しいのに、いつも読んでくれている人がいると言うことは感謝感激雨あられ、大変心強いことだ。
そのために一度閉鎖したページを復活させた人もいるぐらいだし。(検閲不許可)日記そのものは自分が好きで書いているに過ぎないけれど、見てくれる人がいるということはひとこと、快感である。それが毎度だった日にゃ書いてる方も張り合いが出るってなもんだ。私の日記にも得票状況からすると、何回か訪問(投票)してくれている人がいるようだ。鳴呼、ありがたき幸せ。あ、それはまだ単数か複数かの世界ですが……。
◆セールスポイント
また、日記の中に何か一つ一貫した『テーマ』があるのは強みである。
例えば『子育て日記』であれば、子育てに興味がある人に覗いてみたいなぁと思わせる……と言った具合に、目的がはっきりしていればそれに興味のある訪問者を呼び寄せることが出来るのではないだろうか。
逆を言うと、どんなに苦心して書いたものでもいわゆる『身辺雑記』的なものに過ぎなければ、よほどその人物や日記に引き付けられる魅力を感じなければかなり苦しいのではないか……とすら思える。どこにでもいる人のどこにでもある日記ならあまり読もうなんて思わないだろうから。<自省の意味も込めて
かく言う私は……ない、そんなもん。あ、強いて言えば存在の『中途半端』さにあると思う。今死んでもおそらく誰の迷惑にもならないであろう…という自信すらあるこの自分の存在である、、なんて書いていると何だか自虐っぽい。しかしこれが事実である。悲しい。
ん〜、こうやって日記にしてみると考えたことがうまく言葉で伝えられない。
もどかしいけど、前頭葉が過労死しそうなのでもうやめ。寝る。
突然だが、これは日記である。
本来、自分のことについて書く為に作ったもので、他人の日記についてどうこう言うべきものでもないと思うが、今日は自ら考えさせられる部分があったので、以下あえて触れていきたいと思う。
◆残念なり。
最近、日記界(!?)をさわがせていた某日記に今日立ち寄ってみたらパスワード認証になっていた。
ついに……と思った。内容そのものはそこそこ面白い(と思う)ので、以前から暇をみてちょくちょく寄っていたのだが、もうこれで自由に読むことは出来ない。
いつも遊んでいる空き地に、ある日突然『立ち入り禁止』の立て札がたてられた……そんな気持ちである。
いろいろ考えるところとか辛いこととかあったんだろうからこうするより仕方がなかったんだろうな……と思いつつも、そのページに書いてあった事に肩を落とした。(引用する訳に行かないので要約すると、おまえらヒマ人か?みたいな内容。)
確かにヒマ人なんだけど(笑)、、懇願してパスワード出してもらってまで読ませていただく気は、もうない。今まで楽しませて頂いてありがとう。あばよ!って感じである。
しかし、それに加えて、『この人、人に対する態度でかなり損をしているな、、、』
と思ったのである。
◆一息置いてみる
過去を掘り起こしてしまって申し訳無いと思うが、ここまで騒ぎが大きくなったのはその方の攻撃的な態度(というか物言い)にもあったのではないかと思う。
何故なら、いくら理にかなっていても、あるいはその人自身に同情すべき点があったとしても、人に攻撃的な態度を取ってしまうとなると、言われた人は(いくら自分の側に非があることに気付いたとしても)その言い方そのものに不快感を覚える。
そうなるといやがおうでも自分に対する風あたりが強くなる。『売り言葉に買い言葉』とはよく言ったものだ。
つまり、もう少し言い方(対応)を考える必要があったのでは、と思うのだ。例えやんわり言ったとしても、その考えそのものに対して多少反論や批判は出てくるんだろうが、ここまでいろんな人から槍玉にあげられたり、バッシングされることはなかったのではないだろうか。
もっとも、そこまで思考が回らないほどおかんむりだったのだと思われる。そういう時こそ、一息置いて考えてみる。それってすごく大事なことだ。
◆まだ記憶に新しいとは思うけど、
かつて、千葉すずという水泳選手がいた。
彼女がアトランタ五輪の時、マスコミなど在野の反応にふてくされて報道番組中で問題発言なんぞを連発した姿と今回の日記の方の姿がどうしてもイメージ的にダブって見える。
ふたりとも本当に苦労や辛い思いをしてきたんだろうけど、人に対する態度のまずさでさして反感をもっていなかった人にまでもマイナスイメージを与えてしまったあたり、かなり似ている。(以上抹消線部分検閲不許可)私自身もかつて自分が精神的に参っている時に、人に対してきつい物言いをしてしまったばっかりに人間関係にひびをいれてしまった経験がある。そんなに過去のことを気にする性分ではないので、私は一晩眠ったあたりでけろって忘れてしまったのだが、ところが相手はそうもいかなかったようである。
そのことに対する後悔と反省から今回この事が気になって話題にしたんだけど……。
自分が怒っている時に一度飲み込んで、相手に対する反応や態度を考えるのってほんとに難しい。ましてや自分が槍玉にあげられている時なんぞは、いちいち人のこと考えてられっかい!なんてものなのかもしれない。しかしそんな逆境にある時こそ笑顔でさらりとかわせる……そういう強さのある人間になりたいと思う。
今日はお疲れモード+スタミナ切れ+ネタ切れなもんで、日記の方もちと軽めです。
先ほど少し退屈だったので友人あてにメールを書いてました。
いつも顔を合わしている相手なので、取り立ててニュースもなく、ただつらつらやってったんですが……。でもそれじゃあまりにもつまんないので、こんなことしてみました。
鯛靴出巣。今、酢極。 黄金週間派実家似帰等れ流相出巣画……(以下略)
何だか一昔前のヤンキーみたいでしょ。『夜露死苦』って感じで。
『おまえ、こんなことしてて楽しいんか?』と思われるかもしれませんが、退屈な時にゃすることがありさえすればそれで御の字です。はい。
しかし、もらった方は実に読みにくいですな……これ。いい迷惑だわい。
近い将来(!?)社内恋愛なんぞするはめになった時の『らぶらぶめ〜る』になら使えそうかも。実際、ソレ用にひらがなおんり〜とかローマ字そのまんまで送信しているってのは聞いたことあるけれど……これも案外古典的なテなんでしょうか。そのへん、おつとめ経験のない私には分かりません。
あと、欠点としては一回やっただけでも学習機能が変に働いてしまい、うまく変換が出来なくなってしまうこと。例えば『の』『に』『ら』『す』なんて打ってポンと変換すると一文字ずつ『野』『似』『等』『巣』となってしまう。
だからこの日記、打ちづらいのなんのって。
馬鹿なことするんじゃなかった……うぅ。
今日の日記、自分で打っててホント『頭つかってね〜な〜』と思います。<いつもか…
明日、気合い入れて出直しますので勘弁してやって下さい。
んなわけで、今日はもう、寝る。充電。ぐぅ。