「今日のコラム」(2000年9月分)

2000年9月1日(金) 犬の散歩の途中で俳優のFさんにあった。Fさんはいつもご夫妻で、4歳のラブラドール・レトリーバーを連れている。コマーシャルでお馴染みでも、こちらも俳優という意識は全くなく犬の仲間として話をする。それぞれの立場や年代は関係なく個々の人間としての付き合いのできるときに逆にコミュニテイーとは何かと考えることがある。コミュニテイーの中で利害、上下、優劣ばかりを気にする集団が余りに目に付きすぎる。何のための「仲間」なのか、犬を通 して教えられることも多い。
2000年9月2日(土) 今日の東京は気温37.8度を記録。埼玉では何と39.7度、今年一番の暑さだったという。この炎天下に、朝から3時間テニスをやり、その後ルオー展(出光美術館)にいった。この美術館は都心にありながら今どき入場料は500円、中では皇居を眺めながらゆっくりお茶を無料で飲むこともできる。自己流の絵の善し悪しの判断基準では、どんなに疲れているときでも疲れを忘れさせるのが「よい」ものと決めているが、この日のルオーは暑さも、疲労もすっかり忘れさせるものであった。出光がこれだけのルオーを収集していることは知らなかったが、この美術館には茶器、掛け軸など地味だがすばらしい収集品が多い。応援したい美術館の一つだ。
2000年9月3日(日) 昨日の猛烈な暑さと打って変わって秋を思わせる涼しい強い風が一日中吹き荒れた。涼しいことをいいことにして(といっても30度以上あったらしいが)、たっぷりと昼寝。夕方、いつもは犬の散歩で前を通 るヒルサイドテラスに犬達を留守番させて出かけた。ヒルサイドフォーラムで「現代フランスポスター50年の歩み」という催しの入場券を買ったらドリンク券付き。入口にある椅子に座ってジュースを飲むなんていうのんびりした雰囲気を楽しんだ。「今日の作品」でかぶと虫を描こうと思いついたのは「昼寝」の時間だが、結果 は夢でみたものと大分違ったものになってしまった。
2000年9月4日(月) この前の日曜日にルオーの展覧会を見たのでルオーについての逸話を書く。ルオーはご存知の通 り、20世紀最大の宗教画家、あるいはキリスト教画家といわれ、太い黒色の線と猛烈に厚塗りしたキリストの顔などで知られる。このルオーの分厚い絵の具は終わりがなかったらしい。一度売ってしまった絵画でも何年かしてから自分の所に持ち帰ってまた前の絵の具を削り落とし、新しく塗り重ねるなんていうことを平気でやったという。他人の所有物であろうが自分の作品の更なる完成をめざす。そこには絵が売れればよいという態度など露ほどもない。これは”普通 の”芸術家ができることではない。ルオーの絵の力強さ、気品、優しさはこんなところに源泉があるのかも知れない。ルオーのこんなエピソードが好きだ。
2000年9月5日(火) 娘のところで女の子が産まれた。初孫というと自分にとっては何か別 世界であるような気がするが、一つの新しい生命を目の当たりにすると、やはりある種の感動を覚える。これが自分の子供が生まれた時を考えると、その時どう対応したかなどほとんど何も思い出せない。娘は入院後、時間があるので数分おきに陣痛の状況を記録しておこうと日記を書いているうちに生まれてしまったといっていたが、これなら30年後も覚えているかもしれない。今更ながらであるが、新しい生命体が生まれることは、本当に「神に感謝」するべき奇跡であることを思う。
2000年9月6日(水) 今日はほんの数秒間の会話のために機嫌よく過ごした日であった。人は他人のちょっとした一言で一日気分がよくなることがある。どんな人でも”評判”には単純な反応をするものだ。自分は他人のお世辞などにのせられることはないという人間が、「さすがに、あなたは人にお世辞を云われて喜んだりしない立派な人ですね!」といわれて大喜びするという話もある。口先の一言は簡単に人を傷つけ、また喜ばす。一言を与えて人を喜ばすには、金もいらない、安いものだから大いに使おうとすると、実はこれは案外難しいのではないかとも思う。「口は災いのもと」「沈黙は金」といわれるように、下心があると逆効果 となることもある。けれども、そうであっても一言かけて気持ちよくなるならこんな良いことはないではないか。やはり人に対して大いに”発信する”ことにしよう。
2000年9月7日(木) どんなことでも数字で整理すると見えなかったものが見えてくるということがよくある。「データをとる」というと大袈裟だが、大小、多少、優劣などを具体的な数値で把握すると分析ができる。この5年間のコーギー犬ホームページの数を掴むだけでも5年間でのNET変遷の一面 がみえるかもしれない。ただ、データとか統計の数値は余程注意してみないとだまされることがある。先日、自動車の免許証の書き換え不要論に対して、警視庁が免許を更新した方が事故率が減少するというデータを示したものが、統計の意図的な改ざんだと摘発したTV番組があった。こうしたでっち上げは利用したい数値だけを取りあげれば簡単にできてしまう。結論が先にあってそれに合わせた一見合理的にみせる数値、統計、評価も意外に多い。自分で納得する数値は活用するにしても、数値を過信するのも禁物である。
2000年9月9日(土) タイトルにつられて購入した「安全学」(村上陽一郎著)という本にとんでもない芸術論を見つけて呆れてしまった。まず、著述の一部を紹介しよう:「・・18世紀までは・・絵画、彫刻、あるいは音楽などは、全く「職人」の世界であって、美学的な理念を追求する社会から隔絶した特殊な人種としての「芸術家」などという存在はなく、・・「芸術」というものもなかった・・」。ここまではまだいい。更に続く:「近代社会のなかで「芸術家」と言われる人々は・・彼らは先ず社会の「はみだしもの」である・・世の中の常識から逸脱し、常識を敵視している・・」。このまじめな先生のイメージする芸術作品というと「便器の壊れたものを展覧会場に並べた作品」や「ピアノの前に腰掛けているだけで何もしない作品」であり、芸術という名でなければ「精神に異常のあるもの」とみなす。そして、結論は、芸術は、シャーマン(呪術)やアウトサイダーと同じく、「規範への反抗や否定や逸脱のエネルギーを共同体内部で吸収する”安全装置”」と意味付けるのである。<要は、芸術の名の下に少々の規範を破ることをやらせておいた方が共同体という社会は安全と言うような意であろう>著者が”まじめな”学者であり、しかもまじめに論じているから、現代日本のインテリの芸術に対する認識レベルを表しているのかもしれないが、何ともお粗末極まりない認識で悲しくなってしまう。反論のスペースはないが、新明解辞典の「芸術」=『一定の素材・様式を使って、社会の現実、理想とその矛盾や、人生の哀歓などを美的表現まで高めて描き出す人間の活動と、その作品。文学・絵画・彫刻・音楽・演劇など』を味わってほしいものだ。
2000年9月10日(日) アップルからでた新コンピューターMac-G4Cubeが評判になっている。静かなコンピュータとしても評価が高いようだ。自然通 風により夏も涼しい高床式の住居の原理を応用して、キューブは冷却用のファンをなくして静粛コンピュータを作り上げた。(これまでのコンピュータは意外に音が気になるものだ。)かつてはキューブという名前だけでそれを購入したものだが、今はこのコンピュータを購入出来ないのが悔しいところ。一昔前に、キューブつまり立方体を収集していたことがある。ルービックキューブやサイコロからはじまり、立方体のオモチャ、実用品をまだかなりの数所有している。立方体は六面 ともに同じ条件であるが、一面が裏になると反対の一面は表になる。そんなことをお面 白がった。そうだ、ホームページの次のテーマは、我がキューブコレクションなんていうのはどうだろうか・・・。
2000年9月11日(月) 何が面白くて、何がくだらないというようなことは好みの問題であるので、個人で真反対になることがあってもおかしくはない。それも個人にしても体調、気分で「好み」の振れ幅が随分大きくなることを最近実感する事が多い。例えばTV。くたびれているとお笑い番組や自分だけはしゃいでいる番組などを続けて見る忍耐がなくなってしまった。ふざけた(というか面 白い)コラムを書こうとするとこれもエネルギーが必要となる。元気があるかどうか、エネルギーがどれくらいあるかは、簡単な絵を描いてみるとすぐに分かる。練習はどんな条件でもできるが創作はエネルギーを要するからその場の条件が直ぐに表れるのだ。TVの話に戻ると、「たけし」の番組はふざけているようで、実は相当に練り上げたところが察しられて少々くたびれていてもみることができる。たけしは寝るときでもアイデイアが浮かぶとメモできるように枕元にメモ用紙を置いておくという。少なくとも創作者(クリエーターというのか?)、研究者、創造的な仕事をする人はこうでなければならないー今晩はくたびれているかナ・・。
2000年9月12日(火) 今夜は十五夜。九時過ぎにいつものように犬達を夜の散歩に連れだし、意識して空の見える道を選ぶ。雲一つない空に、十五夜の月は眩しいという形容が大袈裟でないように輝いている。ガードレールに腰を下ろして妻と犬2匹と、みんなでしばらく十五夜お月さんを眺めた。月には兎がいるのか蟹がいるのか議論をするのがよく分かる。・・東海地区では記録的な豪雨が降り続いているという。この同じ空のもとで・・。被害にあった人たちには申し訳ない月だ。
2000年9月13日(水) 夜になって雨が降り続く。いつもの犬達の散歩にも行けない。散歩する時間にそれでは何かできたかというと、ただなんとなく時間が経過し特別 の成果はない。このコラムにしても、散歩時間に書けばいいものを、遅い時間に書き始める始末。このホームページ全体は、「仕事」の話題や内容は皆無ということにこだわり、仕事以外の時間をフルに使って作成している。いつも限られた時間の中で作り上げることが楽しみの一つでもある。仕事がなくなり、では、全て自由時間となった場合にどうなるだろうかが家族の最近の話題になる。大抵は時間を含めて色々な制約がある中で、必死に(・・という言葉はすきでないが・・)集中して取り組む方が結果 がよいといわれる。しかし、時間が無限にあるように思う若者はともかく、時間の有限が見える年齢であること事態が、既に厳しい「制約」条件となるので、どんなに自由な時間があるといっても”のほほん”とはできないのでないかというのが自分の意見。結局はどんな条件があったとしても、自分の思う存分に時間を使い、何らかそれが人のためになることがベストでないかとは思う。問題は時間を「売る」ことができるかである。
2000年9月14日(木) 明日はシドニーオリンピック開幕の日。オリンピックのサッカー予選では日本が南アフリカに今2ー1で勝ったところがTVで放映された。オリンピックの思い出からは技術の進歩が連想されるから面 白い。まず小学生の頃、海外からの日本語放送はめずらしく、ラジオのスピーカーに耳をつけて、シャーシャーいう雑音に混じった「・・日本のみなさま・・」と連呼する声を聞いた。そういえば、自分の工作も小学生の鉱石ラジオから、中学生の真空管ラジオへ変遷をたどったものだ。オリンピックの度に放送の感度はよくなり、40年前の東京オリンピックではテレビも普及した。このころ、使っていた計算尺がタイガー計算機(手廻しのもの)へ代わり、更に卒論の時には電子計算機の登場となった。NEAC2203電子計算機を苦労しながら徹夜で使ったことが懐かしい。明日からのオリンピックはインターネットで情報を得る初めての年になる。4年後はどんな形でオリンピックを楽しむことになるのだろうか・・。
2000年9月15日(金) 夕方からシドニーオリンピックの開会式のTV放送がはじまった。インターネットで並行してライブの画像を見てみたが、生のTV画像にはとても及ばないのでTVだけにして見ながらこのコラムを書いている。入場行進の前のショウが一番の見物。演出のオリジナリテイーに興味があった。入場行進をみていると、かつての一糸乱れぬ 行進のスタイルが歩調を合わせない自由な行進に変わったのはいつからだろうかと感慨もひとしお。昔の日本の体育協会式のリーダーがオリンピック組織のトップだったとすると、だらしがないなどといって全体主義的な行進にこだわったかもしれない。その意味で、この種の自由スタイルを定着させたのは時代の潮流だろう。入場行進は退屈だが国の名前と顔ををみているだけで面 白い。聖火のせり上がりは物流機構が故障したかと気にしたが上手く動いてよかったよかったと妙なところで職業意識がでてしまった。
2000年9月16日(土) オリンピックの初日は柔道の軽量級で田村、野村が金メダルを取り日本人の景気がよかったが、より爽やかだったのは、水泳の400M個人メドレーで銀となった田島寧子だった。自己記録を3秒も上回る日本新記録ながら「くやしーーーい。金がよかったーー!」と話すところが真にスポーツウーマンらしくて好感が持てた。自分の言葉と表情で感情を自由に表現できるのは、その国や所属組織の雰囲気と文化をそのまま伝えていることになる。今日のメダリストの素直な喜び方は、国威発揚というより庶民レベルの国際親善として、皆、気持ちのよい印象を与えたのでないか。それにしても、これからオリンピックの放映が続くが、この期間だけ愛国者になるのもよいが、日本人だけの競技でなく世界のトップの力や技をもっともっと見たいと思う。
2000年9月17日(日) 一日中、雷がゴロゴロ鳴り、時にどしゃ降りの雨。外にはでないので、オリンピックを見ながら、このホームページの表紙の全面 改訂を試みた。ホームページ開設以来使用したメニューの絵は、絵はがきギャラリーからとったものものだったが、これをもう使用しないとなると少し寂しい気がするものだ。こういう改訂は一番楽しい作業ではあるが、いま使用しているソフトが、表の中の絵に余計なスペースを取り込む”くせ”があり、このところが未解決のままになっている。これから少しづつ新しいソフトを覚えながらおかしい部分も修正していこうと思う。今日のところは第一ステップとしよう。左隅の赤い線を出したのは気に入っているけれどもいかがでしょうか。
2000年9月18日(月) 小・中・高生にボランテイアなどの奉仕活動を義務づけるための法制化案が政治的にもめているようだ。娘が中学生の時に学校での行事として老人ホームでのボランテイア活動が組み込まれていた。子供達にとってこの行事は相当にインパクトのある経験であり一生記憶に残るらしい。殆どの子供は身体の不自由な人と間近に接するのは初めてであり、他人の下の世話なんて思いも寄らない体験であるのだろう。これは少なくとも学校の強制、強い意志がなければ「子供自身の心」などからは絶対に経験出来ない。子供にとっても貴重な財産の一つになるに違いない。法制化での問題は、いくら法律で決めたとしても学校や教師がどこまで意義を納得しているかということ。やらされてるという思いがあればまずうまくいかないだろう。まず、教師がボランテイアを体験するのが一番いいかもしれない。
2000年9月19日(火) 「畏敬」という言葉を辞書で引くと「(崇高・偉大なものを)かしこまり敬うこと」(広辞苑)とある。世の中、広いもので確かに畏敬すべき人がいる。それは、有名だとか地位 があるとか勿論お金があるとかとは全く無関係で(しばしば真反対で)あることが多い。能力(感性ともいうべきもの)に対する畏敬、献身に対する畏敬、徳に対する畏敬、努力に対する畏敬など色々畏敬すべき要素があるが、いずれもそれは「発見」するもののように思える。畏敬する相手は、人間に限らず鳥でも魚でもよい。自然の造形物をみると正に創造主に畏敬するばかりだ。自分の畏敬すべきものを発見すること、(それは、驚き、感激するものを見つけることでもよい)これが今の小さい子供達にできれば、最近の少年問題はほとんど解決するのではないか・・。
2000年9月20日(水) 夜、久しぶりにカザルスホール(東京)の千葉純子さんのバイオリンリサイタルにいった。オリンピックのサッカー、日本ーブラジル戦の時間とダブっていたが、観客も多く、気持ちの良い音楽会だった。千葉さんはプロの演奏家として着実に活躍しているが我が家では家族で応援している。純子さんは娘の子供の頃からの音楽友達であるが、小学生の低学年であった純子ちゃんの可愛いバイオリニストの姿が目に浮かぶ。この頃から純ちゃんファンが多かった。ジュリアード音楽院(米国)に在学の頃からプロとしての貫禄もでてきたように見えた。一般 的には「有名」でなくても才能があり地道な音楽活動を続ける若者も多い。ガンバレ純ちゃん!!
2000年9月22日(金) ただ大きい、多い、長いだけがいいというものではない。長編小説が俳句にかなわないこともあれば、貯金の金額でも、生きた期間でも、「スモール イズ ビューテイフル」のことは多い。南極の越冬基地での話。故郷からの便りが着いて、手紙を読みながらさめざめと泣いている隊員がいた。周りの仲間が心配をしてそっと手紙を見たところ、いい男たちが皆もらい泣きをしたという。その手紙には、わずか3文字だけが書かれていた・・「 あ な た 」と。このミニコラムでも、こんな短い文章が書ければいいな・・。
2000年9月23日(土) 土曜日の断章:午前中、雨が降り始めるまでテニス。4セット、36ゲーム。帰路、渋谷東横にて絵手紙の小池邦夫さんと小さな恋の物語の漫画家、みつはしちかこさんの交換絵手紙展覧会というのを見る。ご両人が自分と同年生まれなのを初めて知った。絵手紙は趣味の問題だが、私としては字のうるさくない絵だけの方が好きだ。棟方志功の版画には字が入っているがこれは邪魔にならない。ちかこさんの方も本職のマンガの方がよい。夜は五輪サッカー。日本はアメリカにPK戦でよもやの敗退。見ているだけでくたびれた。ホームページ用の新ソフトの習得がこれからの時間のノルマ。
2000年9月24日(日) 今日という日はやはり高橋尚子の金メダルを書かざるをえまい。シドニーオリンピックの女子マラソンを朝から全部見てしまった。TVの2時間23分が少しも長く感じられない。マラソンのいいところは、大男や大女の腕力勝負でないところ。あんなにかわいい女の子が自分でレースを全てコントロールして爽やかに楽しく走り優勝する。昔、東京オリンピックで円谷が銀メダルをとった時のような悲壮感がないのが何よりいい。半世紀ぶりの大ドラマだった。ありがとう・・。今は夜。ジャイアンツが優勝したと、4チャンネルが放映している。優勝は当たり前でも、試合はドラマがあった。いろいろなところで大小のドラマが交錯している。
2000年9月25日(月) 非日常は精神を活性化するのか。「善悪の彼岸」(ニーチェ)をほんの少しづつ読み返しているが、その一時は日常と別 世界に入って元気になる。100年前に書かれたものが現代で殆ど陳腐化することなく、むしろ今の時代に見落としていることをズバッと指摘されるところが随所にある。一つは民主主義や科学主義への疑問。今の選挙制度なども他に変わるやり方がないからしょうがないことになっているが、国や社会あるいは人類全体のことを真剣に考える人は、地域の利益をアピールする人に選挙でまず勝つことはできない、という事をニーチェは予見していたように見える。貴族主義への批判はあるであろうが、生活に追われて時間を費やす我々にとって高い精神の世界をかいま見るのは楽しい。それにしても現代日本に哲学者がいない(ように思える)のは何故?
2000年9月26日(火) ”色”の世界は人間とのアナロジー(類推)でみると示唆に富んでいる。コンピューターの中でも1670万色の種類が選べるが細かい区別 はつかない。これらの色も基本は自ら発色するのは赤・緑・青(RGB)のわずか三つの色(光の三原色)。後は組合せでなんでもできる。(反射光でみる物体色の三原色は、シアン(緑みの青)・マゼンダ(赤紫)・イエロー(黄)と基本は少し異なるができる色は同じ)遺伝子のレベルの基本はどうあるのか知らないが、人間も案外単純な組合せでできているに違いない。色もどれがいいとか悪いなどなくて、好みがあるだけだ。ホームページなどで使うhtmlでは1670万の色を計6桁の数字とアルファベットの組合せで表示する。例えば、黒は#000000、白は#FFFFFF、赤は#FF0000。これを見ていると何だか総背番号制のような気がしてきたが、アナロジーはあっても色と人は違う。人間には番号をつけたくはない。
2000年9月27日(水) このところ「国際会議」と名の付く会議に連日出席しているが、女性の進出にあらためて目を見張る。司会者はチェアマンではなく、チェアである。実際にウーマン(女性)が司会もやる。日本の若い女の子が当たり前で英語で講演する。何より同時通 訳が100%女性であった。同時通訳というのは長時間聞いていると、これは本当にすごい特殊技能であることが納得される。日本語をしゃべりながら数秒前に聞いた英語を確実に日本語に変換することを30分から1時間も切れ目なしに続ける。日本語を英語に通 訳する場合も同じ。会話でなくて講演者は速射砲のようにしゃべる、それも時に訛のある英語などを話すのをよく通 訳できると感心するばかり。オリンピックの女子マラソンで高橋尚子が金メダルをとったのも 時代の必然なのかもしれない。
2000年9月29日(金) やるべき事がいっぱいある時には「優先順位 」をつけるのが常套手段である。「重み付け」という場合もあるが重要と思われるものから順番に手をつけて一つ二つできればよしとする。反対に見ると優先順位 の低いものは切り捨てるということだ。プライオリテイー(優先すべき事)を決めてやると能書きを云うのは簡単だが実行するのは結構難しい。自分の場合、好きな飛車ばかり大切にして気が付くと王様をとられていたなんていうことがよくある。飛車を切り捨てるのも要は決断力か。では、次の話を決断してみて欲しい。・・海に放り出された家族をを一人だけ救うことができる時、母親、夫(妻でもよいが)、娘、息子の誰を助けるか?・・「決断」といっても実は将棋の歩や香車を切り捨てるのとは違う事も多い。

2000年9月30日(土) IT(情報技術)のイベントの一貫で、三次元のコンピューターグラフィック技術を使って服飾デザインをするデモをみた。洋服というのは身体の形状をコンピューターに取り込んで身体にピッタリ合わせた画像にすると現実の服装とかけ離れたものになってしまうという。云われてみるとその通 りだ。元になる人体の形状を三次元データーでコンピューターに取り込み、基本線を設定した後、ゆとりを持たせる独特の形状をベースとして、はじめて型紙による服装の外形が決められるという説明であった。そこに至るまでの試行錯誤が話としては面 白かった。シミュレーションとしては色柄やテクスチャを選択してインプットすると、歩いたり、背伸びをしたり、座ったりするという動きをした時の布の動きが三次元の画像で見事に表現されている。服飾も試作品を作って人に着せて見なければ出荷OKとしない、しかも半数はボツにしているそうだ。このシミュレーションでこの無駄 を無くすと聞いて、全く無縁の分野ながら親しみを感じたりする・

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