今日のコラム:2000年5月分


2000年5月1日(月) この日一日、新緑と、空と、海を眺めながら、家族=wife and corgis と過ごした。久しぶりの「伊豆高原」。アンとアール(コーギー犬)にとってはかなりハードな運動かそれとも楽しいお遊びか。まず朝は他には誰一人いない「桜の里」の広い芝生を思い切り走り回る。その後、「大室山」にはリフトで登り、頂上をぐるっと一回り。これは1km程度。大室山のリフトに犬を連れて乗れることは新たな発見。夕方は、山から海に降りて、「城ヶ崎」のハイキングコースを約1.5時間の散歩。この間犬達にリードをほとんど付けることなしに二人と二匹のウオーキングだった。妻はいう:犬達がいないとまずこんなことはしないわね。

2000年5月2日(火) ホームページのコーギー犬コーナーを充実させる以前に、我が家のアンとアールの遊びに忙しい。今日は伊東市の水道の元となっている奥野ダム/松川湖の周りの遊歩道をアンとアールと一緒に歩いた。一周約2km、他の人がほとんどいなかったのでアンもアールもリードなし。途中、激しく音を立てて流れる川の上を渡る「飛び石」の個所があったがアンは全く平気に渡った。いつもは母親のアンよりずっと元気なアールがたじろいだ。外で行動を一緒にするといつもは見えないアンの母親としての強さ、利口さが目立つことが何回かあったのが新発見であった。

2000年5月3日(水) 休日なので他のホームページを見る機会が多くとれる。いわば一銭の得にもならないのに、資料やデータを開示したり、他人のために自分の情報を提供する膨大な数の個人パワーに圧倒される思いがする。「営利目的」のページが時流に乗って広がるのは当たり前であろう。しかし営利ではない個々人の繋がりの拡大は、社会として確かにAFTER INTERNET(AI)として新時代を画するだけのインパクトがある。ただこのHPもそうであるが、一生懸命内容を改訂しても、それで何人見てくれるの・・などと気にしだすとやっていることが空しくなる。そこで自分では苦しい言い訳をする:大体において個人のHPは役に立たぬ がよい。無駄なところが好き。実利が欲しい人は営利サイトへどうぞ・・と。

2000年5月4日(木) 夕方から歌舞伎を見に行った。桟敷席で5時間を通 して歌舞伎を見たのは生まれて初めてである。以前、外国人を案内して一幕ものを三階の奥から見たことはあるが、桟敷席というのは確かに声も音も姿も全てを楽しめる贅沢な場所であった。歌舞伎を見て思うことは、日本人のセンスのいうのは、抽象とかデフォルメに極めて優れているのでないかということである。見えないはずの黒子は見ないとか、時間、空間を超越した場面 の展開とか、現代的な感覚が随所に見られる。音はこれも現代音楽として聞いても面白い。ただし、芝居のトータル時間がいかにも長すぎるのとお値段が高すぎるのが難点に思える。値段と時間を共に半分にするとかして、若い人をもっと集める工夫ができないものか。
2000年5月5日(金) 一昨日、中田喜直が亡くなったという記事があった。「夏が来れば思い出す・・・」の「夏の思い出」の作曲、それに「雪の降る街を」も中田喜直のものだ。「雪の降る街を、雪の降るまちを、思い出だけが通 り過ぎて行く・・・」の歌詞は内村直也。歌はダークダックスがイメージに浮かぶ。作詞の内村直也はクリスチャンなので三番の歌詞にそれが表れる。今季節は冬ではないが、記してみよう:「・・・雪のふるまちを、誰も分からぬ  わが心 このむなしさを このむなしさを いつの日か祈らん 新しき光降る鐘の音」 ・・最後は希望の光を見たいのだ。

2000年5月6日(土) コーギーリンクを拡張しようと思って、文字通りコーギーのホームページからホームページを鎖状に渡り歩いてみて感ずるところが多い。そこにはパワーというか、尋常でないエネルギーが満ちあふれている。他人から強制されたものではない、また大抵は金儲けにもならないページ作りを皆喜々としてやっているように見える。(しかも、女性のパワーが勝っている)コーギーという共通 テーマの範囲で、それぞれに工夫を凝らした作品が出来上がっている。私のこのページについていえば、テーマを多くとりすぎているところもあり、どうもコーギーについてのVITALなものが少ないことを反省させられる。コーギーに関して、もっとハチャメチャな”創作”をする余地があるのでないかというのが本日のひらめきであった。

2000年5月7日(日) ゴールデンウィークは終わり明日から本業が始まる。休み中にやりたかったことで出来なかったことは多いが、過去は振り返らない。最近人生もそんなものでないかと思うのだ。臨終の床で、あれもやればよかった、これもやりたかったといってもしようがない。それなら生きているうちに存分にやればよいのだ。過ぎし時間を後悔するよりも今の時間を使いたい。他人のために自ら使う時間もよし、自分で好きに使う時間もよし。ボーとするのもまた極上の時間と思えばよい。時間のQUALITY(質)は誰も評価できるものではないのだから・・・。

2000年5月8日(月) ガンジーの自伝を読んでいると、ガンジーがイギリスに留学した時に菜食を通 すので苦労した話があり、昔インド人の友人が我が家に来た時を思い出した。彼はインド人として当たり前の菜食主義であった。こちらが接待として準備したものは殆ど食べてもらえない。vegetarian(菜食主義者)というのは単に肉を食べないというのでなく、卵もだめ。それに野菜につけたマヨネーズも卵が入っているからだめということをこの時はじめて知った。結局持参した材料でフライパンを使って彼が自分で料理したのを覚えている。菜食というのもよく言われるようにインドでは必然性がある。インドという国は今人口10億人。これが24年前(1976年)には6億人であった。肉を食べなくても(インドでは牛は人間より威張ってみえる)これだけ人口が増える。10億人が植物を食べて(菜食で)育った牛の肉を食べはじめるときの影響は計り知れない。菜食主義者が少なくなってきて大丈夫だろうか・・。

2000年5月9日(火) 京都 大原三千院の側にある寂光院が全焼したというニュースをきき愕然としてしまった。もう17年も前になるけれど、まだ子供が小さい頃に家族四人で三千院の側の宿坊に泊まり、翌日寂光院に行ったことがある。寂光院というネーミングがまず魅力的だが、ご存知の通 り建礼門院(壇ノ浦の合戦で平家滅亡の時、安徳天皇を抱いて海に入水したが、ひとり助けられた平清盛の娘)の尼寺として有名だ。寂光院が火災になったのは放火でないかと報道されているが、放火なら金閣寺と同じ災難となる。自動消化装置が全く役に立たぬ とはそれにしてもお粗末。やりきれない事件だが何か防御対策が出るのかどうか注目したい。  *参考:建礼門院が安徳天皇を生んだのは22歳、寂光院で亡くなったのは32歳という。

2000年5月10日(水) 「芸術は束縛から生まれ、自由によって死ぬ」はアンドレ・ジードの言葉。 画家についても貧しい無名時代にいいものを残しているのに有名になってからのものはつまらないということがよくある。芸術でなくても何か創造的な仕事については同じことが云えるように思える。色々な制約を受け、時間がないところを必死で創り出したものの方が、自由と有り余る時間の中でできたものより感動を呼ぶことは多い。今日、ガンジーの伝記を読んでいて、束縛の人生から偉大な哲学を創り出す課程がみえて興味深かった。束縛も、時間がないことも集中のためのプラスと考えて、さあ、このHPも改訂しよう・・。

2000年5月11日(木) コンピュータというのは順調に動くときはこんなに便利なものはないと思うが、一旦動かなくなると全く始末に悪い。i-Mac のマウスが言うことをきかずお手上げだ。以前から時々動かないものをだましだまし使っていたが今日はどうやっても正常にならない。今は古いパソコンが同じネットに繋いであるので、i-Macを呼び出してHPの改訂の芸当を試みている。プロバイダへの接続はどうやるのかな・・などと考えながらキーボードを打つ。それでもメールのチェックは出来ない。メールをだしてくれた人がHPを見てくれればありがたいと思いつつ・・今日はここまで。

2000年5月12日(金) 昨日に続いてパソコンのことを書く。昨日はi-Macのマウスが動かなくなったので、もう一台の予備パソコンを使い、苦労の末にこのコラムの改訂をした。今日は何が何でも新しいマウスを手に入れようと帰路寄り道をする。色々見た上で、最新型の光学式のマウスを買った。ところが説明書を読むと、まずCD-ROMをセットしてインストールすることになっているというので青くなった。こちらはマウスが使えないのに、CDをインストールするなんて・・と。しょうがない、息子に電話をして一時マウスを借りるか・・と思いめぐらし電話を調べようとしても番号データはみんなパソコンの中で分からない。(家のものは留守、予備パソコンには電話番号は入っていない。)結果 としては、新しいマウスをつなぐと、それでマウスとしては機能してインストールもできたが、パソコンに頼りすぎるといかに危険かを思いしらされたマウス騒動であった。パソコンが使えないときでも、停電の時でも、代用品があること、これがパソコンのリスク管理というものか。

2000年5月13日(土) ある決断をしようと思っている。といっても大した話ではない。このコラムを昨年12月11日から書きはじめて、今日で155日となった。半分は意地で、毎日”万難を排して”コラムを続けたが、優先順序として「毎日のコラム」そのものにそれ程こだわる必要性が無いのではないかとの思いが強くなってきたのである。毎日何か書くということは非常に良い経験であったが、どうしても中身は薄くなる。外から見る人にとっては、それが一週間毎であってもほとんどその差は意味ないように思える。一方、毎日コラムを書いてホームページを改訂する20-30分の時間があれば、例えば、以前やったように絵の小品一つはできあがる。限られた時間の中で何を切り捨て、何を取り上げるかである。・・と大袈裟に云ってみたが、本音を心理分析をすれば、最近は新しい絵を書く時間が取れていないので絵でも描きたいとそれだけのことであるようだ。

2000年5月14日(日)  人は自分の興味の対象外にあるものには冷淡である。犬の散歩の度に通 過する街のショウウィンドウにも深い関心はなかったが、流行の先端となる代官山のブテイックをホームページに紹介するのも面 白いかと、先週、展示されているファッションの写真を撮り、今日のHPに取り込んだ。ところが、今日の夕方アンとアールを連れて同じ所を通 ると、何と大部分の洋服はもう新しくなっているのだ。正確には分からないけれど、先週写 真に撮ったものは、5月になってから展示されたものには間違いない。これも、写真を掲載しようと思っていなければファッションが変わったことも全く気が付かなかったであろう。ショウウィンドウは、木々の緑の変わり方、公園の花の咲き方と同じ様な自然の環境変化としてしか認識しないのが普通 。それが注意してみると流行という最も先端的な、また先の分からぬ道を模索しながら熾烈な戦いをしている別 のファッションの世界をかいま見ることができる。どんなことでも幅広く興味を持つと、新たな世界が開けることが多い。新たな世界は新たな元気をもたらす。

2000年5月16日(火) 「個体あるいは部分の最適化は全体の最適化と一致しない」ということがしばしばある。メカニズムとかシステムというものは、全体のバランスが必要で、一部だけを良くしても、かえって全体の機能が駄 目になることも多い。人間の組織と個人の関係で見る場合、このいい方は微妙な意図が働く。組織側でみると個人のやりたいことと組織でやってほしいこととは当然違いますよという論理になる。いわば犠牲バントもあれば、ヒットエンドランのケースもあるという訳である。しかし、一番いいシステムというのは個の最適なものが全体としても最適となるのでないだろうか。ただ、人間の場合は個は何をもって最適というか定義し難い。個人の最適化を、欲望の極大化ではなく、精神的な自由化、高度化とすれば全体とのバランスは保つことができるのでないか・・。

2000年5月18日(木) 毎日コラムを書く習慣ができていると、コラムを書かないときは、キーボードに向かうのを我慢しているような気がしておかしい。無理に書く必然はないが、書きたいときは自然体でキーを叩くこととしよう。先程、9時半頃であるが、アンとアールの夜の散歩にでかけた。空が澄んでいて一際満月が美しかった。こんなこと一つで何か気分一新。よし、今日はコラムを書いて、HPを改訂しようと思ったりする。
「ガンジー自伝」を読み終えた。簡単な読後感を書きたくはない気分。本を選んだのは偶然だが、恐らく一生この本は記憶に残るだろう。本の最後にある言葉を入れておこう:「・・人は、自由意志から自分を同胞の最後の列に置くようにならないかぎり、救いはない。非殺生は、謙譲の極限である」

2000年5月21日(日) 公式の場では(そういう場があるとして)、どんなことでも行動する前には、目的や具体的な達成目標を明確にして、計画に従って実行する。PLA N(計画)-DO(実行)-CHECK(反省)-ACTION(対策)の繰り返しが日常である。この際、ウェイト付けといって、「何がより重要か」を見定めることが大切なポイントとなる。一方、私的な行動を考えてみると、個々人の「重要なこと」の順序が違っているのが然るべきであろう。お金か、健康か、家族か、地域奉仕か、あるいは個人の趣味か、能力開発か、それぞれに優先させるものが個人で相違しており、しかも「自分の意志」で決められているのが一番好きだ。「何々でなければならない・・」というのは、どんなことでもインチキくさい場合が多い。この土曜、日曜日には久しぶりに油絵を描いた。思いつきの実行。そのために出来なかったこともあるが、好きなことをやっていればそれ以上はない・・とCHECK。次なるアクションは、もっと大きなものを描くことか。どうも我ながら計画性がないが、永年の経験は、次のことを知っている:「計画なんてなくても、神のご意志にしたがっていればよい・・」

2000年5月24日(水) ITという文字を毎日の新聞に見ない日はない。いま、Information Techology = 情報技術がブーム。インターネットは正にこのITの先導役である。インターネットを使っているわれわれ&みなさんは、あらゆる境界を取り除くこれまでにないコミュニケーションとして、インターネットと親しんでいる。そして、これは社会を大変革する力があることも実感している。この手段によって、国境はもちろん、年齢、階層、職業、男女の境などを越えた情報交換がいとも簡単に可能となる。この体験をするだけで、ワクワクし新世界が開ける気がする。けれども、情報の洪水の中で、情報を選別 するための判断がより必要になるのが皮肉。現在の新聞、週刊誌、TVなども100%真実を報道しているなどと思っている人はいないでしょう。ペンを持ち(ワープロを叩きか?)、編集をしている人は皆ただの人。感情の動物であったり、組織の人間であったり、情報操作は簡単なこと。一つの断面 は情報として伝えられるが「真実」は自分で推測するしかない。これからは、情報が多くなる分、情報の質を教える情報、そのまた情報を暴く情報なんて、Information Battleが面白くなりそうだ。

2000年5月27日(土) 以前から我が家のコーギー犬アンでどうしても納得がいかないことがあった。時々ベッドで一緒に寝てやることがあるのだが、アンの寝息(時にはいびき)の周期が私とほとんど同じなのである。自分の常識では身体の小さい犬の方が当然短いと思っていた。これは新発見であるがどうも説明がつかない。そこで、昔読んだ中公新書「ゾウの時間ネズミの時間」を探し出して調べた。この本の解説はほぼ常識に一致している。主なポイントは「動物(哺乳類)の時間は体重の1/4に比例する」こと。時間とは、日常の活動時間、例えば、息の間隔、心臓の鼓動の間隔、血液が体内を一巡する時間など全てを含む。アンの体重を私の4.7分の1として計算すると、アンの呼吸の周期は私の1.47分の1となる。別 に、呼吸周期=0.0187*(体重の1/4乗)という計算式(時間は分、体重はkg)があるから、これで計算すると13.5kgのアンの呼吸周期は2.15秒、63kgの私は3.16秒となる。ここまで計算すると、床についた時のアンが深呼吸をしていると考えると誤差範囲で納得できないこともない。ちなみに、飼育した動物の寿命=6.10*(10の6乗)*(体重の0,20乗)という計算式もある。(時間は分で、年数で出す場合は、60*24*365=525600で割る、体重はkg)電卓で計算すると面 白いが、犬の場合はほぼいいところにいく。人間様は飼育されていないので、これは適応されないようだ。

2000年5月31日(水) このところ「フェルメール」をよく目にする。フェルメールはこのHPの唯一(コーギー以外)のリンクにしてある通 り、17世紀のオランダの画家。日本-オランダ交流400周年として大阪市立美術館でフェルメール展が開催されている。(7月4日まで、5点集めた)これに関連してNHKの番組でもフェルメールを特集したりしている。私は以前ハーグのマウリッツ美術館で開かれたフェルメール展(全作品35点の内、25点が世界中から集められた)を見る機会があったが、朝、6時から並んで入場したことなど、今は一生の楽しい思い出になっている。この時、意外だったのは、有名な絵が思ったより”小さかった”こと。どんなに小さな作品でも大きな作品の何倍もの感激を与えることができるのはすごいことだ。作品を少し紹介すると:「編み物をする少女」は、何と、24*21cm!「真珠の耳飾りの少女」は、47*40、「デルフトの眺望」は、99*118、これは普通。

これまでの「今日のコラム」(最新まとめ)へ戻る