2000年3月コラム

2000年3月1日(水) 前の大戦の後、ドイツで壊滅的な敗戦から復興の先頭に立ったのは”Trummerfrau" (瓦礫女性)と呼ばれた女性達だったと言われる。先の見通しも何も無いときに、瓦礫の山に素手で立ち向かい、とにかく第一歩を踏み出すことから本当の復興がスタートした。理想を唱え、議論を重ねたところで、身体を動かさなければ何も進まない。「何はともあれ、畑を耕す」(ヴオルテール)ことだ。・・・今日も昨日に続いて「カンデイード」を読んでいる。漱石の「こころ」とは対極のもの。世の中が広い。ウジウジしないので楽観的になり元気がでてきます・・・。

2000年3月2日(木) 親子、夫婦など家族で同じ本を読むことをお勧めしたい。なんていうと何か道徳家みたいで嫌みであるが、純粋に楽しくかつ経済的なメリットもある。我が家は娘も息子も独立家計となったが今でもお互いに本の貸し借りがある。このところ気に入って読んでいる文庫本(ヴォルテール)は息子が中学生の頃買った本であった。ハリー・ポッターの本は読みかけのところで娘に持って行かれた。妻はいま息子から借りた「聖(さとし)の青春」という村山聖(29歳で亡くなったA級棋士)の本を読んでいる。大体は親は子供の本を借りる(というより勝手に読む)ことが多い。おじさんが経済書をいくら読んでも自分の経済でさえ一向に良くならないので子供の本を読むという外野の声もあるが・・・。

2000年3月3日(金) このHPからのリンクKEN'S INSPECTの中(ぼやとん)に童謡「うれしいひな祭り」を歌ったら暗い気持ちになったというのがあったのでこちらも「ひな祭り」でいこう。この曲(河村光陽作曲)は南米では悲しいバラードとして知られているという。ドレミのミがミのフラットになった短調の曲は”暗い”音色。日本の曲が短調が多いのは侘び・寂びの世界が好きだからというが本当でしょうか。短調の「ひな祭り」にサトーハチローが詩をつけるとこんな素敵な童謡ができたのです。

2000年3月4日(土) 午前中の3時間を1ヶ月振りのテニスで遊んだ。左足首の痛みは殆ど感じないが恐る恐る動き、相手からは「走れないとただの人」といわれながらゲームをやったが、無事に終わってホッとしたというのが偽らざるところ。自分が思うように動けないと他の連中が素晴らしく良く動くところばかり感心する。帰宅後に衛星TVでみるプロのテニスプレーヤーの動きを見ても、以前より細かく足の動きを注目していた。人間の運動機能というのは正常に働くときには実に神業のように思える。ロボットなど人間の運動領域には到底及びもつかないことが改めて納得された1日となった。

2000年3月5日(日) これまでの「今日の映像」を「今日の作品」にすることにしました。「空」も「左手」も他人がみると興味のないことであったかもしれません。、自分自身も退屈なテーマであったと反省し、せめて自分で好き勝手な”作品”を掲載した方がいいのではないかと改訂を思いついたのです。「空」シリーズで残念なことは、世界中の「北緯35度」の空、あるいは「東経139度」の空を合わせて掲載する目論見が達成できなかったことですが、また何年か後には自分の緯度・経度で世界と話しするのも面 白いと思っています。しばらくは創作路線を試みます。ほんの少しでも楽しんでいただければ幸いです。

2000年3月6日(月) 今、NHKの「生きもの地球紀行」で「ハナイカ」の映像を見ている。ハナイカが海底を歩く姿も奇怪なら身体の色は更に不思議、周りの色と同じになる変色自在のワザまである。ハナイカに限らぬ が、海の生物を見ると、人間が想像の限界まで考えた上であり得ないと思う怪物をイラストで描いてみても遥かに及ばぬ 、めちゃくちゃな姿形をした神の創造物が現実に存在しているということでショックを受ける。また、こんなにどぎつい色はあるはずがないといった色が平気で塗りたくられている。しかも、それらが最も適した形であり色であるのだ。人間は傲慢になりそうな時、海の生物を見ればよい。

2000年3月7日(火) 「さくらより  桃にしたしき  小家なり」(蕪村)
4月上旬の気温だという。屋外でオーバーコートがいらないほどの暖かな日和となった。春はもうすぐか。
日曜日にPHOTOSHOPソフトを使って写真画像を抽象画に変造する「作品」を作ってみた。HPに掲載しているがこれがとても面 白い。(自賛)少なくとも作る本人はスケッチがを描くのと同じように楽しめる。コラムを書く時間があれば画像を作りたいと思うようになった。毎日でも新作を掲載できます!?

2000年3月8日(水) 「鶯を 雀かとみし それも春」(蕪村)
日比谷線の電車脱線、衝突事故で帰路は遠回りをした。最も安全な乗り物の一つと思えるのろのろ電車の事故で被害者は正に不運。直ぐ身の回りにもリスクが潜んでいることを思い知らされる。犬の散歩ついでに今現場まで行ってみたが、夜10時過ぎ、最早周辺は静かであった。それにしても「新幹線」の安全性の完璧さには感心する。ただし、これまでが良すぎるのでロケットの打ち上げ失敗と同じ種類のメカ技術低下が露呈しないかと反対に心配。事故は事故を呼ぶ。

2000年3月9日(木) 朝の6時にヘリコプターの音に起こされてしまった。目は覚めていたがうるさい。昨日の日比谷線脱線事故現場を朝1番にレポートしようという報道用ヘリコプターだ。テレビや新聞の奴らはカッコイイことを云ってみる割には他人のことは考えない。朝の6時に低空でヘリコプターを飛ばすことがどれだけ迷惑になるか考えているのか。ジャーナリストというのは権力におもねることなく真実を追究するなどと美化された姿をまだ信じたいのであるが、稼ぎ高はワレワレの倍以上、やってることは弱味をみせたものいじめ(強い間は避ける)、哲学なき日和見など日頃のジャーナリストへの憤懣が騒音と共に湧き出てくるから我ながらおかしい。「今回は朝の6時に上空から報道することは全く意味がありませんでした。以後行動基準を見直します。」という反省の弁でもあれば、今日にちなんで、3/9(サンキュー)として許せるのだが・・・無理でしょう。

2000年3月10日(金) Concert over, houselights smile faintly in the pause before the everyday world returns(Machi Tawara)
学生時代の友人が 昔やったニューオールリンズジャズと縁が切れず、会社勤めをしながら月に1-2度、渋谷でライブを続けている。一方で役員とかやりながら、ジャズでアメリカに演奏に行ったりする。こういうスタイルが例外的かもしれないが出来るようになっているのはうれしい。

2000年3月12日(日) 昨日は酔ってコラムを書いたせいか日付を間違えていたことを、24hr経過した今気が付いた。自分が書いたものでも後で間違いを見つけたり気に入らなかったりすることは多い。マチスが1枚の横たわる女性の絵を30数枚描き直した記録を見たことがある。また、ルオーの絵も完成させることがなく、人が購入した絵を借りて帰って手を入れた話も有名だ。自分の場合も水彩 などの小品はともかく、油絵については描いてしばらくするとまた描き込むことがよくある。初めの写 真が残っていると、エーこんな絵だったの・・などと思うものもあるし、直す前の方が思い切りよく感情が出ていて良かったなどというのもあるがあとの祭り。大抵は、他人の評価を気にしてカッコウをつけたのは失敗する。描く瞬間に自分を燃焼できていれば良しとすべきかと思うがそれがなかなか難しい。

2000年3月13日(月) 今日は色っぽい話・・ではなく色の話をしよう。パソコンで画像を扱うときにおなじみの、RGB(レッド、グリーン、ブルー)=光の三原色とかCMY(シアン、マゼンタ、イエロ)=色の三原色とかの混ざり具合で色が表されるが昔からの呼び名が何といっても情緒がある。緋色、焦げ茶、鶯色、江戸紫など。語感もいいでしょう。そういえば、「雨が降る降る・・」の城ヶ島の雨の中の「利休鼠が・・」という歌詞で利休鼠色を覚えた。その後しばらく絵の中にこの色を取り込んで楽しんだことを思い出す。黄色の系統も豊富です。山吹色と鬱金(うこん)色と梔子(くちなし)色と黄金(こがね)色の区別 がつくでしょうか。

2000年3月14日(火) 一日の大部分を占める「勤め」に関するネタは絶対にコラムにしないということは結構強い意志が必要だ。・・ということで今日も昨日に続いて「色」ネタとします。利休鼠という色は緑が少し混ざった灰色であるが、利休色に鼠色がかかったものとされる。すなわち、利休色は緑みの黄色である。分かりにくいが菜種油のようなくすんだ黄色(油色)に近い。利休茶というらしいがそうなると黄色系なのか茶色系なのか。利休さんが好んだ色らしく、利休色と利休鼠色は渋く落ち着いた配色となる。・・・こんなことを書いていると急に何か絵を描きたくなってきました。

2000年3月15日(水) 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる者久しからず、唯春の夜の夢のごとし。猛き者もついには滅びぬ 、ひとえに風の前の塵に同じ。」ご存知の平家物語のイントロをみると、日本文化の深さをあらためて思い知らされる。「沙羅の樹」は夏椿ともいわれ、白いつばきのような花を咲かせるが、「沙羅双樹の花の色」は、1日で散ってしまう花のはかなさをいうのだろうか。釈尊が沙羅樹の下で入滅するや、時ならず花が急に咲き、まもなく枯れたという伝説もあるという。はかないからこそ価値があるのは花だけではないか・・。

2000年3月16日(木) 現地で、現物を、現実的にみるという3現主義は物事を分析したり、判断する場合の基本とされる。実際に聞くことと見ることは大違いで、他人の風評や、発行される批評にしても裏の意図的なものがあって、かなりいい加減なものも多い。それが現実とは関係なく一般 的な評価になることもまたよくある話だ。イヤな面ではなく、楽しかった思い出を書こう。コローの風景画の白みがかった緑色は現実にはないコローが作った独特の色だと長年信じていた。ところが、この大好きな白っぽい緑色というのはコローの描いたフランスの田舎にいくと全く当たり前の、そのままの色であることを目の当たりにした時は感動した。これこそ現地で現物を見て気持ちの良いショックを受けたことを鮮明に思い出す。

2000年3月17日(金) フィボナッチ数列というのがある。初めに1を二つ並べて書く。次にその和2を書き足す、以下、1と2の和3、2と3の和5・・・(1 1 2 3 5 8 13 21 ・・)こうした数列がフィボナッチ数列である。植物の葉っぱや木の枝が幹を回りながら出ている位 置を円周率の何分のいくつで回っているかをみると、1/2、2/3、3/5,5/8・・とみんなフィボナッチ数の隣り合う数の比になっているという。世の中随分科学が発達したようでも、自然界の不思議の一つもなかなか解明はされない。理屈は分からなくても樹の枝の出方の美しさはすぐに分かるものだ。

2000年3月18日(土) 黄金分割について書く。線分AB上に点CをAB:AC=AC:CBにとるとき、点CはABを黄金分割するという。黄金比=AC:CB=(1+√5):2=1.618:1 となる。歴史的に美しいと評価されている絵画や、彫刻、建築などの多くに黄金比が存在するとされる。色々な部分の比をとって、あれも、これも黄金比だとこじつけたようなところもあるが、昔、試しに無理やり黄金比を取り込んだ絵を作ってみたが、勿論これだけでは美しくはならなかった。バランスを考えたある典型が黄金比になるのであろうが、現代で何かやろうとするのであれば、あえて黄金比をぶち壊すことの方が正解かも知れない。それにしても、昨日書いたフィボナッチ数列の隣り合った二つの数の比が「黄金比に収斂 する」のは驚異だ。 8/5=1.6、13/8=1.625、21/13=1.615・・・これがどんどん、1.618 へ近づいていくという。(黄金比に収斂 することは証明される)黄金比がフィボナッチ数列につながっていくことが、何より美しい。

2000年3月19日(日) 紙のサイズでA1を半分に折るとA2、A2を半分でA3、A3の半分がA4などお馴染みだが、これは、横と縦の寸法比が1:√2 であるからこうなる。つまり、紙のサイズは、A列、B列共に横縦比が1:1.414である。ちなみに A0は面 積が1平米(1m2)そしてB0の面積が1.5平米(1m2)からスタートしていることから、縦、横の寸法は中学生でも計算できる。今日の紙のサイズの話題は昨日の黄金分割と関連してくる。昨日の黄金比は、1.618(これは名刺の縦横比に相当する)、今日の縦横比は、1.414、どちらを美しく感じるか競う必要はないけれども、共に数学的な見事な美しさを教えてくれるでしょう。

2000年3月20日(月) 休日には、普段お目にかからない思わぬ情景に出くわすことがある。犬の散歩の途中にある11階建てのマンションのゴミ集積場に「カラスの死骸」が晒されているのを見た。羽根を大きく開き竹棒の先にくくられて、カラスどころか人間様もギョッとする迫力である。一体マンションの住民はこれを納得しているのだろうか。ゴミ担当のおじさんがどうだ俺のアイデイアはすごいだろう、田舎ではこうやるとカラスが近づかないのよ・・と得意になっているかも知れない。少なくとも、人のために非常に良いことをしているつもりであろうが、現代の東京でこれが通 用すると思う人がいるということがショックである。江戸時代の獄門・磔(はりつけ)・さらし首の感覚がまだ生きている。それに殺されたカラスはどんな悪いことをしたというのか。とにかく早く止めてもらいたいものだ。

2000年3月21日(火) 一昔前に永久独楽とか永久シーソー?と云う類のオモチャを集めたことがある。これを知っていた甥っこに「空中に浮かんで廻る独楽」をプレゼントされたものをまだ大切に保存している。U-CASという商品名の日本製。磁力の微妙なバランス調整が必要であるが(地磁気も影響するか?)本当にかなり長い時間、1分間とか空中で独楽を廻すことができる。最近はオモチャ屋巡りをしないので、まだ売っているのかどうか分からないけれど、名作オモチャの一つだと思っている。もう少し時間に余裕ができたら、この種の紹介をホームページでやることもできるぞと夢が広がる・・・。

2000年3月22日(水) 木蓮の白い花が咲き誇っている。この時期にはいつも遠目にハクモクレンか、それとも辛夷(こぶし)か迷うことがある。「こぶし」の実の形は子供の拳(こぶし)に似るというが、もともと辛夷もモクレン科だ。自分の場合、50歳に近くなるまでは、殆ど植物の名前にも興味がなかった。丁度絵を描き始めた時期とそれまでにない別 の世界を見るようになったのとが一致している。そういえば、沈丁花(じんちょうげ)、吾亦紅(われもこう)などの名も絵のモデルとして覚えたことを思い出す。
2000年3月23日(木) 「先生と云われるほどのバカはなし」が昔からの”定説”であるのはそれなりの理由がある。1)先生は(大抵は目下の)生徒だけを相手にするから、自分より真に優れた人と接する機会が少ない。2)先生は人から批判、評価されないので自省する機会が少ない。3)ある時期に学んだネタだけで事足りるので新しい勉強をしない。おそらく、自分が考えるよりはるかに他人に対して不遜になりやすいということ。これは私の身内、子供にも言い聞かせていることです。「先生」を主婦とか社長とかに置き換えても同じことでしょうか。

2000年3月24日(金) 毎日コラムを書いていて感じるのは、キーを叩いてほんのわずかな文章を綴るにしても、連続と非連続の波があるということだ。流れに乗って自然にコラムが出来ているというケースがあるかと思えば、どうしても連続した流れに乗りたくない時がある。非連続(不連続でなく)による連続といったものを求めるときの方が気力があるように思える。それにしても、短いコラムにも、能力というより、結局は、体力、気力が見事に反映してしまう。今日はどうも体力が不足・・・。

2000年3月25日(土) 「人からして欲しいと望むことは他の人にもそのとおりしなさい」というキリストの垂訓は聖書のマタイ7-12にある。旧約聖書では「自分がしてほしくないことを他人にしてはならない」と裏の表現になる。(・・といって、私は信者でもないので唯の知識ですみませんが・・)このような考えを行動で示す人や、お金のためでなく信念を持って他人に奉仕する人と接すると(外人、日本人関係なしに)ホッとして、人間への信頼を回復することがある。自分自身なかなかできることではないが、人の喜ぶことをするという教育が今少なすぎるのではないでしょうか。

2000年3月26日(日) コーギー絵本に挑戦しようかと、休日にアイデイアの下絵をつくったりしてみるが、絵本としての「奇想天外」なイメージが意外に出てこないことに気が付く。常識的な考え、小さな夢、枠の中の想像力。我ながら発展性のない世界の反映ではないかと反省する。グランドピアノを縦にしてコーギーチームが乗り込む競争自動車なんていうのはできるが、蓋を広げてコンコルド型のピアノ超音速機を絵にしようとした場合、これでは空を飛べないなどとエンジニア魂が顔をだすともう進まなくなってしまうのだ。絵本は理論を忘れること、そして空想の楽しさを思い起こさせる。

2000年3月27日(月) 3月末日で定年退社する人の集まりが続く。「定年」といっても、花のように散るものであれば、ツツジ型(アザリア型の方がいいか?)とか、桜型、椿型など幾つかのスタイルがあるようであるが、新たな門出としては、型にはまらず、100人、100様に咲き続ける野の花も私は好きだ。次は我が身と思うとこの種のテーマには深入りできない複雑な心境です。

2000年3月28日(火) 「百聞は一見にしかず」という。けれども「見る」といっても”幅”が広い。絵を描き始めて普段は如何に物を見ていないかに気が付いて驚いたことを思い出す。葉っぱ一枚を描いてみるとその複雑な形状に感激する。木の葉はいつも身近にあっても本当に見たことがなかったのだ。人工の自動車とか建築物にしても時間をかけて詳細に観察すると全く別 の面白さを見つけることも多い。忙しい、いそがしいで、目を開けていても、実は周りを何も見ずに過ごしている。情報化の進む社会で本当に認識すべきものは案外自分の側で発見できるかもしれない。

2000年3月29日(水) 昨日に続いて「見る」について考える。人気がある展覧会では、人の流れに従って絵を眺めながら押し出されていくことがあるが、これなどはほとんど絵を見たことにはならない。最低で3分間、集中して一つの絵を見ると「見た」ことになるだろうか。絵を本当に鑑賞する人は一つを30分、1時間でも見る。そして別 の日にあらためてまた1時間絵の前に立つ。見る度に新しい発見を楽しむ。「見る」とは対象物のもつエネルギーというか、霊気というか、ポテンシャルを自分の及ぶ限り吸収する行為であろう。本物を見ろといわれるのは逆に本物ならば見られることに耐える十分なポテンシャルがあるからだ。・・・こういうことを書いてくると何でも良い「本物」を見たくなる・・・。

2000年3月30日(木) めずらしく二次会でカラオケにいった。中年仲間の持ち歌は代わり映えしないが、若い子の歌にはインパクトがある。流行のスピードとかモーニング娘などの歌は、歌詞も曲の作りもすばらしい。これは歌う年代のハヤリの問題でなく明らかに進歩している。進歩という言葉が適切でなければ、一昔前の歌が中世の宗教画であったものが、スピードはカンデインスキーかミロの絵か。やはり今の歌は今の時代の高度なセンスがある。・・・とこれは第一印象。今度CDを買ってこようかなと思う。

2000年3月31日(金) 3月が終わる、平成11年度最後の日そして”スピード”解散の日、有珠山が噴火。この日もコラム改訂前に「Ken's inspect」(リンク参照)をのぞく。毎度は母親がアー、ケンは生きているようねと確認するのにHPを使う。内輪の宣伝をしてもしょうがないが、今日のケンのページ(ぼやとん)に紹介されているリンク先(英国のsodaというところ)は秀逸なので転用させてもらう。黒の点と直線だけで、実に様々な組合せの「動く構造物」をみせる。こんなものを若いときにやりたかったのだよ。本当は。なに、これからでもやればよい?・・わかりました、今に見ておれ・・なんて調子に乗る。

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